西中国山地の山々 まずは掛頭山から見る臥龍山です
臥龍山の先の展望地から聖湖は霞んでいました
臥龍山では綺麗な花を楽しみました
掛頭山ではリフトの駅から展望を楽しみました
金木山登山口の祠です
金木山名物?の急登をゆっくりと登ります
金木山山頂からの展望も少し霞んでいました
島根県境から広島県に入り雲月山です
雲月山の草原は輝いていました
登山記は「法師崎のやまある記」でお楽しみ下さい
仮称 「望海山」(のぞみやま)から黒髪島方面の展望です
正しく海を望む展望地です
湯野城山山頂です
先週登った大谷山~大平山縦走路ですが、湯野城山へのコースタイムが知りたくて午後から登ってみました
城山からの展望
城山からは四熊岳と嶽山がはっきりと見えました
仮称「望海山」 山頂には新しい標識がありました
ツツジが咲いていました
縦走路に咲いていた花です
登山記は「法師崎のやまある記」でお楽しみ下さい
開園から2週間経った柳井市のやまぐちフラワーランドです
昨日5月6日と7日の2日連続で入園しました
はなくるりんの花も咲いてきました
園内には沢山の花が咲いています
あいにくの雨でしたが散歩をする事ができました
色とりどりの花に囲まれて幸せな時間を過ごせます
まるで花の絨毯のようです
温室のあじさいも満開です
もうじき母の日 カーネーションも綺麗です
前回行けなかった匹見町大神ヶ岳に5月4日に向かいました
立岩を目の前に見て感動しました
鳥居を潜って登山開始です
大神ヶ岳山頂は素晴らしい
笹原展望台から見る大神ヶ岳と三坂山です
三坂八郎林道から見る立岩も素晴らしい
5月5日に周南市湯野の大谷山から防府大平山へ縦走しました
望海山より新南陽の展望
石ヶ岳方面の展望
一枚岩の滑滝
大平山に到着 阿弥陀寺で登山終了
法師崎のやまある記へのアップ終了
大☆さんに紹介して頂いた「山口県指定天然記念物 岩国市二鹿のシャクナゲ群生地」に行きました
シャクナゲが満開でした 民家の庭も開放されています
二鹿ではツツジも満開です
民家の石垣のツツジです
色とりどりのツツジです
チャルさんよりボタンの情報を頂き 吉香公園に
ボタンが綺麗でした
4月29日に鳥取市周辺の山に登りました
二上山(ふたかみやま)ではイカリソウを楽しみました
山頂からは桜のパッチワークを楽しむ
氷ノ山登山口付近から見える扇ノ山方面
この付近は桜が満開でした
久松山(きゅうしょうざん)では綺麗な花と出会いました
仁風閣ではバレエの発表会が開かれていました
三角山(みすみやま)ではツツジが満開
山頂の三角山神社本殿です
法師崎のやまある記のアップを終了
平成17年9月6日、台風14号が中国地方を通過しました。典型的な雨台風であり、集中豪雨によって錦川が氾濫、この旧美川町南桑地区では美川小・中学校が浸水、最高水位が各所に設置してありますが、この付近の水位は道路から2m以上となり、住宅の1階部分は完全に水没したようです。改めて災害の恐ろしさを実感しました。
左手の石垣には道路から2m以上の地点に
最高水位の白い標識が設置してある
また、向かいの美川小学校にはルース台風の記念碑が立っており、この際には、死者行方不明者が139人、全壊及び流失家屋が637戸の大災害だったそうです。記念碑には、「昭和26年10月14日夜半、突如襲来せるルーズ台風は・・・・」とその被災内容が記載しされています。
散歩のついでに最高水位を設置してある美川小学校向かいの河内神社に参拝することにしました。ふと左手に慰霊碑のようなものがあったので何だろう? と眺めてみました。
南桑河内神社
「開拓碑」
これを読み始めたらもう動けない・・。激動の昭和史がこの小さな山村にあり、この地区の人々の過去の壮絶なる艱難辛苦を知ることになりました。お急ぎの方のために、開拓史の概略を次に説明し、ゆっくり歩きの方は末尾にて全文を掲載しますので、おくつろぎ下さい。
耕地の少ない旧桑根村(現岩国市美川根笠、南桑地区)の住人が満州国建設の国策に呼応し、吉林省金馬村を入植地とする「下金馬開拓団」を結成し、昭和14年から5年にわたり全農家613戸のうち114戸、140名の団員と310名の家族が移り住みました。
日本全土からの入植者は約27万人にものぼりましたが、そのうち3割強の8万人が現地で亡くなり、多くの残留孤児や残留婦人が残されました。しかしながら、この地区の住民で構成された「下金馬開拓団」は終戦後、一糸乱れぬ統制と秩序を保ちながら生き抜いて、全員が終戦後昭和21年10月末に無事祖国に引き揚げるこができたそうです。
なお、この「開拓碑」は満州よりの帰還20周年の節目に建立されました。平和な時代に生きている事を当たり前のように思っていましたが、改めて平和な時代に生きていることは幸せな事だと実感しました。
「開拓碑」全文
満州開拓は民族協和の理想を実現し日本民族の発展を図る世紀の大事業であった。この国策に順応して旧桑根村は経済更正の一還として分村による大陸移住を企画し満州国吉林省鈴蘭県金馬村を入植地と定め昭和14年より5年にわたり142名の団員と約310名の家族を送り出して下金馬川開拓團を建設した。
この間団員は一致協力あらゆる悪条件を克服し不撓不屈の努力を重ねて着々と開拓の成果を挙げ理想郷の実現を進めた。しかるに昭和20年8月、終戦により開拓建設の版図は一朝にして崩れ、祖国へ帰還するまでの1年有余、団員は雲霞の如き土匪と戦い、あるいはソ連軍中共軍国連軍の無法なる迫害を受け、忍び難きを忍び、堪え難きを堪え、筆舌に尽くせぬ苦難を受けた。
しかしながら団は負傷兵を含めた関東軍兵士を多数収容しながら、団長を中心に、一糸乱れぬ統制と秩序を保ち、よく生き抜き、これ又苦難の旅2ヶ月を要し、10月末、無一物の姿で祖国に引き揚げた。
ここに引揚20周年を迎え在満当時を追憶し、今は亡き開拓物故者の霊を偲ぶため、此の碑を建つ。
昭和41年12月 元下金馬開拓団 団長 藤村 景