大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ローマの信徒への手紙 5章12~21節

2017-07-14 13:46:49 | ローマの信徒への手紙

2017年7月9日 主日礼拝説教 「新しいアダム」 吉浦玲子牧師

 ローマの信徒への手紙の5章を先週から読んでいます。4章まででパウロは罪、律法、信仰というものを説明していました。ユダヤ人と異邦人、どちらも共に神による救いに入れられるのだと語っていました。人間は信仰によって義とされる、行いではなく信仰によって正しい者とされる、そう語っていました。5章からは信仰によって正しい者とされた私たちはどのように生きていくのかという話になってきています。

 先週お読みした5章の前半では罪によって義とされた私たちは、たとえ苦難の中でも希望を持って生きていくことができるのだということをパウロは語っていました。その5章前半を受けて今日の聖書箇所は「このようなわけで」とはじまります。そこから語られているのはアダムの話です。罪の話です。さんざん律法と罪について語り、ようやくそののち、信仰によって正しいとされ、神と和解をさせていただいたこと、そしてその希望を語ったその直後の「このようなわけで」で、アダムのことが語られている、つまりふたたび罪のこと、罪の起源について語られているのは少しつながりとしてねじれているような不思議な印象があります。実際、学者の間では「このようなわけで」については、さまざまな解釈が考えられているつながり方なのです。

 しかし、今日お読みした箇所で、パウロは最終的に恵みということについて語っています。信仰によって義とされた私たちにとてつもない恵みが与えられた、その恵みの豊かさを説明するために、恵みの反対のことがらとしてアダムと罪についてまず語られていると考えられます。神との和解の話から地続きに恵みへと移っていくその意味での「このようなわけで」というつながりとも言えます。

<罪と死>

 さて創世記3章には、アダムとエバが神から食べてはいけないと言われていた木の実を食べたことが記されています。エデンの園から人間が追放されたという有名な話です。<一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです>とあります。パウロはアダムという一人の人間が罪を犯した、そのときからこの世界に罪が入って来たというのです。でも普通に考えるとそれは強引な話のようにも思えます。私たちの遠い遠い先祖が罪を犯し、そのためにその子孫である私たちも罪を犯すようになったというのは、なにかスッとは理解できない解せない話です。現代の私たちにアダムの罪の遺伝子のようなものが組み込まれているのでしょうか?

 パウロがここで語っているのは遺伝子やDNAに罪が組み込まれているということではなく罪の普遍性ということです。そもそもアダムというのは「土(アダマ)」という言葉から来た「人間」を表す名詞です。特定の人類の祖先の誰それということではなく普遍的な人間の罪の物語が創世記3章には記されています。実際、罪から免れている人間は誰一人としていない、それは納得のできることではないでしょうか。ですから、遠い遠い祖先ではなく、すべての人間がアダムであるともいえるのです。同時に、すべての人間の罪の源にアダムという普遍的な罪人が想定されているともいえます。

 そしてパウロはその罪によって「死」が入り込んできたというのです。ローマの信徒への手紙の少し先の6章に「罪の支払う報酬は死です」という有名な言葉があります。でも、それもよくよく考えると不思議なことではないでしょうか?人間は、皆、死にます。人間だけではなく、命あるものは、やがて死にます。生物として滅びます。その生物学的なことと、罪という宗教的なこと倫理的なことが結びつくというのは、分りにくいことではないでしょうか。善人であれ悪人であれ、人間は、皆、死にます。善人が悲惨な死を遂げることもあれば、悪行の限りを尽くしたような人間がそこそこ平穏な死を迎えることもあります。

 ところで、ヨハネによる福音書の11章にラザロの死と復活の記事があります。ラザロという、イエス様がとても親しくしていた男性が死んでしまった。そのラザロを、すでに墓に葬られて四日もたっていたのですが、イエス様は生き返らせられます。ラザロを生き返らせられる前、11章35節でラザロが葬られていた墓の前でイエス様は涙を流されます。イエス様は父なる神に祈り、ラザロを生き返らせることができる方でした。実際、主イエスはラザロの墓の前にお立ちになったとき、ラザロの生き返りをすでに確信しておられたはずです。しかし、主イエスは墓の前で涙を流された。これは単にラザロの死を悲しんだのではありません。愛するラザロとの別離のために涙を流されたのはありません。死というもの、人間をからめとる死の力に対してイエス様は憤り涙を流されたのです。そしてその死の根源にある人間の罪に対して憤り涙を流されたのです。

