ヒーメロス通信


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連載エセー⑤井筒俊彦『意識と本質』解読。イブン・アラビー「存在一性論」

2012年07月06日 | 井筒俊彦研究
連載エセー⑤井筒俊彦『意識と本質』解読。

連載/第五回
小林稔


P29-P33
イブン・アラビーの「存在一性論」

 経験界の事物を真実在者の現われに過ぎないものとし、経験的存在者を表層意識の概念思惟的な虚構とし否定することは、ヴェーダーンタ哲学と変わることはない。

 イブン・アラビーによれば、世界すなわち全存在界は唯一無二の真実性である絶対無分節の「存在」が様々な「限界線」によって分節された形で我々の表層意識に現われたもの。
                         『意識と本質』Ⅰ

 ヴェーダーンタ哲学との相違は、「絶対無分節実在としての一者と、現実界において見られる分節的多者との結び付きが直接的でなく間接的である」という点にあると井筒氏は説く。実際に、一者から多者の間に「有無中道の実在」という中簡領域を設定する。分節的多者性を、純粋「存在」そのものの文節的自己展開と考える。つまり、「一者がそれに内在する自己分析的性向に促されて積極的に分節展開し、多者となって存在的に顕現する」ことであると井筒氏は分析する。中間領域として設定する「有無中道の実在」においては内的に可能性としてすでに分節された段階であり、分節の方向性を決定する。それが存在「限界線」の原形、すなわち「本質」の原初的形態であると井筒氏はいう。表層意識に現われる事物の「本質」は、有でもなく無でもない「存在範型」が俗締的に有として色褪せて顕現したものと考えられると井筒氏は説明する。つまり「絶対一者の間接的自己顕現」として見ることできる人には、「本質」もまた実在的なのだ」と言えるという。純粋「存在」の分節的自己展開と考えるのであり、シャンカラのように「マーヤーの働きであたかも多者であるかのようにわれわれに見える」のとは違うと井筒氏は指摘する。
イブン・アラビーの本質論は、「本質」非有説と「本質」実在説の中間にあるが、現象的な経験界の事態としては「本質」は真の意味では実在しないとする態度が見られると井筒氏は考えるという。

 もう少しイブン・アラビーの哲学に踏み込んでみよう。
イスラーム文化に内在する神秘主義をスーフィズムと一般的には呼ぶ。全く関係のない二つの潮流である、哲学とスーフィズムが対立と接近を繰り返して、ついに融合し、イスラーム的な哲学が誕生した。
スーフィズムと哲学の融合は、西暦十二世紀後半から十三世紀前半であり、その時期に出現した二人の偉大な思想家が、イランの哲学者スフラワルディーと、上で述べてきたアラビアの哲学者イブン・アラビーであるといわれている。イブン・アラビーはスペインのコルドバで生まれ育ったアラブ人で、後にコルドバを離れ旅をしてシリアのダマスカスで亡くなった。スフラワルディーはイランの人でアラビーと同様にシリアに移り住みアレッポで亡くなったと伝えられている。シリアがイスラーム文化の一大中心地であったことが知られる。井筒氏の著作『超越のことば』(Ⅲ 存在と意識の深層)によると、彼らが生まれる以前からスーフィズムは新プラトン派の哲学の影響を受け独自の理論を成立させていたという。「アリストテレスをプロティノス風に解釈する過程を通じて」、神秘主義としての新プラトン主義と接していたので、イスラーム哲学ははじめから神秘主義に触れていたといえるが、神秘主義と哲学は長い間、敵対関係にあったと井筒氏は解釈する。
 スーフィズムは本来思想ではなく、禁欲修業の道であった。哲学の方は、アリストテレスの哲学が主流であった。イスラーム世界でいうファルサファー(哲学)は、「ギリシア哲学をイスラーム的コンテクストにおいて一神教的な教義、あるいは一神教的信仰に適合したような形で展開したもの」であると井筒氏は述べる。

