かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

純化する表現と透明な時間 ――初めて出合ったハンマースホイ(2)――

2019年10月28日 | 展覧会

【2009/10/17】

現在の時間と過去の時間は
おそらく未来の時間の中では現在となる
また未来の時間は過去の時間の中に含まれる。
もし凡ての時間が永遠に現在ならば
凡ての時間は贖うことができない。
かつてあったかもしれないものは
ただ冥想の世界にのみ永遠の可能性を残すひとつの抽象なのだ。
かつてあったかもしれないもの あったものは
ひとつの終局を指している
常に現在というものを。
     T・S・エリオット「バーント・ノートン」部分 [1]

【フッサールの表現論】

 ハンマースホイの絵画に初めて出合ったころ、たまたまジャック・デリダの「声と現象」 [2] を読んでいる途中であった。厳密に言えば、難しかったので再読していたのである。この本は、「フッサールの現象学における記号の問題入門」という副題が示すように、フッサールの「論理学」や「イデーン」における表現や記号の問題を批判的に論じたものである。デリダに興味があり、ついでにフッサール現象学も理解できるのではないかと、甘い期待で読み始めたのだが、現状は残念ながら「虻蜂取らず」のままである。
 「声と現象」の前半は、表現とはいかなるものかについて当てられている。フッサールにおける〈表現〉はギリシャ哲学以来の伝統通りに音声表現を本質と考える。表現における時間性、同時性の問題からそのように措定されるのだが、デリダは〈表現〉をエクリチュール一般へと拡大する。そのため、伝達される内容のずれ、誤配が生じるとするのである [3]
 とまれ、それを読みながら、なにかしらフッサールの〈表現〉についての考えがハンマースホイの絵画表現を読み解くヒントになるように感じたのである。ところが、私はいまだ「論理学」や「イデーン」を読んでいない。デリダに助けられてなんとか大著の「論理学」や「イデーン」のフッサールを、というのがこの姑息な読書の理由なのだ。フッサールについては、「デカルト的省察」と「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」くらいで終わらせるのが、私の現在の余力(たぶん、能力も)だろうとおもう。そのため、ここでは姑息で恥ずかしいのだが、デリダから「孫引き」をしながら話を進めることにする。
 フッサールは〈表現〉を言述に限定して考察していて、絵画表現を直接的に意味してはいないのだが、ここでは表現一般として(つまり、アナロジーとして)考えることにする。フッサールの〈表現〉は人間の言述行為にまつわる様々な不純要因を徹底的に排除することによって成立する。「可視性や空間性は……(中略)……意志の、そして言述(ディスクール)を開始する精神的生気づけの〈自己への現前性〉を失うほかないだろう。可視性や空間性は、文字どおり〈自己への現前性〉の死なのである。」とデリダは要約する [4]
 したがって、『われわれは、表情や身ぶりを(表現から)除外する。表情や身ぶりは……(中略)……言述の協力がなくても、ある人の精神状態が周囲の人々にとって理解可能な「表現」となるようなものなのである。このような表出=外化(エクステリオリザシオン)(Äusserungen)は、言述(Rede)という意味での表現ではまったくない』 [5] ということになる。
 不純物の排除は、さらに徹底して、「心的体験の伝達あるいは表明に属するすべてのもの」を「指標作用の名のもとに、そこから除外する」 [6] 。ここでいう「指標」とは何だろう。「指標という概念を規定してきた、内世界的(ムンダーン)現実存在、自然性、可感性、経験性、連合等々の諸価値は、なるほどわれわれが予測する多くの媒介を通してではあるが、たぶんこの非-現前性の中に、その最終的統一性を見出すことになるのかもしれない。そして、この生き生きした現在の自己への非-現前性は、同時に〈他人との関係一般〉と〈時間化作用(タンポラリザシオン)の自己への関係〉とを特徴づけているのである」 [7]
 言述や発話行為を描画行為、絵画表現と読み変えて、アナロジカルにフッサールの表現論をハンマースホイの画業に適用しようとする私に、デリダは次のような決定的な要約を与えてくれる [8]

……汚染=混淆(コンタミナシオン)は、つねに現実の会話の中で生じるので(表現は、会話においては、直感に対して永久に隠された内容を、つまり他人の体験を指示するからであり、同時にまたBedeutung〔意-味〕のイデア的内容と表現の精神的側面が、そこでは感覚的側面と結びついているのだから)、まさしく伝達作用を持たない言語の中で、独り言の言述(ディスクール)の中で、「孤独な心的生活」(im einsamen Seelenleben)の絶対的に低い声の中で、表現の手つかずの純粋性を追いつめていかなければならない。奇妙な逆説によって意-味は、あるとの関係が中断されるときにだけ、その-現性〔ex-pressivite外に-押し出すこと〕の濃縮された純粋性を抽出することができるのである。

