ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

ガラスの道、小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より

2012年07月20日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より

ガラスの道
小林稔


 粉粉に打ち砕かれ 散乱したガラスの舗道を、素足で歩い

ている。うつむく額に 朝の光が射して、利之は人ひとりい

ないビルディングの谷間をひたすら歩いた。

 羽撃(はばた)きの音が足元で発ち上がった。鳩が飛び立

ったのか、と顔を起こして見たが 思い違いで、記憶を何か

がよぎっていったのだ。踏みしめるガラスの音と 血の破線

だけが、彼の証であるかのようだ。とりわけ悲惨を育ててい

るわけではない。汚れていない画布を水で洗うように、群れ

から離れたこの子羊は、歩いていると 頭の中が透けてくる

ような気がするのだ。

「今日は、ぼくは十四歳になったんだ。希望なんていったっ

てさ、ぼくには力がないから」

 そんな思いに気を取られていたら、左足の踵に挟まったガ

ラスの板が 舗道を滑って、利之は転んだ。ガラスの割れる

音が周囲に響くと、利之の耳元にも共鳴した。

だから、やなんだ。もう考えるのはよそう」

 膝小僧を抱えていたが、力が抜けて、静かに両腕を伸ばし

指は耳元で広げられた。利之の体の輪郭が、朝の光で消えて

いきそうな気配。

「時間だ。時間が来たんだ。時間がぼくを追いかけている」

 靴音がいくつもやって来て、舗道に光るガラスの破片を震

わせている。よろけるようにして立つと、ガラスが背中から

胸に突き刺さっていた。傷みは微塵もない。肩をすぼめては

足跡の真ん中に 滴り落ちる血の破線を引きながら歩いた。

 ガラスのかけらが 風に揺すられ 触れて鳴っている。

 なんという静けさだろう。どうしたことか、舗道に姿を見

せていた人と自動車が、石膏の模型になっていた。

 どこまでも続くガラスの散らばった道の向こうから、フラ

ッシュの洪水が迫った。

 やさしいソプラノのアリアが降ってくる超高層四十七階の

窓窓。四つ角のポリバケツから溢れた残飯。廃品回収の罎。

公衆トイレの便器。風俗営業の看板。踏まれ 舗道にこびり

ついた新聞紙。物たちの眼差しが、静かな動きを止めた彼に

狙(ねら)いを定めていた。



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「パイドロスにおけるエロース論」小林稔個人季刊誌「ヒーメロス」16号2011年3月25日発行から

2012年07月20日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの
長期連載エセー『「自己への配慮」と詩人論』(九)
「パイドロスにおけるエロース論」(後編)その三

