hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

クイズ番組を見ての雑感

2016-02-19 05:00:04 | 日記

仕事絡みの場合とニュース以外のテレビを見ることもさほど多くはないが、たまにクイズ番組を見ているとついつい真剣になってしまう。一方、最近は年のせいなのか頭で分かっている積りでも中々答えが導けず、がっかりするケースが増えてきている。そんなことが同時に起こった。

一昨日テレビのクイズで『現在、大相撲には3人の横綱がいます。白鵬、日馬富士、あと1人は誰でしょう?』という問題が出て、よくあることだが、すぐにCMになった。頭の中にはこの力士の顔は出てくるのだが、名前がなかなか出てこない。一緒にテレビを見ていた妻に聞いても思い出せず、ひたすら長いCMの間考え続けたが、やっぱり答えは浮かばない。

CM明けに女性タレントがボタンを押して『琴欧洲』と答えたが、これは違うのはすぐに分かる。だいだい琴欧洲は引退相撲で苦労した話を先日聴いたばかりだ。

次に男性タレントがボタンを押して『把瑠都』と答えたが、この力士も引退しているし、だいだい横綱になれる器ではない。ただ、デカイだけだ。それに土曜日のバラエティにゲストで出演して福島県に行っていたはず。

最後に中年の男性タレントが『琴奨菊』と答える。最近よく聞く力士の名前だが、確か先場所に優勝したし、まだ大関だ。それにしても、よくこれだけ誤答が続くなあと自分で答えも分からないのに、妙にイラついてくる。
そして、ブザーが鳴り、結局、問題は誰も答えられずに終了。小生たちは固唾を飲んで正しい答えを聞いた。『わかりませんかね。やさしい問題のはずですが。正解は鶴竜です。』

そうだ、鶴竜だ、何で出てこないんだ。確かに3人の横綱の中では一番地味だが、3人しか横綱はいないのに覚えていなかったことに、何だか鶴竜に申し訳なさすら感じる。ただ、回答者は9人もいて誰も分からないとは、本当に鶴竜がこのクイズを見ていないことを心の中で祈った。

某脳科学者はこうして思い出そうとすることで頭が活性化するとはいうが、何となく退化しているようで、正直なところ、自分にがっかりしていた。ところで、このブログを読んだ方、このクイズの答えはすぐに分かりましたか?

神田美倉町・神田西福田町

2016-02-18 05:00:57 | 日記

『神田をぶらり』その3。今回は中央区との区界にある神田美倉町とその隣の神田西福田町をぶらりと歩く。

日本橋から昭和通りを北に歩くと地蔵橋児童公園(千代田区側は地蔵橋西児童公園)が隣り合わせにある。この2つの公園のうち、手前が中央区本町で先が千代田区神田美倉町と区境にあり、その中に竜閑川埋立の碑が建てられている。

実は区界にはかつて竜閑川という掘割(人工の川)が流れていたが、明治時代以降少しずつ埋立られ、1950年には失われた川となってしまった。因みに神田駅に近い今川橋も竜閑川に架かる橋であった。かつては川だった道沿い(ただし、中央区側)に小さな福田稲荷神社がある。


この辺りが神田美倉町だが、元は佐柄木町・本銀町・紺屋町の『3つの倉地』から三倉地と呼ばれていたものを明治2年に町の名前を付けるにあたり、美倉町と変えたものと言われている。また、神社の由緒を見るとこの辺りは南豊島郡福田村という豊かな農村で、和銅4年(711年)に伏見稲荷から分祀して作られた、小さいながら1300年もの歴史を持つ神社である。

路地とも言える道沿いには時代から取り残されたようなレトロな寿司屋や喫茶店、周囲には小さな医療問屋や商店が並ぶ。町にある有名な会社はフマキラーくらいである。

少し大きな通りに出て右に曲がるが、すぐ小道を挟んで西福田町となる。この町は横断する道はなく、周囲に道があるのみ。さらに前回取り上げた神田相生町・神田花岡町といった住人0の町を除くと、神田◯◯町の中ではもっとも少ない、わずか住民13人の町である。

