ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

詩誌「Kototoi」創刊号を読む。

2012年01月21日 | お知らせ

 昨年末に詩誌「Kototoi」が刊行された。冒頭の「詩を失った時代に」という菊谷倫彦氏のエセーと、吉本隆明氏の対談を興味ぶかく読んだ。まず、「詩を失った時代に」には多くシンパシーを感じるが、文学者の「勉強の毒」については反論がある。「私たちは、ロジックなど追い求めずに自分のからだのなかにある詩に立ち戻ればよいのである」と著者はいうが、そういう生理が尊重される一方で、文明に対する知的な考察も必要であろう。詩が日常から生み出されるものであり、生活すること、「生きることから力を取り戻す」ことが求められているが、「小さく生きること、低く生きることが私たちの課題だ」という主張は受け入れがたいものがある。例となる詩が引用されていないので分かりにくいが、著者のいう詩なら非詩人によって数多く生産されている。ほんとうの詩人の日常は特異なものである。なぜなら言葉は日常性と非日常性の両方の領域に跨るものであるからである。それを携えて詩作する詩人は単なる一般の人がよしとする日常性だけに埋没することはないのではないか。しかも現実に生きる空間で言葉とともに生を拓いて行こうとする。いつかこういった問題を突き詰めて論じていきたいが、いまは感想程度にしておく。
 吉本隆明氏とのの対談は、かつての彼の著作「アフリカ的段階について」論じている箇所に興味をそそられ、さっそく読んだ。もとになっているヘーゲルの「歴史哲学講義」をはじめて読み、考えることが多くあった。吉本氏が「アフリカ的段階」を自分なりに広げて詩を書くことの視点を見つけたいと述べている。ヘーゲル以降、ヨーロッパ中心の史観か、それ以後の歴史を踏まえれば修正をすることができるであろう。アフリカ的段階をプレ・アジア的段階として内在史化を深く掘り下げていくこと、人類史の母胎として据えることが求められているという吉本氏の捉えかたに共感
する。このように詩人は彼独自の生活からの詩作のほかに知的作業としての文明への考察が必要なのである。教養主義に陥る詩人も一方で見られる(大学で哲学を教えていればよいのだ)が、だからといってすべての詩人に「ローカルに生きること」(菊谷氏)を求めることには賛成できない。「日常に詩を取り戻す」試みは、大きな視点を据えてこそ可能なことである。今年はこのテーマを考えていきたいと思う。


自画像 『遠い岬』以心社2011年10月20日刊からの一編

2012年01月15日 | 小林稔第8詩集『遠い岬』
自画像
   小林 稔                  

 私には十四歳で死んだ兄がいると信じている。生前、母はそのこ
とを洩らすことなく逝った。兄が十二年を生きて私が生まれたから、
容姿は私の記憶になく、もうろうとした意識で兄を捉えていたに過
ぎない。だが今もって兄の気配に包まれて私の生は持続している。

 あるとき、下腹部にザリガニの鋏で突かれたような痛みが走った。
その後もたびたび痛みは私を襲ったが、考えられる限りに遠い世界
から、何者かに呼ばれているような気がしてならなかった。
 中学生になったとき、身体の奥に蜜のようなものが溶け出し流れ
ていくのがわかった。不安と陶酔の入り交じった日々を過していた
が、程なく私は確信した。兄は私の身体に寄生して、私の命を生き
ようとしていることを。私が十四歳の誕生日を迎えたときから、兄
は弟としての存在を主張し始めたのである。兄は私が生まれるまで
の十二年の歳月をしきりに責め立てる。私とは何者なのかという疑
惑にかられると、私はいつも自己喪失に陥るのであった。空の高み
に軀が浮いたと思った瞬時、車の騒音や周辺の人々の声で身体は重
力を取り戻し地上に叩きつけられた。さらに妙なことに、眠ろうと
寝台に身を横たえたとき、死んだはずの兄が私の身体から抜け出し
私にぴたりと軀をつけ、向かい合わせに抱擁して眠りに落ちる。
――一人で生きることに耐えてきたんだ。もうぼくは兄さんから
離れたくない。十四歳の弟になりはてた兄は、私の耳朶に唇をつけ
前歯に力を入れた。暗闇に溶け入るように、私と兄は互いに身体を
共有し始めるのだった。
 日々に老いていく自分を鏡に写して、私は絶望に打ちのめされる。
加齢を知らない死者との就寝に訪れる交合。その度に私は死にはぐ
れる。弟である兄は、私の命がつき果てるまで生き永らえるに違い
ない。明けない朝を迎える日まで、私は真昼の雑踏に押し寄せる通
りすがりの 仮面(イマージュ)の一つを、日ごと寝台に持ちこたえて、
私は弟をいつくしむ。


