晩年を過ごしてきた一女性の決断

2013-10-01 19:24:58 | 日記

  晩年を過ごしてきた一女性の決断

 私たちの退職者の集い「OB・Gの会」は、ニュースを月一回、定例で発行している。お互いが高齢であり、「安否を問い合う」意味も含めて自宅手配りをしてきて10年が経つ。

先月、お邪魔をしたときには、元気な姿で声を交わした方が、1ケ月後には「入院した」との報告を奥さんから受けることがある。「何があっても不思議ではない年齢になっている」ことを痛感することが度々である。

ニュースを配布先に一人暮らしの女性がいた。これとて健康に不安がある様子も見られない。ニユースを持参した私に「今月で休ませて欲しい」として会費を差し出した。話を聞いてみると「子どものところに行く事になった」というのである。行き先は仙台である。

そして、「まだ一人暮らしはやっていけるし、これといって健康に不安はない。しかし、一緒に暮らそうと言ってくれる子どもに甘えることにした」と。

女性の年令からすれば、お孫さんは高校生くらいだろうか。何かと生活費もかかる時期だろう。「一つの釜でも、二つの釜でもさして掛かりは変らない」のことわざがある。私は喜んで、彼女の背中を押した。「子どもさん(お嫁さんも含め)が一緒に暮らそうという言葉はありがたいことです。とはいっても、共同生活は奇麗事でいかないことが多いと思います。しかし、どうしようもなくなってから世話になるより、まだ子どもさんや孫さんたちの力になれる状態で、しかも思考力、体力もあるうちに共同生活ができることは望ましいことだと思います」と励ました。

幾つもの実例を見ている。かの女性も、そのようなことを知るが故に悩んだようである。

「老いの生き方」というタイトルの書籍が書店に並ぶ。また、公民館や地域サークルの高齢者向けの講演会の定番にもなっている。

「処方箋」はない。「背中を押した私であったが、それが良かったのか、どうか」と考えたりもする。しかし、決めるのは当事者であり、思考力・体力のあるうちに決めたことは良かったのであろうと思い、自らを納得させている。

一気に進む「高齢社会」にあっては「老いの問題は、闇にほうむられがちな面がある」。しかし社会保障は近代政治の根源である。遠慮することはない。「老いの要求」を権利の問題として突きつける運動があって良い。有権者の4割に近い65歳以上の存在を無視させてはならないことを、時の為政者に示すべきである。