かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

『「ルオーのまなざし 表現への情熱」展』 宮城県美術展

2017年09月08日 | 展覧会

【2017年8月29日】

 ルオー作品をまとめて観るのは、三度目になる。4年前に汐留パナソニックミュージアムで『モローとルオー展』[1] があった。師であるギュスターブ・モローとその生徒だったジョルジュ・ルオーを対比的に取り上げる興味深い企画展だった。また、2年前の出光美術館の『ジョルジュ・ルオー展』[2] は、ルオー作品にどっぷりと浸ることができる美術展だった。これらの美術展は、汐留パナソニックミュージアムや出光美術館など国内の美術館にじつに多くのルオー作品が所蔵されていることで実現したものだった。
 宮城県美術館で開かれている『ルオーのまなざし展』は、国内に多数所蔵されているルオー作品をベースに、ルオーと同時代に互いに交流のあったヴァシリー・カンディンスキーなど表現主義の画家たちを共に紹介する美術展である。
 当然ながら、先の二つの美術展で展示されていた作品もここにはたくさん含まれている。印象深い作品は、何度見ても印象深いことに変わりなく、このような展覧会の感想を書こうとするとどうしても同じような作品に眼が行ってしまう。しかし、ここではあえて前の二つの美術展に関する文章で触れていなかった作品だけを取り上げてみることにした。例えば、《キリスト》(1937-8年)や《避難する人々(エクソドゥス)》(1048年)は、『モローとルオー展』の感想を記したブログで取り上げているし、銅版画集『ミセーレ』(1948年刊)のうち、《でも愛することができたなら、なんと楽しいことだろう》、《母親に忌み嫌われる戦争》、《われらが癒されたるは、彼の受けたる傷によりてなり》と《アルルカン》(1953-56年)は『ジョルジュ・ルオー展』のブログで取り上げた。
 この美術展では『ルオーのまなざし 表現への情熱』[3] という画集がミュージアム・ショップで販売されていたが、展示作品よりはるかに多くのルオーと表現主義の画家たちの作品が収録されている。美術展のカタログを兼ねているのだろうが、展示構成と収録構成がまったく異なっているものの、美術展を見た後での再確認だけにはとどまらない楽しみがある本である。なお、ここで取り上げる作品には『ルオーのまなざし 表現への情熱』における収録ページを記しておいた。


【上】ジョルジュ・ルオー《人物のいる風景》1897年、紙(紙と麻布で裏打ち)、パステル木炭、
80.0×120.0cm、パナソニック汐留ミュージアム(p. 27)。

【下】ジョルジュ・ルオー《パリ(セーヌ川)》1901年、紙(紙と麻布で裏打ち)、水彩・パステル、
16.5×28.0cm、パナソニック汐留ミュージアム(p. 30)。

 ルオーの作品群が並べられていれば、どうしても筆太の筆致で描かれた人物像(キリスト像も含めて)や聖書の物語の絵に引きつけられてしまう。そして、たとえそれが「聖書の風景」と名付けられていても、ルオー作品ではそれを風景画としては受け止めていなかった。そんなふうにルオーを観ていたので、風景画の印象はあまり残っていない。
 この美術展の一番目の展示作品である《人物のいる風景》も確かに『モローとルオー展』で見ていたはずだが、あまり記憶に残っていなかった。ここで《人物のいる風景》をあらためて風景画として印象付けられたのは、この美術展の展示構成のおかげである。
 最初の展示コーナーは「I. 真の姿を見つめる眼」というタイトルで、ルオーの初期作品が並べられている。《人物のいる風景》も《パリ(セーヌ川)》もそのコーナーに並べられていた。続くコーナーの「II. 響きあう色とモチーフ――ルオーと表現主義」では、カンディンスキーなどの表現主義の画家の絵も並べられていて、ルオーの画風の変容を見ることができる。その変容こそが、《人物のいる風景》に際立った印象を後づけることになって、この最初の展示作品まで思わず引き返したのだった。
 表現主義の画家たちとの交流は20世紀に入ったばかりのころで、この時期にルオーの作品の〈ルオー化〉が始まっているという印象があって、それが風景画に顕著に示されているのではないか、そんな思いがルオーの風景画をピックアップする動機になった。


【上】ジョルジュ・ルオー《フランスの田舎道(散歩道)》1913年頃、紙(麻布で裏打ち)、油彩、
80.0×120.0cm、パナソニック汐留ミュージアム(p. 38)。
【中】ジョルジュ・ルオー《キリストと漁夫たち》1947年頃、厚紙(板で裏打ち)、油彩、
57.7×74.7cm、パナソニック汐留ミュージアム(p. 78)。
【下】ジョルジュ・ルオー《冬、人物のいる風景》製作年不詳、紙(麻布で裏打ち)、油彩、
14.1×17.0cm、パナソニック汐留ミュージアム(p. 141)。