   (詩集『遠い岬』収録 無断転載禁止)

「カナリア諸島」と「アンモナイト」 小林稔詩集『蛇行するセーヌ』から二編

2012年01月14日 | 小林稔第6詩集『蛇行するセーヌ』
カナリア諸島
      小林 稔


アンダルシアの野を縫って行くのろい列車が
とある駅で停車したきりいっこうに走らない
シエスタにも飽いた私のかたわらに
私と同じ一人旅の青年がやってきた
夏を取り込んだひまわりの種を頬ばりながら
イビサは地中海に浮かぶすばらしい島だという
瞳が海に照り返す光のように輝いている
夏の名残りの陽光が射した列車で

だが私がほんとうに行ってみたいのは
アフリカ大陸の西、海を隔てたカナリア諸島
スカンジナビア半島からイベリア半島に南下する私を
砂漠のカナリアになぞらえたがついに果たせなく

アフリカの夜
サハラに太陽が沈んで一つの町が消えると
世界が再生するのをひたすら待つしかない
海峡に揺られモロッコから還った私は
ヨーロッパの心臓、剃がれた神経の中枢
私がそう呼んだパリに、青春の導火線を抱え
ためらうことなく一直線に翼を広げた
運命にもてあそばれたかつての苦い記憶
 





アンモナイト
      小林 稔


 屋根裏の住人になって一ヶ月が過ぎた。午前五時。不眠症に陥ってい
る私がクロワッサンを買いに行く時刻である。外気を入れようとしたが、
小さな両開きの窓が凍り付いて動かない。いつものように階段を降りた。
この螺旋状の階段を日にいく度となく昇り降りしているが、廻りながら
私の脳髄にアンモナイトの形状が刻み込まれていく。左に巻かれたネジ
が降りる時には右に巻かれるので、かろうじて脳髄の平衡感覚は保たれ
ていた。三階の裏口を通過しようとした時、昇って来る若い女性に逢っ
た。手には、三本のフランスパンのバゲットの突き出た籠を持っている。
 「ボンジュール、ムッシュウ 」
消え入るような声が彼女の口から洩れると、私とすれ違うためアンモ
ナイトの薄汚れた内側の壁に彼女は体を寄せた。緊張した様子が彼女の
こわばらせている顔の引きつった表情から窺える。私が通過すると彼女
はすぐに昇り始めた。どこかの階の女中なのかもしれないと思いながら
私は降りて行った。中庭の片隅にはまだ夜の空気が押しやられて逃げ場
をなくしているような気がした。
 十二月初旬の朝は皮膚の毛穴を針で刺されたように痛い。エラン通り
を歩き、メキシコ広場に伸びたロンシャン通りに出ると、黒人の労働者
が舗道を清掃している。メキシコ広場まで来ると、一対の弧を描いて並
ぶショイヨー宮が見え、さらにセーヌを越えたところにエッフェル塔が
聳えている。ロンシャン通りに戻ると、勤め先に足早に向かう人々の姿
が一定の流れを作り始めている。果物屋には真っ赤なりんごがきれいに
顔を揃え、カフェが開店の準備をする。パリの日常生活があちらこちら
で動き出す。私はパン屋でクロワッサンを買い、あのアンモナイトの内
側の螺旋階段を左回りに廻って屋根裏に帰る。カフェオレを作って飲み、
クロワッサンを頬ばった後に休息を求めて眠りにつく。

