2018年11月18日大阪東教会主日礼拝説教 「あなたを強くするもの」吉浦玲子
<冬の祭り>
「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。」
このように今日の聖書箇所は始まります。7章から話題に上がっていた仮庵祭は秋の祭りでした。季節は巡り、冬になったのです。神殿奉献記念祭は、紀元前2世紀から行われていた祭りで、ユダヤの三大祭りのひとつです。紀元前2世紀当時、シリアにイスラエルは支配されていました。そしてシリアによって激しい宗教弾圧が行われました。神殿で律法に従った祭儀を行うことが禁じられ、ゼウスの偶像が神殿に置かれました。また律法で汚れているとされている豚を神殿に捧げるように強制されました。それに反対する者は容赦なく処刑されました。そこでユダ・マカバイという人が立ち上がり、シリアに反旗を翻し、民族の独立を勝ち取りました。そして異教によって汚された神殿を清めたことが、この神殿奉献記念祭の起源でした。ですからこの祭りの時、いやがをでも、民族意識は高揚しました。主イエスの時代は、イスラエルはローマに支配されていましたから、この祭りの間は国が解放されるようにという解放への願いが高まっていました。
そして「冬であった」と書かれています。その祭りは冬に行われたのです。暗く寒い季節に祭りを行うというのは、欝々とした人間の気分を発散させるのに良いようです。日本をはじめキリスト教国ではない国でも、冬の季節にクリスマスを祝うのは商業主義的な背景もありますが、暗い季節における人間の心理的に発散したい潜在意識とマッチしているという側面も見逃せません。実際、クリスマスが12月になったのは、キリストが12月にお生まれになったからではなく、もともとローマではこの時期に太陽神の祭りをしていたからです。ローマの国教がキリスト教になったとき、この太陽神の祭りがキリストの降誕を祝うという名目に入れ替わったのがクリスマスの起源です。
この冬ののち主イエスが十字架にかかられることになる過ぎ越し祭は春の祭りです。今日の場面は、十字架へと向かう暗い季節であることが示されています。主イエスの宣教活動が一つの終わりを迎える季節でもあります。人間の罪が満ちていく闇が象徴される季節です。しかし、皮肉なことに神殿奉献記念祭自体は光の祭りと言われたそうです。祭りの間中、家々に灯りが灯されたのです。まるで現代のクリスマスの季節の光景のようです。人間の灯したかりそめの灯りが人間の闇をかき消すようにともっている冬なのです。その冬の季節、イエスを巡る状況はより危機的に、深刻になっています。
<あなたはメシアか?>
さて、主イエスは神殿の中を歩いておいででした。ソロモンの回廊とありますが、紀元前10世紀にソロモンが建てた最初の神殿は、紀元前6世紀にイスラエルを滅ぼしたバビロニアによって破壊されました。そののちバビロン捕囚から帰ってきた人々によって神殿は再建され、さらに紀元前1世紀にヘロデ大王によって大拡張が行われました。破壊と再建、大改築を経た神殿にあって、このソロモンの回廊はソロモン王が神殿を建てたときから残っている回廊だと言われていたようです。言ってみれば主イエスの時代から1000年も前からイスラエルが神に特別に選ばれ、祝福されたことを記念する回廊といえます。その場で、ユダヤ人は主イエスを取り囲んで詰問をします。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」人々は救い主であるメシアを待ち望んでいました。先ほども申しましたように神殿奉献記念祭のとき、さらにその思いは高まっていたのです。あなたがメシアならそろそろはっきり宣言したらどうだ?そうユダヤ人は問うているのです。
イエス様はこれまでサマリアの女であるとか、生まれながらに目の見えなかった人には、はっきりとご自身が神のもとから来た救い主であることを語っておられます。しかし、権力者であるユダヤ人にははっきりとは語っておられません。10章の最初からあるように、羊飼いや門の譬えを使って話をされています。その理由の一つは、人々が考えていたのは民族独立を実現するような政治的な救い主メシアであったからです。つまり、かつてのユダ・マカバイのようなリーダーを求めていたのです。しかし、主イエスはそのような政治的な独立を実現するようなメシアではありませんから、あえてメシア救い主という言葉を避けておられたということがあります。
今日の聖書箇所でも「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。」と遠回しなお答えをなさっています。わたしはたしかに自分がメシアであることを言ったけれど、あなたたちは信じないではないか、そもそもわたしのやったことを見たらわたしが何者か分かるだろう、そうおっしゃっています。「しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。」<わたしの羊ではない>、このイエス様の言葉はドキッとする言葉です。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。」そうイエス様はおっしゃいます。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける、しかし、イエス様の羊でない羊はイエス様の声を聞き分けることができないと主イエスはおっしゃいます。イエス様の声を聞きわけない者は、そのなさることを見ても信じることはできない、そもそも、そういう羊は自分の羊ではないとおっしゃるのです。
