大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

使徒言行録14章1~20節

2020-10-25 15:41:13 | 使徒言行録

20201025日大阪東教会主日礼拝説教「神を知る」吉浦玲子 

【聖書】 

 イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。ところが、信じようとしないユダヤ人は、異邦人を唆して、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。それでも、二人はそこに長くとどまり、主に信頼して堂々と語った。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。 

 町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側に付いた。異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人を辱め、石を投げつけようとしたとき、二人はこれに気付いて、リカオニア州の町であるリストラとデルベ、またその近くの地方に難を避けた。そして、そこで福音を告げ知らせた。 

 リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。この人が、パウロの話に耳を傾けていた。パウロは彼を見つめ、癒やされるのにふさわしい信仰があるのを認め、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした。 

 群衆はパウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、「神々が人間の姿をとって、私たちのところに降りて来られた」と言った。 

そして、バルナバを「ゼウス」と呼び、また主に話す者であることから、パウロを「ヘルメス」と呼んだ。町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒になって二人にいけにえを献げようとした。使徒たち、すなわちバルナバとパウロはこのことを聞くと、衣を引き裂いて、群衆の中に飛び込んで行き、叫んで、言った。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。私たちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、私たちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そこにあるすべてのものを造られた方です。神は過ぎ去った時代には、すべての民族が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神はご自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天から雨を降らせて実りの季節を与え、あなたがたの心を食物と喜びとで満たしてくださっているのです。」こう言って、二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた。 

 ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった。 

【説教】 

<信仰の剣> 

 パウロとバルナバは、迫害によってピシティア州のアンティオキアを去り、東に向かいイコニオンというところで宣教をしました。しかし、やはりこの地域でも信じようとしない者が妨害をしてきました。この迫害は「石を投げつけようとした」とあるように、パウロたちに対して殺意をも持ったものでした。このあたりの感覚は、私たちにはなかなか理解しがたいところです。現代の日本に生きる私たちは、パウロとバルナバの教えが納得できなければ聞かなければ良いだけの話だと考えます。なんで殺意まで持つのかわかりません。主イエスを信じる信仰は反社会的なものではありませんし、強引に信仰を押し付けるものでもありません。気に入らなければ、話を聞かなければいいのです。 

 殺意を持つまでにいく理由のひとつは、前にもお話ししましたことですが、ユダヤ教を信じるユダヤ人にとって「信じるだけで救われる」という教えは律法を守って来た自分たちのこれまでの行いを否定されることと感じられるから、受け入れがたかったということがあります。信じるだけではなく、律法を守り、さまざまなことを行ってきたことを否定されると感じられたのです。自分たちの最も大事なよりどころ、長き歴史のなかで受け継いできたアイデンティティを否定されるように感じ、徹底的に排除したかったということがあると思われます。 

 そしてそのことは、また別の側面で見ることもできます。神の言葉には罪と裁きが必ず語られます。それは人間にとっては、耳障りの良いことではありません。人間の罪と裁きの言葉は、人間にとって、本来、聞くに堪えないことなのです。しかし、ペンテコステの日のペトロの説教も、アンティオキアでのパウロの説教も、ともにキリストの十字架の意味を語るものでした。キリストを殺したことに象徴されるすべての人間の罪と本来受けるべき裁きを語るものでした。その罪と裁きの言葉の前で、自分の罪を否応なく突きつけられるのです。その突きつけられた自分の罪を認め、キリストを信じ、罪の赦しを受ける人もあります。信じる者にとって、罪と裁きの言葉は、赦しの言葉、福音の言葉となります。しかし、そうでない人もあります。罪と裁きの言葉を受け入れない人は、そのまま、罪と裁きの言葉を通り過ぎることはできないのです。「へえ、そういう考えもあるんですね」とスルーすることはできないのです。罪と裁きの言葉は真理の言葉だからです。キリストを信じる人にとっては救いの言葉、慰めの言葉であり、神の愛を示す言葉が、受け入れない人には、剣となって自分を突き刺してくるのです。罪と裁きの言葉は受け入れない人にとっては憎しみと怒りを引き起こす言葉となるのです。 

