福島からの報告・原発被災地で生き、そして医療に携わった二人の「老医師」

2017-01-03 04:57:34 | 日記

  福島からの報告・原発被災地で生き、そして医療に携わった二人の「老医師」

 

 ETV特集「原発に一番近い病院 ある老医師の2000日」(2016年10月8日(土) 午後11時00分(60分)という番組があった。あらすじは「福島第一原発から22キロ離れた双葉郡広野町の高野病院。院長の高野英男さん(81)は現役の医師として診療を続けている。5年前の原発事故で、病院を取り巻く環境は大きく変化した。原発周辺の病院が休止しているため、救急車が殺到。地域医療が崩壊する中、除染など復興作業に携わる“新たな住民”や、原発事故によって居場所を失ったお年寄りたちの最後のとりでとなっている。孤軍奮闘する老医師、その2000日を見つめる」というものである。

 そして昨年の暮れ12月30日の地方紙に次の記事が載った。「30日午後10時半ごろ、福島県広野町下北迫の高野病院の院長、高野英男さん(81)方から出火、木造平屋建て住宅の一部を焼いた。室内から男性の遺体が見つかり、県警双葉署は連絡が取れない高野さんとみて、身元の確認を急いでいる。東京電力福島第1原発が立地する同県双葉郡で唯一、診療を続けている病院で、高野さんは事故直後から避難せずに診療にあたっていた。双葉署によると、出火した自宅は病院の敷地内にあり、警備員の男性が家から煙が出ているのに気づいて119番した。高野さんは1人暮らしだった。病院の担当者は取材に対し『最近も変わった様子はなく、診察に当たっていた』」と報じている。

 ここにもう一人の医師がいる。震災直後から福島第1原発事故の影響で人口が激減した南相馬市で診療を続け、放射能への不安におびえる妊婦たちを勇気づけてきたが、11年の夏に末期の直腸がんが見つかったが、最後まで現場で診療を続け翌年の1月22日に死去した。南相馬市の高橋亨平医師(74)である。その高橋医師を訪問した取材ブログ「さようなら亨平先生」の記事(日経新聞・2013/3/29 )があるので紹介したい。
「余命半年の産婦人科医が診療と除染活動を続けているらしい。そんなニュースを目にして、先生に初めて会ったのは11年の秋だ。貴重な時間を割いてもらう感謝と申し訳なさで、緊張して病院を訪れたところ、先生はぼそぼそとした素朴な口調で話し始めた。そして振り絞るような声で「子どものいない町に未来はないからね」と語った。当時、地域医療の中核を担う南相馬市立総合病院に、内部被曝(ひばく)線量を計測するWBC(ホールボディーカウンター)の設置を、関係機関への粘り強い交渉の末、ようやく成功させたばかりだった。これでようやく、継続的に子どもたちを計測できる。お母さんたちにも『安心』を数字で見せることができるとその日初めて笑顔を見せた」と書いている。    

 高橋医師は次のようなメッセージを送っている。

 「今年、一人も生まれなかったならば、南相馬市は絶望の町であり、更に、絶望が絶望を呼び、滅び行く宿命となることは明らかであった。そんな希望の無い町には、役所も要らないし、病院も要らない。ただ死んでいくだけの町であり、未来への希望は全く無かったと振り返る。30人の子供達に、先ずはこう言いたい。ありがとう!!よくぞこの世に、この地に、この家に、そして何よりもこの時期に生まれてきてくれた。君達のお陰で我々も生きる希望が持てた。ありがとう!! 心から、あり難く、そして嬉しく感謝で一杯です。君達が逞しく成長していく姿を何時までも見て行きたいが、私にはもうそんな時間は残されていない。ただ、君達を、日本国が許さなかった、厳しい環境の中で、君達を生んでくれた両親と共に、手助け出来た事は私の生涯の誇りであり、君達も、堂々と誇りを持って、生きていってくれる事を心から願ってやまない。頑張れ! 」

 【注】「文中一部を省略していることをお断りします」