しかし、現在昭和通り沿いに作っているマンションができればずいぶん変わるとは思うが。なお、福田町の由来は福田稲荷神社の際に述べた福田村である。


次は神田美倉町から10分ほど歩く。昭和通りを越え、秋葉原駅から神田川沿いを右に曲がると『美倉橋』がある。この2つは全く離れた町と橋だが、両方『美倉』が付いている。この関係だが、実は神田美倉町会が美倉橋の営繕をかつて行なっていたことから付けられたとも言われている。こんな小さな町でも色々と歴史があることを再発見できた。

(因みに最初の写真の神田福田町は神田西福田町の誤記です。)

千のつく駅

2016-02-17 05:00:16 | 日記

鉄道シリーズ その127。このブログを開設したのが2013年5月23日で本日でちょうど1000日目。(ちなみに毎日更新は6月6日からなので3月2日)これにちなみ『千』のつく駅を探してみた。
実は東京に多く、『千住』つながりで北千住(常磐線、TXなど)、南千住、千住大橋(京成本線)。

ほかにも千駄ヶ谷(総武線)、千駄木(東京メトロ千代田線)、千川(東京メトロ有楽町線)、千石(都営地下鉄三田線)、北千束(東急大井町線)、千歳船橋(小田急線)、千歳烏山(京王線)、千鳥町(東急池上線)などがある。

京阪神も『千里』つながりで北千里(阪急千里線)、南千里、千里山、千里中央(北大阪急行)、千里丘(JR東海道線)。それ以外にも千林大宮駅(地下鉄谷町線)、千林(京阪本線)、千鳥橋(阪神電鉄)、千本(JR姫新線)。和歌山には千旦(JR和歌山線)。

北に行くと北海道に千歳(JR千歳線)、新千歳空港(同)、青森県に千畳敷(JR五能線)、千曳(青い森鉄道)、千年(ちとせ、弘南鉄道)、岩手県には千厩(JR大船渡線)、千徳駅(JR山田線)。

ほかにも千葉県は『千葉』つながりで千葉(総武線)、本千葉(JR外房線)、西千葉(JR総武線)、千葉中央(京成千葉線)、千葉みなと(JR京葉線)、千葉ニュータウン中央(北総鉄道)、千葉寺(京成千葉線)、千葉公園(千葉モノレール)とある。それ以外にも芝山千代田(芝山鉄道)、千城台北(千葉モノレール)、千城台(同)、千倉(内房線)千歳(内房線)とかなり多い。

ほかにも千里(ちさと、名鉄名古屋線)、千種(JR中央本線ほか)、千里(ちさと、JR高山線)、千垣(富山地鉄)、千曲(しなの鉄道)、千国(ちくに、JR大糸線)、千金(ちがね、JR三江線)千路(ちじ、JR七尾線)、千鳥(JR鹿児島本線)などがある。

因みに小生に一番印象深かった駅は大井川鉄道の千頭駅。新金谷駅からSLに乗って茶畑の中を走り到着するのが、この駅であり、寸又峡温泉の入り口にあたる。さらに井川まではサイズの小さいトロッコ電車に乗換え、日本唯一のアプト式で長島ダムを見ながら登って行く。

実は昨年9月に閑蔵駅の南側が崩れたため、接岨峡温泉~井川が不通になってしまっており、復旧が待たれる。また、井川駅には機関庫があり、9600系やC12などと会うことも可能な鉄道マニアには垂涎の駅である。

桜木町~みなとみらいの夜景

2016-02-16 05:00:48 | 日記

最初に鉄道が開通した際の終点は今の横浜駅ではなく、実は桜木町駅であった。

品川~横浜間で鉄道が開通したのは1872年6月12日、これはあくまで仮開業だったが、6月には途中駅に川崎と神奈川駅を開業した。さらに10月14日に新橋~横浜間で本開業したが、この際には明治天皇を乗せたお召し列車が横浜まで往復した。これが日本鉄道の嚆矢であり、10月14日は今も鉄道記念日となっている。

しかし、東海道線延伸の関係で1915年には2代目横浜駅開業と共にこの駅は桜木町駅に改称、東海道線電車線の終点となった。

さらに、1964年に根岸線が磯子まで開業すると途中駅になってしまう。一方、1932年開通の東横線の終点であった役割も2004年みなとみらい線開通と共に東横線桜木町駅は廃止されてしまう。つまり、JRでは途中駅に格下げされた上に東急東横線もなくなり、桜木町駅は様変わりしたことになる。

