連載エセー井筒俊彦『意識と本質』(精神的東洋を索めて)解読。
連載/第八回
宋儒における脱然貫通。生の源泉において絶対的無と出合う。
小林稔
ここまで『意識と本質』を読んできて、いくつかの課題を見出せたように思う。
東洋哲学の根底には「本質」否定が前提となっているということ。
禅においてそれは徹底した形を見出せるが、東洋哲学にはさまざまな「本質」否定があり、ヴァリエーションがあることが興味深い。龍樹の中観思想の影響を受け、大乗仏教には「縁起」の存在があることがわかった。禅の「本質否定」はそれで終わらない実践があり、テクストを読んで深く理解する必要があろう。ヴェーダーンタの「不二一元論」、イブン・アラビーの「存在一性論」などももう少し追求してみたいと思う。それとともに華厳経がイラン思想に与えた影響、華厳経が空海の思想に与えたであろうものを原典に当たりながら時間をかけて読み込むことが今後の課題である。その成果は、いずれ季刊個人誌「ヒーメロス」やこのブログで公表したいと考えている。しかし、ここまでの読解で何より私の興味を引いたのは、サルトルやフッサールの哲学もさることながら、リルケ、芭蕉、マラルメを東洋哲学思想から解き明かしていることである。私の研究は、以前にも記述したように、詩学の確立に活用しようとするものであり、このブログにおいても少しはポエジーについて思うままに書き込むことをしたいと考えている。
ポエジーについて①
原初的な詩の概念から記述され読み手に啓示をもたらすエクリチュールとしての詩までをポエジーと呼びうるならば、限りなく遠い彼方から、「私」のいる日常世界に、いわば恩寵のように足許に降りてくるのがポエジーである、というのが私の持論である。そうした構造は、井筒氏の提唱した「言語アラヤ識」と類似的な構造として説明できるように思う。彼方といいアラヤ識といい、実在する場所ではないのであるから、両者とも深層意識の構造として捉えることができよう。
詩人は日常空間に生きることが免れない以上、ポエジーを表層意識で受け止めるしかないのであるが、言葉=詩として成立することから、言葉に始まり言葉に終わる詩人の生は必然的に表層で捉えた言葉は普遍的「本質」=言語の実在に高められていくであろう。言葉とは表層意識において私たちにものの存在を示すのであるが、普遍性をもたされているという言葉の特質において、この現実の存在は見かけのもの=虚妄であることを思い知らされる。しかし井筒氏がリルケについて解いたように、ほんとうの詩人であれば、「切れば血を流すような」手ごたえのある存在を求めている。日本においては中原中也という詩人の詩もこのような視点から解釈できるであろう。詩歌の世界に視線を転じれば、「『新古今』的幽玄追求の雰囲気のさなかで完全に展開しきった形においては、{眺め}の意識とは、むしろ事物の{本質}的規定性を朦朧化して、そこに現成する茫獏たる情趣空間のなかに存在の深みを感得しようとする意識主体的態度でなかったろうか」と井筒氏が要約し、目前の事物を認知すればすぐに普遍的「本質」を見てしまうので、意識の尖端をぼかすことによって「本質」の存在規定性を回避しようとする態度であると井筒氏は説いていた。存在規定性を越えたところに存在深層の開顕があるのだという。しかし明治時代に西洋の詩概念を取り入れ始まった現代詩においては詩歌の世界とは独立した詩概念を私たちは求めている。だが、芭蕉の世界は詩歌の世界に収まらず、現代詩を根底で支えるものがあり、井筒氏が『意識と本質』で解読している芭蕉論は、これから私が確立しようとする詩学に貢献するに違いない。
詩人は表層においてポエジーを受け取る。そして詩は「眺め」で終わらず、「行為」が大きく関与することから主体が問われてくるだろう。ここでは、私がここ数年関心を寄せ読み解いている、ミシェル・フーコーの「自己への配慮」はより多くの示唆を与えてくれるように思う。具体的には、「配慮すべき自己」とは何かを主体が探求するとき、改心が起こり(ソクラテスでは「無知の知」)、今ある自己を捨て去らなければならないのである。井筒氏のいう「主体の意識の空化」つまり「存在解体」、ミシェル・フーコーが「哲学と霊性」で述べる「代価」というべきものを必要とするのである。無疵ではいられないのだ。私の長期連載エセー『「自己への配慮」と詩人像』の後半のテーマである。さらにそこから詩人像をいかに表出させるかは私の今後の課題である。
さて、『意識と本質』を読み進めよう。
P80~99
脱然貫通。すべての「理」の形而上的側面を究極の一点において一挙に見ること。
