三流読書人

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ドングリ小屋住人 

美ら海 辺野古よ

2010年01月27日 13時08分02秒 | 徒然なるままに


1月22日衆院予算委、日本共産党赤嶺議員の質問を紹介したい。

沖縄の悲しみと怒り、屈辱の歴史がこれほどよくわるものは少ない。『赤旗』の1月24日付け、2ページまるごとである。

読もうと読むまいと勝手であるが、どうしてもこの発言は記録しておきたい。
政府答弁のお粗末さもうきぼりになっている。
質問者が共産党議員であるということで偏見や先入観をもってはいけない。
直後の名護市長選では稲嶺進氏が市長になった。
稲嶺氏を支援する。
条件付で受け入れを主張した対立候補の島袋氏、支援した人々の苦渋も忘れてはいけないと思う。

読みつつ涙が出てくる。                                                           

  赤嶺 私は、今日は沖縄・米軍普天間基地の問題について聞いていきます。

 普天間基地は、沖縄県宜野湾市にあるアメリカ海兵隊の航空基地です。市のど真ん中に位置し、市民はその周辺を取り囲むようにして生活することを余儀なくされております。米軍ヘリや空中給油機、戦闘機が日常的にその上空を旋回し、訓練を行っており、危険極まりない基地であります。
 日米両政府は、1995年に起きた米兵による少女暴行事件、これに抗議して開かれた沖縄県民大会を契機に、普天間基地の返還に合意をしました。ところが、普天間基地に代わる新たな基地を、沖縄県内に建設することが条件とされました。13年以上が経過したいまなお、返還は実現しておりません。普天間基地の危険性は放置され、2004年には、普天間基地所属の大型のヘリが、沖縄国際大学に墜落、炎上いたしました。
 こうしたもとで、鳩山政権が昨年9月発足いたしました。この間、普天間基地の嘉手納基地への統合をはじめ、さまざまな「移転」先が取りざたされてきましたが、解決の見通しは立っていません。アメリカは現行計画通り名護市辺野古への「移設」を強く求めており、袋小路に陥っております。

赤嶺 銃剣で殴り土地を奪ってできた基地。生まれながら国際法違反米軍に土地を強奪され、テントに入った宜野湾村(当時)伊佐浜の住民=1955年
  赤嶺 私はいま、普天間基地問題の原点に立ち返るべきだと思います。総理にうかがいますが、そもそも、普天間基地をはじめ沖縄の米軍基地はどのように形成されたという認識をお持ちでしょうか。

 委員長 北沢(俊美・防衛)大臣。

 赤嶺 総理の認識を聞いているんですよ。

 北沢防衛相 経過は私のほうからご説明をさせていただきます。赤嶺委員もすでに国会で何度かこの件についてご発言をされておられます。おっしゃるとおり、昭和20年の4月に米軍が上陸してきて、北上する部隊と南下する部隊がありまして、南下する部隊が来て、この宜野湾市のところへ本土空襲のための飛行場を建設したという経過でありますが、私どもはこの問題を一日も早く解決するということで、官房長官がヘッドになってただいま真剣に討議をして、5月をめどに解決をしていきたいと思っている次第であります。

 赤嶺 総理がまったくお答えになっていないですから、ちょっと私のほうからも経過を説明して、さらに総理の認識もうかがいたいと思いますけれども、沖縄の米軍基地は、まず、住民の理解を得てつくったものではないということであります。住民の土地を強奪してつくったものです。民家や郵便局、黒糖製造所もあった
 赤嶺 沖縄は、先の大戦で国内で唯一住民を巻き込んだ地上戦を体験をいたしました。米軍が上陸をし、住民が収容所に強制的に収容されているときに、戦争もまだ終わらないうちですよ、その間に、軍用地、民有地を問わず接収して、米軍基地を建設をいたしました。住民が収容所から帰ってきたら、鉄条網が張られ、自分たちの土地が基地に変えられていたわけであります。

 普天間基地がつくられた場所には、民家も、役所も、郵便局も、墓地も、そして沖縄でいうサーターヤーですね、サトウキビを搾って黒糖をつくる製造所、そういうのも、普天間基地のなかにありました。米軍占領のもとで、そういうすべてのものを奪ってつくったのが米軍基地であります。

