産経ニュース2009.7.13 より転載
≪核を手放すはずない≫
みずからの生存が核にかかっている以上、北朝鮮がこれを放棄することは絶対にない。核を放棄した北朝鮮など、誰も振り返ってくれない極東の小さな貧乏国である。国際的な影響力はまるでない。核を保有せずして国内に政治的凝集力を作り出せず、権力継承さえままならない。
生半(なまなか)な圧力で北朝鮮が核を手放すはずはない。このことは、1994年に北朝鮮がIAEA(国際原子力機関)から脱退して核開発の続行を宣した第1次核危機以来、もう完全に実証済みではないか。実際、北京での6カ国協議がなんらかの成果を生んだか。6カ国協議などという「同床異夢」の船に日本が乗っかって、なにがしかの対応をしているかのように振る舞うこと自身が欺瞞(ぎまん)なのである。
2006年10月の第1回の地下核実験から今年5月の第2回の核実験にいたるまで、その間に上空を通過した長距離ミサイル発射を含みながら、いったい日本は何をやってきたというのか。日本を照準にした中距離弾道ミサイル「ノドン」が300基に及んでいるのは周知の事実である。北朝鮮が核兵器の実戦配備を終えてしまえば、日本は「万事休す」である。
事態がかくなるについての想像力を日本の外務官僚や政治家がもっていないはずもないのだが、過剰反応は慎むべし、外交的手段をもって北朝鮮に対処すべし、といったお題目を具体的な方法と効果を明示することもなく垂れる大手マスコミの「支援」を受けて、何もやらず仕舞である。
≪臨検でさえ微風程度か≫
北朝鮮に出入りする貨物の検査(臨検)を、日米が連携して全会一致の国連安保理の追加制裁決議に盛り込んだことを官邸と外務省は喜んでいるようだが、見据えれば、臨検は「旗国の同意を得て船舶検査を行うよう要請する」というに過ぎない。核実験敢行により「意気軒高」たる北朝鮮には微風程度の影響力でしかあるまい。
核の照準はまぎれもなく日本であるが、奇妙なことに臨検を可能にする根拠法が日本にはまだない。北朝鮮船舶の貨物検査特別措置法がいずれ成立するにしても、北朝鮮が臨検に同意することなどまずない。臨検を軍事攻撃とみなして反撃された場合、日本はどうするのか。武器使用の範囲などにどう踏み込むのか。議論はまことにあやふやである。
安全保障に希望的観測は許されない。万が一の事態に恒常的な備えがなければ相手国にスキを衝(つ)かれて、万が一が万が一ではすまされなくなる。外交的・軍事的に実効的な圧力を北朝鮮にかけるという対応をまるで嘘(うそ)のように没却してきた「不作為」の日本が、長距離弾道ミサイル発射と核実験に出くわして急に手を振り上げたかのようにみせたところで、敵はもう完全にみくびっている。
米国とて北朝鮮のミサイルが自国を標的としたものでなければ、これを迎撃する用意はないのかもしれない。事実、ゲーツ国防長官はそう明言している。集団的自衛権に関する日本政府の解釈が現状のままである以上、米国のそういう選択にも無理からぬものがあると日本の政治家や官僚はなぜ考えないのか。米国とて、自国が北朝鮮の長距離ミサイルの標的になることを承知の上で、日本防衛の義務を忠実に果たしてくれるかどうかは怪しいと考えるのがむしろ道理ではないか。
確認のためにいっておけば、安全保障についての日本政府の見解はこうである。憲法第9条の下で、「保持し得る自衛力」は「自衛のための必要最小限のもの」でなければならず、「攻撃的兵器を保有することは、直ちに自衛のための必要最小限度の範囲を超えることになるため、いかなる場合にも許されない」。要するに「専守防衛」であるが、これは軍備体系の中にみごとに反映されている。
≪国防意識に雲泥の差あり≫
現在の日本は、他国に届く地上配備型の対地長距離ミサイル、巡航ミサイルを発射する潜水艦などは所持していない。敵基地に達する距離をもつ戦闘爆撃機、精密誘導弾を搭載した海自艦船のいずれをも配備していない。きわめて高度の情報収集能力をもつイージス艦も防衛的な艦船たるを旨とする。集団的自衛権よりも前に個別自衛権自体がすでに「空洞化」しているのである。
「文に属する政略(外交:筆者注)にして独(ひと)りその働(はたら)きを逞(たくまし)うすること甚(はなは)だ易(やす)からず、必ずや武力の之に伴う者あるに非(あらざ)れば政略の目的を達するに足らず」(福澤諭吉「東洋の政略果して如何(いかん)せん」『時事新報』)
この言説の真理は現在とて明治の時代と変わらない。開国・維新を経て日清・日露戦役にいたる時代と現在とでは、時代環境が違うことは百も承知だが、日本を取り巻く地政学的状況が緊迫に充ち満ちているという事実において両者はまぎれもなく通底している。にもかかわらず、彼の時代と現在とでは、指導者の国防意識と危機管理能力に雲泥の相違がある。日本は国家か。