 罪は神に背くことです。神の方を向かず自分中心に生きることです。そしてそれは神との関係が断たれることです。神との関係が断たれていなければ、永遠の神と共に人間も永遠の存在であったはずです。しかし、罪によって人間は神との関係を断たれました。永遠の命を失いました。死ぬようになったのです。創世記3章の楽園追放の記事の最後に命の木の実を人間が取らないように楽園が封鎖されるようすが描かれています。これはアダムの罪によって死が入り込んできたことを明確に示しています。

 ところで、3節に「律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められない」と語られています。これは律法は罪を測る尺度であるということです。以前、レントゲン写真と言いましたが、律法に照らした時、罪は罪と診断ができるということです。逆に言えば律法が与えられる前から罪は罪であり死をもたらす者であったということです。「アダムからモーセまでの間にも、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。」アダムからモーセ、つまり、律法が与えられる前にも人間には罪があり、死を免れなかったということです。

<死ではなく恵み>

 15節からパウロは恵みについて語り始めます。そしてその恵みがアダムではないもう一人の人に結びついていることを語ります。もう一人の人とはイエス・キリストその人です。アダム以来、おびただしい罪があり、死がありました。しかし、たった一人の人、イエス・キリストによって命が与えられました。「裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。」もう一人の人、新しいアダムとも言えるイエス・キリストは罪と死に支配された世界をひっくり返されました。すべては恵みの働きの中へと入れられました。

 「一人の人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。」アダムのあやまった行為によって世界に死が入り込んできました。それと対比してイエス・キリストの正しい行為によって命が与えられました。神の恵みは裁きより強く、神の恵みは死をも覆すのです。

 ところで、クリスチャンになってまだ間もない頃、会社の休憩時間に女性の先輩と雑談をしていました。そしてなぜか私がクリスチャンだということに話が及びました。その先輩はとても温和な方で、なんでもにこにこと聞いてくださる方でした。特に宗教的なことに興味を持っておられたわけではないのですが、その時は珍しくなぜ私がクリスチャンになったのかと聞かれました。聞かれたので答えました。すごくかいつまんでいうと「自分がほんとうに汚くてだめな人間だと思ったとき救いが必要だと感じたから」ということです。それを聞いた先輩は、「私も自分が本当にだめで汚い人間だと心から思ったときがある。そしてその時から、すべての宗教に興味を失った。」と答えられたのです。私はその先輩にその時、いやそうではなくてというような反論はしませんでした。できなかったというのが本当のところです。どう答えて言いか考え込んでしまい、うまく答えられませんでした。

 しかし、今なら<恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される>というパウロの言葉を伝えたいと思うのです。<一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです>という言葉を伝えたいと思います。そもそも「すべての宗教に興味を失った」とおっしゃった先輩は具体的に宗教をどうとらえておられたのかは、良くわかりません。しかしなにか、ご自分に絶望するような感覚をもったとき、一般的に考えられる宗教的な儀式や修行などで自分のどうしようもない罪深さというのが取り除かれるわけがないと直感的に感じられたのかなと思います。

 そもそも人間には自分の罪を自分でどうすることもできません。いわゆる「宗教」をもってしてもそれは無理でしょう。それは神の恵みによらなければどうしようもないのです。ただお一人の方によらなければ人間は正しい者とはされません。

 少し話がずれるようですけど、ある神学者は「宗教ではない神の国だ」と語りました。キリストを信じるということは一般的に考えられるような「宗教」ではない、ということです。なんらかの儀式や宗教的行為によって何かを得ていくということではないということです。「宗教ではない神の国だ」という<神の国>というのはキリストによって開かれた神の国の現実を生きるということです。キリストを信じるということは、キリストの恵みに現実にあずかりながら、新しい命に生きるということです。死よりも強い神の恵みと命に生きるということです。どんなに自分が罪深くとも数々の罪を犯していても、ただお一人の方キリストによって、神の前で無罪とされました。そしてもはや死には支配されていません。その喜びのうちに生きるのがキリスト者なのだということです。

