ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

鏡、小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より

2012年07月18日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より



小林稔



 肩から提げていた黒の縁取りの 白い布製のカバンを座敷

に放り投げたが、祐一はカバンを見つめて 少しとまどいを

感じた。

 母は台所にいる。俎(まないた)を打つ包丁の音がしてい

たが、急にとだえた。

「ゆうちゃん、帰ったの?」

 祐一は その言葉に引きずられ、半開きの扉の向こうで背

中を見せている母親を 盗み見した。友達と会う約束を破ろ

うとしている自分に苦笑しながら 階段を音立てて上がって

いった。

(ぼくはいつも一人で部屋にいるんだ。勉強なんかするわけ

でもないのに)

 唇を真一文字に結んでみたが すぐに眉がゆるんでしまう。

机の引き出しから鏡を取り出し、手のひらにのせた。顔を斜

めに構え、そっと鏡を覗いた。うしろめたい気持ちがした。

 伸びすぎた坊主頭のてっぺんは 寝癖がついて毛が立って

いる。そこを指で押した。鏡の視線と合わないようにして、

鏡を裏返そうとしたとき、鏡の眼が祐一を捕らえてしまった。

 少年を見逃すまいと、大きく瞠(みひら)いた眼は手のひ

らの中で ジリジリと迫る。

(これはぼくの眼だ。だってそうじゃないか。おかしいじゃ

ないか)

 何度も自分に言い聞かせた。鏡の中の大人びた眼は 彼の

言葉を翻(ひるがえ)した。鏡を持つ手は硬直し、心臓はわ

なわなと震えた。もう見続けることはできない。魔法にかか

ったように、祐一は視線を逸(そ)らすこともできなかった。

(がんばるんだ。もう少しだ)

 そういう声が 頭の奥から聞こえた。知らないうちに 祐

一はその声に自分の声を重ねていた。声は次第に高まり い

く人もの合唱になった。そして突然 やんだ。

(もう少しだ。もう少しで、ぼくは君になるんだ)

 祐一は思わず 大声で叫んだ。それは自信に満ちた声だっ

た。頬を涙が伝って、すぐに祐一の顔に微笑みが帰ってきた。

 鏡の中にも同じ微笑みがあった。


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