ヒーメロス通信


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連載エセー⑦井筒俊彦『意識と本質』解読。マラルメの絶対言語。「私は花!と言う…」

2012年07月16日 | 井筒俊彦研究

連載エセー井筒俊彦『意識と本質』(精神的東洋を索めて)解読。

連載/第七回
 マラルメの絶対言語、「私が花!と言う・・・」


『意識と本質』Ⅲ

P63~74
普遍的「本質」(マーヒーヤ)肯定論の三つのタイプ

西洋哲学の歴史において中世という時代は「本質」および「存在」といった存在論の基礎概念が確立された時期であったと井筒氏はいう。そこで繰り広げられた哲学上の術語が近代哲学から現代哲学に至るまで引き継がれている。グローバルな世界の流れが「日本人の哲学思考」に融合し西洋化している現代的状況で、私たちがこの『意識と本質』をすでに論議しているが、このように「本質」を論議する場合にさえ、西洋中世が揺曳しているのだと井筒氏はいう。そして西洋中世哲学に持ち込まれたイスラームを考えなければならないのである。その東洋思想の広大な領域を、先にも述べた「共時的構造化」を目指して井筒氏は横断しようとしていたのである。
 井筒氏は『意識と本質』のⅠ、Ⅱと書きついてきてⅢを始めるこの地点で、我々読者に、自らの思想の立脚点を明らかにしたといえよう。つまり彼の使う「本質」という術語は西洋中世哲学のそれであること、そして中世のスコラ哲学的概念に比較哲学を導入し、東西の思想の「地平融合」の実現に向けての一歩になることを願っているのだということが表明されているといえよう。
 イスラーム・スコラ哲学と呼びうるものが、西洋のスコラ哲学に影響を与えたということを考えると、先述したようにイスラームの神秘主義がギリシアの哲学と対立しイスラームの哲学を、十一世紀から十二世紀の、アヴィセンナ、ガザーリ、アヴェロイスたちが、「新プラトン主義的に解釈されたアリストテレス」の思想(ギリシア科学と新プラトン派の注釈が次々にアラビア語に翻訳されたと井筒氏は指摘)を取り込んだのである。そして彼らの著作がラテン語に翻訳され中世カトリック教会に取り込まれ中世スコラ哲学が形成され、ヨーロッパ哲学の形成に多大な影響を及ぼし現代に至る。
 ここでわかったことは、イスラーム哲学はアリストテレスの「本質」概念に遡るということである。そこから影響を受けた西洋スコラ哲学においても同様である。
 スコラ哲学において、「本質」は「存在」と対立し相関する概念であることに注意が必要であると井筒氏はいう。どういうことかを井筒氏の説明で追ってみよう。
 Xが現前している。それを認識するとき、「・・・の意識」が生起する。「Xの意識」とはXが現前していると仮定しての、「Xの存在の意識」、「存在するXの意識」であると井筒氏はいう。しかし、このようなXの知覚が成立する以前の、原初的な、分析的理性の働き出していない状態での「Xの意識」を考え、「無分節的に何かが我々に意識に向って自己を提示しているだけ」の状態を措定する。次の段階で、理性が割れ目をつけて、「本質」と「存在」に分けると考える。ここで始めてXが存在する何々として意識される。「理性の本源的分割作用」、それこそがスコラ哲学上の存在論の第一歩であると井筒氏はいう。Xは存在することによって例えば「花」であるのではなく、何か別の原理の働きがある、それが「本質」であると井筒氏は説く。しかし「本質」は「存在」を保証せず、両者が一体になってXは存在する「花」となるのだという。 
 「本質」は一般者でなければならない。どの花にも共通する一般的性質において提示する。花は個別性を剥奪され無記的なものになる。「すべて存在するものは個体であるというのはスコラ哲学の大原則である」と井筒氏は指摘する。「この花」はただの花とは根源的に違う何かが現成しているという考えが起きたとき、そこにあるのは、普遍的「本質」とは違った、もう一つ別の「本質」でなくてならないという存在感覚が生じてくる。先述したように、イスラムのスコラ哲学はこのような考えから、二つの「本質」を措定する、つまり普遍的「本質」のマーヒーヤと個体的「本質」のフィウィーアがあると井筒氏はいう。
 東洋哲学に見られる「本質」否定の立場が強くある中で、他方において、存在する事物の実在性の中核として認める「本質」肯定の立場がることを井筒氏はⅢで論じようとしているのである。
 存在する事物の実在性にのみリアリティーを見る、個物のユニークな独自性を保持するリアリティーを「本質」とするフウィーヤを押し進めれば、もう一方の普遍的「本質」は概念的一般者になる実在性を剥奪される。ところがこの普遍的「本質」は濃厚な存在感を持って実在すると主張する人が古来東洋にも西洋にも存在したと井筒氏は指摘する。しかも、一般者の「本質」は物の名と密接に結びついているという。
 マーヒーヤ肯定論の三つのタイプを井筒氏は分類する。
一、 普遍的「本質」マーヒーヤは存在の深部に存在する。それを把握するには深層意識を見ることができるようになる必要がある。
二、 シャーマニズムやある種の神秘主義を特徴づける根源的イマージュの世界。存在者の普遍的「本質」が濃厚な象徴性を帯びたアーキタイプ、元型として現われる。例として、イブン・アラビーの「有無中道の実在」、アフラワルディーの「光の天使」、易の六十四掛、密教のマンダラ、ユダヤ教神秘主義カッバーラーの「セフィーロト」などがある。
三、 一の型が深層意識的体験によって捉える普遍的「本質」を、ここでは表層で理知的に認知するところに成立すると考える思想。古代中国の儒学、孔子の正名論、古代インドのニヤーヤ・ヴァイシューシカ派特有の存在範疇論などがある。