 17節「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人が、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」とあります。支配するという言葉はキリストを通して生きる人間がなにかこの世的な支配者になるということではありません。自分自身を支配するということです。そもそも私たちは罪に縛られて生きている時、自由であったでしょうか?パウロの言うところの罪の奴隷ではなかったでしょうか?自分で自由に生きているつもりでも不自由な生き方をしていました。しかし、キリストを通して生きる時、私たちはほんとうの自分を生きることができます。自分を支配することができるようになるのです。

 20節「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪がましたところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」律法は先に述べたように罪を判定するためのものです。律法によって罪はその姿を現すのです。しかし、そのあらわにされた罪のあるところに、恵みが満ちあふれました。罪が増したところに恵みが満ちあふれたというのは不思議な言葉です。この言葉は次の6章にもつながる言葉です。私たちは確かに罪ということにおいてアダムの子孫です。そしてたしかに肉体的にはやがて死を迎えます。しかしもう罪びとである自分に絶望する必要はありません。死に怯える必要はありません。罪が増したところに恵みが満ちあふれたからです。罪に対して余りある恵みがあるからです。とこしえの命が与えられているからです。

 一人の人イエス・キリストによって私たちは死から命へ移されました。永遠の命に写されました。今、壮年婦人会ではヨハネの黙示録を学んでいますが、ヨハネの黙示録22章にはきたるべき天のエルサレムの様子が描かれています。神と共に永遠の命に生きる人間の喜びの姿が描かれています。その天のエルサレムには命の木があるのです。かつて創世記で罪を犯したアダムが追放され、封印された命の木が天のエルサレムに流れる川の両岸にあると黙示録に記されています。一人の人アダムによって入り込んで来た死が、一人の人キリストによって命、永遠の命にかえられたことを象徴しています。

 そして永遠の命というのは未来の遠い話ではありません。もちろん未来の希望はたしかにあります。しかし、いまもその命の希望が与えられているので私たちは日々を喜びをもっていきていくことができるのです。ある先輩の牧師が、重篤な病を得られ痛みが激しい時のことを語られました。信徒さんには、どのような時でも祈りなさい、どうしても祈れない時には主の祈りだけでも祈りなさいと教えながらその牧師自身あまりに肉体的な苦痛が大きい時主の祈りすらこんがらがって祈れなくなったことがあると正直におっしゃっていました。またその先生は数年前まで認知症のおくさまの介護も自宅でされていました。その時期にもなかなかしっかりと祈れないということがあったそうです。しかし、祈ることもできず希望がついえるような苦しみの中にあって、なお決して自分から去ることのない恵みも感じたのだとおっしゃいました。奥様も自分も確かに体は衰えて死に向かっている、しかし、それを越える恵みを感じられたそうです。その恵みはしっかりと祈ったから何か良いことをしたから与えられるのではなく、ただただお一人の方から注がれるものなのだとおっしゃいました。

 私たちはただ一人の方、キリストに信頼しつながっていきます。良き時も悪き時もお一人の方と歩みます。キリストと共に歩むその日々はすでに天のエルサレムである神の国の先取りであり、また神の国へ向かう喜びの日々なのです。


ローマの信徒への手紙 5章1~11節

2017-07-14 13:45:17 | ローマの信徒への手紙

2017年7月2日 主日礼拝説教 「神との和解」 吉浦玲子牧師

<神との平和>

 私の母教会では聖餐式のある礼拝では、礼拝の中で、「平和の挨拶」というのを行っていました。礼拝の中で、お隣とか周囲に座っている人と「主の平和」と言いながら挨拶を交わすのです。「平和の挨拶」は、教会によって、具体的なやり方はいろいろで、握手をしたりお辞儀をしたり実際の挨拶の仕方はさまざまです。実際のところ「平和の挨拶」は慣れないとちょっと気恥ずかしいものです。「平和の挨拶」は御言葉と聖餐によって、私たちが神との間に平和を得ていることを確認して、神との平和があるゆえに、隣人とも平和を得ている、新しい交わりができるということを覚えるものです。今日の聖書箇所で「主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」とパウロは言っています。