 屋根裏に住んで一ヶ月をいく日か過ぎたころであった。家賃の支払い
をするため、マダム・Dのいる二階の扉の呼び鈴を押した。部分照明の
せいで薄暗いエントランスが開いた扉から見えて、マダムの姿が影絵の
ように浮かんだ。おっとりとした物腰で言った。
「あなたに逢わせたい人がいるの、来てくださらない? 」
彼女の背について歩き、廊下を折れ、私が一週間に一度だけ入りに来
る浴室の扉と反対側にある扉のところで立ち止まったマダムは、その扉
を叩いた。眼鏡をかけた小柄な青年が顔を出した。私とほぼ同年の小柄
な日本人の青年である。「昨日からここに住んでいるんですよ。」そう言
って彼女は紹介する。「 あなた、まだどこへも行かずにぶらぶらしてい
るようね。学校へ行ったらどう? 」私にそう言うと彼女は立ち去った。
私のパリ滞在の目的が彼女には理解できないのだ。部屋の中に入ると二
人の青年がいた。一人はサングラスをした大柄で体格のいい年上の青年
で盲目の針師であり、もう一人は二十歳ぐらいの痩せた大学生であった。
初めに顔を見せた青年は、フランス文学専攻の大学院生であることが分
かった。針師と一緒に日本から来たところに、旅をしている知り合いの
大学生が、かねてから約束していたパリで落ち合ったというのである。
私も自分の身の上を語り、いつのまにか話はランボーに及んだ。彼らの
眼には、私は詩を書かない詩人と映ってしまったようである。ランボー
は詩を棄て(中断?)アフリカの商人になったが、私はやがて詩を書く
ために、原初の経験に舞い戻ったのだ。ランボーの『イリュミナシオン』
を読まなければ、私は詩を書き始めることはなかったのは事実であるが、
詩を棄てようと思ったことは一度もない。私は言わば沈黙を強いられて
しまったのだ。築くべき生活をないがしろにして言葉の世界に深く沈潜
してしまった結果、日常生活から言葉を奪われたのだと思う。詩人は仕
事をこなし家庭を持ち日常にこよなく耐え、詩を開花させている。意識
では日常生活に抵抗するが、言葉だけの「この世の外」への脱出を夢見
ている。私が思い描く詩人に何と遠いのだ。言葉だけの世界で詩を書い
ていた以前の私は間違っていた。空白になった「生活」を移動する日常
で見つめ考え、築き上げようと旅立ったのだ。東京で暮らしていた私は、
混沌の海原に漂泊する一枚の葉のようであった。言葉は配列を忘れ、思
考はばらばらに崩れ、名づけられない物質たちが私を狙っていた。それ
でも詩を書く欲求は衰えなかったが、言葉は砂のように掌からこぼれ、
私を取り巻く世界は私によそよそしかった。一種の恐怖だけが私に残っ
た。詩を書くことは不可能であったが、そうであるだけに飢えを満たす
ように本に喰らいついた。言葉で世界を創造するには、なんと多くの経
験を必要とするかを知ったのだ。< changez de vivre >という詩人ラ
ンボーの叫びが詩を書く私から立ち去ることはないだろう。欠落してい
たのは密室の窓を解き放つことであった。私自身の変革が求められた。
生きるということを旅の過程で掌握しようと思ったのだ。書物は多くを
授けてくれるが、その真実は一人の〈私〉の行為に証されるのでなけれ
ば教養に終わる。まして詩人においては彼の生の他にどこに求められよ
うか。経験から世界を組み立てなければならない。そう思った時、砂漠
が見え、砂漠の向こうに、街々の喧騒があり、私を待ち受けているよう
に思われた。
 生活を求めて出発しよう。西欧から東に向けて辿り、目標は日本であ
る。私の出発を、このまま帰ってこなければ神話だ、と言った詩人は間
違っていた。私という身体に精神の根を張りめぐらすための旅であった。
一般にランボーについて考えられているような西欧社会(私にとっては
日本社会)からの脱出ではなかった。現実からの逃亡では無論なかった。

