
シズカ塚古墳から南へだらだらと登り道を歩いていくと、竹林に突き当たり、そこを東へ向いていくと、すぐに帯解黄金塚古墳がある。

竹林のそばまで行くと、パチンパチンと大きな音がするのでなんだろうとのぞくとおばあさんが一人、竹を燃やしており、竹が爆ぜる音であった。
まずは、帯解黄金塚古墳の前を通って、その東側にある竹林の中に入っていくと中に堀切のようなものがあり、その内側に小さな墳丘があった。

田中古墳と呼ばれる古墳で、黄金塚古墳の外堤上にあり、陪冢的な性格を持っている古墳だと言われている。

古墳からは、石棺が出土しているが、玄室等の施設はなかったようだ。

ここから、竹林を出て、再び帯解黄金塚古墳に戻る。

この古墳は、ぐるっと一周できるようになっており、せっかくの機会なので、一周廻ってみた。墳丘は方形、二段築造になっているのが観察できる。
南側の正面らしき所には、何と!石室の入り口には閉塞石ならぬ現代の扉があるではないか!!

というのも帯解黄金塚古墳は、天武天皇の皇子、淳仁天皇の父である知太政官事を務めた舎人親王の墓という伝承があるため、陵墓参考地として宮内庁が管理しているためなのだが、この古墳の石室は榛原石を板状に積み上げた磚積式の横穴式石室で非常に珍しいものである。

ここも天理市にある芸術文化村で、石室内部の写真が展示されていた。写真を見ると、古墳の石室とは違った別のもののようにも感じられた。

また、古墳の周辺については、発掘調査が行われており、古墳周囲、南を除く三方が外堤で囲まれており、墳丘の基底石の外側に石敷が敷かれていることが確認されている。
築造された年代は、7世紀の中頃と考えられており、被葬者として想定されている舎人親王は奈良時代の人物なので、古墳の被葬者たりえない。
ただ、これだけの規模の古墳なので、それなりの実力を持った人が埋葬されていたのだろう。
ちなみに舎人親王の子孫の一人が、かの有名な清少納言である。
帯解黄金塚古墳を見終わった後、昼食でもと県道にでて、食堂を見つけるも、お店の方が出てきて、何と休日はお休みとのこと。インバウンドで沸く奈良なのになんと商売っ気の無いものか、びっくり。
近くにコンビニもあり、お昼抜きという悲劇は起こらなかった。
この後、さらにびっくりしたな、モーというものを発見するのである。
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