 私たちはキリストの十字架の贖いによって父なる神との間に平和を得ています。先週まで信仰義認ということを共にローマの信徒への手紙から読んできました。そもそも神は罪をなかったことにしてお赦しになる方ではありません。にもかかわらずキリストの十字架のゆえに私たちは罪人でありながら、実際、多くの罪を犯しながらなお赦されています。キリストへの信仰によって正しい者であると、義であると、みなされています。信仰によって義とされているゆえに神との間に平和を得ています。逆にいうとキリストがおられなければ、そして十字架がなければ、人間は神と戦争状態だったということです。キリストへの信仰を公に告白して、神から義とみなされないかぎり、神との間には平和がないということです。神と戦争状態だということです。

 では私たちは洗礼を受ける前、あるいは信仰告白をする前、毎日毎日神様と戦っていたでしょうか?神と戦争をしていたでしょうか?そういう実感を多くの人は持たれないと思います。別に神など知らなくても、聖書など読まなくても、神に祈らなくても、平穏に暮らしている、そう考えている人がほとんどでしょう。

 むしろ、神を知ったとき、神ご自身から知らされた時、私たちはそれまでの私たちに本当の平和がなかったことを知ります。神の恵みの光に照らされたとき、それまでの自分の日々がどれほど暗かったかを知らされます。神の光に照らされたとき、私たちははじめて神と戦争状態であったこと、そして今、キリストによって神との平和を得ていることを知ります。

 ところで、今日お読みいただいた聖書箇所には有名な言葉があります。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」この言葉を聞くとき、なにか苦難に耐えに耐えてその結果何か良いものを得られるような印象を受けるかもしれません。「艱難、汝を玉にする」というような苦労によって人間が成長していくような言葉のイメージでとらえられるかもしれません。

 そうしますと、ずっと読んできましたローマの信徒への手紙でパウロが繰り返し言っている「信仰によって義とされる」ということと矛盾してきます。苦難の中で耐えるという行為や人間の心がけによって信仰の希望が生まれてくるようなことになります。ですから「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」という箇所を一般的な「苦難を忍耐しましょう」そうすれば人間的に成長できます、という文脈で読むのはおかしいのです。この箇所は、まずもって、神との平和ということが大前提として語られているのです。

 そもそも艱難、苦難は人間を本当の意味で成長させるでしょうか?そうとばかりはいえないこともあるのではないでしょうか。長い長い苦労の末に、むしろ、心が傷ついて頑なになってしまうということは良くあります。苦労の末に成功はしたけど、傲慢になってしまうそういうこともあります。ある昔話があります。残酷な昔話です。昔々、小さな村の若い男女が恋をして結婚を約束しました。男は都へ行って愛する娘のために一旗あげようと思います。娘は心から男を愛していましたので、その男を信じて、男の帰りをずっと待っていました。男は娘のために出世しようと都で何年も何年もがんばりました。娘は男を信じてずっと村で待っていました。何年も何年もたって、何十年もたって、結局男は成功できずにぼろぼろになって村に逃げ帰ってきました。男は追手に追われて逃げてきたのです。その男を女性は出迎えます。美しいままで娘の時と変わらず、女性は優しく男性を迎え、かくまいます。男はほっとします。ああ、娘は待っていてくれた、今こそこの子と結婚しよう、そう男が思った瞬間、男は女性に食い殺されたのです。女性は何年も何年も村で男の帰りを待ち続け、その寂しさに苦しみ、孤独のうちに狂ってしまったのです。男を愛するゆえに他の男性と結婚もせず小さな村で一人で生きてきて娘はやがて鬼になったのです。自分を鬼にした男をなお愛しながら、かつ憎みながら待っていました。そして男が帰って来たとき鬼となっていた女は男を食い殺してしまった、とても悲しい残酷な昔話です。でもこれは人間の愛の限界、忍耐の限界を、ある意味、端的に表している物語であるといえます。人間は最終的な希望がなければ、たしかな望みがなければ、本当の意味での忍耐はできないのです。希望を持てない忍耐は人間の心を壊してしまうのです。