 それだけではありません。その後、広大な土地を、戦争が終わらないうちに強奪した上に、サンフランシスコ条約が締結された1951年以降、米軍は銃剣とブルドーザーによって、抵抗する住民を強制的に排除して基地をさらに拡張いたしました。

 私は、那覇市の飛行場の近くの小禄(おろく)の生まれです。そこに、具志という地域があります。その具志地域では、サンフランシスコ講和条約が発効したかしなかったかという時期に、米軍が水道タンクをつくってやるという理由で、8000坪の土地を奪いました。実際に設置されたのは、水道タンクではなく、米軍のガソリンタンクでした。土がかぶせられ、芝が植えられ、こんもりした緑の丘に見せかけたそのガソリンタンクの丘に抱かれるように私は成長いたしました。少年時代をすごしました。

 住民をだまし討ちにして、ガソリンタンクをつくった後に、米軍は大勢の武装米兵、そして装甲車、トラックで押し寄せて、土地取り上げに反対して座り込む住民を銃剣で殴り、軍靴でけり、頭から毛布をかぶせて、片っ端から追放していきました。こういう土地強奪によって、米軍基地は拡張されたわけです。

 1カ所ではありません。宜野湾市の伊佐浜や、伊江島や、県下各地で銃剣とブルドーザーによる基地の拡張が強行されました。

 私は沖縄の米軍基地は、こうした不法、不当な土地取り上げによってつくられたと、このように認識しておりますが、総理の認識はいかがですか。

 鳩山由紀夫首相 いま、赤嶺委員がお話をされましたように、とくに普天間の基地に関して申し上げれば、先ほども北沢大臣からお話がありましたけれども、もう昭和20年、まだ戦争が終わらないうちに、この、民有地を含めて、米軍が接収をして、そしてその上につくったものだと、そのように理解をしております。

 それだけに、沖縄の県民のみなさまがたにとって、普天間の基地、いろいろな事件もあったわけでありますし、事故もあったわけでありますが、この経緯というものもありますだけに、普天間の基地は早く取り返してもらいたいという思いを強く持っておられるんだと思います。

 そのことを前提にしながら、また普天間を移設する先が、沖縄のなかかという思いも、多くの県民のみなさま方に共有するお気持ちではないかと。だからこそ、これだけ長い時間がかかってしまっているということも理解をしていくなかで、普天間の基地の移設先というものを、われわれとしても、5月の末までに時間をかけますけれども、最終的にしっかりと沖縄県民のみなさんのご理解もいただくなかで、決めてまいりたい。

 赤嶺 こういう土地の強奪というのは、当時の国際法にも違反する行為であります。戦争法においても、最低限守るべき基準を定めたハーグ陸戦法規は、占領下における略奪や私有財産の没収を禁止しております。

 ですから普天間基地は、いま総理の認識の説明を受けましたが、生まれながらにして、国際法違反の基地であります。

赤嶺 米軍によって県民は虫けらのように扱われた
首相 安全保障という立場では米軍も必要
赤嶺 憲法の上に安保があるから悲劇が今も繰り返される
 赤嶺 こうしてつくられた米軍基地によって、戦後65年間、県民は耐え難い苦しみを背負わされてきました。戦闘機の墜落、爆音、演習による原野火災、流弾、米兵による殺人、暴行など、基地あるがゆえに起こるさまざまの被害や、そして沖縄に生まれ育ったものにとっては生涯忘れることのできない多くの悲劇を経験してきました。

 私が小学校に入学した年には、由美子ちゃん事件という、6歳の少女が米兵に拉致され、嘉手納基地内で暴行された揚げ句に殺され、米軍のゴミ捨て場に捨てられるという痛ましい事件が起こりました。

 さらに小学校6年のときには、当時の石川市・宮森小学校に嘉手納基地の戦闘機が墜落しました。パイロットは脱出装置で逃げる一方、機体は学校に突っ込んで、児童を含む17名が死亡し、多数の負傷者を出しました。

 高校の入学の前には、青信号のときに横断歩道を渡っていた中学生の国場(こくば)君、いまでも名前を忘れることはできません。その国場君が、米兵の車両にひき殺されながら、犯人の米兵は軍法会議で無罪になり、何のとがめも受けずに、本国に帰りました。大学に入学したら、ベトナム戦争に出撃のために飛び立ったB52爆撃機が嘉手納基地の滑走路の端に墜落をいたしました。

