ヒーメロス通信


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ガラスの道、小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より

2012年07月20日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より

ガラスの道
小林稔


 粉粉に打ち砕かれ 散乱したガラスの舗道を、素足で歩い

ている。うつむく額に 朝の光が射して、利之は人ひとりい

ないビルディングの谷間をひたすら歩いた。

 羽撃(はばた)きの音が足元で発ち上がった。鳩が飛び立

ったのか、と顔を起こして見たが 思い違いで、記憶を何か

がよぎっていったのだ。踏みしめるガラスの音と 血の破線

だけが、彼の証であるかのようだ。とりわけ悲惨を育ててい

るわけではない。汚れていない画布を水で洗うように、群れ

から離れたこの子羊は、歩いていると 頭の中が透けてくる

ような気がするのだ。

「今日は、ぼくは十四歳になったんだ。希望なんていったっ

てさ、ぼくには力がないから」

 そんな思いに気を取られていたら、左足の踵に挟まったガ

ラスの板が 舗道を滑って、利之は転んだ。ガラスの割れる

音が周囲に響くと、利之の耳元にも共鳴した。

だから、やなんだ。もう考えるのはよそう」

 膝小僧を抱えていたが、力が抜けて、静かに両腕を伸ばし

指は耳元で広げられた。利之の体の輪郭が、朝の光で消えて

いきそうな気配。

「時間だ。時間が来たんだ。時間がぼくを追いかけている」

 靴音がいくつもやって来て、舗道に光るガラスの破片を震

わせている。よろけるようにして立つと、ガラスが背中から

胸に突き刺さっていた。傷みは微塵もない。肩をすぼめては

足跡の真ん中に 滴り落ちる血の破線を引きながら歩いた。

 ガラスのかけらが 風に揺すられ 触れて鳴っている。

 なんという静けさだろう。どうしたことか、舗道に姿を見

せていた人と自動車が、石膏の模型になっていた。

 どこまでも続くガラスの散らばった道の向こうから、フラ

ッシュの洪水が迫った。

 やさしいソプラノのアリアが降ってくる超高層四十七階の

窓窓。四つ角のポリバケツから溢れた残飯。廃品回収の罎。

公衆トイレの便器。風俗営業の看板。踏まれ 舗道にこびり

ついた新聞紙。物たちの眼差しが、静かな動きを止めた彼に

狙(ねら)いを定めていた。



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「パイドロスにおけるエロース論」小林稔個人季刊誌「ヒーメロス」16号2011年3月25日発行から

2012年07月20日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの
長期連載エセー『「自己への配慮」と詩人論』(九)
「パイドロスにおけるエロース論」(後編)その三

