ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

小林稔第5詩集『砂漠のカナリア』(2001年、旧・天使舎刊)以心社、第一章「カテドラルへの道」から

2012年01月31日 | 小林稔第5詩集『砂漠のカナリア』
砂漠のカナリア 第一章「カテドラルへの道」部分
小林稔


 海からの陽光と潮風が飛び込んでくるランブラス大通りは、コロンブスの記念碑から真っすぐに伸びている。通りの右手の道の一つに入ると、ふぞろいに並んで建物がその両側にある、カーブを描いている石畳の道があった。広い通りに出たかと思うと、またその先に細い道が続いている。その道にも左右に枝分かれした細い道が走っている。歩いていくうちにカテドラルにそびえる塔が建物の上部に見え隠れする。さらに歩くと、通りの前面にカテドラルの壁が立ちふさがる。到着して三日目だというのに、すでに私は懐かしさに駆られている。このゴシック地区の建物の二階にある安宿に、私は昨日から移り住んでいた。目の縁が黒ずんだ、宿の女主人が出て来て、アビタシオン、と子供みたいに叫ぶ私に笑みを浮かべながら、部屋に私を案内した。ドアに料金表が貼り付けてあったが、私が支払った宿代と違っている。シャワーを浴びようと別に料金を渡してシャワー室で衣服を脱ぎ、蛇口をひねった。いつまで待っても流れているのは水だ。騙されたと思った途端、女主人の頓狂な顔が浮かび怒りを覚えたが胸に収めた。
 石畳を踏みしめ、建物の一つ一つの窓を見上げながら歩いた。ランブラス大通りという幹から伸びた枝分かれした道を辿っていくと、路地の両側に立つ建物の窓から道を越えてロープが張られ、色とりどりの洗濯物が万国旗のように吊ってあった。その一角にピカソ美術館があった。十代のころに描いたという古典主義的手法の絵は、彼の破壊的な形状の絵に見慣れていた私には一種の驚きだったが、「狂人」と名づけられた小さな線画の前でしばらく立ちつくした。牧神のような風貌、毛髪の一本一本、宙に浮いた両手の指の先まで神経が張りつめ、正面から私を見つめている。どことなく精神が解放された心地になって、美術館を背にカテドラルのある道を目指して歩みを進めていくと、視界を白いものが過ったように思った。振り返った時、同じように振り向き立ち止まる青年がいた。彼の視線からそらすことが出来ずに見つめ、しばらく沈黙の時間が流れた。なんという優しい眼差しなのだろう。鏡に映る自分を不意に覗いてしまった時の、胸を刺すような痛みと驚きとためらいが私にあった。彼には旅行者に見えない落ち着きがあり、この街にすっかり慣れ親しんでいる住人のようだ。小さいショルダーバックを左肩にかけ、幼い顔だちをしているが大人びた表情も時折見せ、私と同じ年齢と思われる細身の日本の青年であった。彼と私は見えない糸に操られるように、ほぼ同時に頭を下げた。カタルーニャ広場前のカフェに入った。会話が自然に運ばれたが、ここでは日本語を話すことに事欠かないくらい日本人が似よく会うんだ、という皮肉を忘れない。彼が昔からの友人のように感じられて仕方がなかった。会いたいと思うときに連絡が取れないというただ一つのことを除いては。旅の道が私の脳裡に横たわっていて、それ故に名前も住んでいる場所も聞くことをしなかった。私より二歳年下のおっとりとした物腰の留学生であることが分かった。先生からイギリス旅行に誘われているが費用がなくて行かれないんだと、と彼は寂しげに言った。私の止まっている宿に行こうという話になり、店を出て二人して石畳の道を歩く。どっしりと構えたカテドラルが曲がりくねった道の建物の向こうに見える。左手の小道を辿り宿の前に来た。階段を上って部屋に入った。閉じた鎧戸の隙間から縞模様の光が寝台に落ちていた。私は寝台に座り、青年は洗面台の前の椅子に座った。闇に慣れた私の視線は、かすかに浮かび上がる彼の唇と瞳と眉の消えていく辺り、闇に被われている耳のくぼみに向けられた。少年時代の彼の幻影が私の脳裡に立ち上がっては闇に投げ出され、再び眼前に現われたように思われた。


 あたりの静けさの中で、毀れた窓ガラスのかわりに張ってあった、黄色く褪せた古新聞がかすかな神秘的な音を立て ていた。「なんて微妙なんだろう」とわたしは思った。(略)いったい、誰がー―あるいはなにがーーこの貧しい部 屋の中で、このようにひそかに自己の存在を告げているのだろう?(略)「あれはスペインの新聞だ」と、わたしは さらに思うのだった、「わからないのは当たり前だ」ジャン・ジュネ「泥棒日記」朝吹三吉訳


 一九三二年、二十歳であったジュネはバルセローナのランブラス通りを横に入ったところの支那街巣食っている乞食集団の中にいた。そこでスティリターノという男に出会った。セルビア人の脱走兵であった彼の片方の腕は手首から下は切断され、なかった。ジュネはサルバドールという男との暮らしを捨て、スティリターノのもとに走った。背が高く、逞しい体格の、淫売婦たちを美貌で引きつけていたこの若者に誘われて彼の安宿に転がり込み、彼の窃盗行為の片棒を担ぐことになる。男色家相手に稼ぐこともあるが、スティリターノは彼らを軽蔑していた。彼は綿をつめた作り物の葡萄の房をズボンの内側にピンで留め、男色家たちの気を引いていたのだが、部屋に帰った彼のそれを外すのが右腕となったジュネの役割であった。ある日、その房を両手に入れ頬擦りをした。それを見たスティリターノはジュネを足で蹴り、拳で殴った。いく日かして、明け方近くに彼が帰ってくるのを待っていた時、古新聞のかすかな音が彼を不安にした。


 わたしは異郷にある思いをひしひしと感じ、そして神経の昂ぶりが、わたしを、――ほかに適当な言葉がないため――わたしが詩と呼ぶものに浸透されやすい状態にするのだった。(同前)


 私は明日にもここを去り、スペインの他の街を彷徨うだろう。旅の意義はどこにあるのか。雲のようにさすらうだけではないか。彼のいなくなった部屋で一人、胸の空隙を埋められずにいた。もう陽は落ちてしまったようだ。光の射し込まなくなった部屋を濃い闇が満たしている。壁に架かった絵のマリアの頬を伝う、血のような紅い涙も今は闇に消えて見えない。