<なぜ苦難を誇るのか>

 さて、平和と言うことに戻りますと、キリストを信じる信仰によって私たちは神との間に平和を得ている、そこに喜びの源泉があります。生きていく命の源があります。すべてのものはその平和から湧き出てくることです。2節で<キリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。>とあります。キリストのゆえに、十字架のゆえに恵みを受け、終わりの日に神の国で私たちは栄光を受ける希望を持っています。その希望こそが誇りだとパウロは言っています。そして3節で<そればかりでなく、苦難をも誇りとします。>こうパウロは語っています。現在の恵みと将来の栄光を誇りとするのは理解できますが、なぜ苦難も誇りになるのでしょうか?それはキリストによって神との平和を得ている者は、最終的な希望、本当の希望、神の栄光にあずかる希望があるので、苦難をも喜びに変えることができるからです。

 そして実際、何回かお話ししてきたことですが、クリスチャンには信仰ゆえの苦難があります。信仰の戦いがあるということです。日本ではクリスチャンはマイナーな存在です。キリスト教徒として日々を送っていくには大なり小なり困難があります。日曜日に礼拝に出てくることそのこと自体がたいへんな戦いを伴う人もいます。周囲の人の無理解と戦ったり、日本の社会の構造上、日曜日に休めないそのような人もいます。そのような外的な信仰生活上の困難と合わせて、自分自身の内側にも困難があります。

 私たちの内側にも神から自分を引き離す力が働きます。聖書や祈りから自分を引き離す力が働きます。そしてまたさまざまな日々の出来事の中で信仰が揺らぐことがあります。そのような信仰の戦いがクリスチャンにはあります。

 逆に戦いのない信仰生活は成長のない信仰生活でもあります。苦難は忍耐を忍耐は練達を生むとありますが、戦いのない信仰生活は練達することのない信仰生活でもあります。希望の失われた生活でもあります。ここで忍耐と訳されている言葉は、単に辛抱するということではありません。積極的にそこにとどまるというニュアンスがあります。投げ出さずにそこにとどまるのです。神との平和を得て、希望があるので投げ出さずにとどまることができるのです。練達と訳されている言葉のギリシャ語は、いろいろな意味がある言葉です。「試す」とか「結果」という意味もあります。練達、つまり熟達するというか熟練するという言葉と試すや結果ではずいぶん違うように感じます。しかし、これは金属を製錬して不純物をとりのぞいていく過程でその金属の純度を試すとか、製錬の結果純度があがるというニュアンスを考えるとわかりやすいかもしれません。試練を投げ出さずに忍耐する、そこに留まると、その結果、信仰の純度が上がっていくという結果が生じる、あるいは製錬によって信仰の純度を試される、そういうニュアンスにおいての練達があります。

<トレーナーはイエス様>

 でもその苦難から忍耐、練達、希望にいたるプロセスにおいても、導いてくださるのは神様です。私たちはなにかトレーニングをするように自力で自分の信仰の純度を上げていくのではありません。

 私は伝道者として歩む過程で、いくたびか迷うときがありました。それは他の伝道者も同様だと思います。まだ補教師になる前、お仕えする教会の任地のことで悩んでいた時、ある牧師先生は、「教会に仕えるということはどこにでも行くということです。でも、それは自然に思わされることで、無理に考えちゃダメだ」とおっしゃいました。また別の時、説教のことであれこれ考えていたら、ある先生から、この方はかなり怖い方だったのですが、ぽつりと「無理をしちゃダメだよ」と言われました。普段はかなり厳しいことをおっしゃる先生の口から「無理をしちゃダメだよ」と、その先生は顔は怖かったのですが、言葉は優しく励ましていただいたのが印象的でした。

 だれでも人間は無理をしてしまう傾向があるのです。結局それは自分の力でやろうしていることなのです。自分の力ではなく神に期待する、それが信仰者のあり方です。なぜなら、5節に<希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えらえた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです>

 聖書は神の愛をくりかえし語ります。私たちも神の愛があることを知っています。しかしその愛は漠然としたものではありません。漠然と神を信じて、なんとなく神様って有難いと思って、またなんとなく神様が困った時には助けてくださるような思いを持ったり、守られているような感じを持ったりする、クリスチャンにとっての神は、そのようなものではありません。神の愛はそのようなものではありません。なんとなく漠然と将来は天国に行くんだと思う、そういうことでもないのです。