ものを書くという条件
『パイドロス』の最終部では、ものを書くことへの考察にあてられている。ソクラテスとパイドロスの対話に耳を傾けてみよう。弁論術と「言論の技術」を考察するまえに、ソクラテスは、「文を書くこと自体は、何も恥ずべきことではない」(259D)と、すでに述べていた。問題は「恥ずべき卑劣な仕方で話したり書いたりすること」なのである。そのように前置きした後に弁論術の考察に入ったのであった。ここにおいては話すことと書くことの明確な区別はなかったが、弁論術を論じることで話すことを考察したのである。さて「言論の技術」を論議した後に、ソクラテスは「ものを書くことについて、それが妥当なことであるとか、妥当なことではないとかいった問題、すなわち、ものを書くということはどのような条件のもとにおいて立派なことだといえるか」(274B)を考察しようとする。ここには現代思想が私たちに提出するようになって久しい問題と通じるものがあると思うのだが、先を急がずにテキストを読み解いていこう。
 ソクラテスの聞いた話として、エジプトの古い神テウトを取り上げている。この神にはイビスという聖鳥が仕えていたが特筆すべきは文字の発明である。当時のエジプトの最高神はタムゥスと呼ばれ、エジプトを君臨していた。訳注によれば、テウトはヘルメス、タムゥスはゼウスとギリシアでは同一視されていたという。テウトはタムゥスに向かって、文字を学べば知恵はたかまり、もの覚えは良くなるでしょう」とのべたのであったが、タムゥスは次のように述べたといわれる。「人々がこの文字というものを学ぶと、記憶力の訓練がなおざりにされるため、その人たちの魂の中には、忘れっぽい性質が植えつけられることだろう」。「書いたものを信頼して、ものを思い出すのに、自分以外のものに彫りつけられたしるしによって外から思い出すようになり、自分で自分の力によって内から思い出すことをしないようになるからである」。「彼らはあなたのおかげで、親しく教えを受けなくても物知りになるため、多くの場合ほんとうは何も知らないでいながら、見かけだけはひじょうな博識家であると思われるようになるだろう」と、タムゥスは否定的な意見を述べたのである。彼はタウトにいう、技術を生み出す人(タウトのような人)と、その技術を使う人(私たち)にいかなる害と益をもたらすかを判断する力を持った人とは別の者なのだと。脇道にそれるが、科学技術を駆使し、さまざまな製品を作り出す才能と、それを便利なものとして使用する私たちの無能、さらに科学者の倫理観の問題、また情報化社会における思考能力の軽視の問題に通じるものを示唆していると私には思われるのである。
 先述したタムゥスの語る言葉に、「あなたが発明したのは、記憶の秘訣ではなく、想起の秘訣なのだ」という言葉をソクラテスは忍ばせている。文字の中に技術を書き残したと思い込んでいる人、また書かれたものの中から確実なものをつかみ出すことができると信じている人を、ソクラテスは「たいへんなお人よし」と嘲笑する。なぜなら、「書かれた言葉というものが、書物にあつかわれる事柄について知識をもっている人にそれを思い出させるという役割以上に、もっと何か多くのことをなしうると思っているからだ」(275D)という。つまり書かれた言葉はそれを理解すべき人であろうとそうでない人であろうと届けられてしまうことが問題だというのである。しかし別種の言葉というものがある。それは「学ぶ人の魂の中に知識とともに書き込まれる言葉、自分を守るだけの力をもち、他方、語るべき人々には語り、黙すべき人々には口をつぐむすべを知っているような言葉」(276)であり、「ひとがふさわしい魂を相手に得て、哲学的問答法の技術を用いながら、その魂の中に言葉を知識とともにまいて植えつける」ような言葉であり、「その言葉というのは、自分自身のみならず、これを植えつけた人をもたすけるだけの力をもった言葉」であり、「一つの種子を含んでいて、その種子からは、また新たなる言葉が新たなる心の中に生まれ、かくてつねにそのいのちを不滅のままに保つことができるのだ」とソクラテスは語った。
 ものを書くということを、ソクラテスは作物の種を蒔き育て実を結ばせる行為に喩えて語り、「言葉の中に楽しみを見出すという慰みのためにそうするのだと主張する。先述したように、語るべき相手に言葉を撒種し、新たな言葉が相手の心に生まれ、いのちを引き継いでいくのを見ることを幸福と感じることを慰みとすることである。それを可能にする技術こそがソクラテスのいう哲学的問答法である。
 
 ものを知っている人々に想起の弁をはかるという役目を果すだけのものであると考える人、――そして他方、正しきもの、美しきもの、書きものについての教えの言葉、学びのために語られる言葉、魂の中にほんとうの意味で書きこまれる言葉、ただそういう言葉の中にみ、明瞭で、安全で、真剣な熱意に値するものがあると考える人、――そしてそのような言葉が、まず第一に、自分自身の中に見出され内在する場合、つぎに、何かそれの子供とも兄弟ともいえるような言葉が、その血筋にそむかぬ仕方でほかの人々の魂にの中に生まれた場合、こういう言葉をこそ、いわば自分の生み出した正嫡の子とも呼ぶべきものであると考えて、それ以外の言葉にかかずらうのをやめる人、――このような人こそは、おそらく、パイドロスよ、ぼくも君も、ともにそうなりたいと祈るであろうような人なのだ。(『パイドロス』278A~B)

 右のように語られた後に、『パイドロス』の最終章「六四」では、ソクラテスによって、書くことを否定的に捉える言葉が述べられることになる。「詩人」や「作文家」や「法律起草家」などの名で呼ばれるに相応しい人こそは、(作品以上に価値あるものを自己の中にもっていない人」であると。リュシアスのように、弁論家であり「文筆弁論家」である人たち、詩を作る人たち、法律についての書きものをする人たちは、真実がいかにあるべきかを知り、自分の書きものを訊問されたとき正しく答えられ、書かれたものは価値の少ないものだと、自分が実際に語る言葉そのものによって証明する力をもった人であるなら、「詩人」や「作文家」や「法律起草家」というような肩書きで呼んではならない、彼らには「愛知者」(哲学者)と呼ぶにふさわしいとソクラテスは語るのである。