ものを書くという条件
『パイドロス』の最終部では、ものを書くことへの考察にあてられている。ソクラテスとパイドロスの対話に耳を傾けてみよう。弁論術と「言論の技術」を考察するまえに、ソクラテスは、「文を書くこと自体は、何も恥ずべきことではない」(259D)と、すでに述べていた。問題は「恥ずべき卑劣な仕方で話したり書いたりすること」なのである。そのように前置きした後に弁論術の考察に入ったのであった。ここにおいては話すことと書くことの明確な区別はなかったが、弁論術を論じることで話すことを考察したのである。さて「言論の技術」を論議した後に、ソクラテスは「ものを書くことについて、それが妥当なことであるとか、妥当なことではないとかいった問題、すなわち、ものを書くということはどのような条件のもとにおいて立派なことだといえるか」(274B)を考察しようとする。ここには現代思想が私たちに提出するようになって久しい問題と通じるものがあると思うのだが、先を急がずにテキストを読み解いていこう。
 ソクラテスの聞いた話として、エジプトの古い神テウトを取り上げている。この神にはイビスという聖鳥が仕えていたが特筆すべきは文字の発明である。当時のエジプトの最高神はタムゥスと呼ばれ、エジプトを君臨していた。訳注によれば、テウトはヘルメス、タムゥスはゼウスとギリシアでは同一視されていたという。テウトはタムゥスに向かって、文字を学べば知恵はたかまり、もの覚えは良くなるでしょう」とのべたのであったが、タムゥスは次のように述べたといわれる。「人々がこの文字というものを学ぶと、記憶力の訓練がなおざりにされるため、その人たちの魂の中には、忘れっぽい性質が植えつけられることだろう」。「書いたものを信頼して、ものを思い出すのに、自分以外のものに彫りつけられたしるしによって外から思い出すようになり、自分で自分の力によって内から思い出すことをしないようになるからである」。「彼らはあなたのおかげで、親しく教えを受けなくても物知りになるため、多くの場合ほんとうは何も知らないでいながら、見かけだけはひじょうな博識家であると思われるようになるだろう」と、タムゥスは否定的な意見を述べたのである。彼はタウトにいう、技術を生み出す人(タウトのような人)と、その技術を使う人(私たち)にいかなる害と益をもたらすかを判断する力を持った人とは別の者なのだと。脇道にそれるが、科学技術を駆使し、さまざまな製品を作り出す才能と、それを便利なものとして使用する私たちの無能、さらに科学者の倫理観の問題、また情報化社会における思考能力の軽視の問題に通じるものを示唆していると私には思われるのである。
 先述したタムゥスの語る言葉に、「あなたが発明したのは、記憶の秘訣ではなく、想起の秘訣なのだ」という言葉をソクラテスは忍ばせている。文字の中に技術を書き残したと思い込んでいる人、また書かれたものの中から確実なものをつかみ出すことができると信じている人を、ソクラテスは「たいへんなお人よし」と嘲笑する。なぜなら、「書かれた言葉というものが、書物にあつかわれる事柄について知識をもっている人にそれを思い出させるという役割以上に、もっと何か多くのことをなしうると思っているからだ」(275D)という。つまり書かれた言葉はそれを理解すべき人であろうとそうでない人であろうと届けられてしまうことが問題だというのである。しかし別種の言葉というものがある。それは「学ぶ人の魂の中に知識とともに書き込まれる言葉、自分を守るだけの力をもち、他方、語るべき人々には語り、黙すべき人々には口をつぐむすべを知っているような言葉」(276)であり、「ひとがふさわしい魂を相手に得て、哲学的問答法の技術を用いながら、その魂の中に言葉を知識とともにまいて植えつける」ような言葉であり、「その言葉というのは、自分自身のみならず、これを植えつけた人をもたすけるだけの力をもった言葉」であり、「一つの種子を含んでいて、その種子からは、また新たなる言葉が新たなる心の中に生まれ、かくてつねにそのいのちを不滅のままに保つことができるのだ」とソクラテスは語った。
 ものを書くということを、ソクラテスは作物の種を蒔き育て実を結ばせる行為に喩えて語り、「言葉の中に楽しみを見出すという慰みのためにそうするのだと主張する。先述したように、語るべき相手に言葉を撒種し、新たな言葉が相手の心に生まれ、いのちを引き継いでいくのを見ることを幸福と感じることを慰みとすることである。それを可能にする技術こそがソクラテスのいう哲学的問答法である。
 
 ものを知っている人々に想起の弁をはかるという役目を果すだけのものであると考える人、――そして他方、正しきもの、美しきもの、書きものについての教えの言葉、学びのために語られる言葉、魂の中にほんとうの意味で書きこまれる言葉、ただそういう言葉の中にみ、明瞭で、安全で、真剣な熱意に値するものがあると考える人、――そしてそのような言葉が、まず第一に、自分自身の中に見出され内在する場合、つぎに、何かそれの子供とも兄弟ともいえるような言葉が、その血筋にそむかぬ仕方でほかの人々の魂にの中に生まれた場合、こういう言葉をこそ、いわば自分の生み出した正嫡の子とも呼ぶべきものであると考えて、それ以外の言葉にかかずらうのをやめる人、――このような人こそは、おそらく、パイドロスよ、ぼくも君も、ともにそうなりたいと祈るであろうような人なのだ。(『パイドロス』278A~B)

 右のように語られた後に、『パイドロス』の最終章「六四」では、ソクラテスによって、書くことを否定的に捉える言葉が述べられることになる。「詩人」や「作文家」や「法律起草家」などの名で呼ばれるに相応しい人こそは、(作品以上に価値あるものを自己の中にもっていない人」であると。リュシアスのように、弁論家であり「文筆弁論家」である人たち、詩を作る人たち、法律についての書きものをする人たちは、真実がいかにあるべきかを知り、自分の書きものを訊問されたとき正しく答えられ、書かれたものは価値の少ないものだと、自分が実際に語る言葉そのものによって証明する力をもった人であるなら、「詩人」や「作文家」や「法律起草家」というような肩書きで呼んではならない、彼らには「愛知者」(哲学者)と呼ぶにふさわしいとソクラテスは語るのである。

