大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ペトロの手紙Ⅰ第4章1~4節

2021-09-19 14:53:02 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年9月月19日日大阪東教会主日礼拝説教「あなたの残りの生涯」吉浦玲子 

<罪の世ゆえの苦しみ> 

 苦しみということをペトロは手紙の中で、繰り返し語っています。クリスチャンであれ、ノンクリスチャンであれ、生きている限り苦しみにあいます。二年前、高齢者が運転する車が暴走して多くの死傷者が出た事件がありました。運転をしていた、つまり加害者の老人は、かたくなに車の欠陥のためであると主張し、自らの過失を認めませんでした。しかし、最近のニュースによれば、ようやく裁判が終わり、判決が出て、原因は加害者の過失であるとされ、加害者の男性に実刑が言い渡されました。それに対して、加害者は控訴せず、刑を受けることが確定しました。事件で、愛する家族を失った被害者の男性がその結果をうけて、コメントを発表されていました。この交通社会の中で、だれもが被害者にも加害者にも遺族にもなりうるけれども、だれもがそのどれにもなってほしくない、また、加害者を中心に関係者への誹謗中傷が過熱してしまったが、そのような誹謗中傷のない社会になってほしいといった、たいへん冷静でしっかりした言葉がありました。考えさせられたのが、亡くなった家族への思いの中で「(亡くなった)二人の愛してくれた僕に戻って生きたい」という言葉があったことです。事件から二年の歳月の中で、かつて妻と子供から愛されていた自分とは違う自分となっていた、とその男性は感じておられたのです。しかし、これからは亡くなった二人に愛されていた元の自分に戻りたいという言葉に深い重みを感じました。苦しみの重さを感じました。突然、妻と子供を失なうという悲しみに見舞われ、その事件の重大性ゆえいやが応にも世間の注目を浴び、被害者であるにもかかわらずさまざまな批判も受け、なかなか進まない原因究明や裁判の中、自分の非を認めない加害者へのいたたまれない思いもあったと思います。様々な意味での長い闘いの中で、自分自身が、かつて妻や子供に愛されていた自分ではない自分になっていた、その心の中は当事者でなければ到底分からないことだと思いますが、その苦しみの深さはたいへんなものだったであろうと思います。自分が自分ではなくなってしまうような苦しみ、悲しみや怒りや絶望といったさまざまな思いの中で、ある部分、心を鋼のようにして戦って来られたと思います。自分で自分の心を固くして戦って来られた、そこに苦しみがあったと思います。それまで普通に笑ったり泣いたりしていた柔らかい心、愛されていた自分から遠く離れていた、その苦しみを思います。愛されていた自分に戻りたい、そこに人間を変えてしまう苦しみの深さを思います。 

 ペトロは人間の苦しみというものを、この世の罪の問題の中で語ります。人間の罪、社会の罪ゆえに苦しみはあるのだと。暴走事故の被害者の遺族の苦しみは、単に一人の老人の過失や自分の非を認めない頑迷さゆえに生じるのではないでしょう。事件のすべてを取り巻く社会のあり方、この世の人間のさまざまな感情、矛盾、そういったすべてのなかに沈む人間の深い罪とかかわります。 

 「キリストは肉に苦しみをお受けになった」そうペトロは語ります。この肉というのは、肉体ということではなく、肉体を含めた、この世における存在そのものということです。キリストは確かに、生身の体に釘を打ち込まれ、血を流され、苦しまれました。同時に、人々の嘲笑に晒され、弟子たちにも裏切られ、苦しまれました。肉というのは、罪ある世における人間存在そのものとも言い代えられます。この罪の世における存在は苦しみを受けるのです。この世界に罪が満ちていなかったら、罪のないお方が苦しまれる必要はなかったでしょう。また、この罪の世界に、周りと同じように罪を犯しつつ生きていれば、苦しむことはなかったのです。これは私たちにも言えることだとペトロは語ります。 

 「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。」 

 キリストを信じる者もまた肉に苦しみを受けることになる、罪のこの世界で苦しむことになる、その心構えをもって武装しなさいとペトロは語ります。通常、武装と言いますと、相手を攻撃するための備えをするものです。こちらから先制攻撃はしない防衛のためであったとしても、攻撃された時、反撃できるだけの戦力を持ちます。武装とは本来そういうことです。しかしここでいう武装は、苦しむことをもって武装せよというのです。苦しみを与えるものに対して、反撃をしたり議論をするわけではないのです。苦しみを忍耐する、それが武装なのだとペトロは語ります。 

<罪とのかかわりを絶てるのか> 

 そして罪なきキリストが苦しみを受けられたように、私たちも苦しみを受けます。そしてそれは罪とのかかわりを絶った者だからだとペトロは語ります。先ほど申し上げましたように、この罪の世と同調して生きていれば苦しみはありません。もちろん自らの罪による苦しみはあるかもしれません。またこの世の不条理や不正によって苦しむことはあるでしょう。しかし、聖書が語る苦しみとは、なにより罪による苦しみなのです。しかしまた、不思議なことに、その罪を自分から絶ったとき、むしろ外から受ける苦しみは深まるのだというのです。罪とかかわりを絶った者ゆえ苦しみを受けるとペトロは語ります。罪を犯せば苦しみ、また罪を絶った者ゆえ苦しむというのです。 