 真実の永続的な機能
 『パイドロス』に散見する「書かれた言葉」に対する否定的見解から、現代哲学者で「脱構築」で知られるデリダは「話す言葉」の優位を主張したと、藤沢令夫氏は『哲学の課題』で述べている。「デリダは、プラトンが『パイドロス』のなかで、書かれた言葉がもたざるをえない限界を指摘して、文字言語を万能視することを戒めている箇所を、鬼の首でも取ったように何度も引き合いに出している。しかし「書くこと」(文字言語)自体の軽視と、それに対する「話す」(音声言語)一般の優先視を読みとるということ」はまったくの誤解であり、話された言葉が書かれた言葉の限界と欠陥を免れているとは一言もいっていないと主張する。プラトンにおいては、口で語られる言葉は文字で書かれる言葉と同等であると明言されていると指摘する。
 ミシェル・フーコーも同様の見解を『自己と他者の統治』で述べている。ソクラテスによって即興的に語られた二番目の言説に対して、リュシアスの言説より優れているのは、「代筆弁論家」であるリュシアスが書いた言説だからであるとするパイドロスをソクラテスはきっぱりと否定したのであり、「ソクラテスによれば、言説を書くということのうちに、それ自体で卑しいものは何もなく、物事が卑しくなり始めるのは、書くにせよ口で語るにせよ、良い仕方で語らず、悪い仕方で語るときだ」(『パイドロス』258D「自己と他者の統治」からの翻訳)を引用して、書かれた言葉と話された言葉を同列に置いていると指摘する。デリダによって誤解を生んだのは、おそらくソクラテスが重要視する、哲学的問答法(パロール)にあるのではないかと私には思われる。

 ミシェル・フーコーは先に取り上げた書物で、ソクラテスによって語られた、エロースに関するミュートス
である二番目の話の先に展開する問題とは、「言語の技芸という問題、そしてロゴス(言語)に対する本当のテクネー(技術)という問題についての直接的な考察」であると指摘する。第一に、「それは弁論術なのか、それとも弁論術以外のものなのか」、第二に、書くこと(エクリチュール)は、言説のテクネーのうちに位置づけられるべきなのか」という問題を提示しているとフーコーはいう。しばらくフーコーの『パイドロス』読解に耳を傾けてみよう。先述したように、書かれたものと口で言われたものに区別を設けず、良い仕方であるか悪い仕方であるかをソクラテスは問題にした。ある言説が(書きものであれ、語られるものであれ)、真実を知っているかどうかで決定されるというパイドロスの主張に対して、ソクラテスはきっぱりと否定する。つまり、語るまえから知ることだけで真実が示されるのであるなら、その人の言説は「言説の良き実践にとっての前提条件ではない」、なぜなら「もし言説よりまえに真実が与えられているのだとすれば、弁論術は、言語にとっての一連の飾りや変容、一連の組み立てやゲームであり、それによって本当のことが忘れられ、消去され、隠され、とりのぞかれてしまうようなもの」であるからである。つまり、「言説が真実であるためには、真実の認識が語ろうとする人にあらかじめ与えられていてはならない」とフーコーは解釈した。それでは、真実の把握を弁論術に要求するソクラテスの言説と矛盾しないのだろうか。
 フーコーは『パイドロス』の引用されたスパルタ人の箴言を取り上げ、「言説、つまり、言葉(パロール)についてのetumosな技芸(自らの技術によって扱う存在にもっとも近いような技芸)、正真正銘の技芸が本当の技芸となるのは、真実が言説にとっての永続的な機能となるという条件においてのみ」であると説く。それではどのようにして必然的で永続的な関係は保証されるのか。ソクラテスは、真実は精神的前提条件ではなく、「言説があらゆる瞬間に関係を取り結ぶものでなければならず、「議論のある一部分の全体を通じてそれは中刷りのままにされるのであり、」「宙吊りにされた部分を後で改めて取り上げ、配置し直すことになる」(フーコー)と考えているのだという。説得することを目標とする弁論術は、言論による魂の教導という範疇における一つに過ぎないので、ソクラテスは弁論術を超えて、魂の教導全般について語ろうとするのであった。
 魂の誘導は哲学的問答法(ディアレクティケー)によって実践されることになるだろう。ここには知という二重の必要性があるとフーコーは指摘する。しかしそれは、「語る側の必要性と語りかける相手に応じた必要性ではない(、、)よう(、、)な(、)もの(、、)として理解しなければならない、なぜなら、「魂が〈真実在〉の認識へと接近し得るのは魂の運動によってであり、また魂が自らを認識し、自らの本質――すなわち、〈真実在〉そのものと近親性があるものー―を認知するのは、存在するものの認識においてだからである」とフーコーはいう。
 この理解することに困難を要する真実への考え方は、『パイドロス』におけるソクラテスの語る二番目の話の助けによって容易に捉えることができる。イデア界を上昇しようとするエロースを讃美する本当の愛についての言説は、「真理への接近と、魂のそれ自身に対する関係とのあいだにある結びつきをあらかじめ示していた」とフーコーはいう。〈真実在〉そのものとの関係を持つべく対話術の道を進む者は、自分自身の魂に対して、あるいはー―愛によってー―他者の魂に対して、あるひとつの関係を持つことを避けられないのであり、その関係とは、その魂がそれを通じて変化を被り、真実に接近することが可能となるような関係なのだ」とフーコーは述べるのである。ここにおいて『パイドロス』における二つの主題(あるいは三つの主題)、本当の愛(エロース)をイデアに導いた「恋」と、弁論術を乗り越えた先の真実の言説についての考察が見事に結ばれるのである。つまり、「ロゴスの哲学的なテクネー(技術)は、真実についての認識と、魂の自分自身に対する実践ないし修練を同時に可能にするようなテクネー」であるとフーコーはいう。
 弁論術ではいかに相手を説得させるかにのみ関心が注がれた。それは「聞く者の魂に生じさせる効果だけを留意している」ことになる。それに対して、哲学的な言説は、語りかける相手の魂だけでなく、語る者の魂に働きかける効果と切り離すことができないものである、魂の教導とはまさしくそれであるとフーコーはいう。
 真実の認識と、魂についての実践、哲学的問答法と魂の教導は一体化される。弁論術には「言説の技術」が存在せず、真正な技術(etumos tekhné)は哲学にあることが明かされたのである。本当の哲学者とは哲学的問
答(対話術)を行使する人であり、真のパレーシアストであるとフーコーは結語する。

