大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ローマの信徒への手紙 6章15~23節

2017-07-24 11:36:05 | ローマの信徒への手紙

2017年7月23日 主日礼拝説教 「本当の自由」 吉浦玲子牧師

<永遠の命>

 今年の5月3日、阿倍野のカトリックの教会で行われたある超教派の集いで、私は奨励を依頼されました。実は突然の依頼でした。本来は二か月くらい前に依頼があるのが、10日くらい前に依頼が入りました。というのは、5月3日は、本来、カトリックの神父が奨励をなさる予定だったのです。しかし、その神父は、4月16日、復活祭の朝、急性心不全で突然逝去をされました。そのためのピンチヒッターとして私が立てられたのでした。私はその天に召された神父とは全く面識がありませんでした。神父は復活祭前夜の祈祷会には、いつも通りお元気に奉仕をなさっていたそうです。まだ50代でダニエル神父とおっしゃいます。復活祭の日曜日に、ダニエル神父がミサに出て来られないので司祭館に信徒さんが見に行ったら、もうすでに逝去なさっていたそうです。推定死亡時刻は朝の六時だったそうです。復活祭の朝に旅立たれたのです。急に召されたことは悲しいことですが、神父として教会に仕えて来られ、キリスト教最大の祝祭である復活を祝う復活祭の朝に召されたということは、少しばかり慰めのあることではないかと私などは思います。もちろん、親族や信徒の皆さんにとっては悲しみの極みの出来事です。ダニエル神父は、アフリカのコンゴの出身だったそうです。コンゴから親族の皆さんが日本に来られることに時間がかかったので、葬儀をするまで少し時間が必要だったともお聞きしています。ご家族にしてみればいくら神に仕えるといっても、遠い遠い日本に単身赴いていってめったに会うこともできなかったことには残念な思いもあったでしょう。そしてまだ50代であったことも痛恨のことでしょう。幸い、発見は早かったとはいえ、その死は、だれにみとられることもなかった、言ってみれば、孤独死ともいえます。

 生前、ダニエル神父は故郷のコンゴとはまったく文化の違う日本での日々に、時には孤独を感じられることもあると話されていたともお聞きします。その異国での日々の末に、ダニエル神父はたったひとりで死を迎えられました。パウロは今日の聖書箇所の最後で、永遠の命について語っています。永遠の命のことをダニエル神父ご自身もこの地上にあったとき、いくたびも語ってこられたでしょう。復活祭の前夜の祈りの場でも、復活の命、永遠の命についてダニエル神父は深く思いを巡らされたことでしょう。しかし、神父のこの地上での最後は、他人から見たら、すこしばかりさびしいものであったようにも感じられなくもないのです。

 しかし思うのです。復活祭の朝に召されたダニエル神父はご自身の最後を通して、やはり復活の命を証されたのだと。肉体の命を越える永遠の命へと向かわれることを、復活祭の朝に示されたと思います。

 永遠の命を説くパウロも最後は殉教したと言われています。平安な死ではありませんでした。パウロの時代、キリスト者であること、ましてその宣教をするということは、死と隣り合わせのことでした。たえず、肉体の死の危険をひしひしと感じながら、なお、パウロは希望をもって確信をもって永遠の命を語ることができました。

<義の奴隷>

 遡って今日の聖書箇所を読みます。「あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。」

 キリストを信じて律法から解放され、罪を赦された者はそれにふさわしい生き方をするのだとパウロは語っています。いや、ふさわしい生き方を私たちが意識的に選択するのではなく、もうそうせざるを得ない者としてすでに生かされているはずだとパウロは言うのです。今日の聖書箇所の最初の部分に「私たちは律法の下ではなく恵みの下にいるのだから罪を犯してよいということでしょうか」とあります。これは6章の前半でもパウロが語っていた<罪がキリストの十字架によって赦されて、人間がキリストの恵みの下にあるのなら、いくら罪を犯しても赦されるのではないか>という屁理屈に対して応えているのです。なぜこのような屁理屈がでてくるのでしょうか?

 ひとつにはかつて自分が罪の奴隷であったということがわかっていないということがあるでしょう。罪の奴隷というほどに私たちは罪に支配されていたのです。映画などで見ますと、ローマ時代の奴隷は牛馬以下の扱いをされていたと言っていいでしょう。だれもがそんな奴隷などは嫌だと思います。3章9節には、「罪の下にあった」とありました。私たちは罪の下にあったのです。私たちは自分で罪をコントロールはできないのです。私たちは罪の上にはいなかった。罪が上から私たちを支配していたのです。私たちはみじめな罪の奴隷でした。でもそれには気づくことができなかったのです。

 もうひとつ大事なことは、罪の奴隷であった私たちを解放してくださるために奴隷になってくださったのはどなたかということです。

 マタイによる福音書の20章でイエス様の弟子であるヤコブとヨハネの母が、主イエスがやがて王様になったとき自分の二人の息子を取り立てて欲しいと願う場面がありました。それを聞いて他の弟子たちは怒りました。つまり二人だけぬけがけするなということです。ぬけがけするなということは他の弟子たちも同じことを考えていたということです。自分たちが偉くなりたい、上になりたいと願っていたということです。それに対して主イエスはお答えになります。「最も偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい」ここで言われる僕というのが奴隷という意味の言葉です。偉くなりたい者は僕になれ、奴隷になれと主イエスはおっしゃっているのです。

 当時の人々だって奴隷は嫌だと普通に考えたでしょう。しかし、実際に主イエスは奴隷になられました。牛馬を打つよりもひどい肉をひっかけて裂く鍵のついたローマ式の鞭での残酷な鞭うちにもあわれました。自由を奪われゴルゴタの丘まで歩まされました。十字架につけられ、体も動かせない状態でじわじわと死んでいく死を奴隷として受け入れられました。主イエスご自身が私たちの代わりに奴隷となって仕えてくださり、神の裁きを受けてくださり、私たちは罪を赦されました。

