三流読書人

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ドングリ小屋住人 

「吉兆」やっぱり客にごみを食わせていた

2008年05月10日 09時36分11秒 | くらし
「高級」料亭「船場吉兆」は食べ残しを別の客に回していた問題で7日、会見し、本店、博多店、博多天神店、心斎橋店の料亭四店ですべて使い回しをしていたことが判明したという。
7日の会見では、女将の湯木佐知子社長、弁護士らが出席。「食べ残しを使い回した」と報道されたことに反発し、「食べ残しとはニュアンスが違う」と強調した。(『毎日新聞』5月9日付による)そうである。
「食べ残しとニュアンスが違う」とはどういうことか。その料理の代金は食べ残したからといって客に返したのか、客は払ったまま帰ったのか。払っていれば、食べようと食べまいとそれは客のものだろう。客は捨てたのだ。そのごみの始末は店側がするとしても、店が自分のところのものであるといえるのか。ゴミ箱をあさって食べ物を得る人がいると聞くが、それと同じことだろう。「吉兆」はごみを客に出したのだ。

気の毒なのは、創業者湯木貞一氏である。
あの花森安治(暮らしの手帖社主宰・故人)をして「湯木貞一という一人の人間の、その鋭い感覚と、それを生かし切る技術の深さを、ぼくはかねがね、あの〈星ヶ岡茶寮〉の北大路魯山人とならべて考えています。そして、魯山人はむしろ陶器に才を発揮したが、料理は、あるいは吉兆がまさっているとおもっている」(『吉兆味ばなし』暮らしの手帖版)とまで言わしめた湯木貞一。「吉兆」の名を次の世代などに渡すのではなかったのだ。

ともあれ、私には縁のない話ではある。私被害者ではない。
腹をたてることもないか。
世の中はグルメだなんだと食い物の談議がかまびすしいが、店の名前、店のつくり、料理の味、代金というものは全く統合性はないと考えておくことがよいことが改めてよくわかった。
フランスのタイヤ屋が勝手につけたランキングで一喜一憂するのもほんとにばかばかしい話である。気をつけた方がいい。

何が美味しいか、舌のみぞ知るである。