 フーコーの講義録『自己と他者の統治』の末尾に載せられたフレデリック・グロの「講義の位置づけ」によ
ると、プラトンの「ロゴス中心主義」を批判するデリダに応答するフーコーの見解が見られるという。プラトンに見出されるものは、「エクリチュールの拒否」ではなく、書かれたものであろうと口頭によるものであろうと、「ロゴスの総体から価値剥奪するような、自己の自己に対する黙した営み」(グロ)である。両者の分割線は、「弁論術的な言説の書かれているという存在様態と、哲学的な言説の自己修練的な存在様態」(フーコー)のあいだにあるとグロは述べる。プラトンの第七書簡からうかがい知れるように、プラトンの考える哲学の営みとは、言説に終わらず実践や試練に身をさらし、権力に向かい合う中で見出されるものであろうとグロは指摘する。(プラトンのパレーシアステース的考察は、このエセー『自己への配慮と詩人像』で次回、論じることにする。)

エクリチュールという問題
藤沢令夫氏は『プラトンの哲学』の序論で、二千数百年にわたって熱心なプラトニストと反プラトニストがいて、さまざまな解釈と評価がなされてきたが、その一つの要因はプラトンの著作が「対話篇」、つまりプラトン自身の考えは登場させずに叙述されたことにあるという。二十世紀に入って、プラトンを全体主義者として攻撃、あるいは弁護する論評があった。社会主義の預言者として解釈されたかと思えば、右翼的革命家、ファシズムの先駆者とみなされることもあった。しかし議論が皮相に流れてしまうのは、「その国家論と政治思想は今日のわれわれが「分野」として区別する認識論、形而上学、倫理学、文芸論などを貫通して深く根を張っている」からであると藤沢氏はいう。一方、哲学や文学においても右に列挙した分野と複雑に絡み合っているので根本的批判は困難であるように思われる。また、近世の「認識論中心の哲学」をギリシア哲学(とくにプラトン)からの連続と見なしている、つまり「ギリシア以来の哲学的伝統」を単純に総括してしまう風潮にあると藤沢氏は『哲学の課題』で述べている。そのような論者の一人にR・ローティを挙げた。詳しくは別の機会に論じることにするが、先述したデリダもその中に加えられる。彼らはハイデッカーのギリシア哲学解釈、ギリシア以来の西洋の哲学ないし形而上学の伝統の否定を鵜呑みにした論議であると藤沢氏は指摘する。ニーチェに始まるプラトン批判が現代思想を被いつくす状況の中で、ミシェル・フーコーが最晩年に古代ギリシアのテキストに辿りたことは勇気あることであり、大いに意義あることであると私は思う。
先述したデリダについて、井筒俊彦氏は『デリダのなかの「ユダヤ人」』(「井筒俊彦著作集9」収録)という論考で、プラトン以来のヨーロッパ哲学の長い歴史を「ロゴス中心主義」の上に立つ形而上学として規定して否定し、「解体」(déconstruction日本語訳では「脱構築」)しようとする。井筒氏は「ロゴスとは、永遠不変の超越的実在を意味」し、われわれの現象界の背後に超越して存在する形而上学的実在者を措定するものである。プラトンのイデア論は典型的な哲学的表現であり、その伝統は中世、近世を通じてヨーロッパ思想史を支配してきたという限りで「解体」は思惟のギリシア性の否定であると言える。しかしヨーロッパ文化にはヘブライズムもともに西洋文化の歴史を織りなしてきたのであり、「その生々しい具体性と継承性において『旧約聖書』の神、ヤハヴェの比ではない」と主張する。デリダは、「起源と系統とをまったく異にする二つの潮流、ギリシア的思考とユダヤ的思考」との「歴史的合流の所産」を「ロゴス現前の形而上学」(経験存在秩序の下で異次元の超越的実在を措定し、意識体験の事実として現在、今ここで直触できるもの)と把握し、それを否定し解体する。その結果、ものは現存せず「痕跡」だけを残すことになると考えている。井筒氏はデリダの徹底した「解体」の言語哲学と、東洋思想の古くから根底にある「空」、「無」の宗教哲学の接点を模索し、現代哲学の展望を「共時的東洋哲学」に構造化したのであった。