 主イエスご自身が奴隷となってくださり、私たちに救いの恵みが与えられるまで、私たちはそれまで奴隷であったことすら気づかなかったのです。

 ところで、もうひとり、復活祭の朝に召された方の話をします。これはある牧師さんが書かれていたことです。ご高齢の男性がいました。身寄りのない孤独な人でした。その人は教会に来るようになってやがて洗礼を受けられました。穏やかな方で静かに教会生活を送られていた紳士でした。しかし、紳士のように見えていたその男性には過去がありました。家族皆を泣かせるようなあくどいことをしていた過去があったのです。ですから、その男性は、ほんとうは家族がいたのですが、家族から見放され絶縁されていたのです。その男性はほんとうは家族ともう一度話をしたかったことでしょう。しかし自分のやってきたことを思えばそれは叶わないことだと思っておられたようです。その男性は洗礼を受けられて数年後、復活祭の朝、召されていました。礼拝を欠かしたことのない男性が礼拝に来られない、連絡もなく復活祭の礼拝に来られないということで、心配した教会の方が自宅を訪問すると、その方は自宅に倒れておられ、すでに召されておられました。礼拝に向かうためにすっかり身なりや服装を整え、礼拝に出席する姿で倒れておられた。結局、ご家族と再び会うこともなく、葬儀も親族の出席はなくひっそりと行われたそうです。しかしなお、復活祭の朝、礼拝に向かおうとなさっていたこの方の心はすでに天にあったと思います。家族にとんでもないひどいことをしてこられた、家族からは赦されなかった。しかし、神に赦されていることを感謝しながら、永遠の命を与えられたことを喜び、召されたことだと思います。罪の奴隷であった、自分ではどうしようもできない罪に支配され、愛する人をも傷つけ、自分も傷つき、孤独の底にいた、その方のところに奴隷となった主イエスが来てくださいました。降ってきてくださいました。家族にひどいことをした自分よりもっともっと低いお姿でキリストが来てくださった。そのときその方は救われたのです。罪の奴隷ではなく、解放され、新しい主人である神に仕える人になったのです。そして永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。

<神があなたをご覧になっているように生きる>

 さて、パウロは<行いではなく信仰によって罪が赦されるのなら行いはどうでもいいではないか、いくらでも罪を犯せるではないか>という屁理屈に繰り返し答えています。そのへ理屈に対してパウロは神によって罪赦され、新しく生きる者となったら、ふたたび罪にまみれて生きることはできないのだと言います。パウロは「かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい」と言います。聖なる生活というのは聖化、聖に化けると書きますが、聖化しなさいという言い方です。私たちは行いではなく信仰によって義とされました。義認という言い方をしましたが、その義認された者は聖化していくのだとパウロは語ります。

 私が洗礼を授かった牧師はこのことを高速道路に例えておられました。ある時、先生は、高速道路で何回も行ったことのある場所へ向かっていました。しかし、その日はジャンクションを見落として気が付くと違う方向に向かって走っていたそうです。しばらくして普段とは見知らぬ風景に気がついて、あわてて出口から降りて方向を変えて走り出して、どうにか無事目的地に着いたそうです。これは人生においても同じだと先生はおっしゃいます。問題なのは「今どこにいるか」ではなく「どこに向かっているか」なのだと。車で走るときどちらかの方向の道路に乗ります。両方向の道路に同時に乗ることはできません。西か東か、北か南か、どちらか一方に向かう道に乗ります。キリストによって罪赦された者は、永遠の命へと向かいます。罪の中にとどまるものは死へと向かいます。「罪が支払う報酬は死です」とパウロは書いています。目的地が「死」なのか「永遠の命」なのか、それが大事なことなのです。永遠の命に向かいながら、さらに罪を重ねて死へと向かうことはできません。私たちは聖なる生活を送りながら、聖化されながら永遠の命へ向かいます。もし自分が間違った方向に向いていたら、向きを変える必要があります。走っている道から降りて方向転換するのです。神に向かって向きを変える、それが回心です。心を回す、それが回心です。心の向きを変えるのです。永遠の命に向かう道路で私たちは空き缶を投げ捨てたり、隣の車に迷惑をかけたりはできません。

 罪の奴隷であった私たちは今や神の奴隷となりました。奴隷というと嫌な響きですが、神の奴隷である時私たちは安心して生きていくことができるのです。主イエスは、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」とおっしゃいました。私たちの主人である神は柔和で謙遜な方です。血も涙もなく人間をこき使うようなひどい主人ではありません。その軛は軽い、つまり私たちは罪の奴隷であった時より、軽やかにのびのびと生きていくことができるのです。そしてその日々は実を結ぶ生活なのだとパウロは言います。

 洗礼を受け、私たちは向きを変えて生きています。それでも周りの風景は大きく変わってはいないように見えるかもしれません。私たち自身も変わっていないように思えるかもしれません。しかし、その道は既に永遠の命へと向かっています。変わり映えしないように見えても実を結ぶ日々が与えられています。神がそのようにしてくださっているのです。それが恵みです、その恵みの中に私たちはすでに生かされています。そして神ご自身が私たち一人一人を死から命へと向きが変えられた、新しい人間として見てくださっています。その神のまなざしを覚える時、私たちは罪にまみれて生きるのではなく、その神の愛と信頼にこたえて生きる者とされます。神が新しい人間として私たちを見てくださっている、その神のまなざしの中にある新しい人間として生きます。