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原子力と人間 湯川秀樹博士の詩を読む

2011年05月10日 15時29分23秒 | 徒然なるままに
湯川秀樹博士という日本で最初にノーベル賞をうけた科学者は、日本人ならほとんどの人がご存知だろう。
1949年、少年少女向け雑誌「少年少女の広場」に発表された湯川博士の詩を紹介します。
1945年夏、日本に原爆が落とされています。
少し長いですが、最後まで読んでいただきたいと思います。「巨大な原子力」を手に入れた人間は、この詩が書かれた後、どのように生きてきたのかを振り返ってみるために。

 原子と人間   湯川秀樹

人間はまだこの世に生まれてなかった
アミーバもまだ 見えなかった
原子は しかし すでに そこに あった
スイソ原子も あったし
ウラン原子も あった
原子は いつ できたのか
どこで どうして できたのか
だれも 知らない
とにかく そこには 原子が あった

原子は たえず 動きまわっていた
ながい ながい 時間が 経過していった
スイソ原子と サンソ原子が ぶつかって 水が できた
岩が できた
土が できた
原子が たくさん 集まって ふくざつな 分子が できた
いつのまにか アミーバが 動きだした
しまいには 人間さえも 生まれてきた
原子は その間も たえず 活動していた
水のなかでも 土のなかでも
アミーバのなかでも
そして 人間の からだのなかでも
人間はしかし まだ 原子を知らなかった
人間の目には 見えなかったからである

また ながい時間が 経過した
人間は ゆっくり ゆっくりと 未開時代から 脱却しつつあった
はっきりとした「思想」を持つ人々が あらわれてきた
ある 少数の天才あたまのなかに「原子」のすがたがうかんだ
人間が 原子について 想像を たくましくした時代が あった
人々が 錬金術に うき身を やつす時代もあった
そうこうするうちに また 二千年に近い歳月が ながれた
「科学者」と よばれる人たちが つぎつぎと 登場してきた
原子の姿が きゅうに はっきりしてきた
それが どんなに ちいさなものであるか
それが どんなに はやく 動きまわっているか
どれだけ ちがった顔の原子が あるか
科学者の答えは だんだん細かくなってきた
かれらは しだいに 自信をましていった
かれらは 断言した
「錬金術は 痴人のゆめだ
原子は永遠に その姿を かえないものだ
そして それは 分割できないものだ」

やがて十九世紀も おわろうとしていた
このとき科学者は あやまりに 気づいた
ウラン原子が じょじょに こわれつつ あることを 知ったのだ
人間のいなかった昔から すこしずつ こわれつづけていたのだ
壊れたウランから ラジウムができたのだ
崩壊の 最後の残骸が ナマリとなって堆積しているのだ
原子はさらに 分割できる事を知ったのだ
電子と 原子核に再分割できるのだ

やがて 二十世紀が おとずれた
科学者はなんども 驚かねばならなかった
なんども反省せねばならなかった
原子の ほんとうの姿は 人間の心に描かれていたのとは すっかり 違っていた
科学者の努力は しかしむだではなかった
「原子とは何か」という問に こんどこそまちがいのない答ができるようになった
「原子核は さらに 分割できるか
それが 人間の力で できるか」
これが 残された問題であった
この最後の問に対する答は 何であったか
「然り」と 科学者が 答えるときが きた
実験室の かたすみで 原子核が 破壊されただけではなかった
ついに 原子バクダンがさくれつしたのだ
ついに 原子と人間とが 直面することになったのだ
巨大な原子力が 人間の手にはいったのだ
原子炉のなかでは あたらしい原子が たえずつくりだされていた
川の水で しじゅう冷やしていなければならないほど 多量の熱が 発生していた
人間が 近よれば すぐ死んでしまうほど多量の放射線が 発生していた
石炭の代わりに ウランを燃料とする発電所
もう すぐに それが できるであろう



湯川博士は、日本で最初に原子力委員会ができたとき委員として参加しています。しかし、当初から原子力を政治主導的に発電に利用する計画には批判的ですぐに辞めています。博士の後半生は平和運動に捧げられた。
この詩の最後の数行は、巨大な原子力というエネルギーを人間が制御できるであろうかという湯川博士の危惧を感じ取れるように思うのですが。



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