また、藤沢令夫氏によると、デリダの「ロゴス中心主義」は、「話される言葉」を「書かれる言葉」の上に優先させる「音声中心主義」と等置される。「ギリシア以来の西洋の哲学者たちは今日までつねに話し言葉を重視して書き言葉を軽視してきたというデリダの主張はありえないことであると藤沢氏はいう。そういった「ロゴス中心主義=音声中心主義」が文字言語特有のことと錯覚してきた意味と言語の間のずれ、差異と繰り延べ、記号としての痕跡性などは、話される音声言語にも確在しているのだと藤沢氏は主張するのである。
井筒氏は『書く』(「井筒俊彦著作集9」に収録)という論考で、「古来、ヨーロッパの思想の伝統では、言語に関しては、パロール(話される言葉)が第一義的、エクリチュールは第二義的とされてきた」が、デリダはそれの上位下位関係を逆転させる」、「それはアルファベットという表音文字の責任でもあるのだ」と指摘する。(この『自己への配慮と詩人像』の後半、詩人像においてさらに深く考察することになるであろう。)
フーコーは『自己と他者の統治』に収められた一九八三年三月二日講義の最後に、書くこと(エクリチュール)についての問いが残されているので、次回に話すと述べただけで講義に取り上げることはなかった。しかし講義原稿の最後の部分が存在し、翻訳書には掲載されている。それによると、リュシアスの言説の質の悪さは、それは書かれているということに関係がないとソクラテスは答えたのである。「ロゴスと書くことの間にはいかなる分割もないが、二つのロゴスのあり方の間には分割がある」。「一方は弁論術的なあり方と、他方には哲学的なあり方がある」。前者は「真実性に無関心であり、魂に対して追従という仕方でしか語りかけず」、後者は「真実性の真の姿と魂の実践に結びついており、魂の変容ということも含んでいる」というフーコーの記述があり、先述した彼の解釈とほぼ同様と判断してよい。
エクリチュールとは「書くこと」を意味するフランス語であるが、現代のロラン・バルトなどの記号学では文学的行為として、あるいは文化を読み解く手段として、その意味は大きく広がりを見せる。デリダにおいては行為にまで及ぶ。哲学においても言語論的考察はエクリチュール抜きには考えられないだろう。中国語や日本語のような表意文字の機能は、エクリチュールの概念を大きく変えるものになるかもしれないと井筒氏は指摘する。ともあれ、プラトンのテクストを深く読み解くことによって、デリダに代表されるプラトン哲学の偏向を把握し、詩学におけるエクリチュールの可能性を探っていくことが求められる。

(参考文献)『饗宴 パイドロス』(プラトン全集5)『ソクラテスの弁明 パイドン』(プラトン全集1)『ゴルギアス メノン』(プラトン全集9)『国家』(プラトン全集11)「プラトン『パイドロス』註解」藤沢令夫、『プラトンの哲学』藤沢令夫・以上、岩波書店、『自己と他者の統治』ミシェル・フーコー(筑摩書房)、『井筒俊彦著作集9』中央公論社



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鏡、小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より

2012年07月18日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より



小林稔



 肩から提げていた黒の縁取りの 白い布製のカバンを座敷

に放り投げたが、祐一はカバンを見つめて 少しとまどいを

感じた。

 母は台所にいる。俎(まないた)を打つ包丁の音がしてい

たが、急にとだえた。

「ゆうちゃん、帰ったの?」

 祐一は その言葉に引きずられ、半開きの扉の向こうで背

中を見せている母親を 盗み見した。友達と会う約束を破ろ

うとしている自分に苦笑しながら 階段を音立てて上がって

いった。

(ぼくはいつも一人で部屋にいるんだ。勉強なんかするわけ

でもないのに)

