ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

ジャズと詩作

2012年01月24日 | お知らせ

 最近、あることがきっかけで私にジャズへの関心が戻ってきた。とはいえ以前と同様にアトランダムに聞いているだけなので、ジャズファンにありがちな詳しい知識はない。音楽の接点は高校時代から始まりまずはビートルズだった。
 その後、まもなく反戦のフョークソング、ジョンバエズやボブディラン、キングストントリオ、PPMなどの興隆があったが、ビートルズが「アビーロード」や「レットイットビー」のアルバムを出し解散が囁かれたころ(彼らにとって最高のアルバム制作であったと思う)、ニューミュージックのシンガー、キャロルキング、ジェイムステーラー、シカゴ、ドノバン、イアンマシューズなどたくさんのシンガーがアメリカで誕生した。
 当時(七十年前後)、渋谷の百軒店にある「ブラックフォーク」という店に、毎日のように通っていた。夕方六時までジャズを流し、それ以後はロックをかけていた。時たま、「ブラックフォーク」の二階にある「音楽館」でジャズを聴きにいっていたのである。そこで耳にしたのはマイルスの「ビッチェズ・ブリュウ」や同じマイルスの「フィルモアのライブ」であった。ジャズにロックのリズムを取り入れたものである。同じ渋谷の「ジェネウス」でもティックコーリアなども知ったのだが、五十年代、六十年代のジャズを知らずに、いきなり六十年代終りから七十年代のフリージャズと接近しているジャズに接したといえよう。
 七十年前後には日本中にジャズ喫茶があり、絶えず旅をしていた私は、地方の店を見つけるのが楽しみだった。当時下北沢に住んでいたのであったが、近くのジャズ喫茶「マサコ」(現在は廃業した)には毎日入り浸れていたものである。ただ単にジャズを聴いていたのではなく、詩の世界、言語が拓く未知なる世界を胸を熱くして思考していた。
 ロックからジャズ、ジャズからクラッシックと興味は流動していった。
 そうした四十年以上の私の音楽遍歴とともに私の詩作はある。そうして近ごろジャズを再び聴きはじめたのである。音が啓示する言葉以前のものが、私の全経験の基底から意識に言葉となって浮上するような到来を待っている。しかし、かつて聞くことのなかったマイルスの名盤も今ではとても感激的であるが、言語空間との接点では、七十年代以降のアフリカの熱狂を示唆する作品がいまでも興味を誘ってやまない。そういう意味で、マッコイタイナーの「アトランティス」というアルバムはレコードで聞いていた二十代のころより、今聞くほうが多くを感じさせてくれるようだ。