 真実の永続的な機能
 『パイドロス』に散見する「書かれた言葉」に対する否定的見解から、現代哲学者で「脱構築」で知られるデリダは「話す言葉」の優位を主張したと、藤沢令夫氏は『哲学の課題』で述べている。「デリダは、プラトンが『パイドロス』のなかで、書かれた言葉がもたざるをえない限界を指摘して、文字言語を万能視することを戒めている箇所を、鬼の首でも取ったように何度も引き合いに出している。しかし「書くこと」(文字言語)自体の軽視と、それに対する「話す」(音声言語)一般の優先視を読みとるということ」はまったくの誤解であり、話された言葉が書かれた言葉の限界と欠陥を免れているとは一言もいっていないと主張する。プラトンにおいては、口で語られる言葉は文字で書かれる言葉と同等であると明言されていると指摘する。
 ミシェル・フーコーも同様の見解を『自己と他者の統治』で述べている。ソクラテスによって即興的に語られた二番目の言説に対して、リュシアスの言説より優れているのは、「代筆弁論家」であるリュシアスが書いた言説だからであるとするパイドロスをソクラテスはきっぱりと否定したのであり、「ソクラテスによれば、言説を書くということのうちに、それ自体で卑しいものは何もなく、物事が卑しくなり始めるのは、書くにせよ口で語るにせよ、良い仕方で語らず、悪い仕方で語るときだ」(『パイドロス』258D「自己と他者の統治」からの翻訳)を引用して、書かれた言葉と話された言葉を同列に置いていると指摘する。デリダによって誤解を生んだのは、おそらくソクラテスが重要視する、哲学的問答法(パロール)にあるのではないかと私には思われる。

 ミシェル・フーコーは先に取り上げた書物で、ソクラテスによって語られた、エロースに関するミュートス
である二番目の話の先に展開する問題とは、「言語の技芸という問題、そしてロゴス(言語)に対する本当のテクネー(技術)という問題についての直接的な考察」であると指摘する。第一に、「それは弁論術なのか、それとも弁論術以外のものなのか」、第二に、書くこと(エクリチュール)は、言説のテクネーのうちに位置づけられるべきなのか」という問題を提示しているとフーコーはいう。しばらくフーコーの『パイドロス』読解に耳を傾けてみよう。先述したように、書かれたものと口で言われたものに区別を設けず、良い仕方であるか悪い仕方であるかをソクラテスは問題にした。ある言説が(書きものであれ、語られるものであれ)、真実を知っているかどうかで決定されるというパイドロスの主張に対して、ソクラテスはきっぱりと否定する。つまり、語るまえから知ることだけで真実が示されるのであるなら、その人の言説は「言説の良き実践にとっての前提条件ではない」、なぜなら「もし言説よりまえに真実が与えられているのだとすれば、弁論術は、言語にとっての一連の飾りや変容、一連の組み立てやゲームであり、それによって本当のことが忘れられ、消去され、隠され、とりのぞかれてしまうようなもの」であるからである。つまり、「言説が真実であるためには、真実の認識が語ろうとする人にあらかじめ与えられていてはならない」とフーコーは解釈した。それでは、真実の把握を弁論術に要求するソクラテスの言説と矛盾しないのだろうか。
 フーコーは『パイドロス』の引用されたスパルタ人の箴言を取り上げ、「言説、つまり、言葉(パロール)についてのetumosな技芸(自らの技術によって扱う存在にもっとも近いような技芸)、正真正銘の技芸が本当の技芸となるのは、真実が言説にとっての永続的な機能となるという条件においてのみ」であると説く。それではどのようにして必然的で永続的な関係は保証されるのか。ソクラテスは、真実は精神的前提条件ではなく、「言説があらゆる瞬間に関係を取り結ぶものでなければならず、「議論のある一部分の全体を通じてそれは中刷りのままにされるのであり、」「宙吊りにされた部分を後で改めて取り上げ、配置し直すことになる」(フーコー)と考えているのだという。説得することを目標とする弁論術は、言論による魂の教導という範疇における一つに過ぎないので、ソクラテスは弁論術を超えて、魂の教導全般について語ろうとするのであった。
 魂の誘導は哲学的問答法(ディアレクティケー)によって実践されることになるだろう。ここには知という二重の必要性があるとフーコーは指摘する。しかしそれは、「語る側の必要性と語りかける相手に応じた必要性ではない(、、)よう(、、)な(、)もの(、、)として理解しなければならない、なぜなら、「魂が〈真実在〉の認識へと接近し得るのは魂の運動によってであり、また魂が自らを認識し、自らの本質――すなわち、〈真実在〉そのものと近親性があるものー―を認知するのは、存在するものの認識においてだからである」とフーコーはいう。
 この理解することに困難を要する真実への考え方は、『パイドロス』におけるソクラテスの語る二番目の話の助けによって容易に捉えることができる。イデア界を上昇しようとするエロースを讃美する本当の愛についての言説は、「真理への接近と、魂のそれ自身に対する関係とのあいだにある結びつきをあらかじめ示していた」とフーコーはいう。〈真実在〉そのものとの関係を持つべく対話術の道を進む者は、自分自身の魂に対して、あるいはー―愛によってー―他者の魂に対して、あるひとつの関係を持つことを避けられないのであり、その関係とは、その魂がそれを通じて変化を被り、真実に接近することが可能となるような関係なのだ」とフーコーは述べるのである。ここにおいて『パイドロス』における二つの主題(あるいは三つの主題)、本当の愛(エロース)をイデアに導いた「恋」と、弁論術を乗り越えた先の真実の言説についての考察が見事に結ばれるのである。つまり、「ロゴスの哲学的なテクネー(技術)は、真実についての認識と、魂の自分自身に対する実践ないし修練を同時に可能にするようなテクネー」であるとフーコーはいう。
 弁論術ではいかに相手を説得させるかにのみ関心が注がれた。それは「聞く者の魂に生じさせる効果だけを留意している」ことになる。それに対して、哲学的な言説は、語りかける相手の魂だけでなく、語る者の魂に働きかける効果と切り離すことができないものである、魂の教導とはまさしくそれであるとフーコーはいう。
 真実の認識と、魂についての実践、哲学的問答法と魂の教導は一体化される。弁論術には「言説の技術」が存在せず、真正な技術(etumos tekhné)は哲学にあることが明かされたのである。本当の哲学者とは哲学的問
答(対話術)を行使する人であり、真のパレーシアストであるとフーコーは結語する。