 主イエスご自身、こうおっしゃっています。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。マタイ10:34」主イエスは平和の主ではないのか、平安を私たちにもたらす救い主ではないのかと、この主イエスの言葉を読むと不思議に思います。もちろん主イエスは平和の主です。しかし、罪と裁きをないことにして平和が来るのではありません。平和とは、神と人間の間の平和であり、神と人間の間の平和が成立してはじめて、本当の意味での人間と人間の間の平和も成立します。神と人間の間の平和は、人間の罪の問題が解決されてはじめて成立します。罪への裁きが十字架によって成し遂げれてはじめて神と人間の間の平和が成立しました。その十字架の出来事、つまり神の裁きの出来事を受け入れ、私たちが自らの罪を知り、神に立ち帰ったとき、そこに本当の平和が来るのです。 

 しかし、十字架を神の裁きとして受け入れない者には、十字架の言葉、罪と裁きの言葉は剣でしかありません。かつて幼子イエスが神殿に捧げられたとき、ルカによる福音書の中で、祭司シメオンはこう語りました。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定めされています。ルカ2:34」十字架において裁きを受けられた主イエスご自身、そしてその主イエスの言葉は、多くの人から「反対を受ける」のです。そしてそのキリストの言葉、罪と裁きを語る宣教者もまた反対を受けました。命まで狙われる反対を受けたのです。使徒言行録の中で繰り返される迫害は、罪を裁きの言葉を剣として受け入れられない人間によって必然的に引き起こされる者なのです。 

<生ける神と偶像> 

 さて、パウロとバルナバは、次にリストラへ向かいそこでも宣教をします。そこでパウロたちは、生まれつき足の不自由な人と出会います。その人はパウロが話すのを聞いていました。「パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った」とあります。ここでひっかかるのは「いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め」という言葉です。この足の不自由な人に立派な信仰があったから癒されたように感じられるかもしれません。では、もし自分に立派な信仰がなければ、病気になっても癒されないのかと不安になります。ここでいう「いやされるにふさわしい信仰」とは、御言葉を聞く信仰ということです。そもそも、ここでいわれている「いやし」とは単なる肉体の癒しを表す言葉ではありません。「救い」とか「助け」という意味を持つ言葉です。罪を赦されて救われるということです。この足の不自由な、まだ一度も歩いたことがなかった人は、この世的に見れば、無力な何もできない人でした。しかし、この人は神の言葉を聞いたのです。罪と裁きの言葉を聞きました。しかしそれはまた、聞いただけ、とも言えます。何かこの人は聞いて行動を起こしたわけではありません。しかし、生ける神は、ただ神の言葉-罪と裁きの言葉-を聞いただけのこの人を救われるにふさわしい、罪赦されるにふさわしいと者として、救われました。肉体のみならず、罪からの救いをも与えられました。御言葉を聞く人に神は救いを与えられるのです。 

 さて、そもそも奇跡は、本来、人びとを神を信仰へと導くものです。神の救いのしるしを表すものが奇跡です。ところがこの奇跡を見た人々は、この地域の人々が信じる多神教の神々が降りて来たと勘違いしました。おそらく年長で堂々とした風貌のバルナバをゼウスと呼び、言葉達者なパウロをヘルメスと呼んで、二人にいけにえまで捧げようとしたというのです。パウロやバルナバが神としてあがめられそうになったのです。これは滑稽なことのようですが、むしろ、日本ではありえることではないでしょうか。ある方は、神と人間の境がしっかりとしない文化においては、容易に人間は<人間を神とする>とおっしゃっています。神と人間の境のはっきりしない文化は容易に偶像を生むのです。日本もこのリストラのように多神教的な風土を持ったところです。絶対的な一人の神という概念がもともとありませんでした。そもそもゼウスやヘルメスといった神々は天地創造の神ではなく、「生まれた」ものです。神同士で争ったり、人間的な行動をします。きわめて人間的な神々です。そもそもが人間の思いや願望を投影して人間が作りだした神だからです。それは神羅万象に神を見る日本の宗教観とも似ています。神と神ならぬものの境が明確ではないのです。ですから、容易に偶像を作り上げることができるのです。想像上の神々や動物や岩や人間を神として祀り上げます。 

