放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

17th Anniv

2011年07月07日 12時34分09秒 | Weblog
 今日は僕とBELAちゃんの結婚記念日です。
 17年になります。

 あっという間でした。
 
 昨日、車中で「BELA抜き人生」というタイトルでシュミレートしていました。

 おそらく僕は何もしない男になっていただろう。
 ろくに部屋の掃除もしない。皿もコップも干からびて・・・。
 病気になっても部屋でごろごろしているような・・・。
 
 あこがれの「放菴」もなく、子供たちもいない。
 数少ない友人はますます離れ、お日さまもまぶしくて顔も上げられない・・・。
 いま、生きていたかなぁ・・・。

 BELAちゃん、出会ってくれてありがとう。
 僕に関心を向けてくれてありがとう。
 
 人生を大きく広げてくれたのはあなたです。
 ありがとう、ありがとう。

 世界で一番大切な人です。

 大きな災害があったけど、僕たちは奇跡的に無事だった。
 きっと僕らはなにかをする使命があるのかもしれない。
 でも今は、今に感謝です。 
 
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コンティキの家2

2011年07月07日 10時05分01秒 | Weblog
 7月3日(日)、角田市に設計士さん(ちろりん村の村長さん=耐震診断もできる人)が到着した。
 「いやぁ、蓮がきれいだったねぇ」と設計士さん。
 そーなんです。ホントきれいなんですー。

 設計士さん、まず外観をぐるり。
 「はぁ、基礎はツカ石なんだねぇ。」
 すごい、一発で見抜いた!
 それから建物に入って、内壁の割れたところから中の部材を覗いている。
 「いいねぇ。惚れ惚れするねぇ。」
 そーですか?
 「あ、ちょっと床が傾いているんだねぇ。」
 ああ、これヤバいですか?
 「ううん。住んでいる人が頭痛とかめまいするとかならジャッキであげねくてねぇけど、もう慣れたすぺ?」
 思わず義父と義母が顔を見合わせて笑う。
 ― おや、一瞬で空気が和んだぞ ―

 「お、二階には小屋組みが見えているんですね。ちょっと、拝見しても?」
 「は、はいどうぞどうぞ。」
 義母があわてて梯子のような階段を先導する。
 「あの、牛梁、すごいなぁ・・・。」
 まるで遺跡を発見した考古学者のようだ。

 「いやぁ、すばらしい出来ですねぇ。これ、地元の大工さんが造ったのすか?」
 「んだ。この地区に住んでいた大工さん。」
 「屋根は、もしかして・・・。」
 「うん、実は合掌造りなの。」
 「あ、やっぱり。」
 えっ、合掌造りなの!?
 「これはヒジョーに丁寧に造ってありますよ。たいへんなお仕事ですね。職人のはしくれとして、尊敬しますね。」
 それを聞いて義父は思わずニコニコしていた。

 で、肝心の耐震補強については・・・?
 「必要ないでしょう。まだまだもちますよ。」
 ええっ!
 「まずツカ石ってのがいいね。
 みんな誤解しているけど、基礎をツカ石にするってのは今で言う『免震構造』でね。揺れたら基礎から建物が外れるように最初から出来ているの。厳島神社なんかと一緒の構造。外れたらまたあとで戻せばいいの。
 それから『ヌキ』っていう横板が壁にはいっているけど、これにクサビが入っている。これで建物の揺れを吸収しているの。壊れるときはまずクサビがつぶれるから。そのときはクサビを取り替えればいい、ヌキまで壊れたらヌキを取り替える。そうやって小さな部材から交換できて、なるべく柱まで取り替えなくても大概なおせるように出来ているの。
 いわば地震が来ても破壊力を受け流すっつうか、『柳に風』っつう建物なんですわ。
 これを下手に現代の火打ち金物で固定なんかしたら、地震の時そこだけ材が裂けてかえってひどいことになるから、これはこれで現代と設計思想がまるで違うということを知っておいてほしいのっさ。」
 へえええ。
 「まあ建付けはどんどんゆがんでいくから、どうしてもなおしてほしいというのであればジャッキアップすっけど、建物としてはこのままで90%倒れないと思いますね。」
 
