1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

ネオンとマエタテ

2015-07-01 23:34:06 | 雑談の記録
フェイスブックの「友達」がもうすぐ200人に達しようとしているけど、よっぽどでない限り自ら友達申請はしないということを基本姿勢としている。なんでかっていうと、そういうのは本当に面倒くさいと感じているからで、それはLINEについても言えることだ。スマホを買い換えたときなんか、こりゃ幸いと一度LINEをやめたのだけれど、多方面からの圧力に屈して現在はとりあえずアカウントを有しているといアンバイだ。

最近は「絆」とか「繫り」だとかを大事にしなければ一人前として認められないとかいう子供っぽい空気が漂っている窮屈な社会なので、こういったことは仕方のないことなのかもしれない。

知りたい情報はこちらから取りに行くし、時には知らぬ権利も行使したいと思っている。だから、諸々の情報に疎くなっている自分に対して、鬼の首を取った如くの勢いで最新情報をお節介して頂く必要など全くないのである。しかも、SNSを利用して。

他方、自分は「リア充」してる人々の情報に触れるのは結構好きなわけで、その「リア充」的要素が自分の信条及び思想に反していたとしても、時には「いいね」をしてしまうことがある。だって、その人なりの一生懸命には敬意を表したいし、自分と異なる考えがある時に新しいアイディアの発芽になったりするからだ。いい人ぶって大変申し訳ないがそう思ってしまうのである。

最近、国会やメディア及びFBのフィードは、「安保法案」でかまびすしい。特に、FBのフィードでは右翼的、左翼的な友人たちが双方にとって都合の良いニュースソースや情報をシェアする形で論陣を張っている。
自分は、どっちもどっちだなと思ってしまう。どっちも偏り過ぎていて共感することはできないし、双方の侮蔑の感情を露わにした或いは内包した言論に触れると、どうしようもないモヤモヤ感が湧き上がってくるとと同時に、双方に理解が生まれことはこの先ないのではないかと思ってしまうのである。なんでかって言うと、極端な人にとっての幸せは、対極成分の排除に他ならないからだ。
そして、自分が怖いなと思うのは、こうした極端な人たちの言説によっていつの間にか大多数の人達がそのどちらかの色に染まっていくかもしれないといことなのだ。加えて、本当に極端な人達は狡猾だったりするからなおさら注意が必要なのだ。

十人十色と言われるように、10人いれば10の考え方があっておかしくはないし、むしろ、それが普通と心得るべきだと思う。そして、我々人間の思考回路というものは、外的・内的環境に大きく依存して形成されるため、そこに地域性や帰属性あるいは時代性と言った違いが生じるのは仕方のないことだと思う。だからと言って、その地域性・帰属性・時代性によって異なる信条や価値観を宿した人々を侮蔑・排除して良いわけがないだろう。一方、我々は感情の動物であるが故に、いったん出来上がった思考回路に支配された「好き」「嫌い」を仕様変更することは極めて困難であることも忘れてはならない。

この相反する心的事象はその昔の時代からあったに違いないはずで、これに折り合いをつけるための手段として先達が編み出した良策が「Honne to Tatemae」だったのではないだろうか。

「本音と建前」である。

そして、この使い分けに苦渋するそんな姿こそが良識ある「大人」の証ではなかったのだろうか。昨今を翻って、果たして「本音と建前」をキチンと使い分けしている人々はどれだけいるだろうか。本音ガチ丸出しの芸人及び政治家、言論人に鑑みると、「子供っぽさ」あるいは「若さ」といったものが時代の要請なのではなかろうかといった錯覚に陥りそうになる。

ところでお前はどうなんだと問われれば言葉に窮する始末である。
しかし、よくよく考えてみると「大人」とは到底言えない15年程前の30歳前後まで、私は「本音と建前」なるものを然したる理由もなく嫌悪していたように思う。いや、嫌悪することが正義でそれが出来る人間がイケてるタイプと勘違いしていたような気がしないでもない。今思えば、周囲を傷つけながら反省もないという極めて尖った人間だったかもしれない。それでズイブン損をしたように思う。
最近、団塊世代以上の先輩諸氏に「変わったねぇ」「丸くなったねぇ」とよく言われるが、「てめぇ、オレの何を知っててそんなこと言ってんだコノヤロォ、てめぇが鈍くなったんじゃね」のような返答は一切しないよう心掛けている。酒の席でさえ異なる意見に対し「おっしゃることを理解するのにはまだまだ勉強不足のようです」と必死に切り返している。うん、ある意味ホントに丸くなったのかもしれない。

ただ、それよりさかのぼること15年程前の思春期時代はどうだったかと言えば、漠然と「大人」に憧れていたように思う。このことは、以前、このバカブログでも何度か触れたことのように思うのだけれど、その憧れの対象となっていたのが、「金妻シリーズ」に出ていた古谷一行だ。そして、「不倫」が市民権を得るに至ったそのドラマで、古谷は当時40歳前後だった。ドラマの内容はともかく、当時の私はそのドラマを見ながら思ったものだ。
「40男、かくあるべし!」
そして月日が過ぎた。いつの間にかその古谷の年代も既に過去のものとなっているではないか!。ここでハッと気がつくことがある。
今の自分と比べて、当時の古谷のほうがよっぽど「大人」びていると感じる。これに気がつくと「太陽にほえろ!」の七曲署の当時の主要メンバーと現在の自分の関係が気になりだすのだが、答えは、ほぼ同年代!若しくは年下!。殉職時のゴリさんにいたっては40歳の若さなのだ!
ゴリさんの持つ大人感!あの信頼感や強さが自分には備わっているだろうか。

自分には、全くもってこの大人感が欠如しているではないか!。微塵も無い。かと言って、昨今の40過ぎのジャニーズグループのような若さ感もない。そもそも、自分がゴリさんのような大人感を保有していたら、このようなバカブログはやっていないはずだ。今日の難事は今宵の酒とともに遺却するのが本当の大人の姿というものなのである。

ここで、現代の大人を探すとしよう。
やはり思い浮かぶのはキングカズとイチローだ。スポーツ選手ではあるが、その二人に共通するのは、いつまでも自身の技術を磨こうとする職人気質だ。いつの時点でかわからないが、彼らの顔は「大人」に変容した。
彼らが「本音と建前」を上手に使い分ける大人かどうかは別にして、「好き」「嫌い」に依拠した争いや「言った」「言わない」の揉め事を彼らが上手く治めてくれるような気がするのは自分だけであろうか。

子供の争いを止めるのは大人の役目である。

レッドデータブックには今のところ「大人」についての記載は無いようであるが、絶滅に瀕しているのは間違いない。

無用な争いを止めるためにも、この世から「大人」を消してはならない。













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