大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

使徒言行録13章13~41節

2020-10-11 15:08:37 | 使徒言行録

2020年10月11日大阪東教会主日礼拝説教「私たちの時代に行われること」吉浦玲子

【聖書】

パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。

法と預言者の書が朗読された後、会堂長たちが人をよこして、「兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」と言わせた。そこで、パウロは立ち上がり、手で人々を制して言った。

「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください。この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し、民がエジプトの地に住んでいる間に、これを強大なものとし、高く上げた御腕をもってそこから導き出してくださいました。神はおよそ四十年の間、荒れ野で彼らの行いを耐え忍び、カナンの地では七つの民族を滅ぼし、その土地を彼らに相続させてくださったのです。これは、約四百五十年にわたることでした。その後、神は預言者サムエルの時代まで、裁く者たちを任命なさいました。それからまた、サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。』神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。』

兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました。エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。そして、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました。こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました。しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです。このイエスは、御自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日にもわたって姿を現されました。その人たちは、今、民に対してイエスの証人となっています。わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩編の第二編にも、

『あなたはわたしの子、/わたしは今日あなたを産んだ』

と書いてあるとおりです。また、イエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさったことについては、

『わたしは、ダビデに約束した

聖なる、確かな祝福をあなたたちに与える』

と言っておられます。

ですから、ほかの個所にも、

『あなたは、あなたの聖なる者を

朽ち果てるままにしてはおかれない』

と言われています。ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てました。しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。それで、預言者の書に言われていることが起こらないように、警戒しなさい。

『見よ、侮る者よ、驚け。滅び去れ。わたしは、お前たちの時代に一つの事を行う。人が詳しく説明しても、

お前たちにはとうてい信じられない事を。』」

【説教】

<私たちのルーツ>

若い方はご存じないと思いますが、40年以上前のアメリカのテレビドラマに「ルーツ」という番組がありました。アフリカ系アメリカ人である男性が、6代前の先祖にさかのぼって、自分の家族の歴史をたどりつつ自分のルーツを確かめるという物語でした。そもそもルーツという言葉が普通に使われ出したのは、この番組の影響だといえます。その6代前の先祖はクンタ・キンテという名前で、アフリカのガンビアという国から奴隷としてアメリカに連れてこられました。その後のクンタ・キンテの家族と子孫の物語がドラマでは描かれました。もともとのルーツであるガンビアから遠く離れたアメリカの地で人種差別の中に生きてきた家族の物語は大きなセンセーションを巻き起こしました。この番組はアメリカで人種を越えて大きな反響を呼びました。日本でも放映されて、評判になったと記憶しています。人間には自分は何者なのか?自分はどこからきてどこへ行くのか?という潜在的な問いがあります。「ルーツ」はその人間の潜在的な問いを呼び覚ますドラマであったといえます。しかし世の中には6代前の先祖の姿をイメージできる人ばかりではありません。遠い異国から移り住んだという―悲劇でありますが―ドラマティックな家系の歴史を持つ人はことに日本では多くはないでしょう。そもそも私などは祖父母の代より昔の先祖についてさかのぼることもできません。

しかし、突然、ひどく話が飛ぶように感じられるかもしれませんが、先祖代々、古い時代からの系図をさかのぼれる人であれ、そうでない人であれ、私たちは皆、偉大な歴史の中にたしかに置かれています。私たちはけして根無し草のように、20世紀から21世紀の時代にぽっと出て来た者ではありません。

