大阪東教会礼拝説教ブログ

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ローマの信徒への手紙 6章1~14節

2017-07-17 19:00:00 | ローマの信徒への手紙

2017年7月16日 主日礼拝説教 「新しい命に生きる」 吉浦玲子牧師

<罪に対する屁理屈>

 ローマの信徒への手紙6章最初で「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」とパウロは問いかけます。これは5章の終わりでパウロが語ったことを受けています。つまり、人間はその罪による死から、一人の人イエス・キリストによって、恵みへと、永遠の命へと移されました。死から永遠の命へと移されました。つまり人間の罪よりも神の恵みの方が圧倒的なのだと語りました。「罪の増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」と書かれていることに続いています。

 じゃあ、罪が増したところに、恵みが満ちあふれるなら、そのまま罪の中にいたらいいではないか?そのような屁理屈が出て来るのです。実際、パウロの言うことは、人間を罪の中にとどまらせる誤った考えだと批判する人々が当時あったようです。

 現代、普通に考えても、イエス・キリストの十字架で罪がすでに赦されているのなら、クリスチャンは何をしてもいいのではないか?そもそもパウロは行いではなく信仰によって義とされる、正しいとされるという、信仰義認も説きました。だからまじめな行いをする必要はないのだ、そういう考えは程度の差こそあれ出て来るものです。

 それに対して、パウロは否定しているのです。「罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。」と言っています。「罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょうか」罪に対して死んだということは、罪が無くなったということではありません。罪の支配から解放されたということです。キリストの十字架によって私たちは罪に対して死にました。

<死の体験>

 ところで、ここにおられる皆さんは、当然言うまでもなく、まだ死んだ経験はなさっていません。ひょっとしたら、臨死体験とか、生きるか死ぬかの瀬戸際の体験、死を覚悟される体験をなさった方はおられるかもしれません。私自身は、臨死体験も瀬戸際の体験もしたことはありません。ただ、20年ほど前、がん検診で、偽陽性だと言われたことがあります。がんではないかもしれないが、前がん状態かもしれないと。そう聞いたときはたいへんショックを受けました。まだ子どもも小さかった頃です。何度か検査を受けて、結局はがんでも前がん状態でもないということが分かりました。でもその最終的な結果が出るまでは、なんともいえない心理状態でした。最初に偽陽性だと言われた時、いきなり突き落とされたように感じました。そして死というものをいきなり意識しました。当時はクリスチャンではなかったのですが、その時感じた死というものは非常に無機質な底なしの闇のようで、その熱もなにもない空間に落ちて行くような感じがしました。

 ところが、パウロは言います。わたしたちは「罪に対して死んだ」と。また4節「わたしたちは洗礼(バプテスマ)よってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。」と。(ここにはまだ洗礼をお受けになっておられない方もおられますが、どうか洗礼はキリスト教の救いの根幹にかかわる事柄ですので、ぜひ救いのことがらとして一緒に聞いてください。)洗礼は、キリストと共に葬られ、その死にあずかるものとされるものだとパウロは語っています。端的にいえば、洗礼によって、人間は一度死ぬのです。洗礼をお受けになっている方はこのパウロの言葉にどのような感じを持たれますでしょうか。本当に自分は洗礼式の日、死んだと感じられたでしょうか。

