hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

神田紺屋町、神田北乗物町、神田東紺屋町

2016-02-24 05:00:23 | 日記

『神田をぶらり』その4。前回の神田西福田町のお隣にある紺屋町から歩く。実はこの町は珍しく北と南の2つに町が分けられ、間に神田北乗物町が位置する珍しいサンドイッチ構造となっている。


昭和通り側から歩き始めるとすぐに『紺屋町整骨院』が見え、この辺りからが紺屋町(南部)となる。最初の頃の紺屋町は南側だけだったが、江戸時代初期に周辺で火事が多く発生していたため、紺屋町の南側が火除け地に指定され、住民を北乗物町の北側に移住させたので南北分断されたもの。


町内会も紺屋町南部・北部と2つに分かれている。紺屋町は慶長年間に家康から軍功により関東地方の藍の買付を許された紺屋頭土屋五郎左衛門が支配し、五郎左衛門配下の染物職人が多数住んでいたため、この名前になった。


その北側にあるのが神田北乗物町。町名にある『乗物』に関しては、駕籠を作る職人が住んでいたとか、祭りの神輿を作る職人が住んでいた、駕籠を担ぐ人が住んでいた、馬具を作る職人がいたなど諸説あるが、いずれも江戸時代の庶民の生活に密着した名前である。因みに案内板には戦前までは南乗物町もあったとの記述があった。

周辺には化学薬品や医療品の問屋、小さな工房など並んでいるが、その中の小さな工場に昔ながらのホーローの町名案内板を発見、しかもその案内板に旧字の『乘』の字があった。

北乗物町の隣にはまた紺屋町(北部)があり、興産信用金庫の本所などがある。


その向かい側に三角の形をした小さな町があるが、これが神田東紺屋町。昭和通りに面する方にはメナードの支社、反対側にはホテルがあるが、あとは中小ビルばかり。小さな面積だが、昭和通りの歩道橋にもその名前がある。

その中に一軒だけ『野村利雄商店』という看板作りの昭和初期に造られたであろう建物。今もネジ屋さんをやられているようだが、看板には大きく『神田東紺屋町27番地』と書かれていたのが印象的であった。