<ヨハネの離脱>

さてパウロたちは、キプロス島での宣教がうまくいったのち、さらに宣教の歩みを進めました。キプロスから北西のピシティアというところへ向かいます。そこのアンティオキアで宣教を行います。このアンティオキアはパウロやバルナバがもともといたシリア州のアンティオキアと名前は同じですが、違います。このアンティオキアに向かう途中で、「ヨハネがエルサレムに帰ってしまった」と書かれています。バルナバとパウロは、マルコと呼ばれるヨハネをエルサレムの教会からシリア州のアンティオキアの教会へと連れてきました。バルナバとパウロは、若いマルコを伝道者として育てていこうと思っていたのでしょう。さらにマルコはバルナバとパウロの助手として、今回の宣教旅行にも同行しました。何があったのか具体的には書かれてはいませんが、このマルコと呼ばれるヨハネは宣教旅行から離脱してエルサレムに帰ってしまったのです。もともとエルサレムにいたユダヤ人であったヨハネには、異邦人への伝道は荷が重かったのかもしれません。文化や風習も違うなかでの慣れない旅の生活も負担だったのかもしれませんし、なんらかの人間関係の問題もあったのかもしれません。使徒言行録の先の部分(15章)を読みますと、この宣教旅行ののち、ふたたび宣教旅行に出ようとしたバルナバとパウロは、このマルコと呼ばれるヨハネを連れて行くかどうかで衝突をします。バルナバは連れて行こうといい、パウロはだめだと譲らなかったのです。バルナバ、パウロ、ヨハネの人間模様が興味深く書かれています。こういうところを読みますと、初代教会を担った人々が、皆、聖人君子のような人間ではなく、そしてまた皆がいつもいつも仲良く平安な間柄であったわけではないことが分かります。彼らはごく普通に喧嘩したり、途中で挫折したりする欠けた所や弱さを持った人間だったのです。しかし神は、そのような人間を用いて御業を進められました。人間同士の内輪もめや分裂を越えて、いやそういうことをも神は用いられて、いっそう宣教を進められたのです。そういう意味でも、この使徒言行録は、立派なキリストの弟子たちの偉人伝ではありません。神が中心におられ、欠点だらけの弱い人間を用い、導いてくださって福音を広められた、神ご自身の物語であるといえます。それは初代教会のみならず、2000年に渡る教会の歴史、そしてこの大阪の地にある大阪東教会においても同様なのです。人間臭いさまざまな出来事を越えて、神が働いてくださり、道が開かれてきました。そしてこれからも開かれていくのです。

<励ましの言葉>

 さて、ピシディア州のアンティオキアに彼らは来ました。ここで彼らはユダヤ人の集会に出席したのです。そこで会堂長たちから「兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」と言われます。かつて主イエスがそうであられたように、彼らは巡回伝道者として扱われたのです。会堂長が言った「励ましの言葉」とは「慰めの言葉」ともいえる言葉です。かつて十字架におかかりになる前、主イエスは自分が去ったあと聖霊が与えられることを話されましたが、ヨハネによる福音書で、主イエスがこの聖霊を指して語られた「弁護者」という言葉と、この「励まし」は同じ語源を持ちます。弁護者という言葉は文語訳聖書では「慰め主」と訳されていた言葉です。つまり励ましの言葉は慰めの言葉であり、私たちを神の前で助けてくださる、弁護してくださる言葉でもあります。私たちがどれほど罪深くても、いたらなくても、神の前で弁護してくれる、慰めてくれる、そういう意味を持った励ましの言葉です。

 その励ましの言葉をパウロは語りだします。聴衆であるユダヤ人が良く知っているイスラエルの歴史をパウロは語りました。出エジプトの出来事からイスラエル王国の成立、ダビデ王の話をしました。それはイスラエルの人々のルーツの話でした。そしてさらに洗礼者ヨハネによって語られていたイエス・キリストを語りました。イエス・キリストはパウロたちの時代に突然現れたのではなく、23節に「神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです」とあるように、イスラエルの歴史のなかで神のご計画として救い主として来られた方であることを語ったのです。

 しかしまたそれは、この話を聞いている人々には理解しがたい話でもありました。神に選ばれた民イスラエルの歴史の中から出てこられる救い主が、彼らの記憶からしたらほんの少し前、みじめにエルサレムで十字架で殺された人物であるなどとは到底信じがたいことでした。それは自らのルーツに誇りを持っていた人々の誇りを踏みにじるものでした。彼らにとってそんな話は、励ましでも慰めでもあり得ませんでした。

<ただ信じることによって>

 しかし、パウロは畳みかけるように言うのです。27節「エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪と定め」と。つまり、そもそも預言者によって主イエスの到来と苦難はあらかじめ預言されていたのだと語りました。救い主がみじめな死刑で死ぬわけがないと思っているのはそもそも旧約聖書で語られていたことを人々が知らなかったからだというのです。そしてさらにパウロは皆に勧めます。「だから、兄弟たち、知っていただきたい。」と。「信じる者は皆、この方によって義とされるのです」、つまりイエス・キリストを預言者によって預言され、神から来られた救い主だと信じる者は罪赦され救いを得ることをパウロは語りました。

 イスラエルの人々は神によって律法を与えられ、たしかにそれを担ってきました。そして律法を守ることによって、自分たちは義とされると考えていました。しかし、もともと神の前で罪人である人間にはそもそも律法を守ることはできなかったのです。神に従い得ないのです。神に特別に選ばれた民としてのルーツを持っていても、キリストを信じる信仰によらなければ、罪を赦されず、神の前で義、正しいとはされないのです。