 フーコーの講義録『自己と他者の統治』の末尾に載せられたフレデリック・グロの「講義の位置づけ」によ
ると、プラトンの「ロゴス中心主義」を批判するデリダに応答するフーコーの見解が見られるという。プラトンに見出されるものは、「エクリチュールの拒否」ではなく、書かれたものであろうと口頭によるものであろうと、「ロゴスの総体から価値剥奪するような、自己の自己に対する黙した営み」(グロ)である。両者の分割線は、「弁論術的な言説の書かれているという存在様態と、哲学的な言説の自己修練的な存在様態」(フーコー)のあいだにあるとグロは述べる。プラトンの第七書簡からうかがい知れるように、プラトンの考える哲学の営みとは、言説に終わらず実践や試練に身をさらし、権力に向かい合う中で見出されるものであろうとグロは指摘する。(プラトンのパレーシアステース的考察は、このエセー『自己への配慮と詩人像』で次回、論じることにする。)

エクリチュールという問題
藤沢令夫氏は『プラトンの哲学』の序論で、二千数百年にわたって熱心なプラトニストと反プラトニストがいて、さまざまな解釈と評価がなされてきたが、その一つの要因はプラトンの著作が「対話篇」、つまりプラトン自身の考えは登場させずに叙述されたことにあるという。二十世紀に入って、プラトンを全体主義者として攻撃、あるいは弁護する論評があった。社会主義の預言者として解釈されたかと思えば、右翼的革命家、ファシズムの先駆者とみなされることもあった。しかし議論が皮相に流れてしまうのは、「その国家論と政治思想は今日のわれわれが「分野」として区別する認識論、形而上学、倫理学、文芸論などを貫通して深く根を張っている」からであると藤沢氏はいう。一方、哲学や文学においても右に列挙した分野と複雑に絡み合っているので根本的批判は困難であるように思われる。また、近世の「認識論中心の哲学」をギリシア哲学(とくにプラトン)からの連続と見なしている、つまり「ギリシア以来の哲学的伝統」を単純に総括してしまう風潮にあると藤沢氏は『哲学の課題』で述べている。そのような論者の一人にR・ローティを挙げた。詳しくは別の機会に論じることにするが、先述したデリダもその中に加えられる。彼らはハイデッカーのギリシア哲学解釈、ギリシア以来の西洋の哲学ないし形而上学の伝統の否定を鵜呑みにした論議であると藤沢氏は指摘する。ニーチェに始まるプラトン批判が現代思想を被いつくす状況の中で、ミシェル・フーコーが最晩年に古代ギリシアのテキストに辿りたことは勇気あることであり、大いに意義あることであると私は思う。
先述したデリダについて、井筒俊彦氏は『デリダのなかの「ユダヤ人」』(「井筒俊彦著作集9」収録)という論考で、プラトン以来のヨーロッパ哲学の長い歴史を「ロゴス中心主義」の上に立つ形而上学として規定して否定し、「解体」(déconstruction日本語訳では「脱構築」)しようとする。井筒氏は「ロゴスとは、永遠不変の超越的実在を意味」し、われわれの現象界の背後に超越して存在する形而上学的実在者を措定するものである。プラトンのイデア論は典型的な哲学的表現であり、その伝統は中世、近世を通じてヨーロッパ思想史を支配してきたという限りで「解体」は思惟のギリシア性の否定であると言える。しかしヨーロッパ文化にはヘブライズムもともに西洋文化の歴史を織りなしてきたのであり、「その生々しい具体性と継承性において『旧約聖書』の神、ヤハヴェの比ではない」と主張する。デリダは、「起源と系統とをまったく異にする二つの潮流、ギリシア的思考とユダヤ的思考」との「歴史的合流の所産」を「ロゴス現前の形而上学」(経験存在秩序の下で異次元の超越的実在を措定し、意識体験の事実として現在、今ここで直触できるもの)と把握し、それを否定し解体する。その結果、ものは現存せず「痕跡」だけを残すことになると考えている。井筒氏はデリダの徹底した「解体」の言語哲学と、東洋思想の古くから根底にある「空」、「無」の宗教哲学の接点を模索し、現代哲学の展望を「共時的東洋哲学」に構造化したのであった。