 しかし、神ならぬものを神とする文化は―つまり偶像を作りだす文化は―喜んで、神ならぬものをあがめているのではないのです。そこには、不安と恐れと現状への不満が根底にあります。大事にしなければばちが当たる、祟りがある、不幸なことが起こるとおそれて偶像をあがめるのです。そしてまた現実的な利益を求めてあがめます。五穀豊穣や商売繁盛、家内安全を願って、あがめます。パウロとバルナバにいけにえを捧げようとした人々も、その土地にあったゼウスとヘルメスによって洪水から守られた伝説によってゼウスとヘルメスをあがめていたと言われます。偶像という言葉は、そもそも「むなしい」という意味を持ちます。むなしいものを恐れのゆえに拝み、むなしいものを自分の利益のために拝むのです。現代人は想像上の神々や動物や岩や人間を神として祀り上げたりすることはないでしょうか?そうとは限らないでしょう。私たちはキリスト者であっても、ある人を慕うあまりに、その人を偶像化してしまうときがあります。教派や教会の創始者や偉大な先輩をどこかで偶像化してしまうのです。 

 また、人間の不安や恐れや現状への不満は、歴史的にも偶像としてのヒーローを生み出してきました。そのヒーローは人間が勝手に祀り上げた、そもそもがむなしい偶像ですから、祀り上げられていた人が不祥事を起こしたりするとたちまち水に落ちた犬を叩くようなバッシングに晒されます。今日の聖書箇所の最後のところでも、パウロたちを神としてあがめようとしていた人々が今度はユダヤ人にそそのかされて石を投げつけます。自分たちの思いを裏切り、利益をもたらさない者だと知ったとたん、石を投げるのです。偶像とはそのような存在です。しかしまた偶像は、石をもって追われるだけの存在ではなく、時として、それ自体が強大化して、人間の側で手の付けられない存在になっていく場合もあります。偶像が、やがて人間を誤った方向へ導き、縛り付け支配する独裁者となったりします。そういうことも歴史的に繰り返されてきたことです。そもそも偶像とは人間のむなしい思い、自分中心の罪によって作り上げられたものだからです。 

<恵みを与えてくださる神> 

 さて、パウロとバルナバは人々の中に飛び込んで叫びます。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。」偶像ではなく、生ける神に立ち帰れ、とパウロたちは叫びました。そしてその生ける神はどのような方であるかを語りました。 

 パウロたちは、生ける神は、「天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方」だと語りました。先ほども言いましたように、ギリシャ神話においては、神々自身も生まれて来た存在です。しかし、天地を創造された生ける神は生まれて来た方ではありません。すべてのものを造られました。創造者なのです。創造者と被造物には明確な境があります。そして生ける神は、この世界を造って造りっぱなしでそのまま、という方ではありません。ただお一人の生ける神は、おのずとご自身の存在を示される神であるのだとパウロは語ります。「神はご自分のことを証ししないでおられたわけではありません。」それは恵みを与えるという形で私たちと関わってくださる神なのです。そしてその言葉を聞きさえすれば、信じさえすれば、救いを与え、永遠の命を与えてくださる神なのです。パウロの話を聞いていた足の不自由な人が癒されたように、人間一人一人に本当に必要な救いと助けを与えてくださる神です。  

 その救いと助けは今も私たちに注がれています。恵みの上に恵みを与えてくださる神は、天地創造の時から変わらぬ恵みを私たちに注がれます。私たちがむなしいものから離れ、御言葉に聞くとき、神の傍らにいる時、私たちはすでに注がれている恵みと祝福に気づきます。いまも傍らに生ける神がおられます。新しい一週間、私たちはただお一人の生ける神と共に歩みます。なお恵みの上に恵みをいただいて歩みます。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日(Ⅱコリント6:2)」御言葉を聞き、キリストのもとで、恵みと救いにあずかり、喜びのうちに新しい一週間を過ごします。