 イスラーム哲学の発展史を井筒氏の『超越のことば』から要約すると次のようになる。
第一期――十一世紀から十二世紀
 イブン・スィーナー(イランの哲学者、西洋ではアヴィセンナという名で知られた)と、イブン・ルシド(アラビアの哲学者、西洋ではアヴェロイスという名で知られた)がいる。イスラーム哲学はアリストテレスの著作をギリシア語からアラビア語に翻訳する作業から始まったといわれているが、アヴィセンナが、新プラトン派の強い影響があると思われるのは、彼のアリストテレス解釈が著しく新プラトン派であったからであり、アヴェロイスから見ればアリストテレスの思想が歪曲されてイスラームに取り入れられた責任はアヴィセンナにあると考えたであろうと井筒氏は指摘する。
アヴィセンナのスーフィズム的傾向に比べて、徹底的にアリストテレス主義者であったアヴェロイスは、スーフィズムに真正面から対立することを意識していたと井筒氏はいう。
アヴィロイスの思想はトマス・アクィナスに決定的な影響を与え、その後ローマ教会内部に大きな波紋を投げたと井筒氏はいう。
第二期――十二世紀後半から十三世紀前半
 すでに論じたスフラワルディーとイブン・アラビーである。イブン・アラビーにおいて神秘主義と思弁哲学は融合一体化し、イスラーム神秘哲学の出発点となったと井筒氏はいうが、イスラーム神秘哲学を理解するためには神秘主義そのものを深く理解しなければならであろう。井筒氏によると、神秘主義の特徴としてリアリティーの多層的構造があるという。経験的世界は存在の外側、表側あるいは表層に過ぎず、いくつもの層が垂直的方向に広がっている。存在領域の多層的構造である。下に行くほど暗く、知覚や知性では暗闇に迷い込んでしまうだけだ。このように表層から深層までの全体を現実リアリティーと考えることが神秘主義の初歩的段階であると井筒氏はいう。
 第二の特徴として挙げられるのが、上で見た多層構造に対して、見る人間の意識にも多層構造があるということである。客観的現実の多層と主観的意識の多層には対応関係があるということである。意識と現実、つまり主体と客体を区別することは神秘主義の立場では考えず、主体的世界と客体的世界の存在秩序が区別されるのは、あくまで表層的事象であり、深部に分け入れば区別は薄れ最後はなくなると井筒氏は指摘する。客観的現実と主体的意識が混淆し一体となっていて、力点の置き所によって客体的現実になったり、主体的現実になったりして現われてくると井筒氏はいう。意識の深層が開かれれば現実の深層が開けるということであるが、感覚や知性に基づく認識形態は根強いものであり、修行が必要になる。これが第三の特徴であると井筒氏はいう。意識を日常的状態から観想(瞑想)と呼ばれている状態に導くための特別な修行方法を必要とすると井筒氏は説く。瞑想状態にあるとき、自我意識の消滅、自分という主体の消滅が必要とされる。なぜなら経験的自我は偽りの自我であるからである。自我を消滅させると真の闇が訪れる。神秘主義にとっては、この闇こそが本当の光であり、全存在が全宇宙が煌々と光の海と化する。それが真我、真の主体として自覚される。仏教でいうと無と空にあたると井筒氏は解釈する。
 スーフィズムはシャーマニズムと同様に、意識の深層のイマージュ化が特徴であると井筒は分析する。意識の働きが内面化され深化され、スーフィー自身の言葉で言えば、魂の鏡が磨かれていくにつれ、思いもかけないイマージュが現われてくる。
 「人間を肉体と魂との結合と考え、魂の救済にその宗教性のすべてをかける」というセム的な一神教の形態をイスラームは重要視する。イスラーム哲学の霊魂観とスーフィズムの霊魂観の違いは、前者は魂は人間自我の座であるのに対して、後者は魂は人間の実存を神の自己実現の場、神が自己を現わす場所として自覚させるものであると井筒氏は説く。
 先ほど述べたアヴィセンナは、「われ」の意識を中心にその回りにあらゆる意識の働きが生起し、その全体が霊魂と考えている、つまり霊魂とは自我意識の場であると考えたと井筒氏は解釈する。しかしこのような考えをスーフィズムは否定する。自我の危険性から脱出するためにスーフィズムの修行があると井筒氏はいう。スーフィー的意識構造について井筒氏は『超越のことば』で詳しく分析しているので関心のある方はひも解かれるとよい。