 米軍による直接占領下、事件、事故は繰り返され、県民は虫けらのように扱われてきました。総理、普天間基地だけが例外的に無法に取り上げられて基地を形成したわけではないんです。こういうやり方で沖縄全体の米軍基地がつくり上げられてきた、こういう事件が繰り返されてきた、そして、県民は共通の、忘れられない悲劇をいま胸に秘めながら、基地問題を考えている。このことについて総理はどのように認識されますか。

 首相 いま、赤嶺委員から、切々としたこの沖縄県民の思い、あまりにも多くの悲劇がその米軍の基地によって起きてしまっているという現実のお話をうかがいました。赤嶺委員のみならず、沖縄の多くの県民のみなさま方が感じておられることだと、そのように思っております。

 したがって、このようなことが決して繰り返されないような状況をつくっていかなければならない。一方で、日本もいわゆる安全保障という立場、状況を踏まえて考えたときに、米軍の存在というものを現在必要としているという状況のなかで、どのような解決策があるかということを、知恵を絞らなければならないことはいうまでもありませんが、そういうなかで、いま赤嶺委員からお話があった、さまざまな悲劇が繰り返されないような、そんな環境をできるかぎりつくりあげていくのが政府の使命だと、そのように考えております。

米国の施政下、軍事優先の無権利状態に
 赤嶺 米軍は圧政下のもと、当時の小学生、中学生に、米軍の統治、民政がいかに県民に役立つものであるかと(宣伝していました)。(米軍が出していた雑誌、『守礼の光』を掲げながら)このなかにはですね、「極東の平和と安全保障を考えるのであれば、沖縄県民は日本に復帰することなど考えてはいけない」、このように書いてあるんですよ。こういう雑誌によって、祖国に帰ることさえ安全保障の名前で、われわれは押さえつけられてきたんです。

 そして1972年、沖縄県が祖国に復帰をいたしました。祖国復帰にかけた県民の思いはどういうものであったか。

 きょう私は、当時学生(旧東京教育大学)時代に私自身が使っていたパスポートを持ってまいりました。資料としてお手元に配布しております。このパスポートの中にですね、「琉球住民赤嶺政賢は、日本へ旅行するものであることを証明する」「琉球列島高等弁務官」、このように書いております。私が大学の授業が始まって、本土に戻ってきたときには、「日本国への帰国を証する」。日本国への帰国だったんです。故郷の沖縄から東京へ戻るときは。東京から故郷へ戻るときは「日本国からの出国を証する」。つまり沖縄は外国だったんですね。米国の施政下にありますから。

 この私にパスポートを発行した琉球列島高等弁務官というのはどういう立場の人かといいますと、琉球列島米国民政府の最高責任者で絶大な権力をもって県民に君臨をしておりました。当時、琉球立法院という、県議会のような議会がありました。定例日の開会日にだけ正面玄関が開くんです。何のためか。この高等弁務官が沖縄県民にメッセージを送るために。そして沖縄県民から選ばれた琉球立法院の議員は高等弁務官のメッセージを聞かなければいけない。

 その神聖な県民の代表である立法院で、米軍の高等弁務官のメッセージという行動をやめさせるために、沖縄県民は激しいたたかいをやりました。「県民の上に君臨するな」というたたかいでありました。すべては軍事が優先されていたんです。高等弁務官は現役の軍人であり、アメリカ本国の国防総省から任命されていたんです。だから県民は軍事優先の無権利状態でした。

復帰しても基地の現実は変わらなかった
 赤嶺 平和憲法がある日本に復帰を果たしたら、当然米軍基地はなくなる、少なくとも米軍基地は縮小される、このように思っていました。ところが、基地の島、沖縄の現実は何も変わらなかったわけです。憲法の上に安保があったからです。ですから、あの米軍の直接占領下に起きたようなことがいまでも繰り返されている。

 95年に、総理もよくご存じの、米軍による少女暴行事件が起きました。そのときに沖縄県民はあの由美子ちゃん事件を思い出していたんです。04年に沖縄国際大学にヘリが墜落しました。そのときに沖縄県民は宮森小学校への戦闘機墜落事件を思い起こしていました。