 唇を真一文字に結んでみたが すぐに眉がゆるんでしまう。

机の引き出しから鏡を取り出し、手のひらにのせた。顔を斜

めに構え、そっと鏡を覗いた。うしろめたい気持ちがした。

 伸びすぎた坊主頭のてっぺんは 寝癖がついて毛が立って

いる。そこを指で押した。鏡の視線と合わないようにして、

鏡を裏返そうとしたとき、鏡の眼が祐一を捕らえてしまった。

 少年を見逃すまいと、大きく瞠(みひら)いた眼は手のひ

らの中で ジリジリと迫る。

(これはぼくの眼だ。だってそうじゃないか。おかしいじゃ

ないか)

 何度も自分に言い聞かせた。鏡の中の大人びた眼は 彼の

言葉を翻(ひるがえ)した。鏡を持つ手は硬直し、心臓はわ

なわなと震えた。もう見続けることはできない。魔法にかか

ったように、祐一は視線を逸(そ)らすこともできなかった。

(がんばるんだ。もう少しだ)

 そういう声が 頭の奥から聞こえた。知らないうちに 祐

一はその声に自分の声を重ねていた。声は次第に高まり い

く人もの合唱になった。そして突然 やんだ。

(もう少しだ。もう少しで、ぼくは君になるんだ)

 祐一は思わず 大声で叫んだ。それは自信に満ちた声だっ

た。頬を涙が伝って、すぐに祐一の顔に微笑みが帰ってきた。

 鏡の中にも同じ微笑みがあった。

親指、小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より

2012年07月17日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より


親指
小林稔



「おれの家に遊びにこいよ」

 ぼくはその言葉に、脅迫に近いものを感じたので、いやと

は言えず うなずいた。以前、母に連れられて 診察室のド

アを押したことがある。そこは高宏の家だった。父親は ず

いぶん前になくなっていて、母親が医者をしていた。

 隆宏と遊んだことは ほとんどなかった。性格がまるっき

り反対で、隆宏は 川向こうの学校の番長と喧嘩しに行くガ

キ大将であった。

「ごめんください」

 消毒液の臭いがした。隆宏の母親が白衣で姿を見せた。ぼ

くのすました顔を見るなり、吹き出しそうになった。彼女の

あとについて 奥の部屋に行くと、畳の部屋の真ん中の掘り

炬燵に座っている隆宏がいた。学校で見る彼とは ずいぶん

様子が違って ほっとした。隆宏は炬燵から抜け出し、かく

れんぼしようと言った。ぼくが鬼になり 柱に額をつけ目を

つむった。一、二、三。ぼくは数え始めた。隆宏の声がしな

くなった。振り向いて、廊下に出た。廊下は長く続いていて

静まり返っていた。

 呼んだが返事がない。ドアの把手(とって)が左と右に並

んでいる。ガタン、という音がした。三つ目の把手をそっと

握ったとき内側から勢いよく 体ごと引っ張られた。真っ暗

だった。ドアが閉まった。だれかがいる。闇に手を差し伸べ

た。

「タカヒロくん、開けて!」

 笑い声が聞こえた。隆宏の笑い声だ。ぼくは安堵を覚えて、

泣き出しそうになった。

 炬燵のあった部屋に戻ると、隆宏は押し入れから布団を引

き出し、体を巻きつけながら倒れた。

「もう、死んじゃったよ」と隆宏は言った。

 ぼくが力一杯、布団を持ち上げると ちぢんだ隆宏が 畳

に転がった。ぼくは四つんばいになって跳びのった。隆宏の

シャツを胸元までめくったとき、おなかが膨らんだ。唇をつ

けるとおはじきのような おへそが持ち上がって、ぼくの舌

に絡まった。右足の親指を噛んだら、隆宏の眉がゆがんだ。


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連載エセー⑦井筒俊彦『意識と本質』解読。マラルメの絶対言語。「私は花!と言う…」