 もちろん、画風の変容が一次の相転移のように不連続に突然起きるとは考えにくい。とはいえ、表現主義の画家たちとの交流が始まっていた1913年頃に描かれた《フランスの田舎道(散歩道)》では、ルオー作品の〈ルオー化〉がかなり完成の段階に近づいている。そう私には思える。
 《キリストと漁夫たち》や聖書の物語を描いた作品群は、その主題から考えて風景画のカテゴリーに入れていいかどうか逡巡する。しかし、《冬、人物のいる風景》は「風景」が主題にもかかわらず、聖書の一シーンを描いた多くの作品と〈ルオー化〉のレベルはほとんど同じで、わたしには区別することができない。
 そして、《冬、人物のいる風景》などを〈ルオー化〉の到達点と考える私には、その到達点の一歩手前で描かれたような《キリストと漁夫たち》がとてもお気に入りの作品」なのである。
 私が勝手に作った〈ルオー化〉という大雑把な概念は、初期の段階では時間軸に沿っての変化と見ることができそうだが、《フランスの田舎道(散歩道)》が描かれた頃から後では、時間軸ではなく画家の主題選択に依存して微妙に変化すると考えた方が理解しやすい。つまり、盛期(ないし後期)のルオー作品を見るに際して〈ルオー化〉などという概念はあまり役に立ちそうもないのである。

 


【上】ジョルジュ・ルオー《自画像》1920-21年、紙、油彩、
60.5×42.0cm、個人蔵(ルオー財団協力)(p. 41)。
【下】ジョルジュ・ルオー《呆然とする人》1948年頃、紙(麻布で裏打ち)、混合技法、
52.6×38.2cm、個人蔵(ルオー財団協力)(p. 84)。

 以前の美術展で2枚のルオーの自画像を観たことがある。1895年作の木炭と黒チョークで描いたものと1926年作の石版画のもので、どちらもモノクロームの作品である。そのせいか、初期の風景画と同様に記憶に残っている印象は薄い。
 しかし、この油彩の《自画像》は強烈だ。顔全体は道化師のような化粧に装われているようで、大きく見開かれた眼は恐怖もしくは大きな不安をもってこちら(描いているルオー自身)を見つめている。1895年作の自画像に描かれたルオーもこちらを見つめているが、先に挙げた《人物のいる風景》と同じような筆致で描かれた静かな印象を与える作品である。また、1926年の石版画に描かれた画家は斜め前方を向いていて、こちらもおとなしい印象の作品だ。これらの二作品と今回展示されている《自画像》を比べて鑑賞することは極めて難しい。この作品だけが油彩ということもあろうが、それほどに前に見た二作品との印象の隔たりは大きい。
 『ルオーのまなざし 表現への情熱』の作品解説(p. 47)には、この《自画像》はルオーが50歳前後の作品で、当時のルオーは友人に「ほかのどんな人たちよりも私を無限によく理解してくださる方たちに対してさえ、自己を見せる場合、私は常に裸で、震えているような気持ちになります」と話したことが紹介されている。《自画像》のルオーの眼が伝えているのは、生への不安というよりは、自らの存在自体への不安というべきだろう。私も50歳過ぎの数年間、強烈な神経不安症のような症状に悩まされたが、それと同じような精神状態だったのだろうか。しかし、ルオーと決定的に異なっているのは、そのような自己自身の精神状態を客体化して取り出して見せる方法も才能も私にはないということだ。

 《自画像》に描かれた顔がピエロのような化粧をしているのではないかと疑ったのだが、《呆然とする人》については明確に「ルオーが多数描いた道化師の姿と一致する」と作品解説(p. 84)に述べられている。
 ルオー作品の中で《アルルカン》や《道化師》と題された人物像がとても魅力的であることは言うをまたない。顔を覆うように化粧したピエロの顔がむしろピエロの悲しみや喜び、ときには絶望などの感情をあたかもその化粧が増幅して顕在化させているように見えるということは、私などでもしばしば経験することだ。ルオーは、隠すことによってかえってあふれ出てしまう人間の感情を《自画像》や《呆然とする人》のような絵を通じて表象しようとしたのだろう。その人物がどのような感情、どのような精神を抱えているか、その仔細を知らなくても、その感情や精神の強さ、激しさ、深さが表現されうることに私は驚くばかりだ。


【左】ジョルジュ・ルオー《踊る骸骨(習作)(「悪の華」)》1934年、紙、
アクアティントの上にメゾチント、50.0×32.5cm、ジョルジュ・ルオー財団 (p. 46)。

【右】ジョルジュ・ルオー《踊る骸骨(実現しなかった色絵版画「悪の華」のための習作)》
1939年、紙、校正刷りにガッシュで加彩、32.5×21.9cm、個人蔵(ルオー財団協力)(p. 47)。

