小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より
つのぶえ学習塾
小林稔
鶏の鳴き声と羽音が聞こえたので、もうすぐだな、とアキ
オは思った。
農家が左右にまばらに建っている細い道。
アキオの家と一キロメートルと離れていないのに、ずいぶ
ん遠くへ来てしまったように思う。そこは養鶏場も経営する
幼稚園。夕方、中学生を教える塾に、と園長は考えた。
道の真向かいに教室があった。アキオは急いでブレーキを
引いた。砂利にタイヤを取られ自転車は傾いた。その場にア
キオは手をついて倒れてしまった。
初めてはめた鎖の腕時計のバンドに血が少しついていた。
左の手首に、ひりひりと痛みが走った。
このまま帰っちゃおうかな、とアキオは思った。とにかく、
道に散らばった教科書とノートを拾わなければならない。
アキオはちょっと顔を上げた。
鶏舎の方から 女の人がやって来るのが見えた。屋根に落
ちた夕陽が、その人の着ている木綿の衣服に注いで 薄紫色
に染めていた。
「アキオくんね。先生が教室で待っています」
その人はアキオをしばらく見ていたが、また歩き出し ア
キオの近くに来て言った。
「そんな細い腕では、折れてしまうわ」
女の人はアキオの腕をそっと持ち上げた。背が高く、瞳が
薄い青色をしている。園長の奥さんだろうと思った。
アキオの手首の傷口から血が滲み出ている。
きれいな人だ、とアキオは思った。大人の女性を感じたの
は 初めてのことであった。
アキオはさっきから 一言も言葉を発していなかった。そ
の人は消毒液をアキオの傷口に浸し、包帯を巻いた。
消毒液が傷口にしみていたが、その女性の優しさに包み込
まれ、アキオは幼子(おさなご)のように立っていた。
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