2012年07月16日 | 井筒俊彦研究

連載エセー井筒俊彦『意識と本質』(精神的東洋を索めて)解読。

連載/第七回
 マラルメの絶対言語、「私が花!と言う・・・」


『意識と本質』Ⅲ

P63~74
普遍的「本質」(マーヒーヤ)肯定論の三つのタイプ

西洋哲学の歴史において中世という時代は「本質」および「存在」といった存在論の基礎概念が確立された時期であったと井筒氏はいう。そこで繰り広げられた哲学上の術語が近代哲学から現代哲学に至るまで引き継がれている。グローバルな世界の流れが「日本人の哲学思考」に融合し西洋化している現代的状況で、私たちがこの『意識と本質』をすでに論議しているが、このように「本質」を論議する場合にさえ、西洋中世が揺曳しているのだと井筒氏はいう。そして西洋中世哲学に持ち込まれたイスラームを考えなければならないのである。その東洋思想の広大な領域を、先にも述べた「共時的構造化」を目指して井筒氏は横断しようとしていたのである。
 井筒氏は『意識と本質』のⅠ、Ⅱと書きついてきてⅢを始めるこの地点で、我々読者に、自らの思想の立脚点を明らかにしたといえよう。つまり彼の使う「本質」という術語は西洋中世哲学のそれであること、そして中世のスコラ哲学的概念に比較哲学を導入し、東西の思想の「地平融合」の実現に向けての一歩になることを願っているのだということが表明されているといえよう。
 イスラーム・スコラ哲学と呼びうるものが、西洋のスコラ哲学に影響を与えたということを考えると、先述したようにイスラームの神秘主義がギリシアの哲学と対立しイスラームの哲学を、十一世紀から十二世紀の、アヴィセンナ、ガザーリ、アヴェロイスたちが、「新プラトン主義的に解釈されたアリストテレス」の思想(ギリシア科学と新プラトン派の注釈が次々にアラビア語に翻訳されたと井筒氏は指摘)を取り込んだのである。そして彼らの著作がラテン語に翻訳され中世カトリック教会に取り込まれ中世スコラ哲学が形成され、ヨーロッパ哲学の形成に多大な影響を及ぼし現代に至る。
 ここでわかったことは、イスラーム哲学はアリストテレスの「本質」概念に遡るということである。そこから影響を受けた西洋スコラ哲学においても同様である。
 スコラ哲学において、「本質」は「存在」と対立し相関する概念であることに注意が必要であると井筒氏はいう。どういうことかを井筒氏の説明で追ってみよう。
 Xが現前している。それを認識するとき、「・・・の意識」が生起する。「Xの意識」とはXが現前していると仮定しての、「Xの存在の意識」、「存在するXの意識」であると井筒氏はいう。しかし、このようなXの知覚が成立する以前の、原初的な、分析的理性の働き出していない状態での「Xの意識」を考え、「無分節的に何かが我々に意識に向って自己を提示しているだけ」の状態を措定する。次の段階で、理性が割れ目をつけて、「本質」と「存在」に分けると考える。ここで始めてXが存在する何々として意識される。「理性の本源的分割作用」、それこそがスコラ哲学上の存在論の第一歩であると井筒氏はいう。Xは存在することによって例えば「花」であるのではなく、何か別の原理の働きがある、それが「本質」であると井筒氏は説く。しかし「本質」は「存在」を保証せず、両者が一体になってXは存在する「花」となるのだという。 
 「本質」は一般者でなければならない。どの花にも共通する一般的性質において提示する。花は個別性を剥奪され無記的なものになる。「すべて存在するものは個体であるというのはスコラ哲学の大原則である」と井筒氏は指摘する。「この花」はただの花とは根源的に違う何かが現成しているという考えが起きたとき、そこにあるのは、普遍的「本質」とは違った、もう一つ別の「本質」でなくてならないという存在感覚が生じてくる。先述したように、イスラムのスコラ哲学はこのような考えから、二つの「本質」を措定する、つまり普遍的「本質」のマーヒーヤと個体的「本質」のフィウィーアがあると井筒氏はいう。
 東洋哲学に見られる「本質」否定の立場が強くある中で、他方において、存在する事物の実在性の中核として認める「本質」肯定の立場がることを井筒氏はⅢで論じようとしているのである。
 存在する事物の実在性にのみリアリティーを見る、個物のユニークな独自性を保持するリアリティーを「本質」とするフウィーヤを押し進めれば、もう一方の普遍的「本質」は概念的一般者になる実在性を剥奪される。ところがこの普遍的「本質」は濃厚な存在感を持って実在すると主張する人が古来東洋にも西洋にも存在したと井筒氏は指摘する。しかも、一般者の「本質」は物の名と密接に結びついているという。
 マーヒーヤ肯定論の三つのタイプを井筒氏は分類する。
一、 普遍的「本質」マーヒーヤは存在の深部に存在する。それを把握するには深層意識を見ることができるようになる必要がある。
二、 シャーマニズムやある種の神秘主義を特徴づける根源的イマージュの世界。存在者の普遍的「本質」が濃厚な象徴性を帯びたアーキタイプ、元型として現われる。例として、イブン・アラビーの「有無中道の実在」、アフラワルディーの「光の天使」、易の六十四掛、密教のマンダラ、ユダヤ教神秘主義カッバーラーの「セフィーロト」などがある。
三、 一の型が深層意識的体験によって捉える普遍的「本質」を、ここでは表層で理知的に認知するところに成立すると考える思想。古代中国の儒学、孔子の正名論、古代インドのニヤーヤ・ヴァイシューシカ派特有の存在範疇論などがある。