 クリスチャンにとって神とは明確なものです。神の愛ははっきりとしめされているのです。何となく有難いものではないのです。もちろん確かに神はありがたい方であることは間違いありませんが、その神の愛を知った時、100万回感謝してもし足りないようなお方です。私たちの生き方の根本を変えてくださるのが神の愛です。そして感謝にあふれ、ひれふして礼拝せざるを得ない、そのような方が聖書に記されている神です。私たちには聖書に記されている明確な神のお姿を知ることができます。そのお姿をキリストによって、私たちは知ります。キリストはなんとなくありがたいような神ではないのです。私たちのために、死んでくださった神です。罪人である私たちを父なる神の前で正しいものとみなされる者としてくださる救い主、それがキリストです。7節8節に「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」とあります。

 人間の歴史の中に神の御子が現実にお越しになり、死んでくださいました。それも罪人であった私たちのために死んでくださいました。人間は自分が価値があると思うものに対しては時に命を投げ出すことができるかもしれません。しかし、自分が価値があると思えない者のために命を投げ出すことはできません。しかし、神はそうではありません。ご自分へ反抗をしている、戦争をしている、罪を犯している人間のためにキリストを十字架にかけて死に渡されました。そこに神の愛が示されているのです。キリストの死によって、そしてキリストの血によって私たちは救われました。神と和解させていただきました。これは信仰によって、聖霊によって知らされることです。2000年前に死んだ人が自分と何の関係があるのか、何の根拠でキリストの死によって私の罪が赦されたことがわかるのか、理屈で考えればそのような疑問があるでしょう。しかし、私たちに与えられた聖霊によって、私たちはキリストが他ならぬこの私のために死なれたことを知らされます。今日は聖餐式があります。私たちは聖餐において、繰り返しキリストの死を告げ知らされます。キリストの裂かれた肉と流された血を繰り返し覚えます。そこに明確に、ほかならぬ私たち一人一人にはっきりと示された神の愛を繰り返し覚えるためです。

 キリストの十字架に神の愛が示されました。その愛によって私たちが最終的に行きつく先は神の裁きではなく、永遠の命となりました。それこそが希望の源泉です。その希望があるから私たちは信仰ゆえに苦難を忍耐をすることができます。練達を得ることができます。そしてさらなる希望へと歩んでいきます。私たちの歩みは希望から希望へと向かう歩みなのです。


ローマの信徒への手紙 4章1~25節

2017-07-14 13:42:14 | ローマの信徒への手紙

2017年6月25日 主日礼拝説教 「神の約束のたしかさ」 吉浦玲子牧師

<信仰の父>

創世記の15章で神はアブラハムにおっしゃいます。

「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる」

アブラハム、このときはまだアブラムという名前でしたが、その信仰は揺らいでいました。彼は75歳で故郷を旅立ち、あなたの子孫を祝福するという神の約束を信じて歩んできました。創世記15章の時点で、旅立ってかなりの年月がたっていたのです。明確な年数はわかりませんが、10年以上たっていたかもしれません。しかし、依然としてアブラハムには子供は授けられていませんでした。子孫を祝福するとおっしゃったにもかかわらず、子孫どころかたった一人の子供さえまだアブラハムにはいなかったのです。

創世記の12章に遡りますと、アブラハムは完全に故郷を捨てて、財産すべてをもって旅立ったのです。いざとなったら故郷に戻ることができるというような旅立ちではありませんでした。それだけアブラハムは神に忠実に歩んできたのです。

その歳月の中で、共に旅をしてきた甥のロトとの別れ、戦争、アブラハム自身のいくつかの失敗、さまざまなことがありました。時に失敗しながらも、長い歳月、アブラハムは精一杯、神に従って歩んできました。その歳月の中で、神はいつになったら自分に子供を与えられるのかアブラハムには疑いが生じて来たようです。創世記の15章にはとてもはっきりとしたアブラハムの神への抗議が記されています。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」あなたはわたしに子供を与えてくださらない、だから使用人であるエリエゼルに家を継がせるしかないではないか?従順に神に従って歩んできたアブラハムが、ある意味、いまふうの言い方をすれば神に向かってキレている場面と言ってもいいでしょう。

そのアブラハムを神は外に連れ出して、空の星を数えよとおっしゃいます。現代の都市部では見える星の数は少ないですが、当時は空気も良く夜は真っ暗でしたし、ことにアブラハムは街中に住む者ではなく、草の生えた広い土地を転々として放牧する生活でしたから、たくさんの星が見えたでしょう。