ここで大事なことは、イエス様の言葉を聞き分けることができるから、その羊はイエス様の羊だということではないのです。イエス様の羊であれば、おのずとイエス様の言葉を聞き分けることができると、主イエスはおっしゃっているのです。こういう言葉を聞きますと、自分はイエス様の言葉を聞き分けているだろうか?そういう不安を持つかもしれません。いや不安を持っておられる方はまだよいのです。私はしっかり主イエスの言葉を聞き分けていると自信のある人のほうがむしろ痛ましいのです。自分の勝手な思いでイエス様の言葉を聞いている、そして自分は聞き分けていると思い込んでいる、そうであるならば、それほど痛ましいことはありません。
ユダヤ人は「あなたがメシアなら、はっきり言いなさい」そう主イエスに言ったのです。それは自分の願いをかなえるメシアであることが前提なのです。あなたはユダ・マカバイのような人なのか?そうユダヤ人たちは聞いたのです。しかし、私たちもまた救い主に言うのです。あなたはわたしの願うような救い主であるのか?と。わたしの声を聞いて、わたしの願いをかなえるメシアなのかと私たちはメシアに問うのです。私たちは往々にして羊飼いの声を聞き分ける羊ではなく、羊飼いに問いただし、自分に従わせようとする羊です。
なぜ私たちは主イエスの言葉を聞き分ける羊ではないのでしょうか?それは私たちが強いからです。自分をかよわい羊、迷える羊とは思っていないからです。前にもお話ししましたように、羊は羊飼いなしでは生きられない動物です。自分の命をすべて羊飼いに委ねているのが羊飼いの羊です。だから羊飼いの羊は羊飼いの声を聞き分けるのです。聞き分けることが、自分の命にかかわることだからです。しかし、私たちは自分の力で生きていけると思っています。神様は、せいぜいちょっと困ったときだけ助けてくれればいい、そう考えてしまいがちです。ですから羊飼いである主イエスの言葉が聞き分けられないのです。
<選びと恵み>
では私たちは主イエスの羊ではないのでしょうか?主イエスの羊であれば、あのずと主イエスの言葉を聞き分けることができるのであれば、主イエスの声が聞き取れないことのある人間は主イエスの羊と言えないのでしょうか?
ここで少し硬い言葉で言いますと「神の選び」ということが言われています。神の選びと言いますと、私は選ばれているのか選ばれていないのかということが気になります。そしてまた選ばれる人と選ばれない人がいるならば、神は不公平だとも感じます。しかし、神の選びというのは、すべてのことが神の側に委ねられているということなのです。この世界では、人間は選ばれるように努力する存在です。試験でもスポーツ競技でも職場の役職でも実績を上げたり勝ち抜いたり、相応の力があることを示すことによって、選ばれます。しかし、神の選びはそうではないのです。人間の側の要件は不要なのです。ただ、十字架と復活のイエス・キリストを信じさえすればいい、そしてその信じる信仰すら神によって与えられるのです。神の選びということはすべてが恵みだということです。その恵みは神からの一方的な恵みなのです。私たちはただ安らかに神のなさることを感謝して歩んでいけばいいのです。
こんな小話があります。天国に行った人が、案内人に天国を案内してもらいます。そうしたら巨大な倉庫が見えました。案内人はそこは素通りしようとします。でも天国に来た人はどうしてもその倉庫の中が見たくてたまりません。案内人に「あれは何ですか」と聞いても答えてくれません。で、その人は、案内人を振り切って走って行って倉庫の中に勝手に入ります。案内人は慌ててその人を追いかけてきて「その中を見てはいけない」と叫びます。でもその人は倉庫の中に入っていきます。そして愕然とします。それは人間が生きている間、神様がその人に渡そうとして受け取られなかった恵みが入れてあったのです。その人は自分の名前が書かれた棚を見つけます。その棚にはおびただしい数の恵みが受け取られないままに置かれていました。たしかに自分が要らないと言った恵みもあれば、気づかなかった恵みもあります。ああ神様はこんなに素晴らしいものをたくさんくださろうとしていたのに、私はなんてことをしていたのだ、その人は膝を折って崩れ落ち、号泣します。案内人がようやく追いついてきて言います。「だからこの倉庫の中は見ない方が良いと言ったのに」
私たちは自分たちが力ある者だと思っているとき、神の恵みを受け取ることができません。あふれるほどに与えてくださる方へ顔を向けていなければ、与えてくださっていることが分かりません。ただ子供のように無邪気に何をもらえるかなあと期待をして神に顔を向けているとき、私たちはあふれるほどのものをいただくのです。「彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」そう主イエスはおっしゃっています。恵みの中にある羊は、安全なのです。この世のあらゆることから守られているのです。死からすら守られています。死によってすら、主イエスの羊は奪われることはないのです。
神にあなたは何者か?あなたはわたしに何をしてくださるのかと問うことをやめたとき、私たちには神の声が聞こえてきます。あなたはわたしを選ぶのか選ばないのかどっちなのだと問うことをやめたとき、すでに神の恵みの業が自分に及んでいることが見えてきます。
伝道者パウロに神はおっしゃいました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さのなかでこそ十分に発揮されるのだ。」私たちは自分たちの弱さを誇っていいのです。信仰の弱さすら誇っていいのです。神が与えてくださるからです。弱いところを強め、欠けたところを満たしてくださる、その神に期待をします。季節は冬に向かっています。しかし、暗く寒いところに神のあたたかな光がさします。私たちが暗くて寒いときに、まさに神の救いの光が注がれます。
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