 信じさえすれば救われる、罪赦される、これは信仰義認ということになります。信じさえすればいいというのは簡単なことです。しかし逆に簡単だからできないのです。イスラエルの人々は自分のルーツにこだわりました。自分たちが担ってきた律法にこだわりました。ではイスラエル人ではない私たちはどうでしょうか?私たちにとっても、信じさえすれば良いというのは、普通に考えると、なにかばかばかしいことのようにも思えます。

 旧約聖書の列王記にナアマン将軍というアラムの武将が出てきます。この人は重い皮膚病にかかっていて、イスラエルの預言者エリシャのもとに癒してもらいに行きました。しかし、エリシャは訪ねて来たナアマン将軍に直接会うこともせず、使いの者に「7回ヨルダン川に入って身を清めたら癒される」と伝えさせただけでした。ナアマン将軍は怒って帰ろうとしましたが、家来がとどめて言いました。「あなたはあの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、そのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか」と。その家来の言葉を聞いてナアマンは思いなおして、ヨルダン川で身を洗うと重い皮膚病は癒されました。

 人間は、この家来が言ったように「大変なこと」のほうを大事に思うのです。大変なことをするという自分の行為に価値を感じるからです。信じるだけではなく、あれもやり、これもやらねばならないということの方が受け入れやすいのです。善い行いをする、修行をする、奉仕をする、そういう積み重ねが大事だと言われる方が納得するのです。自分の行為に価値があると考えるからです。イスラエルの人々が律法を守るという自らの行為に価値を見いだしていたのと同じです。しかしそれは自分の罪の深さを知らないゆえのことなのです。

<罪の深い井戸>

 たとえばそれは深さも分からないような深い井戸の中にいる人間が、自分の力でこの井戸から出ることができると考えているようなものです。私たちは罪によって深い深い井戸の底にいるようなものです。自分のルーツへの誇りや努力ではこの井戸をよじ登ることは到底できないのです。そして罪ゆえの闇のため、その深さすらも私たちにはまったく見えていないのです。だからちょっと訓練して足腰を鍛えたらよじ登っていける、知恵を働かせたら外に出るための道具を作ることができると考えたりするのです。しかし、実際は、キリストによって救い出されなければ、井戸の外には出ることができません。そして井戸の外に出たとき初めて本当の神の光を知ります。自分がこれまでどれだけ暗いところ深いところにいたのかがわかります。

 今日の聖書箇所の最後にはハバクク書が引用されています。かなり恐ろしい調子の言葉です。これは信じない者への裁きの言葉です。「わたしは、お前たちの時代に一つの事を行う」神はお前たちの時代に決定的な裁きを行うと語られています。実際、裁きは起こったのです。十字架の上で起こりました。罪なきイエス・キリストが裁かれました。私たちの罪のゆえに裁かれたのです。十字架の出来事は歴史上ただ一度起こりました。その一回で、私たちの罪が裁かれたのです。神の御子が、つまり神ご自身が、十字架の上で裁かれたのです。それは人間の歴史では2000年前のことでした。しかし、それは過去のことではありません。十字架の裁きは、2000年後の私たちの罪をも完全に裁かれました。十字架の出来事は、私たちの時代の出来事でもあります。

 そして裁きは裁きで終わりませんでした。キリストは復活したのです。パウロはダビデは朽ち果てたと語ります。しかしキリストは朽ち果てられませんでした。今も生きておられます。そして20世紀に生まれた私たちの深い深い罪の井戸に救いの手が届いたのです。私たちはその手に自分をゆだねさえしたらいいのです。キリストの御手だけでは足りない、人間の努力が大事、そう考えるのは真面目でも何でもない、キリストの力を小さくとらえているのです。神が死んでくださらなければ赦されなかった自分の罪を軽く考えているのです。私たち一人一人がどのような人間であろうとも、どんなルーツを持とうとも、どんな罪を重ねてきていようとも、私たちの時代に、確かにキリストの救いは届いたのです。

そしてまた同時に、それは、神の歴史のなかに私たちも入れられているということでもあります。私たちはイスラエル人ではありませんが、信仰においてアブラハムの子孫なのです。神の国にルーツを持つ、神の国の相続者なのです。私たちはキリストを信じることによってのみ、もうすでに神の子供とされています。