しかし、鉄道駅としてはともかく、駅周辺にはランドマークタワーや高層ホテルが林立し、また、みなとみらい駅とはペデストリアンデッキで結ばれ、桜木町駅を降りるとその発展ぶりと風景の素晴らしさに驚かされる。

小生は娘の結婚式の前泊で初めて桜木町駅前に宿を取り、横浜の夜の散歩に臨んだが、港の夜景の素晴らしさに魅了された。


海に向かい歩くとすぐに日本丸が係留され、ライトアップがされている。人気のない船の周りにはカモメがとまり、風が吹き、ロマンチックな情景となる。


もう少し海に向かって歩くと東急ホテルやクイーンズスクエア、ドックガーデン、横浜グランドインターコンチネンタルホテル、停止中だったが大観覧車、さらに海沿いには万葉倶楽部など名所がどれもキラキラと輝き、正直、田舎者のように感心した。

翌日、結婚式があったからかもしれないが、横浜の夜景には心癒されるものがあった。

クリスマスローズ

2016-02-15 05:00:15 | 日記

クリスマスローズの苗を買って植えたのはかれこれ5年以上前のことである。その名前の通り本来はクリスマス頃に開花するらしいのだが、我が家の日当たりが悪いせいか、いつも咲くのは2月下旬のことになる。

クリスマスローズは正式な名前はヘレボレスでキンポウゲ科の多年草である。園芸植物の割には強く、夏の強い日差しはあまり好まないが、秋以降は日向に置いてやると良いみたいである。普段の手入れはあまり要らないが、我が家のクリスマスローズのような無茎種の場合は古い茎(前年に生えた葉)が大きくなり過ぎて根元に日が届かなくなるのでこれをハサミで切る作業が必要である。

最初の頃(買ってきた翌年)は妙に葉が茂る植物だなあと思っていたが、全く花が付かない。手が切れるほど茂った葉は伸びどうなっているのかと園芸の本を読み、古い葉を取ると翌年から白い花がつくようになった。


花と言っても植物学的には萼であり、一つの花がかなり長いこと楽しめる。もう、4つの蕾が付いているので開花が待たれる。

我が家のクリスマスローズは白い花だが、紫色のものも多く見受けられる。地味に下を向いて咲くが、その謙虚な美しさがまたよい。

東京と大阪の地下鉄の比較

2016-02-14 05:00:34 | 日記

鉄道シリーズ 126。東京と大阪の地下鉄の違いを考えて見た。

東京メトロを見ると銀座線と丸ノ内線は独立しているが、千代田線は小田急とJR常磐線、東西線はJR総武線、日比谷線は東武線(かつては東急東横線)、副都心線は東急東横線と西武池袋線、有楽町線は東武東上線と西武池袋線、半蔵門線は東急田園都市線と東武スカイツリー線、南北線は東急目黒線との乗り入れをしている。

都営地下鉄も大江戸線は独立しているが、浅草線は京成線と京浜急行線、三田線は東急目黒線、新宿線は京王線との乗り入れがある。

一方、大阪の地下鉄を見ると私鉄などと乗り入れをしているのは堺筋線が阪急京都線・千里線、中央線が近鉄けいはんな線、強いて挙げると御堂筋線が北大阪急行線に乗り入れしているのみであり、谷町・四ツ橋・千日前・長堀鶴見緑地線は乗り入れがない。


この違いが利便性の差になって現れている気がするが、逆に東京の地下鉄は運行の難しさもある。というのは事故や先日のような雪による遅れが発生すると思わぬ事態が発生する。
小生が利用している半蔵門線は私鉄内で事故が発生すると思わぬ事態となる。災害時には例えば千代田線は代々木上原~綾瀬間で折り返し運転を始め、小田急線は代々木上原駅で、JR常磐線は綾瀬駅で乗り換えることが可能である。