 それから二週間ほどしたある日、彼らの大学時代の教授で詩人でもあ
るランボー研究家のS氏が、一ヶ月の休暇を取ってパリに来ているとい
うので、彼らと親しくなった私はS氏のアパルトマンを、一緒に訪ねる
ことになった。S教授の語るところによると、フランス人は日本人が考
えるほどにランボーを天才詩人と思っていないらしく、「 道を歩けばラ
ンボーに当たる」と言うらしい。私が陸路でインドへ行くことをうらや
ましいと言った。詩人が小説を書くということが話題になっていた時期
であったので、その話になった時、そういう人はもともと詩人ではなか
ったのだ、登場人物を設定し話を作ることに興味がもてないのだという。
日本でランボー全集が企画され、彼が重要な訳者であった。ワインで眠
気を催したS教授はテーブルを離れ、ソファーに身を沈め目蓋をきつく
閉ざした。ジャコメッティの彫像を思わせる容貌の彼が、苦悩を耐えて
いるように眠り続けている。私たち四人はS教授に別れを告げ、地下鉄
を乗り継いでマダム・Dの住居に帰った。始終はしゃいでいる彼らの傍
らで、私は詩に導かれここまで来た自分を顧みて無口になっていた。S
教授にとって、詩とは言葉と行為を天秤の左右の皿にそれぞれ載せ、わ
ずかに重く傾く言葉の所在を探り出すことなのではないだろうか。私は
行為の果てに獲得する言葉を発見しようと躍起していた。

 早朝、地下鉄のクリニャンクール駅から地上に出てしばらく歩いて行
くと、ハンガーにつるされた洋服が迷路のようにいく列もの壁を作って
いた。防寒用のコートを買ってすぐに着た。ここがマダム・Dから聞い
ていた蚤の市であった。奥に進むにつれて洋服以外の生活必需品が見え
てきた。シャンデリアに使われていた一個一個の硝子の部品がばら売り
されている。椅子とテーブルなどの家具が道端に積まれ、その奥に電気
スタンドに囲まれ、椅子に腰を降ろして煙草をふかしている老婦人がい
た。その中の一つに付いた値札を見ると三十フランと書かれていた。薄
いベージュのレースを貼った傘が気に入り、モロッコでしたように値下
げをするよう老婦人に頼むと、彼女は頬笑んで頷き、小さな紙切れに鉛
筆を走らせ私に手渡した。二十六フランという文字があった。おそらく
それ以上値切るのは無理だろうと思い買った。さらに奥に入り、かなり
年季の入ったフライパンも買った。ここには生活に必要なものすべてが
ある。歩き疲れたので、蚤の市の入口近くにあるカフェに入った。苦い
カフェ・エキスプレスにずいぶん慣れてきていた。しばらくして店の一
角からジャズが流れてきた。若い青年たちのグループが演奏しているの
だ。久しぶりに聞くジャズに爽やかな気分になり、終わると私も思わず
拍手をした。ベースを弾いていた青年が黒い帽子を手に、カフェのテー
ブルをめぐり歩いている。客は硬貨を入れているようだ。私のテーブル
まで来た時、しぶしぶ五フランを一枚入れた。路上でなら立ち去ってし
まえるのに、ここではそうすることができないから仕方がないだろう。

 寒さが身に堪えるようになりマダム・Dにそのことを話すと、カーテ
ンの生地と古びた豆炭ストーブを持って私のいる屋根裏にやって来た。
布を切り針で縫い、素早くカーテンを仕上げた。内側まで凍り付いてし
まうことがある小さな窓にそれを掛けた。電気のコードに挟みを入れた
ので私が思わず叫んだが、火花が一瞬飛んで、マダムは目を丸くして身
をかがめた。差し込んだままのコードを切ったのであった。私が買った
電気スタンドのコードが短かったために彼女が長くしようとしたのであ
る。豆炭ストーブはすぐに暖まらなかった。こんな代物と思ったがない
よりはいいのだ。