「中国宋代の儒者たちの理学」と井筒氏は書き始める。儒者とは儒学者のことであり、儒学といえば孔子を始祖とする教えであろう。「理」については筆者による説明がある。
「理」とは、普遍的「本質」のことであり、「理学」とは、その探求である。前回までに論じてきた二つの本質のマーヒーヤ、つまり普遍的「本質」に実在性を見て、深層意識的に把握しようとする探求であろう。我々の生は日常世界を基底にして営むことは避けられない以上、このような探求、「意識の深層機能を発動させるためには、それほどの(神経衰弱に落ち込んでしまうほどの)緊張と専心を必要とする」ことであるが、「宋代儒者たちのなんと静謐で、澄明の気に満ちていること」と井筒氏は述べている。
「意識の深層機能を発動させる」ために、彼らはいかなる実践をしたか。それは「静坐」と「格物窮理」であるという。井筒氏の説明を負ってみよう。
「静坐」とは「心内のざわめきを鎮め、同時にそれと相関的に、心外すなわち存在界のざわめきを鎮める修行」である。「窮理」(格物窮理の略)は「次第に静まり澄みきった心の全体を挙げて経験的世界の事物を見つめつつ、それらの事物の本質を一つずつ把握していき、ある段階まで来たとき、この本質追求のいわば水平的な進路を、突然、垂直方向に転じて、一挙に万物の絶対的本質の自覚に到達しようとする本質探究の道」である。井筒氏の長い引用をしたが、水平方向や垂直方向の説明がないのでここではわからないのは当然である。本書(『意識と本質』ではこの後に詳細な説明がなされている。
「静坐」も「窮理」も『中庸』の「未発」「已発」の概念に基礎を置いていると井筒氏はいう。心の未発動状態(意識のゼロ・ポイント)は全存在界の未展開状態(存在のゼロ・ポイントを意味する。「已発」は意識のゼロ・ポイントから発動した状態であり、同時に存在のゼロ・ポイントから様々な事物事象として展開した存在界のあり方を指すという。意識と存在、内と外の相関関係に注意しなければならないし、東洋哲学に共通する特徴であると井筒氏はいう。
宋学は、(宋学に限らず東洋哲学に通低する特徴であるが)意識と存在、内と外は密接な相関関係にあり、究極的には一つであると、井筒氏は指摘する。実践的には、心が鎮静すれば存在界も鎮まる、反対に心が動揺すれば事物も動揺するということを意味し、心の処理から入り込むようになる。
「静坐」における内的構造を井筒氏は次のように説明する。表層意識では、心はいつも未発状態にある。感覚、知覚が外界の対象を追い、欲望が刺激され、感情が起き、想念が渦を巻く。このような絶え間ない内的状態を通常、意識という。「絶え間ない」意識を微視的に見れば実は、連続ではなく断絶であると考える。一定期間の緊張の後に弛緩が起こる。つまり「心は動から静に移る」。それを繰り返すのである。動から次の動の間に瞬間、静が起こる。これを「未発」と呼ぶが、普通の人はそれがあることに気がつかない。訓練によってはっきりと捉えることができるのだ。さらに訓練によってその間隔を、つまり「未発」
を長びかせることができる。経験的世界において心の動の中に心の静を求めることを宋儒たちが求めるのはこのことであると井筒氏はいう。
「未発」は表層意識を越えて深層意識に及ぶ。表層意識の領域では多くは「已発」状態にある中にわずかに「未発」があるが、修行するにつれて「未発」上体の占める割合が多くなる。そうすると「已発」は微力な動になり、「已発」でありながら全体が「未発」という状態になる。さらに「未発」が深層意識領域に入り込んでいき、意識のゼロ・ポイントに究極すると井筒氏は説く。しかしそれで終わない。「今度は逆にあらゆる心の動きがそこに淵源しそこから発出する活発な意識の原点として自覚しなおされなければならないからである」と井筒氏はいう。ここにおいて「未発」は「已発」の根源、「喜怒哀楽」の源泉と考えられるのであると井筒氏は指摘する。つまり意識のゼロ・ポイントの極点がどうじに全存在界のゼロ・ポイントである、意識「未発」が意識{已発}の源泉であることによって、全存在界生起の源泉でもあると井筒氏は説く。形而上的「未発」が形而下的「已発」として発動する一点に、全存在界を統合的に基礎づける形而上的「理」が成立、自己分節を繰り返して、無数の個別的「理」(実在する普遍的本質)となって経験的世界の事物に「本質」的根拠を与えていく。表層意識で捉えられた事物を深層意識で無化し、それらを一者として基礎づける唯一絶対の形而上的「本質」があり、それが千々に分れ、特殊化し、存在の形而下的次元で無数の「本質」を形成する、それらを下次元の「本質」を考究し、それぞれの「本質」に還元しつつ、上次元の「本質」(唯一絶対の「本質」)まで追求することが「窮理の道」であると井筒氏は説明する。