 私たちの教会では、滴礼と言って、受洗者の頭の上から水を垂らす形での洗礼を行います。しかし、教会によっては浸礼といって、バスタブのような洗礼槽に体ごとつかる形の洗礼式を行うところもあります。その場合は、いったん頭まですっかり水に潜ることになります。かつて浸礼で洗礼を受けられた牧師先生の話を聞いたことがあります。A先生と仮にいいます。そのA先生が若い頃、洗礼を受けられた時、同時に受洗する人が8人いたそうです。一人一人順番に洗礼槽に入って洗礼を受けるのですが、A先生が洗礼槽につかる順番は8番目だったそうです。そのとき、洗礼式を司式された牧師は高齢の方だったそうです。一人の人を水にざぶんとつける、頭まで水の中にもぐるのです。そしてその先生がぐぐっと受洗者を水の中から抱きあげて引き上げる、それが浸礼式の洗礼の手順です。洗礼式全体で一回水の中で死んで、引き上げられてふたたび生きるということを示すのです。で、そのA先生が洗礼を受けられる時、最初の数名の受洗者の時は良かったのですが、だんだんと司式されている先生は疲れてこられ、一番最後に洗礼槽につかったA先生の時は、A先生が頭まで水につかったあと、なかなか引き上げてくれなかったそうです。A先生は水のなかで息が続かなくなって、どうしようと思ったそうです。自分から飛び出して行くわけにもいかないし、もう駄目だと思った瞬間、ようやく引き上げてもらえたそうです。笑い話のようですが、A先生はそのとき「ほんとうに洗礼というのは一回死ぬものなのだと実感しました」とおっしゃっていました。

 そのような呼吸困難になるような体験はしなくても、私たちの教会で行うような滴礼であっても、洗礼の場には聖霊がおられ、私たちは死ぬのです。それは自分が感覚的に明確に<死んだ>と感じるようなものではありません。私自身、自分が洗礼を受けた時、死んだという実感は正直まったくありませんでした。がん検査で偽陽性と言われたときは死を意識しましたが、洗礼の時は感じませんでした。しかし、実感があるなしということにかかわらず、洗礼とは死ぬものなのだとパウロは語ります。3節で「それともあなたがたは知らないのですか」とわざとパウロは問いかけます。実際、洗礼を受けながら知らないかのように過ごす人々が当時も多かったからです。しかし、人間の側が知らなくても、神は「死んだ」とみなされます。本来は神によって裁かれ、死ななければならなかった人間が、洗礼の時に「死んだ」と神はみなしてくださるということです。

<新しい命に生きるために>

 そして洗礼においてキリストの死にあずかったのはなぜなのかということを、さらにパウロはつづけて語ります。「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。」洗礼において人が死ぬ、神によって死んだとみなされるのは、新しい命に生きるためなのだとパウロは語ります。一度死んで新しく生まれる、また復活をするということです。

 ところで、ヨハネによる福音書3章に主イエスとニコデモの会話がでてまいります。ユダヤ人の指導者であったニコデモは、主イエスに親しい思いを抱いて、こっそりと主イエスに会いにきました。律法の教師であり指導者であったニコデモは、ユダヤにおいて尊敬されている指導者でありながら、何か満たされない思いがあったのでしょう。そして主イエスのことを知り、この人なら自分の満たされないところを満たしてくださるのではないかと思っていたようです。そのニコデモに主イエスはおっしゃいました。「はっきり言っておく。人は、新たに生れなければ、神の国を見ることはできない。」

 ニコデモはまじめな人でした。一生懸命律法を守っていた人です。そしてなお自分の欠けた所、自分の足りないところをどうにかして補えば、神の国に入れるのではないかと感じていたと思います。それに対して、主イエスの言葉は驚くべきことでした。「新たに生れなければならない」とおっしゃるのです。ニコデモは「年をとった者が、どうして生まれることが出来ましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」と反論します。神の国に生きるということは、現在の自分の延長線上に、あるいはなんらかのレベルアップをしたところにあるということではなく、<新しく生まれない>といけないのだと主イエスはおっしゃっているのです。「だれでも水と霊によって生れなければ、神の国に入ることはできない。」水と霊によって、というのは洗礼を指します。洗礼は単なる儀式ではなく、一度死に、水と霊によって新しく生きるためのものです。

 私たちは一般的に言う「生まれ変わる」という言葉を比較的安易に使うこともあります。わたしは心を入れ替えて生まれ変わったように頑張って働いたとか、あの人はまるで生まれ変わったように立派になったとか、言います。

 たしかに、大きな挫折とか失敗とか、環境の変化に伴って、心を入れ替えて、生まれ変わったように人間が変わることはないではありません。あの人は別人のようになったということはあります。あの人は大化けしたという言い方もします。