 二階の日本人たちの帰る日が来た。マダム・Dのベトナム人の夫が車
に乗せて鉄道駅まで送って行くというので、私も便乗した。彼らと駅で
別れ、ベトナム人の運転する車がピーガールの歓楽街の人だかりのある
道に入り込んだ時、警察官が車の前方に立ち、不審そうに私たちの顔を
覗き込んだ。免許証の提示を求めただけであったが、アジア系やアフリ
カ系の人々が集い遊んでいる夜のパリと、そこで眼を光らせる警察官の
横柄な表情に、この街に巣食う欲望と退廃の一端を、偶然にも見てしま
ったような気がした。

 昼に私の部屋の扉を強く叩く音がした。鎖を固定し扉を少し開けると、
知らない日本人青年の顔があった。マダム・Dに聞いて来たのだと言っ
た。中に入るように伝え、扉の鎖を外した。あの日本人たちがこの間ま
でいた部屋を借りている、私よりいくつか年長の男であった。料理の修
業でパリに昨日来たのだという。彼はこの街の女性に興味があるらしく、
私が知り合いになった女の子はいないか訊くのであった。いろいろな人
がいるものだと思った。昨夜、近くのまだ歩いたことのない通りを散歩
していた時、新聞や週刊誌を売っている屋台のような移動式の店を見た。
週刊誌の表紙に性器をあらわにしたグラビア写真を目にして驚いたので
そのことを話すと彼は眼を輝かせた。娼婦が並ぶ通りがあるらしいこと
も旅行者から聞いて私は知っている。私には関心がない事柄である。






 

 屋根裏の住人になって一ヶ月が過ぎた。午前五時。不眠症に陥ってい
る私がクロワッサンを買いに行く時刻である。外気を入れようとしたが、
小さな両開きの窓が凍り付いて動かない。いつものように階段を降りた。
この螺旋状の階段を日にいく度となく昇り降りしているが、廻りながら
私の脳髄にアンモナイトの形状が刻み込まれていく。左に巻かれたネジ
が降りる時には右に巻かれるので、かろうじて脳髄の平衡感覚は保たれ
ていた。三階の裏口を通過しようとした時、昇って来る若い女性に逢っ
た。手には、三本のフランスパンのバゲットの突き出た籠を持っている。
「ボンジュール、ムッシュウ 」
消え入るような声が彼女の口から洩れると、私とすれ違うためアンモ
ナイトの薄汚れた内側の壁に彼女は体を寄せた。緊張した様子が彼女の
こわばらせている顔の引きつった表情から窺える。私が通過すると彼女
はすぐに昇り始めた。どこかの階の女中なのかもしれないと思いながら
私は降りて行った。中庭の片隅にはまだ夜の空気が押しやられて逃げ場
をなくしているような気がした。
十二月初旬の朝は皮膚の毛穴を針で刺されたように痛い。エラン通り
を歩き、メキシコ広場に伸びたロンシャン通りに出ると、黒人の労働者
が舗道を清掃している。メキシコ広場まで来ると、一対の弧を描いて並
ぶショイヨー宮が見え、さらにセーヌを越えたところにエッフェル塔が
聳えている。ロンシャン通りに戻ると、勤め先に足早に向かう人々の姿
が一定の流れを作り始めている。果物屋には真っ赤なりんごがきれいに
顔を揃え、カフェが開店の準備をする。パリの日常生活があちらこちら
で動き出す。私はパン屋でクロワッサンを買い、あのアンモナイトの内
側の螺旋階段を左回りに廻って屋根裏に帰る。カフェオレを作って飲み、
クロワッサンを頬ばった後に休息を求めて眠りにつく。