ここから『意識と本質』Ⅳ に入る。

P74~80
マラルメと言語的意識の極北。

「本質」実在論の第一のタイプの例として、東洋哲学の前に西洋の近代詩人マラルメを井筒氏は取り上げている。個体的「本質」にリアリティーを求めたリルケの意識の降りたところは、しかし一種の深層意識領域であったと井筒氏はいう。リルケと対蹠的な立場に立つのがマラルメである。マラルメの求めた「本質」は、「個物の個体性を無化し、無化しつくしたところに・冷酷にきらめく星の光のように浮かび上がってくる普遍的「本質」の凄まじい形姿であった」と井筒氏は説明する。そしてこのような「本質」を言語的意識の極北地帯に求めたともいう。
 言語的意識の極北と何か。「仏教を知ることなしに、私は虚無(le Néan)に到達した」というカザリスへの手紙に書いているように、井筒氏によれば、「日常的事物はことごとく自らを無化して消滅」し、この万物無化の体験は精神錯乱に陥るほどの狂気を感じさせるが、マラルメは虚無を突きぬけ、美(le Beau)を見出したのだと井筒氏はいう。

「美」―一切の経験的、現象的事物が夢まぼろしのごとく消え沈む虚無、「忘却」(l´oubli)の向う側に、彼が見出したこの「美」(le Beau)こそ、彼にとって、普遍的「本質」、永遠のイデア、の絶対美の実在領域だった。あらゆる生あるものの消滅する死の世界。だが、彼は歓喜した。常識的人間の目で見れば、死と絶滅以外の何ものでもありえないこの「美」の領域を、存在の永遠性の次元(l´Eternité)と彼は呼んだ。
                           『意識と本質』P76

 マラルメが己の詩人としての使命としたこととは、経験的事物から永遠の「本質」を救出すること、時間の支配をマーヒーヤの実在性の次元に事物を昇華させることであったと井筒氏は主張する。現象的世界は偶然(le Hazard)に支配されている。不断に変化し一瞬もとどまらぬ経験的事物のざわめき、永遠不易の「本質」の直視を妨げる一切の現象的存在要素をマラルメは偶然と呼ぶと井筒氏はいう。「この上もなく純粋な氷河地帯」とカザリス宛の手紙で自ら言うように、「万物が無生命性の中に凍てつき結晶化した氷の世界」と井筒氏は表現するのであった。マラルメをここまで追い込んだポエジーの必然は顧みられなければならない。ボードレールの要素の何がこれほど彼を非人間的世界に連れ出したのか。今後の私の課題である。しかし井筒氏は救いを見出している。存在無化と偶然性破棄の彼方に「純粋に光り輝く新しい姿で、それらの事物は立ち現われてくる」と井筒氏はいう。
 物の普遍的「本質」を実在的に呼び出す「絶対言語」(le Verbe)とは何か。
 
 「私が花! と言う。すると、私の声が、いかなる輪郭をもその中に払拭し去ってしまう忘却の彼方に、我々が日頃狎れ親しんでいる花とは全く別の何かとして、どの花束にも不在の、馥郁たる花のイデーそのものが、音楽的に立ち現われてくる。                       
           マラルメ『詩の危機』

 詩人が絶対言語的に「花」という語を発するとき、日常的に感覚的実体として現われていた「花」が、いったん消え去り、花を見ていた詩人の主体性も消える。生の流れが停止しあらゆるものの姿が消えると、消えた「花」が、形而上的実在、つまり永遠の花となって忽然と姿を現わすと井筒氏はいう。絶対言語とはいえ、詩人といえども使うのは普通の言語以外のものではない。しかし「絶対言語的に使う」と井筒氏はいう。
 このことは、井筒氏の提唱する「言語アラヤ識」を想起させもする。意味エネルギーが表層意識に浮上し言葉がもたらされるが、表層においては逆に名を呼ぶことによってものが存在を開始する。類似と差異を明確にしてみたいとテーマである。コトバは経験的事物の記号ではなく、指示言語でもない、逆に事物を消すことが普遍的実在の生起であると井筒氏は説く。
 ここにはプラトンのイデアの世界を彷彿とするものがあると私は考える。アリストテレス的意味での「本質」をさらに遡り、プラトンに至る必要があろう。井筒氏も言っている、マラルメにとっては、神の宇宙創造にも比すべき一つの根源的創造行為だったのではないか、この本質探求の道程をマラルメは修道院で神を求める修道士のいとなみに比していることは意味深いことではないかと。




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