 しかし、パウロが語る「新しい命に生きる」、そしてまた主イエスがおっしゃる「新しく生まれる」ということは、そのような人間の人格的変化や行動の変化を言っているのではありません。一般的に言う「生まれ変わる」ということとは、全く違うのです。そこには前提として、厳然と死があるのです。神の国に入る前に、「死ぬ」、そして新しい命に生きるのだというのです。そしてそれは人間が感覚でとらえられることではなく神の出来事なのです。神がこの人間は罪に対して死んだ、キリストと共に葬られた、そうみなしてくださるということです。

 それが洗礼です。ある先生は、洗礼を植木を根元で断ち切ることだとおっしゃっています。罪の根っこから断ちきって、接ぎ木をするのだというのです。何に接ぎ木をするのか、イエス・キリストにです。罪の根っこを切り取って、すなわち生き物としてはいったん命を断って、それから主イエスにつながれる、というのです。3節に「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたち」とあり、8節にある「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることになるとも信じます」とあります。私たちはキリストと共に死に、キリストと共に、キリストに接ぎ木をされて生きるのです。

<神に捧げて生きる>

 しかし、罪の根っこから切り離されているのに、洗礼を受けたキリスト者であっても、罪を犯します。繰り返し犯します。そのたびに、ああ私はダメだなあと思います。クリスチャンになっても何も変わっていないとすら感じます。確かにキリストに接ぎ木されたはずなのに、自分の目に見える姿は、何も変わっていないような、相変わらず罪深い情けない姿なのです。

 前に言いましたように、私たちは罪に対して死んだのであって、罪が死んだわけではありません。罪自体はまだ生きています。罪から切り離された私たちは、罪には支配されていません。しかし、罪はふたたび人間を支配しようとします。ですから12節で「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。」とパウロは言っています。洗礼でたしかに私たちは神の目から見て死にました。しかし、なお肉体は残っています。古い体は残っているのです。その古い死ぬべき体を罪は支配しようとやってきます。罪は古い体に対してやってくるのです。しかし、実際は洗礼を受けた者は新しくされています。一度死んで新しくされた体をいただいていると言っていいのです。私たちは罪を犯すたびに、私はちっとも変っていないと思います。しかし、それは古い体に対してのことなのです。私たちは新しい体に目を向けるべきなのです。洗礼を受けた者は、一度死んで新しくされた体において生きるのです。

 「かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に捧げ、また、五体を義のための道具として神に捧げなさい。」と13節でパウロは語っています。本来、アダムの子孫であり、罪によって汚れた体を神に捧げることはできません。旧約聖書の時代から動物を奉納するときも傷のある動物を捧げることはできませんでした。しかし、一度罪に対して死んで新しく生きる者はキリストとつながれた新しい体をいただいています。聖く正しい体をいただいています。その新しい体は神に捧げることがゆるされています。パウロは「五体を義のための道具として神に捧げなさい」と言っています。一度死んで新しく生きる者は神に自分を捧げて生きるのです。それが新しい生き方です。神に捧げて生きる時、罪は私たちを支配することはできません。

 ところで献身という言い方をします。クリスチャンの間では、牧師や神学生のことを献身者といいます。そういう言い方に対して神学者のK先生は良く怒っておられます。「牧師や神学生だけが献身者なんじゃない。牧師や神学生が献身者なんて言うのは傲慢だ。キリストに結ばれた者は皆、だれだって、神に献身して生きるんだ。神に自分を捧げて生きるんだ。」とおっしゃいます。確かにそうだと思います。

 洗礼を受けた皆が自分を神に捧げていきます。それは単に教会の奉仕をするとか伝道をするとかそういうことだけではありません。ひとりひとりがそれぞれの場で、それぞれのあり方で、神に自分の体を、そして日々を捧げて生きていきます。それは罪から自分を守る最善の生き方です。自分を捧げるというと何か自分をなくすような滅私奉公のようなイメージを持たれるかもしれませんが、そうではありません。キリストに接ぎ木をされた私たちの本当の個性が生かされ、本当の人生の使命に生かされていく喜びの日々なのです。まさに恵みの中に生きていく生き方です。