また、藤沢令夫氏によると、デリダの「ロゴス中心主義」は、「話される言葉」を「書かれる言葉」の上に優先させる「音声中心主義」と等置される。「ギリシア以来の西洋の哲学者たちは今日までつねに話し言葉を重視して書き言葉を軽視してきたというデリダの主張はありえないことであると藤沢氏はいう。そういった「ロゴス中心主義=音声中心主義」が文字言語特有のことと錯覚してきた意味と言語の間のずれ、差異と繰り延べ、記号としての痕跡性などは、話される音声言語にも確在しているのだと藤沢氏は主張するのである。
井筒氏は『書く』(「井筒俊彦著作集9」に収録)という論考で、「古来、ヨーロッパの思想の伝統では、言語に関しては、パロール(話される言葉)が第一義的、エクリチュールは第二義的とされてきた」が、デリダはそれの上位下位関係を逆転させる」、「それはアルファベットという表音文字の責任でもあるのだ」と指摘する。(この『自己への配慮と詩人像』の後半、詩人像においてさらに深く考察することになるであろう。)
フーコーは『自己と他者の統治』に収められた一九八三年三月二日講義の最後に、書くこと(エクリチュール)についての問いが残されているので、次回に話すと述べただけで講義に取り上げることはなかった。しかし講義原稿の最後の部分が存在し、翻訳書には掲載されている。それによると、リュシアスの言説の質の悪さは、それは書かれているということに関係がないとソクラテスは答えたのである。「ロゴスと書くことの間にはいかなる分割もないが、二つのロゴスのあり方の間には分割がある」。「一方は弁論術的なあり方と、他方には哲学的なあり方がある」。前者は「真実性に無関心であり、魂に対して追従という仕方でしか語りかけず」、後者は「真実性の真の姿と魂の実践に結びついており、魂の変容ということも含んでいる」というフーコーの記述があり、先述した彼の解釈とほぼ同様と判断してよい。
エクリチュールとは「書くこと」を意味するフランス語であるが、現代のロラン・バルトなどの記号学では文学的行為として、あるいは文化を読み解く手段として、その意味は大きく広がりを見せる。デリダにおいては行為にまで及ぶ。哲学においても言語論的考察はエクリチュール抜きには考えられないだろう。中国語や日本語のような表意文字の機能は、エクリチュールの概念を大きく変えるものになるかもしれないと井筒氏は指摘する。ともあれ、プラトンのテクストを深く読み解くことによって、デリダに代表されるプラトン哲学の偏向を把握し、詩学におけるエクリチュールの可能性を探っていくことが求められる。

(参考文献)『饗宴 パイドロス』(プラトン全集5)『ソクラテスの弁明 パイドン』(プラトン全集1)『ゴルギアス メノン』(プラトン全集9)『国家』(プラトン全集11)「プラトン『パイドロス』註解」藤沢令夫、『プラトンの哲学』藤沢令夫・以上、岩波書店、『自己と他者の統治』ミシェル・フーコー(筑摩書房)、『井筒俊彦著作集9』中央公論社



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