 義父も義母も少し驚いたような、それでもこの家の強さを分ってもらえてうれしいような、複雑な顔をしていた。
 
 こんな話しをどこかで聞いたような気がする。
 そうだ・・・。ヘイエルダールだ。コンティキ号だ。

 南米インディオが海を渡ってポリネシア人になったという説を支持するために、人類学者ヘイエルダール氏は当時でも手に入った材料(バルサ)を使ってイカダを制作。そのまま実際に太平洋を漂流した。
 当初「すぐに沈んでしまうぞ」と揶揄されたが、結局沈むことなく(ナマ木だったのが幸いしたとか・・・)、南サモア諸島に漂着するに至る。

 漂流中、どんな大波が来てもイカダのすきまから水が逃げていくので現代の船よりもよっぽど波をあしらうのに適していたという。それこそ「柳に風」。現代人が思うようにいかないことでも、先達の知恵というものがちゃんと用意されているのだ。

 「おそらく、その大工さんも、クサビを打つ理由まではわかんなかったと思うよ。けれど先輩たちからそんなふうに教わっていたんだべね。」

 義母が義父の顔を覗き込むようにして
 「いがったねぇ?」
 義父はこまったような、ほっとしたような笑顔を義母に返した。
 僕らもなんだか肩の荷がおりた。
 設計士さん(ちろりん村の村長さん)、かっこいいなぁ。

 「いまは建築法がやかましいから、基礎や柱にはかならず火打ち金物ってので固定してやんなきゃ建築確認通らない。オレらも仕事だから法律は守んなきゃなんねえべし・・・、けれど一番長持ちする建物ってのは、こういう柔軟な家なんですよ。これからも大事にしてください。」
 
 まるでどこかの鑑定団みたい・・・。
 置き忘れられた職人の「想い」というか「矜持」というか、そういったものが、震災の傍らで甦った瞬間だった。
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コンティキの家

2011年07月07日 00時32分57秒 | Weblog
 BELAちゃんの実家は角田市にある。
 築60年以上の古い家。
 3.11東日本大震災でも柱が傾くなどの被害が出た。

 同時にご先祖の墓石(棹石)が倒れるなどの被害もあって、少なからず出費がかさむことになった。
 これは困ったなぁ。

 お義父さんも心労のせいか食が振るわず、お通じもあまりよくないらしい。
 困った困った・・・。

 あんまり困って、僕たちは放菴の設計・管理をしてくれた設計士さんに相談してみた。
 誰よりも木造建築と大工を愛し、その研究と工夫に日々を奉げる熱い人。
 いまは被災地のあちこちで耐震診断に引っ張りだされている。多忙ですね。

 やっと電話がつながり内容を聞いてもらう。
 「柱がみな垂直でないの? んー、それじゃあね、角田市で罹災証明書取れるかどうかやってみてくれない?
 建物診断で罹災証明とれればなんぼか修理代出ると思うから。」
 「はあ、わかりました。やってみます。」

 義父を説得して、渋々ながら市の調査員に来てもらうことになった。
 
 それでも不機嫌な義父。
 調査員に対する言葉でも「おメェらにこの家がわかるはずねぇベ?」という態度が見え隠れする。
 おとーさん、ケンカ腰になるのだけはやめて・・・。

 義父はだれよりもこの家のことを知っていた。
 近所の大工さんが建ててくれた家。
 基礎のない置石(ツカ石)に柱を立てて木組みをした家。
 ヌキ(貫)と呼ばれる横板を利かせた家。
 今の建築しかしらない若いやつにわかる筈が無い・・・。

 そうかもしれないが、市の調査員だってこれがお仕事なんだからしょうがない。
 柱の傾斜を測り、写真を撮って帰っていった。
 一週間後、「罹災証明書(一部損壊)」が届いた。

 「一部損壊かぁ。」
 設計士さんはちょっと不満のよう。
 「まあ、近いうちに拝見させてもらいますね。」
 そうして2週間が過ぎた。
 そのあいだ、お墓の修復、法事やらお義父さんは忙しくすごした。そしてまた少しずつ体調を悪くしていった。
 
 2週間後、やっと設計士さんをお招きできた。
 義父がまたケンカ腰になったらどうしよう・・・。
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