ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

詩誌「Kototoi」創刊号を読む。

2012年01月21日 | お知らせ

 昨年末に詩誌「Kototoi」が刊行された。冒頭の「詩を失った時代に」という菊谷倫彦氏のエセーと、吉本隆明氏の対談を興味ぶかく読んだ。まず、「詩を失った時代に」には多くシンパシーを感じるが、文学者の「勉強の毒」については反論がある。「私たちは、ロジックなど追い求めずに自分のからだのなかにある詩に立ち戻ればよいのである」と著者はいうが、そういう生理が尊重される一方で、文明に対する知的な考察も必要であろう。詩が日常から生み出されるものであり、生活すること、「生きることから力を取り戻す」ことが求められているが、「小さく生きること、低く生きることが私たちの課題だ」という主張は受け入れがたいものがある。例となる詩が引用されていないので分かりにくいが、著者のいう詩なら非詩人によって数多く生産されている。ほんとうの詩人の日常は特異なものである。なぜなら言葉は日常性と非日常性の両方の領域に跨るものであるからである。それを携えて詩作する詩人は単なる一般の人がよしとする日常性だけに埋没することはないのではないか。しかも現実に生きる空間で言葉とともに生を拓いて行こうとする。いつかこういった問題を突き詰めて論じていきたいが、いまは感想程度にしておく。
 吉本隆明氏とのの対談は、かつての彼の著作「アフリカ的段階について」論じている箇所に興味をそそられ、さっそく読んだ。もとになっているヘーゲルの「歴史哲学講義」をはじめて読み、考えることが多くあった。吉本氏が「アフリカ的段階」を自分なりに広げて詩を書くことの視点を見つけたいと述べている。ヘーゲル以降、ヨーロッパ中心の史観か、それ以後の歴史を踏まえれば修正をすることができるであろう。アフリカ的段階をプレ・アジア的段階として内在史化を深く掘り下げていくこと、人類史の母胎として据えることが求められているという吉本氏の捉えかたに共感
する。このように詩人は彼独自の生活からの詩作のほかに知的作業としての文明への考察が必要なのである。教養主義に陥る詩人も一方で見られる(大学で哲学を教えていればよいのだ)が、だからといってすべての詩人に「ローカルに生きること」(菊谷氏)を求めることには賛成できない。「日常に詩を取り戻す」試みは、大きな視点を据えてこそ可能なことである。今年はこのテーマを考えていきたいと思う。