 屋根裏に住んで一ヶ月をいく日か過ぎたころであった。家賃の支払い
をするため、マダム・Dのいる二階の扉の呼び鈴を押した。部分照明の
せいで薄暗いエントランスが開いた扉から見えて、マダムの姿が影絵の
ように浮かんだ。おっとりとした物腰で言った。
「あなたに逢わせたい人がいるの、来てくださらない? 」
彼女の背について歩き、廊下を折れ、私が一週間に一度だけ入りに来
る浴室の扉と反対側にある扉のところで立ち止まったマダムは、その扉
を叩いた。眼鏡をかけた小柄な青年が顔を出した。私とほぼ同年の小柄
な日本人の青年である。「昨日からここに住んでいるんですよ。」そう言
って彼女は紹介する。「 あなた、まだどこへも行かずにぶらぶらしてい
るようね。学校へ行ったらどう? 」私にそう言うと彼女は立ち去った。
私のパリ滞在の目的が彼女には理解できないのだ。部屋の中に入ると二
人の青年がいた。一人はサングラスをした大柄で体格のいい年上の青年
で盲目の針師であり、もう一人は二十歳ぐらいの痩せた大学生であった。
初めに顔を見せた青年は、フランス文学専攻の大学院生であることが分
かった。針師と一緒に日本から来たところに、旅をしている知り合いの
大学生が、かねてから約束していたパリで落ち合ったというのである。
私も自分の身の上を語り、いつのまにか話はランボーに及んだ。彼らの
眼には、私は詩を書かない詩人と映ってしまったようである。ランボー
は詩を棄て(中断?)アフリカの商人になったが、私はやがて詩を書く
ために、原初の経験に舞い戻ったのだ。ランボーの『イリュミナシオン』
を読まなければ、私は詩を書き始めることはなかったのは事実であるが、
詩を棄てようと思ったことは一度もない。私は言わば沈黙を強いられて
しまったのだ。築くべき生活をないがしろにして言葉の世界に深く沈潜
してしまった結果、日常生活から言葉を奪われたのだと思う。詩人は仕
事をこなし家庭を持ち日常にこよなく耐え、詩を開花させている。意識
では日常生活に抵抗するが、言葉だけの「この世の外」への脱出を夢見
ている。私が思い描く詩人に何と遠いのだ。言葉だけの世界で詩を書い
ていた以前の私は間違っていた。空白になった「生活」を移動する日常
で見つめ考え、築き上げようと旅立ったのだ。東京で暮らしていた私は、
混沌の海原に漂泊する一枚の葉のようであった。言葉は配列を忘れ、思
考はばらばらに崩れ、名づけられない物質たちが私を狙っていた。それ
でも詩を書く欲求は衰えなかったが、言葉は砂のように掌からこぼれ、
私を取り巻く世界は私によそよそしかった。一種の恐怖だけが私に残っ
た。詩を書くことは不可能であったが、そうであるだけに飢えを満たす
ように本に喰らいついた。言葉で世界を創造するには、なんと多くの経
験を必要とするかを知ったのだ。< changez de vivre >という詩人ラ
ンボーの叫びが詩を書く私から立ち去ることはないだろう。欠落してい
たのは密室の窓を解き放つことであった。私自身の変革が求められた。
生きるということを旅の過程で掌握しようと思ったのだ。書物は多くを
授けてくれるが、その真実は一人の〈私〉の行為に証されるのでなけれ
ば教養に終わる。まして詩人においては彼の生の他にどこに求められよ
うか。経験から世界を組み立てなければならない。そう思った時、砂漠
が見え、砂漠の向こうに、街々の喧騒があり、私を待ち受けているよう
に思われた。
 生活を求めて出発しよう。西欧から東に向けて辿り、目標は日本であ
る。私の出発を、このまま帰ってこなければ神話だ、と言った詩人は間
違っていた。私という身体に精神の根を張りめぐらすための旅であった。
一般にランボーについて考えられているような西欧社会(私にとっては
日本社会)からの脱出ではなかった。現実からの逃亡では無論なかった。

 それから二週間ほどしたある日、彼らの大学時代の教授で詩人でもあ
るランボー研究家のS氏が、一ヶ月の休暇を取ってパリに来ているとい
うので、彼らと親しくなった私はS氏のアパルトマンを、一緒に訪ねる
ことになった。S教授の語るところによると、フランス人は日本人が考
えるほどにランボーを天才詩人と思っていないらしく、「 道を歩けばラ
ンボーに当たる」と言うらしい。私が陸路でインドへ行くことをうらや
ましいと言った。詩人が小説を書くということが話題になっていた時期
であったので、その話になった時、そういう人はもともと詩人ではなか
ったのだ、登場人物を設定し話を作ることに興味がもてないのだという。
日本でランボー全集が企画され、彼が重要な訳者であった。ワインで眠
気を催したS教授はテーブルを離れ、ソファーに身を沈め目蓋をきつく
閉ざした。ジャコメッティの彫像を思わせる容貌の彼が、苦悩を耐えて
いるように眠り続けている。私たち四人はS教授に別れを告げ、地下鉄
を乗り継いでマダム・Dの住居に帰った。始終はしゃいでいる彼らの傍
らで、私は詩に導かれここまで来た自分を顧みて無口になっていた。S
教授にとって、詩とは言葉と行為を天秤の左右の皿にそれぞれ載せ、わ
ずかに重く傾く言葉の所在を探り出すことなのではないだろうか。私は
行為の果てに獲得する言葉を発見しようと躍起していた。

