大阪東教会礼拝説教ブログ

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ペトロの手紙Ⅱ第一章1~11節

2021-10-24 15:53:10 | ペトロの手紙Ⅱ

2021年10月24日大阪東教会主日礼拝説教「」吉浦玲子 

<招かれた私たち> 

 主イエスは罪人のただなかに来てくださいました。主イエスは徴税人や娼婦といった社会的に見たら軽蔑されていた人々,神からもっとも遠いと思われていた人々と食事を共にされ、救いの言葉を語られました。そして、そのもっとも神から遠いと思われていた人々が救われました。言(ことば)なる神と出会い、その言葉を聞いて信じ、多くの人が救われました。その救いは私たちにも与えられました。私たちは2000年前、ローマの手先として同胞から金を搾り取っていた徴税人や、あるいは罪深い娼婦とは異なった存在だったでしょうか?神の前に罪人であることにおいて、まったく違いはなかったと言えます。私は確かに罪人だったかもしれないけれど、徴税人よりはマシだとか、娼婦ほどではない、そういうことはないのです。私たちはだれもが深い罪の中を生きていました。 

 ルカによる福音書の中のエピソードですが、主イエスに救われた徴税人の一人であったザアカイは主イエスに言います。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かをだまし取っていたら、それを四倍にして返します」イエス様は罪の世に生きる罪人のところに来られます。そしてその罪人を罪人のまま招かれました。招きに応じて主イエスを信じた者は救われました。救われた者は変わるのです。たとえば、これまで不正な儲けによって財産を溜め込んできていたザアカイが、財産の半分を貧しい人のために施すといったように。主イエスが来られた喜びのゆえにザアカイは自ら財産の半分を施すと言ったのです。そのザアカイを見て、主イエスはおっしゃいました。「今日、救いがこの家を訪れた」と。財産の半分を施すというザアカイの決意を聞いて、じゃあお前を救おうと主イエスは言われたわけではありません。主イエスと出会った、それも主イエスの方からザアカイに呼びかけられた、それゆえに、ただそれだけで、ザアカイは変えられました。救い主であるキリストと出会って変わったのです。それまでザアカイは知らなかったのです。ほんとに大事なものを。しかし、主イエスが彼のもとに来られて、ザアカイの世界が変わったのです。それまでの暗い深い闇に包まれたザアカイの日々に光が射しました。神の光が射したのです。むなしい世界であり、意味のない人生であれば、せいぜい好きに生きればいい。主イエスの時代、ローマに支配されていた祖国のイスラエルがどうなろうとかまわない。自分はただ、この世を生き抜くためにお金だけを信じ、お金を得るためなら手段を択ばない、ローマの手先となって同胞を苦しめることもいとわない、そのような徴税人として生きて来た日々が変えられました。キリストと出会い、神の言葉を聞いたとき、まさに平和と喜びに満たされたのです。それは単にちょっと良い話、ためになる話を聞いたのではありません。神と共に生きることこそが人生の目的であることが分かったのです。財産やお金やこの世の地位がすべてではなくなったのです。猥雑な楽しみも、ひととき盛り上がる酩酊も要らない、もっと大事なことを見つけたのです。生きていく中心が見つかったのです。私たちもそのような者としてすでにイエス・キリストによって召されました。 

<すべてのキリスト者へ> 

 今日からペトロの手紙のⅡを共に読んでいきます。ペトロの手紙のⅠもそうだったのですが、ペトロの手紙という名称ながら、実際の著者は明確ではありません。ペトロの名前を借り、ペトロの教えを受け継いだ誰かがこの手紙を書いたと言われています。また、ペトロの手紙Ⅰはその冒頭に、送付先の地域が書かれていましたが、Ⅱに関しては、特に地域や対象が明示されていません。言ってみれば全キリスト教徒、世界中のキリストの弟子たちに向けて発信された手紙であるといえます。さらに言えば、このペトロの手紙Ⅱは、新約聖書の文書中、成立が最も遅い時代であると考えられています。2世紀の中盤とも言われます。つまり、主イエスの十字架の出来事から100年以上たったころ、人びとに読まれた手紙です。すでにイスラエルがローマに破壊されて、エルサレム神殿がなくなってからも50年以上たっていました。かつて、福音書の時代、主イエスと対立したサドカイ派は70年のエルサレム神殿崩壊と共に壊滅し、ファリサイ派は、各地に散らばっていきました。キリスト者もまた、ローマ帝国の各地に散らばっていたのです。そういう時代背景を考えますと、この手紙は、ある意味、キリストの十字架の出来事を目撃した第一世代の弟子たちがいなくなり、福音書の舞台となったイスラエルという国もなくなった新しい時代を生きる人々へ宛てられた手紙といえます。聖書の教えを伝える者も、それを聞く者も、いずれも主イエスが地上におられた時代を知らない時代に成立した文書なのです。そういう意味では、現代に生きる私たちに近いところで書かれた文書であるともいえます。当時、各地に散らされているキリスト者は依然としてローマから迫害を受けていました。そして同時に、異端的な教えもさらに増えていたのです。その状況の中で、しっかりと正統的な教えに立とうということで書かれたのがこの手紙であろうと思います。ペトロの手紙Ⅰと同様、著者が語る部分について、あえて「ペトロ」という使徒の名前を使って語ります。それは時代が変わっても、ペトロたちが信じていたことと信仰が変わったわけではないからです。21世紀に生きる私たちもまた、そうです。キリストを信じる信仰、聖書の言葉はけっして変わることはないのです。ペトロ本人が語った言葉も、それを受け継ぐ弟子たちの言葉も、いずれも初代教会の教えと変わることはありません。私たちの信仰、大阪東教会の信じるところもペトロたちの信仰と何ら変わることはないのです。いきなりザアカイの話をしましたが、ザアカイの時代も、そしてまたこのペトロの手紙Ⅱを最初に読んだ二世紀のキリスト者も、私たちも、キリストの光の中に、新しく生かされている者として同じ信仰に生きています。 

