
第2調査区では、墳丘の裾に沿って足場が組まれており、その上から見ることになる。

ここでは、墳丘の状態が悪いながら、第二段斜面の葺石が少し見つかっている。

次に第3調査区では、第二段斜面の基底石や葺石などが見つかっており、特に、第一段の平坦面に集石遺構なるものが検出されている。これが新聞報道にある小石室と言われるものなのだが、調査員の方の話では、石室と証明しうる遺物等が出ていないので、集石遺構としているとのこと。

観察してみると礫のような小石を下に敷いて、その上に周辺の石を置いて石室にしているのではと聞くと、それが確実であれば石室と言ってもよいと思われるので今後の検討事項とのことだった。

その後、しばし、集石遺構の被葬者談義、これも調査員の方の話ですが、おそらくは、本来の被葬者を知っている人が埋葬されているのではないか。おそらく遺構の周辺の葺石などを使って作っているので、埋葬されたのは古墳が造られた後に埋葬されたが、周りの人がこの人ならここに埋葬されてもいいと納得できる人であるということではないかとの由。

第15次の発掘調査の成果としては、以下の三点。
①前方部は、「柄鏡形」ではなく、くびれ部から「ハの字形」に広がる形態であること。
②第一段斜面は前方部前面側が高くつくられていること。
③前方部東側斜面の第一段平坦面に「周辺埋葬」が設けられている可能性があること

これまで、最初期の前方後円墳は、後円部のくびれ部からまっすぐな高さの低い前方部がくっついていて柄鏡形と呼ばれているが、今回の発掘調査で、当初、想定されていた柄鏡形ではないことがわかったという事で、これまで柄鏡形前方後円墳と言われていた古墳というものが、もはや存在しないのではないかということであるようだ。
②については、寺戸大塚古墳のある地形が関連しており、この古墳は向日丘陵の尾根を利用して造られており、もともとかなり傾斜のある地形で後円部が高く、前方部が低くなっているのを、第一段の平坦面で水平にするために、前方部の第一段斜面が高く造られているということである。
また、かなり制約のある地形にあるので、後円部は実は、楕円形になっているのだそうだ。
次に寺戸大塚古墳については、大和の桜井にあるメスリ山古墳との関係が指摘されており、後円部の竪穴式石室も同じような構造で、側壁などに持ち送りがなく垂直なのだそうだ。
こう考えると、この古墳の被葬者は、当時、かなりの力があり、ヤマト王権の中で重要な地位にあった人物であったのだろう。

最後に、この古墳の近くにある五塚原古墳は、箸墓古墳と相似形ということで、箸墓古墳にも話が及び、箸墓古墳などの古墳は、前方部と後円部が別々に造られており、そのため前方部が、非常に低く貧弱なのだそうだ。じゃあ、「魏志倭人伝」の卑弥呼の墓は、径百歩とあるのは、魏の使者が後円部だけが出来た状態を見ただけかもという意見が出るとと、周りから「お~、なるほど」という歓声が自然と沸き起こるなど非常に楽しい現地説明会だった。
急遽、現地説明会に顔出して正解。

この日は、少し暑すぎるぐらいのお天気で、古墳探索にはちょうど良い気候であった。

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