しかし、半蔵門線の場合は地下鉄は押上駅までしか運転されず、押上~曳舟は東武の連絡線のため、運行されなくなり、スカイツリー線には乗ることが出来なくなる。そのため、東武線に乗るためには一旦、表参道まで戻り、千代田線に乗り北千住まで行くか、銀座線で浅草に行かざるを得なくなる。これは西武池袋線に有楽町線で行く場合(小竹向原~新桜台~練馬は西武有楽町線)や品川駅に都営浅草線で行く場合(泉岳寺~品川は京浜急行線)も同様である。平常時には当たり前の乗り入れが一つ狂うと大変になることを知っておくと役に立つこともある。

千円の切手

2016-02-13 05:00:25 | 日記

切手シリーズ55。もうすぐ1000日目ということもあり、1000円切手を取り上げる。なお、現在も1000円切手が額面としては最高額である。

まずは戦後の最高額切手はどのように変遷したのかを調べてみる。戦後だけを見ると1947年に第1次昭和切手では最高額面は100円(1947年1月発行)であった。これが2年後の1949年9月に発行された産業図案切手では500円となった。今から65年も前だが、当時の貨幣価値から考えても相当な高額切手で、多分国内で使用された例は殆どないと思われる。図案は蒸気機関車の製造風景である。発行枚数も少なく、今も未使用でカタログ価格は85000円する。

次に、1955年3月第二次動植物国宝シリーズの1枚として『八ツ橋蒔絵』が発行された。印刷は地味な薄赤紫色の凹版単色である。

その後、同じ硯箱の切手が、1987年に第三次国宝シリーズの1枚として再度発行されているが、これを見ると黒字に金泥の鮮やかなものであることが分かる。

500円切手は1969年2月に新動植物国宝シリーズとして東大寺金剛力士像の切手が発行された。ほかのシリーズ切手は全てグラビア印刷なのに対し、この切手のみ凹版印刷である。

そして、最初に千円切手が発行されたのはその3年後の1972年4月22日。図案は京都にある浄瑠璃寺吉祥天立像であるが、サイズも大き目のものとなっている。同時に小型シートも1951年の50円弥勒菩薩の切手以来久しぶりに発行された。なお、50円弥勒菩薩の小型シートはわずか15万枚しか発行されなかったため、カタログ価格55000円もするが、残念ながら千円切手の小型シートは2000円止まりであった。

その後、平成切手シリーズになり、1996年3月に雪村周継の山水画『松鷹図』を用いた切手が発行された。この切手は単色のように見えるが実はグラビア3色と凹版1色で印刷されている。

そして、昨年約20年ぶりに意匠が変更され、田能村竹田作の『富士山図』が新たに発行された。併せて前の意匠である松鷹図と富士山図2枚の小型シートも発行されたが、新旧2枚のデザインのものは中々珍しい。また、こちらはかなり高値をつけている。
これらの切手デザインや印刷方式はいずれも最高額面にふさわしい高い水準のものが用いられている。

メジロとウグイス

2016-02-12 05:00:20 | 日記

春が近づいて来ると我が家の庭にもメジロのつがいがよくやってくる。羽の色は鮮やかなオリーブ色で目の周りの羽が白く目がクリッとしているように見えて可愛らしい。野鳥のため、保護されており、飼うことは禁じられているが、比較的人に慣れやすく、チーチーと可愛らしい声で鳴く。

ふと考えるとこの羽の色を日本人はウグイス色と言っているようである。ウグイス餅の粉の色も花札の2月の鳥に塗られているのも鮮やかなオリーブ色である。

ではとウグイスを調べると色はうす茶に近い色で地味なスズメのような鳥である。もちろん、鳴き声は『ホーホケキョ、ケキョ、ケキョ』と美声はもっているが、じつはあまり姿をみることはない。また、ウグイスは昆虫などを食べる肉食でメジロのように花の蜜を吸うわけではない。だから、梅にウグイスというのは誤りで梅にメジロというのが正しいのかも知れない。

因みにメジロはお互いに押し合うようにぴったり並ぶ習性があり、このことから混み合っている様を『メジロ押し』という慣用句になっている。

また、メジロとウグイスのような関係にあるのがブッポウソウという鳥である。ブッポウソウは高原などにいるブッポウソウ科の鳥で胴体は青というか緑というか鮮やかな色をしている。頭は黒く、嘴は赤い。

