ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

火 小林稔最新詩集『遠い岬』以心社2011年10月20日刊からの一編

2012年01月13日 | 小林稔第8詩集『遠い岬』

         万物は火から生成し、またそれへ解体する。
                             ヘラクレイトス
    小林 稔                  



鯉がアルミ箱の浅い水に尾をばたつかせる。
火粉を上げる炎が狭いお堂の真ん中で勢いづき
経文が女祈祷の口から怒声のように吐き出され、
炉のまわりにいくつもの赤い顔が数珠のようにつらなり
忍従している――隅々に視線をめぐらす幼い私がいる。

燃えている! 斜向かいの家から飛び出した老爺が
手術跡の喉穴から木枯らしのような音を発し、
かろうじて聴き取れた声。大通り百メートルつきあたりに火があふれ、
人だかりを影絵のように現出させた。
小学生の私は魅せらた、事の終末の美しさに。
家の台所で真っ赤になった窓ガラスが熱に耐えている。

―――職をなくした男が借金に追われガソリンを浴びて火をつけました。

液晶テレビの画面にニュースが流れ、私の耳と眼を引き寄せる。
「黒くこげて倒れる直前にあの人は口から煙を吐いたのです。」
インタビュアーの差し出すマイクに妻は朴訥(ぼくとつ)と語る。
男の焔の影像がふたたび脳裡をよぎり中空に立ち上げる、
引き裂かれた己の存在をかろうじて持ちこたえて。

十三階バルコニーの向こうに弧を描く海がひろがり
垂直に昇りつめる太陽。命あるものを廻る水。
その真昼の渇望に水はどこまで耐えられるか。
赤い太陽が忘れられた岬の先端に沈んでいく。
記憶の果てにさらなる闇。絶えざる夜戦がある。
沃土、すなわち経験の地層に撒種(さんしゅ)された未生のロゴスが千のコード
に群がり絡まる。私を呼びとめた言葉を紐解く者よ。あなたを求め、
死後も、ロゴスである〈私〉はさすらうだろう。

眼の一撃で世界は燃えつき凍りつく。生まれるまえに捥(も)がれた翼が
ゆるやかに痙攣する。あなたの後ろ姿に叫びつづける。
エクスタシーの波動に導かれ、私はすでにあなただ。