 早朝、地下鉄のクリニャンクール駅から地上に出てしばらく歩いて行
くと、ハンガーにつるされた洋服が迷路のようにいく列もの壁を作って
いた。防寒用のコートを買ってすぐに着た。ここがマダム・Dから聞い
ていた蚤の市であった。奥に進むにつれて洋服以外の生活必需品が見え
てきた。シャンデリアに使われていた一個一個の硝子の部品がばら売り
されている。椅子とテーブルなどの家具が道端に積まれ、その奥に電気
スタンドに囲まれ、椅子に腰を降ろして煙草をふかしている老婦人がい
た。その中の一つに付いた値札を見ると三十フランと書かれていた。薄
いベージュのレースを貼った傘が気に入り、モロッコでしたように値下
げをするよう老婦人に頼むと、彼女は頬笑んで頷き、小さな紙切れに鉛
筆を走らせ私に手渡した。二十六フランという文字があった。おそらく
それ以上値切るのは無理だろうと思い買った。さらに奥に入り、かなり
年季の入ったフライパンも買った。ここには生活に必要なものすべてが
ある。歩き疲れたので、蚤の市の入口近くにあるカフェに入った。苦い
カフェ・エキスプレスにずいぶん慣れてきていた。しばらくして店の一
角からジャズが流れてきた。若い青年たちのグループが演奏しているの
だ。久しぶりに聞くジャズに爽やかな気分になり、終わると私も思わず
拍手をした。ベースを弾いていた青年が黒い帽子を手に、カフェのテー
ブルをめぐり歩いている。客は硬貨を入れているようだ。私のテーブル
まで来た時、しぶしぶ五フランを一枚入れた。路上でなら立ち去ってし
まえるのに、ここではそうすることができないから仕方がないだろう。

 寒さが身に堪えるようになりマダム・Dにそのことを話すと、カーテ
ンの生地と古びた豆炭ストーブを持って私のいる屋根裏にやって来た。
布を切り針で縫い、素早くカーテンを仕上げた。内側まで凍り付いてし
まうことがある小さな窓にそれを掛けた。電気のコードに挟みを入れた
ので私が思わず叫んだが、火花が一瞬飛んで、マダムは目を丸くして身
をかがめた。差し込んだままのコードを切ったのであった。私が買った
電気スタンドのコードが短かったために彼女が長くしようとしたのであ
る。豆炭ストーブはすぐに暖まらなかった。こんな代物と思ったがない
よりはいいのだ。

 二階の日本人たちの帰る日が来た。マダム・Dのベトナム人の夫が車
に乗せて鉄道駅まで送って行くというので、私も便乗した。彼らと駅で
別れ、ベトナム人の運転する車がピーガールの歓楽街の人だかりのある
道に入り込んだ時、警察官が車の前方に立ち、不審そうに私たちの顔を
覗き込んだ。免許証の提示を求めただけであったが、アジア系やアフリ
カ系の人々が集い遊んでいる夜のパリと、そこで眼を光らせる警察官の
横柄な表情に、この街に巣食う欲望と退廃の一端を、偶然にも見てしま
ったような気がした。

(つづく)

 