「窮理」(格物窮理)とは、経験界にある事物、事象を観察し、それらに内在する先験的「理」を窮め、突如として万物の唯一絶対の「理」に翻入する道を意味すると井筒氏はいう。一見、禅と区別のつきにくい修行において、宋儒は「心の動の重要性」を強調するという。彼らは禅の無心、「何事も知らず何事とも見ず」という禅の境地に批判的であった。だが、「窮理」において禅とは明確に異なると井筒氏はいう。「窮理」とは、最後の飛躍の前の段階で事物の綿密な観察を旨とし、「事物に内在する永遠普遍の<理>、すなわち永遠普遍の「本質」を求めることであり、悟りに至る修行道程として、表層意識にひろがる事物の「本質」を探究するのに反して、禅は悟った後に「無心」の目を持ち経験的事物に実践的に接していくが、事物の本質を求めたりはしないと井筒氏は指摘する。
「存在界の事物には必ず本質がある」という宋儒の確信は、プラトンのイデア論と同じであると井筒氏は考えている。そこで重視されていたのが『孟子』であったと井筒氏はいう。孟子の「物あれば則あり」。宋儒は物あるところ、必ず「理」があるとした。全存在界は無数の「理」の織りなす網の目、整然たる秩序を持った構造体であるという考えがあり、孔子の正名論につながると井筒氏は指摘し、「表層から深層に及ぶ存在界の真相(「事物」の「本質」)を探究する」ことを「格物窮理」と呼ぶのだと彼はいう。
また井筒氏は次のようにもいう。「理」は我々の経験的世界と根源的に関わっていて、「形而上的「理」が必然的に形而下的姿で現われる。つまり「理」は形而上的であるとともに形而下的でもあると。井筒氏は朱子や周氏などの人物の名を挙げて説明しているが、ここではなじみがないので省略する。井筒氏のいおうとすることは十分理解できたように思う。普通の人の目には、「経験的事物の存在の深み」は見えない。表層意識には「理」は表層的存在様式である形而下的側面だけを示すのである。「窮理」の道に入る人は個々の「理」がばらばらに見えるが、ほんとうはひとつの「理」しかないのである。つまり形而下的側面だけしか見えない。それを手がかりに「窮理」の道をさらに進めていくうちに「脱然貫通」、すなわち「理」の形而上的側面を究極の一点において見てしまう、意識の最深層の突如たる開示であると井筒氏は説明する。しかし万有の唯一の究極的「本質」である「太極」は、あらゆる事物の「本質」が無に帰して消滅する無「本質」の一点、全存在のゼロ・ポイント、つまり「無極」でもあると井筒氏はいう。
宋儒の「窮理」はマラルメの本質探究と違わないと井筒氏は考える。コトバの音波の振動となり空しく消える経験事物の消滅に続き、その「忘却」の向こうに、経験的世界の死を背景にして立ち現われる事物の永遠の「本質」を見ることがマラルメにとっての本質探求であったし、「本質」の凄絶な自己顕現こそが、「虚無」(Néan)の絶望の超克であったと井筒氏は宋儒の「脱然貫通」の体験を比べている。マラルメが知らずしてなぜそこまでの経験をしてしまったのか、やがて文学行為の観点からも解明されなければならないが、マラルメのように死や忘却の彼方においてではなく、存在の経験的次元において躍動する生命そのものの中に探求したのであり、修行の果てにはあらゆる「本質」の高次の宋儒は形而上性において「絶対的無」と出合う。そこには絶望の影もないという。なぜなら経験的事物の死による成立ではないからであると井筒氏は説く。むしろ生の源泉であったのである。経験的事物を無化する形而上的無本質を、あらゆる「本質」の実在的原点を己の形而下的自己限定として見たのである。無極であり太極、無・即・有。「理」の形而上的無限における無と有。その矛盾的相即のうちに、宋学的「本質」把握の東洋的性格を見るべきであろうと井筒氏は主張する。以上、井筒氏の解説を読んできたが、解説それ事態は決して難解なものではない。
ここ(Ⅳ)まで読んできて、井筒氏が『意識と本質』の初めの部分でいう、東洋的哲人のあり方、つまり表層意識と深層意識を同時に機能させることができる一例を、今日の読解で知ることができた。それは「本質」否定から理解されることである。仏教ではこの経験世界を「名と形」の世界と捉え、それが呼び起こす形姿があるだけで実質はないとする。今もう一度読み返すと以前より深く理解できたように思えた。もう少し先を読んでいけば今回のことが深く理解されるであろう。
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