 こんな不条理なことが復帰後のいまでも繰り返されている。復帰のときに政府は沖縄県民に、「いまからは沖縄の米軍基地も安保条約のもとに置かれますから、日本の防衛のために使われるんですから、アメリカの勝手な基地の使い方は改善されると思います。当然、基地も整理・縮小します」といって、71年の沖縄国会では沖縄の基地の整理・縮小決議もあげたんです。そういう期待も持っていたんです。

 ところが日米安保優先の自公政権のもとで、県民の声は押しつぶされてまいりました。県民の声にこたえる政治ではありませんでした。政権は交代したんです。そして、政権が代わったいまだからこそ、政府の当初の約束どおり、米軍基地の縮小・撤去、ここに取り組むべきではありませんか。

 首相 いま、るる沖縄の県民の思い、歴史的な変遷、その中での米軍の基地の在り方のお話をしていただきました。そして、パスポートまで見せていただきました。日本に、本土に復帰をされた沖縄の県民のみなさまがたの思いを感じるときに、当然のことながら、米軍の存在の在り方というものを非常に真剣に考えなければいけないことは、いうまでもないことだと思っております。

 そしてその文脈の中で、いま普天間の移設先が求められているということも事実だと思っております。私はだからこそ、赤嶺議員のお話などにも耳を傾けさせていただいているところでございますが、沖縄の県民のみなさまがたの大変な今日までつらさ、思いというものを斟酌(しんしゃく)していく中で、将来的にどのような米軍の再編、日米安保の在り方というものを考えるという中で結論を見いだしていきたいと思っております。

 赤嶺 総理、私、県民の思いを歴史的にのべたつもりです。県民の思いを受け止める立場に立てば、沖縄の米軍基地問題は縮小・撤去に取り組むべきだと、そいういうことを申し上げたわけです。

 それで少し具体的にいまの問題について質問していきたいと思います。この鳩山内閣は辺野古に代わる新たな「移転」先を5月までにと検討しているわけですが、岡田外相は普天間基地の嘉手納基地への統合を検証対象にあげられました。外相は沖縄を訪問し、嘉手納町長や北谷町長や沖縄市長らとこの問題で会談をしてきましたが、地元の首長さんは何とおっしゃっていましたか。

 岡田克也外相 私は昨年11月と12月、2度沖縄を訪問いたしました。嘉手納飛行場、それから、嘉手納町の役所を訪問しまして、町長あるいは市長とお会いさせていただきました。2人の町長、沖縄市長がいわれたことは、騒音の問題の厳しさ、そういうなかで嘉手納への移転は、反対であるといわれたわけであります。

 私が申し上げたことは、今のような騒音、それをさらに増やすような解決策はないと。したがって、嘉手納統合ということであれば、今よりも騒音が減るような、つまり嘉手納の機能の一部をほかに移転するということとセットでないとそれは答えにならないと、申し上げたところであります。

嘉手納統合案―基地問題の本質を認識していない
 赤嶺 嘉手納の機能の一部をほかに「移転」して、負担の軽減の見通しはつくと、そういうお話が嘉手納町長からありましたか。

 外相 嘉手納統合の話というのは、当時、その可能性について検証を行ったところですが、いま、あらためて官房長官のもとで、検討委員会が設けられ、ゼロベースで議論しているところでありますので、あんまり嘉手納統合の話をここで詳しくのべるのは必ずしも適切でないと思います。ただ、嘉手納町長からは機能を移転するということは現実的でないと、そういう見通しを託されました。

 赤嶺 機能「移転」を考えるほうが、沖縄の米軍基地問題の本質を認識していないことのあらわれだと思うんですよ。嘉手納基地の訓練は「移転」しても、なお騒音は増えているわけです。

 嘉手納町長のお話ですと、嘉手納基地の周辺に広大な訓練空域があり、訓練海域があり、実弾の射爆撃場があると。使い勝手の良い米軍基地のインフラがこれだけ整っているところで、一部訓練を「移転」しても、空いてるなら使わせてくれといってどんどんやってくると。こんな使い勝手のいい米軍基地で、一部の訓練機能を「移転」したからといって、負担が減るわけがないと、こうおっしゃっていたんですよ。

次の号へ続く


 


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