ここでは深層意識のスーフィー的構造と唯識的構造を比較して終えたいと思う。スーフィーズムでは五つの層に分ける。ナフス・アンマーラ、ナフス・ラウワーマ、ナフス・ムトマンナ、ルーフ、シッルと次第に深層に降りていく。それぞれ違った魂がある。仏教の唯識では第一段目に、表層意識の領域に五つの識(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)があり、それより深いところに、第二段目に五つの感覚器官を統合する、ものについて思惟する働きのあるところ、その一段下に、つまり第三段目に第七末那識、ここが自我意識であり、その一段下に阿頼耶識という潜在意識の領域がある。整然たる四階層的意識の構造モデルであると井筒氏は解説する。スーフィズムの意識構造モデルは自我意識の消滅の過程として立てられるのに対して、唯識の構造モデルは、煩悩の働きそのものの構造化であると井筒氏はいう。「意識の表層を支配している煩悩の根を、より深くより深くさぐっていくと、その究極の場としての阿頼耶識に到達する。」それは「われわれの迷いの根源的、究極的根源があってそれが暴露されるからこそ、それをさらに悟りに転換させる可能性が成立する」のであり、阿頼耶識の本来の働きを停止し、新しい性質のものに変質させることにより、自我意識が消滅し、自我意識によって引き起こされる存在的妄想も消えうせることになる」と井筒氏は解釈する。スーフィズムでは、最深層に下りていけば自ずと自我意識が消滅するのであり、その絶対無が神の顕現につながっていく。人間的意識の「無」から心的意識の「有」へと転換していくところにスーフィズムの特徴があると井筒氏はいう。
 このスーフィズム的主体の「神的われ」の絶対境地から、人間的理性の次元に降りてきて哲学的に思惟し始めたらどんなことになるかを井筒氏は考察する。哲学的思索へは行かず、スーフィズムに留まって文学の道に分け入る人も多いが、体験を基にして哲学を始める人もいて、その最も偉大な哲学者が先ほど名前を挙げたイブン・アラビーとスフラワルディーであった。
「意識のゼロ・ポイントに忽然と現われる実在のゼロ・ポイント」は、スーフィズムでは「ハック」と呼ばれていて、大乗仏教の「真如」や「空」、禅の「無」と比べることができると井筒氏はいう。イブン・アラビーは「存在」と呼んでいる。「絶対無」としての存在であり、存在者ではない。ハイデッカー的にいえば、「ザイン」であって「ダス・ザイエンデ」ではないと井筒氏は説明する。「存在はそのゼロ・ポイントにおいてのみ真相を開示する」とはいえ、一般の人たちには現象学的形態しか見えないので、そこに見えるものをほんとうにあるものと思い込むが、アラビーは例えば花があるのではなく、存在があるだけだという。つまり「存在的エネルギーがここで花という形に仮に結晶して自己を現わしているとでも言うべき」であり、「絶対無限定な存在(絶対的一者)そのものを頂点において、その自己限定、自己分節の形として存在者の世界が展開する」ということになると井筒氏は解釈する。頂点が存在のゼロ・ポイントでは、絶対の無でありながら、一切の存在者が出てくる究極の源であり、大乗仏教でいう「真空が妙有に切りかわるところ」に該当すると井筒氏はいう。
 存在モデルとしての三角形を考えたとき、三角形の全体を生命的エネルギーとしての「存在」の自己展開の有機的体系と見ることができ、頂点にその「存在」(絶対的一者)を置き、この三角形を二本の底辺で切ると三つの大、中、小の三角形が頂点を共有し重なっているように見える。三角形の頂点をアハドと呼び、小さい三角形の底辺をワーヒドと呼ぶ。アハドを「絶対一者」とすると、ワーヒドは依然として一者ではあるが外的には一者ではあるが、内的にはもう白紙でないような一者、つまりすべての数を可能的に含んだ一であり、イブン・アラビーの哲学的体験では、このワーヒドが「アッラー」に当たると、井筒氏は解釈する。これでわかるように、アラビーはアッラーの上に神以前の状態を置いている。一番上の底辺から次の底辺までの台形の部分をワーヒディーヤと呼び、神の自意識の世界、存在が潜在的に分節されている領域であると井筒氏はいう。さらに下の台形のカスラと呼ばれている領域は多数の世界、神の世界創造の世界である。先に述べたワーヒディーヤの領域は、存在エネルギーが結晶点を見出してはいるがまだ現実に存在する事物ではない、存在元型が現われる領域であり、アラビーはこの存在元型、あるいは神の意識の内的分節を「有無中道の実在」と呼んでいると井筒氏は説く。アラビーが、これらの「有無中道の実在」は固定したものではなく、流動性をもった存在の鋳型、事物の根源的イマージュを生み出すものとして表象していて、「有無中道の実在」という鋳型を通じて、「存在」と呼ばれる永遠不滅の想像エネルギーが、われわれの経験的、現象的世界として実現すると考える、これが「存在一性論」であると井筒氏は解釈する。

 イブン・アラビーの思想は、長い歴史の過程でテクスト解釈上さまざまな哲学的学派を生んだのであるが、上で紹介したのはイブン・アラビーに淵源する「存在一性論」学派の思想であると、井筒氏はいう。アラビーは厖大な量の書物を書き残したが、その難解さから俗人には閉ざされた世界であった。理性的に思想体系を仕上げ、アラビーの秘教的教説に形而上学的構造を与えた、門下のサドルッ・ディーン・クーナウィーがいて、彼はイブン・アラビー派の最高権威となったと井筒氏はいう。


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