ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

生き神、小林稔第3詩集『白蛇』以心社(旧・天使舎)刊1998年11月1日からの一編

2012年01月06日 | 小林稔第3詩集『白蛇』
生き神

        小林 稔


 ダカンは、チベットとネパールの国境に二分される、アン
ナプルナが夕日に 美しく生える村である。
 ヒマラヤの雪解け水が まだ手に冷たい浅い春、僧侶がダ
カンの家々を廻り歩き、若毛が 唇の上に影をつけ始めたば
かりの男の子を探し出す。毎年 行なわれる、この生き神の
習いは、カトマンズの少女神と対をなすものであるという。
 仲間との遊びに疲れ、泥まみれのまま独り、川辺に立ちす
くむ男の子が僧侶の目に止まった。連れて帰ると 水を浴び
せ、それからお経を唱える。地鳴りのような声の中で 少年
は、日一日と神性を帯びていく。
 詳細なアジア地図のどこにも記されていない、このダカン
を知ったのは、パキスタンを訪れたときのことである。
『断食するブッダ』を見て帰ろうとしたとき、光が差し込む
窓際のショーケースに置かれた細密画に 目を奪われた。遠
近法を無視した図面のように区分された部屋で、いましも動
き出しそうな二人の老人が 敷物に座して、何やら語り合っ
ている図だ。凝視すると 私自身が絵の中に捕らえられてし
まいそうだ。
 肩に何者かの気配を感じ、振り返った。するとそこに一人
の男がいた。奥の部屋に導かれ 見ると、暗闇に火が走り 
お堂の真ん中に 年の端いかぬ男の子がいて、それを囲んで
何百人とも思われる僧侶が 赤い僧衣を身に纏い合掌してい
る。透き通るような皮膚、生まれたままの立ち姿、桃のよう
な尻も露に 僧侶にかしずかれ身を清めている。神としか讃
えようのない美しさが 軀からみなぎっていた。
 お堂を後にし 山門を過ぎたところで、男がいない。はて、
と いま来た道を引き返すと 寺は跡形もなく消え、礎石だ
けが残されていた。
 渺渺(びょうびょう)として見晴るかすヒマラヤ山系の後
方、傾きかけた夕日は 索漠としたダカンの地を照らしてい
た。