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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

天理市の古墳をあるく(柳本古墳群編)① ~渋谷向山古墳~

2024-02-25 11:00:42 | 古墳紀行
 今回から、天理市にある柳本古墳群と大和古墳群に属する古墳を紹介していきたいと思う。
 ちょうどなら芸術文化村で「山辺の古墳文化 大和古墳群と柳本古墳群」の企画展が行われており、それの連動企画であるというわけで。
 
 
 
 渋谷向山古墳は、ちょうど国道169号線が、古墳のすぐ西側を通っており、非常にわかりやすい古墳である。また、古墳の東側は、古道、山辺の道のルートとなっている。
 
 
 
 また、渋谷向山古墳は、第12代天皇である景行天皇陵として、治定されており、現在は宮内庁が管理しており、例によって墳丘の中に立ち入ることはできない。

 
 まずは、景行天皇であるが、第11代天皇、垂仁天皇の第3皇子で、母は埴輪の始まりの神話で知られる日葉酢媛命であるという。また、宮は纏向日代宮などとされている。事績としては、子日本武尊による九州や東国の平定などが伝わっており、まだまだ神話の世界の天皇である。

 
 
 そして、景行天皇の陵の治定については、「古事記」「日本書紀」においては、山辺道上陵とされているのだが、崇神天皇の陵についても、「日本書紀」においては、景行天皇陵同様に山辺道上陵となっている。また、延喜式諸陵寮においても、ともに山辺道上陵となっている。
 そのため、後世の古墳の治定を招くことになった。

 
 
 例えば、明治時代に行われた古墳の治定に影響を与えた蒲生君平は、行燈山古墳が景行天皇陵、渋谷向山古墳を崇神天皇とした。 
 その一方で、同じく谷森善臣は、行燈山古墳が崇神天皇陵で、渋谷向山古墳の方が景行天皇陵であると主張し、最終的には、この説が受け入れられ、現在に至っている。
 古墳の築造された順序で言うと、行燈山古墳のあと渋谷向山古墳になるので、まあ蓋然性があるとは言えるかな。
 
 
 
 さて、渋谷向山古墳であるが、柳本古墳群はもとより、周辺の大和古墳群、巻向古墳群(総称してオオヤマト古墳群という場合もあるが。)も併せて、最大の前方後円墳である。
 
 
 
 古墳の大きさは、全長300mもある。ただ、これだけの巨大古墳なのに何となく影が薄い気がするのは気のせいか?
 高さは、前方部が23m、後円部が25mと、前期の古墳の例にたがわず後円部の方が大きく発達しているようなのだが、前方部が三段、後円部が四段と考えられており、まだまだ三段築造に定型化されていない部分があるようだ。

 

 古墳は、ぐるっと一周できる。とくに後円部側に写真のようなビュースポットもある。ここは山辺の道沿いに設けられている。
 また、この道からは、三輪山も良く見え、おそらくは、そのことも念頭にこの場所が選ばれたのではないだろうか?

 

 さらにおすすめは、渋谷向山古墳の南側にある珠城山古墳群がある丘陵からは古墳の全景が見え、この古墳のサイズを体感することが出来る。

 
 
 今回、なら芸術文化村で行われている企画展でも、渋谷向山古墳から関連するものとして伝渋谷出土の石枕と三角縁神獣鏡の複製品が展示されている。

 

 是非とも見てほしい一品ではある。
 

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