ちなみに、調べてみますと、だいたい人間が見ることができる星は六等星くらいまでと一般的に言われるそうです。しかし、空気が良い場所でかなり目の良い人であれば七等星くらいでも見える場合があるそうです。七等星まで入れますと地上から見える星の数はだいたい8000くらいになるそうです。8000と耳で聞くとそれほど多くないように感じますが、実際に満天の星の輝きを見た時、それはやはり数えきれないほど多くの星だと感じることでしょう。

「あなたの子孫はこのようになる。」神はそうおっしゃいました。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」

先週も信仰義認の話をしました。信仰によって神は私たちを義としてくださる。正しいとみなしてくださる。私たちの行いによるのではない、そう御言葉から聞きました。信仰の父と言われるアブラハムは、この場面で、神を信じました、そのことにおいて、信仰の父なのです。そのアブラハムは私たちの信仰の父でもあります。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」私たちの信仰の源流、信仰の源泉はここにあります。

<信じることの困難>

 しかし、一方で、信じるということは人間にとってけっして簡単なことではありません。重大な仕事を始めようとするときに共に仕事をする相手が信用できるかどうか慎重に考えます。結婚でもそうです。信じていたのに裏切られた、そういうことはこの世界にはいくらでもあります。私たち自身もまた、人生において結果的に人を裏切ってしまうことになるということもないわけではありません。信じてくれていた人を心ならずも裏切ってしまうこと、それは人間の人生の中にいくたびかあることです。ですから私たちはなかなか人を信じることができない、でも一番信じられないのは自分かもしれません。

 では、相手が神であれば簡単に私たちは信じることができるでしょうか。

 聖書の記述を見ますと、アブラハムは神と会話をすることができたようです。アブラハムののちの時代のモーセや預言者たちも手段は様々でありましたが、神の言葉を聞くことができました。しかし、そんな神の言葉を聞ける人々であっても、神を信じることは困難を伴うことでした。モーセもエリヤも信仰が揺らぐときはあったのです。そして冒頭で申しましたように、アブラハムもまた、神への信頼が揺らぐときがあったのです。アブラハムや預言者ではない私たちであれば、なおさら、神を信じるということには困難があるかもしれません。

 しかし、奇妙な言い方でありますけれど、信仰の困難にあるときこそ、人間はむしろ神とあいまみえることができるのです。神の恵みを感じることができるのです。創世記15章でもアブラハムは神に抗議をしていました。あなたのおっしゃることは当てにならないではないか、そうアブラハムは神に思いをぶつけたのです。そのアブラハムに対して神はお答えになりました。

 ローマの信徒への手紙4章ではアブラハムと並んでダビデの詩が紹介されています。「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は幸いである。主から罪があるとみなされない人は幸いである。」これは詩編の32編冒頭の言葉です。ダビデ王自身、大きな罪を犯した人でした。不倫と王という立場、権力を利用した殺人を犯しました。それ以外にもダビデは生涯神の前で罪を犯しました。そんなダビデは自分が罪びとであることをよくよく知っている人でした。その自分の罪の大きさにおののきつつ、神に向かい、ダビデはむしろ神がその罪を裁かれる方ではなく、なお憐みをもって赦してくださる方であることを知りました。<主から罪があるとみなされない人は幸いである>これは新共同訳の詩編32編の訳を見ますと「主に咎を数えられない人は幸いである」となっています。実際に罪とがはあるのだけど神はそれを数えられない、そのことが幸いなのだとダビデは言っています。罪とがを神が数えられないのはキリストのゆえですが、ダビデやアブラハムの姿をみるとき、神への不信や自分自身の信仰のつまずきのなかで、人間はむしろ神と出会うことがわかります。信じられない人間や罪の中で苦しむ人間と神ご自身が出会ってくださるのです。

 主イエスの弟子であったペトロもそうでした。主イエスを見捨てて逃げた、主イエスの逮捕ののち三度も主イエスを知らないと言った、その自分のどうしようもないふがいなさ、情けなさの中で、なおペトロは主イエスの愛のまなざしと出会いました。復活のキリストと出会いました。