 しかしまた、ここで私たちは立ち止まります。私たちはキリストのように、罪とのかかわりを絶った者と言えるでしょうか?洗礼を受けて、神の恵みの内に生かされながら、なお罪を犯しつつ生きている者ではないでしょうか。だからこそ私たちは礼拝の冒頭で懺悔の祈りをささげるのです。もちろんこの罪の世界に生きる時、自らに非のないことのゆえに苦しむことはあるかもしれません。しかしだからといって、私たち自身が罪とのかかわりを絶っているとは言い難いのではないでしょうか。 

 「かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像崇拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です」とペトロは語ります。つまり欲望に引きずられ、神ではないものを神として生きていたというのです。しかしクリスチャンになったからといって、完全に欲望から自由になっているのか、神以外のものを神とはいっさいしていないといえるのでしょうか。神以外のものを神より大事にしていることがまったくないとは言えないと思います。 

 そもそも聖書は、人間の行いにはいっさい期待していないのです。人間が自分の力で罪から逃れられるなどとはまったく考えられていないのです。アダムとエバ以来、人間の弱さ愚かさを、神はよくよくご存じなのです。 

 さきほど、「武装」という言葉が出てきました。この武装とはエフェソの信徒への手紙6章に出て来た神の武具を身につけるということでもあります。人間の力で罪から逃れられることはないのです。エフェソの信徒への手紙の6章10節に「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」に始まる言葉がありました。曰く「神の武具を身につけなさい」と。神の武具とは何か?それは「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい」とあるように、真理の帯、正義の胸当て、福音を告げる準備の靴と言われています。さらに信仰の盾、救いの兜、霊の剣をもてと言われます。しかし、真理の帯にしても、正義の胸当てにしても、それは私たちが自分の手で入れる真理や正義ではないのです。神からいただくものです。信仰の盾も、救いの兜も、神のものです。霊の剣も、自分で修行して剣の使い手になるのではありません。神に依り頼み、聖霊によって主なるイエス・キリストからいただくものです。 

<愛されている自分へ> 

 自分には何もない、自分にはまったく力はない、罪に抗うことはできない、そのような神への徹底したへりくだりによって、信仰の武具は与えられます。自分に多少なりとでも力があると思う時与えられません。自分は聖書をよく知っている、良いことをたくさんしている、だから罪から逃れられるなどということはまったくないのです。節制して欲望をコントロールできている、信仰一筋に生きている、などと自負を持つこと自体が罪の深さを知らないことの現れです。そもそも自らの行いによって神の裁きから逃れられると思うことほどの罪はありません。どれほど柔和な態度で善い行いを積み重ねていたとしても、自分の行いに頼ること以上の傲慢はありません。それはキリストの十字架を愚弄することです。 

 そういう私自身、自分の業にこだわってしまうことがあります。その結果、あれもできていない、こういうことじゃだめだというような、何か焦りのようなものに追い立てられます。人には祈れと言いながら、十分に祈れていない、御言葉の前に立てていないという罪悪感のようなものに包まれるときがあります。そして自分が腹立たしいようなふがいない気持ちになります。しかし、あれもできていない、これもダメだという思いというのは結局、自分に依り頼んでいるのだと思います。肝心なところで、神にゆだねきれていない。キリストの十字架への信頼がないということだと思います。そしてそれは、十字架の恵みへの感謝がないということだと思います。 

 神の恵みへの感謝というのは、今自分が、そこそこの生活ができているとか、病や試練はあっても、どうにか守られていると感じる感謝もあります。それも大事なことなのですが、それ以上に、深いところで、神が自分と出会ってくださることへの感謝というものが大事です。罪深い、どうしようもない自分、その心の中を見たら瓦礫のようなものばかりがちゃがちゃと積み重なっている、しかし、そこにキリストがいてくださる、ほんとうはもっときれいにしたところにキリストをお迎えしたい、もっとちゃんとした自分としてキリストとお会いしたいと思いつつ、なおどうしようもない自分があります。しかしそこになおキリストは来てくださるのです。 

 若くして洗礼をお受けになった方も、私のように中年になって洗礼を受けた者も、あるいは、さらには高齢で洗礼を受けられた方、いろいろおられますが、それぞれにキリストの救いにあずかってからのちの生涯の時間は異なります。しかしそれぞれのこの地上での残りの生涯、何をしたかが問題ではありません。どれほどのことを神がしてくださったか、どれほどキリストが自分と出会ってくださったか、そのことにどれほど感謝ができたか、が問題なのです。その神の恵みを知ることが、神の御心に従うことです。神の御心に従うとは、たくさんの善いことをすることではないのです。欲望に打ち勝って清廉潔白にいきることでもありません。ただただ、キリストに出会っていただき、ただただ感謝をする。キリストと出会うとき、私たちはおのずと謙遜にされます。自分の手の業、良い心がけなど無意味なことだと知らされます。ただただキリストが出会ってくださり恵みにあずかり感謝をする、そのとき、私たちは自らの罪にもかかわらず、そしてまたこの罪の世に関わらず、本当の自分に戻っていけるのです。神に愛されている本当の自分に戻っていけるのです。私たちは残りの生涯、愛されている者として本当の自分に戻っていく道を歩みます。