ここから『意識と本質』Ⅳ に入る。

P74~80
マラルメと言語的意識の極北。

「本質」実在論の第一のタイプの例として、東洋哲学の前に西洋の近代詩人マラルメを井筒氏は取り上げている。個体的「本質」にリアリティーを求めたリルケの意識の降りたところは、しかし一種の深層意識領域であったと井筒氏はいう。リルケと対蹠的な立場に立つのがマラルメである。マラルメの求めた「本質」は、「個物の個体性を無化し、無化しつくしたところに・冷酷にきらめく星の光のように浮かび上がってくる普遍的「本質」の凄まじい形姿であった」と井筒氏は説明する。そしてこのような「本質」を言語的意識の極北地帯に求めたともいう。
 言語的意識の極北と何か。「仏教を知ることなしに、私は虚無(le Néan)に到達した」というカザリスへの手紙に書いているように、井筒氏によれば、「日常的事物はことごとく自らを無化して消滅」し、この万物無化の体験は精神錯乱に陥るほどの狂気を感じさせるが、マラルメは虚無を突きぬけ、美(le Beau)を見出したのだと井筒氏はいう。

「美」―一切の経験的、現象的事物が夢まぼろしのごとく消え沈む虚無、「忘却」(l´oubli)の向う側に、彼が見出したこの「美」(le Beau)こそ、彼にとって、普遍的「本質」、永遠のイデア、の絶対美の実在領域だった。あらゆる生あるものの消滅する死の世界。だが、彼は歓喜した。常識的人間の目で見れば、死と絶滅以外の何ものでもありえないこの「美」の領域を、存在の永遠性の次元(l´Eternité)と彼は呼んだ。
                           『意識と本質』P76

 マラルメが己の詩人としての使命としたこととは、経験的事物から永遠の「本質」を救出すること、時間の支配をマーヒーヤの実在性の次元に事物を昇華させることであったと井筒氏は主張する。現象的世界は偶然(le Hazard)に支配されている。不断に変化し一瞬もとどまらぬ経験的事物のざわめき、永遠不易の「本質」の直視を妨げる一切の現象的存在要素をマラルメは偶然と呼ぶと井筒氏はいう。「この上もなく純粋な氷河地帯」とカザリス宛の手紙で自ら言うように、「万物が無生命性の中に凍てつき結晶化した氷の世界」と井筒氏は表現するのであった。マラルメをここまで追い込んだポエジーの必然は顧みられなければならない。ボードレールの要素の何がこれほど彼を非人間的世界に連れ出したのか。今後の私の課題である。しかし井筒氏は救いを見出している。存在無化と偶然性破棄の彼方に「純粋に光り輝く新しい姿で、それらの事物は立ち現われてくる」と井筒氏はいう。
 物の普遍的「本質」を実在的に呼び出す「絶対言語」(le Verbe)とは何か。
 
 「私が花! と言う。すると、私の声が、いかなる輪郭をもその中に払拭し去ってしまう忘却の彼方に、我々が日頃狎れ親しんでいる花とは全く別の何かとして、どの花束にも不在の、馥郁たる花のイデーそのものが、音楽的に立ち現われてくる。                       
           マラルメ『詩の危機』

 詩人が絶対言語的に「花」という語を発するとき、日常的に感覚的実体として現われていた「花」が、いったん消え去り、花を見ていた詩人の主体性も消える。生の流れが停止しあらゆるものの姿が消えると、消えた「花」が、形而上的実在、つまり永遠の花となって忽然と姿を現わすと井筒氏はいう。絶対言語とはいえ、詩人といえども使うのは普通の言語以外のものではない。しかし「絶対言語的に使う」と井筒氏はいう。
 このことは、井筒氏の提唱する「言語アラヤ識」を想起させもする。意味エネルギーが表層意識に浮上し言葉がもたらされるが、表層においては逆に名を呼ぶことによってものが存在を開始する。類似と差異を明確にしてみたいとテーマである。コトバは経験的事物の記号ではなく、指示言語でもない、逆に事物を消すことが普遍的実在の生起であると井筒氏は説く。
 ここにはプラトンのイデアの世界を彷彿とするものがあると私は考える。アリストテレス的意味での「本質」をさらに遡り、プラトンに至る必要があろう。井筒氏も言っている、マラルメにとっては、神の宇宙創造にも比すべき一つの根源的創造行為だったのではないか、この本質探求の道程をマラルメは修道院で神を求める修道士のいとなみに比していることは意味深いことではないかと。




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