 《踊る骸骨(習作)(「悪の華」)》も強く引き付けられた作品だ。同じ主題の《踊る骸骨(実現しなかった色絵版画「悪の華」のための習作)》を並べてみたが、あくまで比較のためであって、この作品にも惹かれたというわけではない。
 ルオーは太い輪郭線で人物を描くが、《踊る骸骨(習作)(「悪の華」)》の骸骨(人物)はそのような輪郭線で描かれているのか、という点が興味の中心である。手足(の骨)は輪郭線で描かれていると言えなくはないが、胴や頭部は陰影だけで描かれているように見える。
 陰影で描かれるルオーの人物像というだけでも興味がわくのだが、後述するカンディンスキーの作品との比較することでいっそう興味が募ったのだ。

 


【上】ヴァシリー・カンディンスキー《商人たちの到着》1905年、麻布、テンペラ、
92.5×135.0cm、宮城県美術館(p. 17)。

【下】ヴァシリー・カンディンスキー《夕暮》1904年、紙、ガッシュ、
31.0×47.0cm、宮城県美術館(p. 20)。

 44歳のころから抽象画を描き始めたカンディンスキーは、38、9歳のころには《商人たちの到着》や《夕暮》などを描いていたのである。ルオーの《踊る骸骨(習作)(「悪の華」)》との比較でこれらの作品で興味をひかれたのは、人物が一見黒い輪郭線で描かれているように見えるけれども、それは輪郭線ではなく陰の部分だということだ。
 《夕暮》にその特徴が強く顕われている。黒い背景の中に人物の光の部分だけが浮き上がるように描かれている。人物の輪郭は周囲の闇ということだ。女性のスカートの襞も線ではなく襞の陰の部分なのだ。《商人たちの到着》におけるたくさんの人物も黒の地にそれぞれの衣装の色を重ねているのである。いったん地を黒く塗りつぶしてから人物を描いているのだ。
 このような技法があることは不思議でも何でもないように思えるが、カンディンスキーのこれらの作品のように強い印象が残る同様の手法の作品の記憶はない。夜を描いた作品にはありそうな手法だが、少なくとも《商人たちの到着》は夜の時間を描いたものではない。

 《夕暮》に目を奪われたのには、ごくごく個人的な理由もあった。ここ数年、一眼レフのカメラをいじっているのだが、夜のデモを写す機会が圧倒的に多い。デモに参加する人々に当たるかすかな光だけで人物が写され、周囲は闇だけという写真を撮りたいと思う時がある。《夕暮》を見た瞬間、「こういう写真が撮りたいのだ」と思ったのだ。腕がないのできわめて難しいことなのだが、後で加工修正することのない、その時の瞬間のシャッターで実現したいという気持ちはまだあきらめきれずに抱いている。

 


【上】ハインリッヒ・カンペンドンク《少女と白鳥》1919年、画布、油彩、
69.0×99.3cm、高知県立美術館(p. 60)。

【下】ハインリッヒ・カンペンドンク《郊外の農民》1918年頃、麻布、油彩、
47.1×95.2cm、宮城県美術館(p. 73)。

 カンディンスキー以外の表現主義の画家の作品も展示されていたが、その中でハインリッヒ・カンペンドンクの幻想的な2枚が印象的だった。白鳥と題されているが、その鳥は白くない。周囲の色に誘引された体色を持つ白鳥として描かれているし、木々も山羊も馬も、そして人間も部分的ないし全面的に半透明な存在として描かれ、背景(周囲)と重ねあわされている。
 カンペンドンクは「自然のなかの動物」(p. 60)を良く描いた画家だと言われるが、これらの絵は動物たちも木々も草花も大地も人間もすべて等しくわが身を透かせて他者に重なり合う存在として描かれている。ありとあらゆる存在が等しく見つめられる世界はファンタジーそのものであり、描かれた世界は幻想的にならざるを得ないだろう。
 長い人間の歴史の中で、人文主義といいヒューマニズムといいながら、その実、人間中心主義の思想や精神に浸され、染まりきってはいても、私たちはきっとそんなファンタジーを胸の奥深くに大切にしまい込んでいるのだ。そして、カンペンドンクの絵のような作品によって、虫干しされるように引きずり出される。そう思う。

 『ルオーのまなざし展』を見終えた。ルオーと同時代に活躍した表現主義の画家たちとルオーの作品を並べて観ることもできたのだが、はてさて、何をどう評すればいいのか私にはやはりよくわからない。表現主義との交差がルオー作品の〈ルオー化〉を促進したに違いない、という(独りよがりの)発見をしたつもりになっているが、考えてみれば、ルオーが自立、自走的に〈ルオー化〉を果たしたということを否定する理由はどこにもないし、それも画家の変容としては十分にありうることなのだと思う。ただ、そういう想像ができることが一人の観者としての楽しみであり、許される権利と言ってもいいのではないかと思うのである。


[1] 『モローとルオー――聖なるものの継承と変容』(淡交社、2013年)。
[2] 『ジョルジュ・ルオー展――内なる光を求めて』(出光美術館、昭和27年)。
[1] 『ルオーのまなざし 表現への情熱』(パナソニック汐留ミュージアム、NHKプロモーション、2017年)。


 

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