地上のドラゴン

2012年01月14日 | 詩誌『へにあすま』に載せた作品
地上のドラゴン
       小林 稔                       

明け方、夢の中で少年は
一羽の鳥になった。赤い眼で私を見上げ
ぼくをにんげんにして、と脆弱な声でしきりに鳴いた。

数式がきみを追跡し迷路に追いこんで
英語の文字が怪獣になりきみを呑みこむが
破裂を告げる赤ランプが点滅するきみのところに
あやしげな蜘蛛の糸をつむいで送信される
のっぺらぼうの電子メール
遠方からケータイにとどく言葉たちに
白い線を引いたこちら側で
きみはたしかな手ごたえを送信する。

グロいアニメーション
鎌をふりまわし足首から流れていく。
モノクロの血、あざけりわらう少女の声
きみの胸にMの傷を引いていく。
オトナたちの仕掛ける罠にひきずりこまれ
きみのしなやかな体躯にはらむ魂は
世界と慣れ親しむほどに傷口をひろげるだろう。
後方にひかえるどろどろの沼地で
夕映えの空を瞬時に暗雲が立ちふさがり
きんいろの光が、まるで躍り出た龍のように
天も割れんばかりに発現する。
きみの瞳孔に神経の枝枝が走り
おさえられていた欲情は防波堤を乗り越えた。

きみと私がふたたび地上で結ばれるには
世界の〈悪〉に捕えられ
なぶられ、縛られ、それでも
十四歳の魂は私の愛にこたえられるか。
うなだれ、起立するきみの首は
私の手のひらにもみほぐされ
謎かけを求める底なしのやさしさに
ためらい、よろめき、すりぬけ
私の注いだやさしさがきみの掌からこぼれ
私の掌にそそがれ、きみは魂を甦生させなければならない。
少年の衣を脱ぎすてるきみも愛する者になり
生涯、私と友愛をいつくしむことができるか。

闘うべきはドラゴン。
私たちの内に棲む怪物dragon
世界の胎盤に貼り廻らされたその血管は
いまぼろぼろに崩れかけて
ロゴスに魂を刻印する私たちの旅は
とどまることをしらない。


火 小林稔最新詩集『遠い岬』以心社2011年10月20日刊からの一編

2012年01月13日 | 小林稔第8詩集『遠い岬』

         万物は火から生成し、またそれへ解体する。
                             ヘラクレイトス
    小林 稔                  



鯉がアルミ箱の浅い水に尾をばたつかせる。
火粉を上げる炎が狭いお堂の真ん中で勢いづき
経文が女祈祷の口から怒声のように吐き出され、
炉のまわりにいくつもの赤い顔が数珠のようにつらなり
忍従している――隅々に視線をめぐらす幼い私がいる。

燃えている! 斜向かいの家から飛び出した老爺が
手術跡の喉穴から木枯らしのような音を発し、
かろうじて聴き取れた声。大通り百メートルつきあたりに火があふれ、
人だかりを影絵のように現出させた。
小学生の私は魅せらた、事の終末の美しさに。
家の台所で真っ赤になった窓ガラスが熱に耐えている。

―――職をなくした男が借金に追われガソリンを浴びて火をつけました。

液晶テレビの画面にニュースが流れ、私の耳と眼を引き寄せる。
「黒くこげて倒れる直前にあの人は口から煙を吐いたのです。」
インタビュアーの差し出すマイクに妻は朴訥(ぼくとつ)と語る。
男の焔の影像がふたたび脳裡をよぎり中空に立ち上げる、
引き裂かれた己の存在をかろうじて持ちこたえて。

十三階バルコニーの向こうに弧を描く海がひろがり
垂直に昇りつめる太陽。命あるものを廻る水。
その真昼の渇望に水はどこまで耐えられるか。
赤い太陽が忘れられた岬の先端に沈んでいく。
記憶の果てにさらなる闇。絶えざる夜戦がある。
沃土、すなわち経験の地層に撒種(さんしゅ)された未生のロゴスが千のコード
に群がり絡まる。私を呼びとめた言葉を紐解く者よ。あなたを求め、
死後も、ロゴスである〈私〉はさすらうだろう。

眼の一撃で世界は燃えつき凍りつく。生まれるまえに捥(も)がれた翼が
ゆるやかに痙攣する。あなたの後ろ姿に叫びつづける。
エクスタシーの波動に導かれ、私はすでにあなただ。