 そしてペトロは語ります。「主イエスは、ご自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。」私たちは「与えられた」のです。ザアカイが与えられたように、私たちも主イエスご自身の神の力によって、「命と信心とにかかわる」すべてを与えられました。必要な「すべて」を与えられたのです。それにプラスアルファで別のことが必要だとは言われていません、主イエスが与えてくださったこと以外に、たとえば人間の立派な行いが必要だなどということはないのです。 

 ザアカイは、ただ有名なイエスという人を見ようと思って木に登ってイエスを見ました。私たちも主イエスを見て、知るのです。それは御言葉によって知るということです。「それは、わたしたちをご自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです」主イエスご自身が私たちに見せてくださるのです。だから私たちは主イエスを知ること、認識することができます。 

 この「認識」という言葉は「知識」という言葉でもあります。ギリシャ語で「グノーシス」です。この手紙が発信された二世紀、まさにグノーシス主義という異端が起こっていました。グノーシス主義は必ずしもキリスト教における異端には限りません。たとえば、現代でいうところのスピリチュアルもグノーシス主義の側面を持つといえます。「グノーシス(知識)」に人間の力で到達することを目標としているのが特徴です。手紙では、この「グノーシス(知識、認識)」という言葉をあえて使ってありますが、そのようなグノーシス主義ではない、まことの知識、認識は主イエスご自身が与えてくださるのだと語られているのです。私たちが何か修行したり瞑想したりして知識に到達するのではなく、キリストご自身によって、知らされるのだと語るのです。 

 さきほど、この手紙は十字架の出来事から100年ほどたって成立したと申しました。実際のところ、キリストの復活、昇天から100年たっても、キリストの再臨はありませんでした。第一世代の弟子たちは去り、なお、キリストの再臨がないなか、迫害は続ていました。キリストの再臨、終わりの日の希望に生きていたキリスト者たちのなかに動揺があっても不思議ではありません。グノーシスのような異端も起こっています。その状況の中で、なおしっかりとキリストを信じる信仰に立とうとこの手紙は語っているのです。「この栄光と力ある業とによって、わたしたちには尊くすばらしい約束が与えられています。」すでに約束されているキリストの再臨、終わりの日の希望の約束にしっかりと立つことが勧められています。自分の知識や行いで救われるのではない、ただ救い主なるキリスト・イエスに固く立つのだと手紙は語っています。この手紙を読んだ2世紀のキリスト者も、私たちも、キリストのなさった業を肉眼で見たわけではありません。しかし、それぞれにキリストと出会い、確かな約束をいただいています。その約束にしっかりと立つことが語られています。 

<神の本性にあずかる> 

 ですから、この地上を歩む時も、キリストを知る以前のように、この世の悪しきあり方に染まらず歩むのです。ザアカイが強欲や不正から離れたように、私たちも情欲に染まったこの世の退廃から離れます。それは自分の意思で離れるというより、神の約束を信じる時、おのずと免れさせていただくのです。自分で自分の中にある罪の力、この世の退廃に惹かれてしまう情欲を捨て去るのではありません。それはできないことです。しかし、キリストを知り、そしてその約束の素晴らしさを知る時、私たちはこの世の退廃の虚しさを知ります。この世にあって情欲にまみれて生きることがむしろ悲しみに満ちたことだと少しずつ知るのです。 

 子供のころからクリスチャンの親に連れられて教会に行き、中学生の時、洗礼を受けた友人が言っていました。大学に進学して親元を離れて自由になって教会に行かなくなったそうです。ずっと親や教会に縛られているようえ嫌だったのが、日曜にも友達と遊びに行ってとても楽しかったそうです。まさに青春を謳歌していたそうです。そのなかで、なにか不都合があったとか、挫折したということではないのですし、その友人が特別になにか退廃的なことをしていたわけでもありません。しかし、ある時、心がざらっとしていることに気づいたそうです。いつのまにか世界がどんよりとして心が薄暗いところに沈み込んでいくような気持ちがしたそうです。教会から離れて、自由で楽しくて仕方なかったはずなのに、これは何か違うと感じたそうです。そして教会に戻ったそうです。 

 私たちはこの罪の世のあり方、情欲に染まり退廃的なこの世から完全に離れることはできません。むしろ私たちの本性はこの世を好み、情欲にまみれるものです。しかし、キリストを信じる信仰を与えられている私たちは、罪の世、そしてもともとの自分の本性からも守られているのです。「われらをこころみにあわせず悪より救いいだしたまえ」と主の祈りで祈りますが、まさにその祈りは聞かれて、私たちは守られています。そして守られているだけではありません。この罪深かった私たちが「神の本性」にあずからせていただくのです。愛に欠け、弱く、真理を知らなかった私たちが、愛と力と知恵をいただくのです。神の性質にあずかるのです。キリストご自身の神の力によって、私たちは神の性質にあずかります。それこそが、何より素晴らしい約束です。いやそんなことはない、自分は相変わらずダメな人間だと思う必要はないのです。すでに神の力は私たちに及んでいるのです。私たちはこの世の力ではなく、神の力によってすでに生かされています。 

 



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