 表現から言述の指標作用を排除して残るものは、純粋な超越論的イデアの表現となるのであろうが、もちろん前述したように、絵画表現にそのまま適用できるわけではない。しかし、私たちが普通に考えている表現というものが多くの非本質的介在物をまとったものであること、それらを排除して真正の〈表現〉が成立するということは重要である。
 そして、〈他人との関係一般〉と〈時間化作用の自己への関係〉が非-現前性を示しても、表現は成り立つ、というよりもそれによってこそ表現が成り立つとフッサールは言っている(らしい)。
 このことは、ハンマースホイの画業の基底をなす心性そのものではないか。顕在的ではないにせよ、ハンマースホイは〈他人との関係一般〉と〈時間化作用の自己への関係〉を表象する事物をカンバスから可能なかぎり排除したうえで、彼の絵画表現を成立させたいと願っていたにちがいない。実際には、そのような心性と「健常」な心性の間を揺れ動きつつ、二つの心性が張る時空上でハンマースホイの画業が成立しているのである。


図1 ハンマースホイ《室内、ストランゲーゼ30番地》 [9]
1901年、油彩、カンバス、62.5×52.5cm、ハノーファー、ニーダーザクセン州博物館


【純化のプロセス】

 その二つの心性の揺動の様子を見てみよう。図1では、テーブル、椅子、ピアノ、花台と花瓶、壁の絵、カーテンそして妻イーダらしい人物(後ろ姿であるが)までもが描かれている。すこし寂しい感じはするが、室内の道具立てはそろっている。
 おそらく、この絵についての鑑賞者の大きな関心は、テーブルやピアノの脚の影が逆向きに描かれ、ピアノの後脚、イーダの左足が描かれていないことなど、きわめて不合理、不自然であることだろうが、ここでは考えないことにしたい。というより、よく分からないのである。時間のたたみ込み(二重の時間の重ね合わせ)があるのか、社会性、日常性の排除の中途半端さなのか、精緻な精神病理学的解釈が必要なのかもしれない。いずれにしても、社会性、日常性の忌避を志向する心性の兆しは見えている。
 次の絵(図2)には、椅子に坐るイーダの後ろ姿だけが室内に存在している。同じ場所を描いた他の絵から判断すると、窓にはカーテン、壁には絵が掛けてあるはずであるが、ここでは描かれていない。


図2 ハンマースホイ《室内、ストランゲーゼ30番地》 [10]
1909年、油彩、カンバス、55.5×60.5 cm、個人蔵


図3 ハンマースホイ《陽光習作》 [11]
1906年、油彩、カンバス、54.5×46.5 cm、コペンハーゲン、デーヴィズ・コレクション

  さらに、図3になると、壁、窓、ドアというこの場所から排除できないものだけが描かれる。あたかも、この部屋で生活が営まれていないかのように。窓の向こうに見えるはずのコの字形の建物の一方も判然としない。
 これが、ハンマースホイによる〈他人との関係一般〉と〈時間化作用の自己への関係〉の表現空間における自己への非現前化へ志向する心性のもっと振れ幅が大きい絵であろう。


図4 ハンマースホイ《白い扉、あるいは開いた扉》 [12]
1905年、油彩、カンバス、52×60 cm、コペンハーゲン、デーヴィズ・コレクション

 もう1点、揺動の極にある絵を見ておこう。図4は食堂から、隣室、廊下を見通した絵である。食堂のテーブルもストーブも壁の絵ももちろん描かれない。図2と図3の対照のように、図4にも同じ部屋に後ろ向きのイーダがいたり、食堂テーブルが描かれたりする絵がいくつか存在する。制作年をみると、一つの心性からもう一つの心性へと移り変わっていったのではなく、揺り返しながら制作されていることが分かる。


【積み重なった透明な時間】

 このようなハンマースホイ固有の絵が、私たちの心に惹起するものは何だろう。何もない寂しさ、孤独感、生活感のない暗さ、暗鬱な北欧の、あるいは北欧人の気分のようなものだろうか。
 それは、累々と積み重なった生活の時間の透明化ではないのか、と私には思える。20 数年前、家の建て替えのため、全ての家財を運び出してがらんとした旧宅の部屋の中に立って、その建屋に住み始めた頃から、子供が生まれ、育ち、そして現在に至る長い時間が、そのときの現在の時間そのもののように感じられたことがある。
 暮らしてきた時間に具体的に存在した家財類がすべて排除されている空間の中でこそ、、そこでの生活に張り付いていた時間が、積み重なり、透明となって現在性としてそこにある、そのような感受が成立していたように思う。