この鳥は『ブッポウソウ』(仏法僧)と鳴くありがたい鳥とされていたが、実は『ゲ、ゲ、ゲ』という汚い濁った声で鳴く。そして実際にブッポウソウと鳴く鳥は長年謎であったが、1935年になってコノハズクというフクロウの仲間であることが判明した。

そのため、一部ではコノハズクを『声のブッポウソウ』と呼んでいる。鳥は高いところにいると中々声が確認できないが、それが誤って覚えられていることも多いのである。

National Day

2016-02-11 05:00:12 | 日記

もうすぐ『建国記念の日』がやってくるが、毎年この時期になると小生はこの不思議な記念日について気になってしまう。というのはその由来にどうしても得心がいかないからかも知れない。

世界各国にも『建国記念日』(National Day)はあるが、その由来がはっきりとするものが多い。アメリカは7月4日がイギリスからの独立を勝ち取った日であり、独立記念日としている。

これはインド(8月15日)、ガーナ(3月6日)、カンボジア(11月9日)なども同様ではっきりとした歴史的裏付けがある。他にも革命記念日(キューバ1月1日、イエメン9月26日、リビア9月1日)や統一記念日(ルーマニア12月1日、ドイツ10月3日、UAE12月2日)を建国記念日とした国もある。

また、フランスはパリ祭としてバスティーユ監獄の襲撃が始まり、フランス革命が始まった日を記念日にしている。さらにポーランドのように最初は民族独立の日(1918年11月11日のロシア帝国からの独立の日)を記念日にしていたが、ソビエトの支援を受けて独立した1944年7月22日をポーランド民族復活の日に変更した。しかし、再度1989年からは東側の陣営から民主化を果たし、また元の記念日に戻した国もある。

日本同様に曖昧なのはハンガリーの1000年に初代王がハンガリー王国を建国したとされる8月22日としたもの。オランダのように7月26日を記念日とはしているが、その由来がはっきりとしないもの位である。

しかも、日本の建国記念の日は紀元節に由来しているが、これは紀元前660年に神武天皇が即位した日をベースにしている。しかし、神武天皇そのものの存在そのものが歴史学上で認めていられないし、さらに一旦占領下で廃止されたにも関わらず、1967年に復活させたことに違和感を覚えざるを得ない。まあ、旗日だからいいかと思う国民が殆どだろうが、一度見直した方が良いのではないかと感じるのは小生だけだろうか。

切手でめぐる昭和30年代のインフラ整備(3)

2016-02-10 05:00:19 | 日記

『切手シリーズ』その54。1963年7月には名神高速道路開通記念の切手が発行された。これは日本の本格的高速道路網の嚆矢であり、小牧~西宮間で1957年に着工、1963年7月16日に栗東~尼崎間71.7kmが完成。さらに1965年7月には全通したが、高速道路自体がなかった時代であり、高速道路自体が観光名所で路肩で弁当を広げ、疾走する車を見る人がでるほど。何しろ初めて100km/hで走れる道路の完成であった。

ちなみに東名高速道路の全通は1969年5月のことである。

ついで1964年8月には首都高速道路開通記念の切手が発行。東京オリンピックまであと2ヶ月という所であった。実は首都高速道路の初の部分的には1962年12月の京橋~芝浦4.5km、翌年12月には本町~京橋、芝浦~鈴ヶ森、呉服橋~江戸橋JCTが開通していた。しかし、1964年8月には鈴ヶ森~空港西、汐留~新橋、神田橋~初台、呉服橋~神田橋が完成し、羽田空港から都心への高速道路が開通したことになる。

そして1964年10月には東海道新幹線開通記念切手が発行された。東京~新大阪間を最初は4時間(その後3時間10分)で結んだが、1956年には7時間30分かかったものが、わずか8年で半分以下になる驚異の高速化であった。

そしてその9日後である1964年10月10日には東京オリンピックが開催され、大成功を収めた。敗戦から19年、3回に渡り記念切手を見ながらその足跡を辿ってみたが、如何にスピードをもってダム、橋、道路、鉄道、トンネルといった社会インフラの整備を行い、これがその後の高度成長に繋がったのかは論を待たない。また、国家的なプロジェクト完成の度に切手が発行されていたのかもよく分かる。