ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

小林稔第7詩集『砂の襞』思潮社2008年9月25日刊からの一編。(3)

2012年01月01日 | 小林稔第7詩集『砂の襞』
イラクリオン
     クノッソスの廃墟で
小林 稔            


海と空にひたすら心を泳がせるなら
五千年の時を耐えた野の傾斜に
まどろむ石に過ぎない旅人のぼくたち
神話の王と伝説の勇者の後先を問うことなく
ふたたび還りつけない時を辿るように
王の間から王妃の間へと
見えない扉に素足をしのばせる
くずれおちた天井からぼくたちの皮膚を照らす
円盤のような太陽の光線
背に刺すような痛みが走る
身体を捩れば 暴れる牛の影が足元に倒れた

旅に終わりはあるのか
スフィンクスの謎はさらに謎を生む
知るとは 無知を白昼の広場に投げ出すことだから
包帯で目蓋をぐるぐるに巻かれ
一人旅の記憶に引き戻される
――ロゴスよ われにこの世に生きる意味を与えたまえ
そのとき少し遅れて 君はもう一つの暗い道を歩いていた
放射状に伸びた道が集まる闘技場で 
ぼくたちは視線を交える
互いの背負う荷が軽く思えて
荷を換えて背負ったがいっそう重い
これから始まるぼくたちの旅が 
もうひとつの誕生の受難であるならば
いつか同じ身体に命を授かることがあるのだろうか

不器用に敷きつめられたモザイクの床に 
流れる黒い血
この世界という迷宮のどこか
ぼくたちを追ってくるのはミノタウロスの影だ
玉座でふんぞりかえったぼくの
突き出した顎をへし折ろうと
牛の頭をすっぽり被ったひとが 
ぼくのまえに立ちはだかった
奪われた両の手首を払いのけ
ぼくはふたつの角をつかんで むしり投げた
なつかしいが見覚えのない 水に映る青空のような 
顔をむき出した青年への殺意は瞬時に萎えた
ぼくの視界からすばやく消えると
反転する鏡の扉から姿を見せた君は
驚いたぼくを窺って横腹抱え笑った  






小林稔第7詩集『砂の襞』思潮社2008年9月25日刊からの一編。(2)

2012年01月01日 | 小林稔第7詩集『砂の襞』
シンバル

     小林 稔




廻廊の闇に両腕を泳がせて歩く
そしてぼくたちの額を割るように
あまりにも唐突に 扉が倒れ
深海に光が射しこんだかと 見誤る青
東の門に立つ ふくよかな円蓋と 
そそり立つミナレットが四方を囲んでいる
この寺院を建設した王の
隠れたる神と この世を見やる眼差しに捉えられ
ひとりの少年が微笑みながら立ち現われる
父から母から 兄弟からも離れ
世界という迷宮に踏み込んだぼくたち
かつて揺籃にころがっていた二つの頭
共有する記憶をたずさえ老いていく 
ぼくたちを祝福するために 
出発を告げるシンバルが高らかに鳴った

寺院からひろがる砂に 海水がたちまち満ち
一隻の船が もうひとつの島へ
ぼくたちを運び去った
発掘された石像の神神に 片脚は捥がれてなく
記憶が忘却の白い岸辺で 息絶えている
互いの身体に棲む獣性に刃向かい 
ねじふせ もとめ合った
二つの黒い裸体が 海水に染められた
岬から岬へ 経廻るぼくたちのうしろで
あふれる光に目つぶしされた虚無が
大きく口をあけていたことも知らずに

世界の比喩だと知ったぼくたちの
終止符を打てない旅の途上で
夢がうつつの淵で透明になるように
ぼくたちを結んでいる 青い紐がほぐれ 見えない
言葉を解体する唖者のぼくの企てに君は遠く
流れる風景に足をさらわれ 溺死しそうになる

時を止めた永遠の夏は日々の泡に洗われ
いくつもの夜を越えて辿った土地の名が
いま 経文のようにつらなり響き始める