古いさびしい空屋の中で
椅子が茫然として居るではないか。
その上に腰をかけて
編物をしてゐる娘もなく
暖爐に坐る黑猫の姿も見えない
白いがらんどうの家中で
私は物悲しい夢を見ながら
古風な柱時計のほどけて行く
錆びたぜんまいの響を聽いた
        萩原朔太郎「時計」部分 [13]

 たとえば、この詩に描かれる「がらんどうの家」には椅子があり、まだ動いている「古風な柱時計」がある。だからこそ、「編物をしてゐる娘」、「暖爐に坐る黑猫」が想起されているのである。想起される時間の射程が短いのである。 がらんどうの部屋に、現在の生活で使っている道具を置いてみよう。時間はその道具にトラップされ、現在の生活の時間のみを表象するだろう。

 ストランゲーゼ30番地の家は17世紀に建てられ、ハンマースホイは1898年から1909年までここに住んでいる [14]。図3や図4の部屋が描かれた時には、200年以上の生活の時間がそれらの部屋を過ぎていっているのである。何代もの、何家族もの生活の時間を全て見通すには、それぞれの生活に結びつくような事物があってはならない、ということが結果からの逆射として言うことができよう。
 そして、何世代、何家族もの積み重なった時間から抽象され、外化された時間性こそが、フッサールの〈表現〉を絵画表現へ翻訳したものに対応しているのはないか、と私は思う。

あかるいへやのなかに
ちいさなへやがあり
くらいへやのそとに
いくつものへやはひしめき
へやはたがいにかさなりあって
どこの土地や因習にざわめくへやにも
かならずゆかねばならない
へやは まったくぶきみで よそよそしく
いつも どこかのへやのすみで
ひとがやってくるのを
いじわるそうに待っているのは
へやの風だ
       永島卓「毒には毒を食わせてやれ」部分 [15]

 そして、累々と積み重ねられた時間は、その純化、その透明化が徹底されるにつれ、それぞれの部屋固有の積算された時間ばかりではなく、「どこの土地や因習にざわめくへや」につながるように、透明な時空の積み重ねのように変容していく。そこにもし動くものがあるとすれば、それは「へやの風」だけだ。
 ハンマースホイの絵が、累積した透明な時間を私たちの心に惹起するとき、透明であるがゆえに、感受する私たちそれぞれの累積した生活時間の、あるいはまた、父祖からの累積した記憶の時間特有の色に染まった時間として、私たちの心に現前するだろう。それこそが、NHKのテレビ番組で小栗康平が「見る側の想像力を解放している」と評したことの本質だろうと思う。

 ヴィルヘルム・ハンマースホイの絵に出合ったことは、近年の私にとってきわめて重要な事件であった。このような新鮮な驚きを伴った出会いがこの後もあるのだろうか、と思うほどである。これは私の感受力の問題だから、あまり期待できないとは思うのだが、やはり未練がましく再びのなにがしかの出会いを願ってみたりする。

[1] T・S・エリオット「エリオット詩集」(上田保、鍵谷幸信訳)(思潮社 1965年) p. 238。
[2] ジャック・デリダ「声と現象」 林好雄訳(筑摩学芸文庫、2005年)、以下「デリダ」。
[3] 東浩紀「存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて」(新潮社、1998年)。
[4] 「デリダ」 p. 78。
[5] 「デリダ」 p. 78 (出典はフッサール「論理学」第1章、第5節)。
[6] 「デリダ」 p. 82。
[7] 「デリダ」 p. 83。
[8] 「デリダ」 p. 49。
[9] 「ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情」 佐藤直樹、フェリックス・クレマー編(以下、「ハンマースホイ図録」)(日本経済新聞社、2008年) p. 153。
[10] 「ハンマースホイ図録」 p. 61。
[11] 「ハンマースホイ図録」 p. 149。
[12] 「ハンマースホイ図録」 p. 153。
[13] 「萩原朔太郎詩集 青猫」(新潮文庫、昭和30年) p. 230。
[14] 「ハンマースホイ図録」 p. 12。
[15] 「永島卓詩集 I 碧南偏執的複合的私言」(国文社、 昭和48年) p. 42。

【ホームページを閉じるにあたり、2009年10月17日に掲載したものを転載した】

 

 

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