1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

『三玉山霊仙寺を巡る冒険』23. 奇花奇草喬木を求めて

2022-10-27 21:13:00 | 三玉山霊仙寺の記録

【奇花奇草喬木を求めて】
懲りずに、また、週末を利用して山鹿に行った。
先ずは区長さんを探さなければならない。不動岩近くで車を流し、広い庭先にいた年配の女性を見つけて声をかけた。すると、その女性は、区長さんであれば、今、姿を見たばかりだよと言いながらこちらに向かって歩いてきた。そして、女性が道にでてくると、道の左手の方から年配の男性が歩いてきた。福原集落の区長さんだった。聞けば、その看板については詳しく知らないとのことで、かわりに、蒲生集落の区長さんの自宅を教えてくれた。

次は、蒲生集落の区長さんのご自宅に伺うと、娘さんに裏の離れの方に案内された。そこでは、一家総出で、倉庫か何かの補修作業をやっている様子で、区長さんは梯子の上にいて、まさに手が離せない状況であった。
区長さんの眼光は鋭く、まずい時にきてしまったと思った。しかし、このまま帰ってしまえば、本当に不審者扱いされるかもしれいと思った私は、大きな声で用件を伝えた。
すると、区長さんも負けず劣らずの大きな声で、

「そのことだったら、市役所の社会教育課!社会教育課!」
「わかりました!社会教育課ですね!ありがとうございました!」

マスク越しでの大声なので、一発でメガネが曇ってしまった。
今度は、こもれび図書館に向かった。また、Kさんを頼るしかなかった。しかし、図書館のある交流センターに着くと、市外在住者は入館お断りとなっていた。私はそれを図書館の入口までと拡大解釈して、自動ドアを抜けて階段を登った。図書館の入口に、Kさんが検温と入館受付の係としてテーブルの向こう側に腰掛けていた。

Kさんはいつものように、優しく対応してくれた。わざわざ席を外して、階段側に出てきてくれて、私の用件を聞いてくれたのだった。その間も、幾人もの図書館利用者が出入りをしており、そちらの対応をもしながら私の相手をしてくれた。私は手元に持っていた看板の写真をKさんに渡して、図書館を辞したのだった。

数日後、Kさんから連絡が入った。教育委員会の社会教育課に問い合わせたところ、確かにそれは本課が作成したものであるが、説明文については、ある文献資料を引用したのだそうだ。

その資料とは、山鹿市が主催した第十三回山鹿市文化歴史講演会の講演録で、タイトルは『菊池川流域の自然「驚き」「感動」そして「ふしぎ」「なぜ」』であった。発行は平成三十一年三月であった。
その資料は、後に(株)九州文化財研究所のHさんから提供をうけることになるのだが、その冊子の第三節に「不動岩下の金毘羅さんの周りの木々は暖かい海辺の植物、なぜここに?」との表題があり、その「なぞ」解きに挑んだ話しが講演録としてあったのだ。

そのなぞ解きに挑んだのは、山鹿市鹿本町出身で京都大学大学院理学部助教授、近畿大学教授を歴任したT先生で、専門は地質学及び鉱物学だった。T先生とは面識はなかったが、これまで山鹿や菊池地域についての様々な資料を当たるなかで、よく名前を目にしていた。また、T先生は、NPO法人菊池川自然塾を主宰しており、地域の自然資源を活用しながら、菊池川流域の自然の素晴らしさを、子どもたちに伝える活動に尽力されていた。そして、前出の(株)九州文化財研究所の顧問も務められていた。

そのT先生がそのなぞ解きに挑んだ発端は、在野の植物研究家の別のT さんからの質問だったのだ。実は、金毘羅神社付近に生息している、あたたかい海岸などでみられる七種類の植物の発見者は、植物研究家のTさんだったのだ。

元近畿大学のT先生の講演は、言わば、その植物研究家のTさんの質問に答えるためのものだった。T先生の考察を簡単に紹介すれば以下のようになる。

古阿蘇火山は、今から27万年前から9万年の間に4回の大爆発を伴った火山活動がある。3回目と4回目のおよそ12万年から9万年までの間は、最終間氷期と呼ばれる非常に温暖な時期があり、海水表面が100mほど上昇した時代がある。不動岩周辺には、その時に堆積したことを示す地層はないが、この時期に暖かい海岸近くに繁茂する植物が根づき、その後の4回目の火砕流からは日の岡山が壁になって守られ、また、不動岩付近では冬季の気温の逆転層があり、これによって生き延びたと考えられる。

そうかもしれない。しかし、まだ考える余地は残っているように思えた。そもそも、先ず、私が知りたかったのは、この七種類が生き残ったことではなく、この七種類であることの意味だったのだ。なぜ、それにこだわるのかというと、「組合せ」でものを考えると、別の違った姿が見えてくることが往々にしてあるからだ。この七種類は、何かの組合せを表しているかもしれないと考えていたのだ。

残念ながら、この植物を発見した植物研究家のTさんは、高齢でご闘病中とのことだった。
自分で調べるしかなかった。
結論から言うと、その七種類は全て「薬草」だった。「薬用植物」とも言う。

例えば、バクチノキの葉には青酸を含む杏仁水(バクチ水)が含まれ、咳止めや鎮痛剤として使われるそうだ。そして、この7種類のうち4種類は、熊本大学薬学部の薬草園データベースに載っており、ということは、薬草として、ある程度メジャーな部類に入るのではないだろうか。

アイラトビカズラのことを思い出した。山鹿市菊鹿町には、国指定の天然記念物になっているアイラトビカズラが自生していて、千年以上前に中国の揚子江流域から渡来したとされている。しかも、薬草だ。

景行天皇の侍臣達が目にした「奇花奇草喬木」は、「薬用植物」で、この地で何万年も生き延びたのではなく、人によってもたらされた、外来の植物ではないだろうか。
人々は健康を一番に願う生き物である。弥生時代若しくは縄文時代後期、渡来人が持ち込んだものは稲や銅、鉄だけではなく、有用な植物、つまり薬草も、当然、持ち込んだことが考えられる。そして、時代とともに人々の往来が増えゆき、その種類も次第に増していったのではないだろうか。こんなことは、既に明らかにされていることなのかもしれない。

金毘羅神社が不動岩の麓にあるのは、そのことを言い伝えとして知っていた古の人々が、海を渡ってきた人々にあやかり、畏敬の念を抱いて、この神社を創建したのではないだろうか。
ともすれば、現代に生きる私たちは、自分達が持っている知識が最も進んだものと考えがちになるが、いにしえの人々の気持ちや知恵に思いを馳せることは、物事を理解する上で、とても大事なことだということを学んだ気がした。

金毘羅神社のバクチノキ


金毘羅神社のフウトウカズラ

《参考文献》
薬用植物総合情報データベース『http://mpdb.nibiohn.go.jp/』
熊本大学薬学部薬草園データベース『https://www.pharm.kumamoto-u.ac.jp/yakusodb/』
山鹿市教育委員会社会教育課『菊池川流域の自然「驚き」「感動」そして「不思議」「なぜ」』新山鹿双書13 第十三回 山鹿市文化歴史講演会 講演録 平成31年

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