 わたしたちもまた信仰が揺らぐとき、自分の弱さに気づくとき、そのときこそ神と出会います。神が出会ってくださいます。神ご自身が、私たちを信じる者としてくださいます。先週、ルターの話をしましたが、宗教改革者ルターもまた、長い信仰的な困難ののちに、神の光と出会いました。行いではなく信仰によって義としてくださる方と出会いました。私たちも神と出会います。神の方から出会ってくださいます。そして信じる者としてくださいます。アブラハムを外に連れ出し星を数えて見よとおっしゃった神は、信じることのできない私たちにもまた、目の前の現実から外に連れ出し、神の恵みの約束を見せてくださいます。こんなにも豊かなものがあなたにあたえられるのだという約束を私たちにみせてくださいます。

<神の約束>

 ところで神はアブラハムに「あなたの子孫にこの土地を与える」とおっしゃいました。それがアブラハムへの約束でした。パウロはその土地を与える子孫とは誰かということをのべています。当時、その子孫とは当然、イスラエル人だと、イスラエルの人々は考えていました。イスラエルの人々は皆「われわれはアブラハムの子孫である」と考えていたのです。ですから神の約束である土地を受け継ぐのは自分たちであると考えていたのです。しかし、自分自身イスラエル人であるパウロは13節で語ります。「神はアブラハムやその子孫に世界を受けつがせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたことです。」つまりそもそもアブラハムに約束が与えられたのは、イスラエルという血筋に対してではなく、アブラハムの信仰に基づくものなのだというのです。信仰に基づいて与えられた約束は信仰に従う者にも与えられるのだとパウロは語っています。イスラエルという血筋は、それはとりもなおさず律法を担ってきた血筋でありますが、その律法によっては義とされないし、律法に頼る者が神の約束にあずかるのではないとパウロは語っています。信じる者がアブラハムの子孫なのだとパウロは語っています。

 さらっと読むと「なるほど、信仰によって私たちもアブラハムの子孫なんだ」と思うのですが、自分自身のことをイスラエル人中のイスラエル人だと自負しているパウロの口から「信じる者がアブラハムの子孫であり、信仰によって世界を受け継ぐ者となる」という言葉が出るというのは驚くべきことです。そもそも聖書は、法律の概念が強く出ている書物です。キリストの十字架による贖いというときの「贖い」という言葉も当時の法律に基づいた概念です。世界を受け次ぐというときの「受け継ぐ」は、遺産の相続ということです。当然、遺産相続も厳密に法的な対象者が受け継ぐのです。マタイによる福音書の冒頭は、アブラハムから主イエスにいたる系図が記されています。これは主イエスが正当なユダヤにおけるダビデの子孫であるという血筋を示したものです。正当な王ダビデの血筋であり、メシアとしての存在の法的な根拠がこの系図で記されています。それほどに法的な根拠を重視するイスラエルにあって、イスラエル人であるパウロが、「信仰のみ」によって世界を、神の約束を受け継ぐ、神の遺産相続をする権利があるのだと語っていることは驚くべきことです。しかしこれはパウロが勝手に新しい説を唱えたということではありません。18節に「彼は希望するすべもなかったときに、なお望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」といわれていたとおりに、多くの民の父となりました。」<多くの民の父となった>つまりアブラハムはイスラエルだけの父ではないということですが、これは旧約聖書に根拠のあることです。たとえば、アブラハムはもともとアブラムという名前でした。この名前には「偉大な父」という意味があるそうです。しかし、やがてアブラハムと名前を変えるように神は命じられます。アブラハムには「諸国民の父」という意味があるのです。また創世記の12章でアブラハムの最初の旅立ちの時の神の言葉にも「地上のすべての氏族はすべてあなたによって祝福に入る」とあります。アブラハムは地上のすべての氏族の祝福の源なのです。アブラハムの血筋の子孫だけが祝福されるとは約束されていません。アブラハムによってすての氏族が祝福に入るのです。

 そしてその約束は成就されました。主イエスの十字架と復活による罪の贖いの業によって成就しました。アブラハムに約束された祝福の中に、今、私たちはいます。それにしても、アブラハムと主イエスやパウロの時代の間には1000年以上の間隔があります。1000年という時間の流れを私たちは直感的に感じることはできません。しかし、神の約束はそれほど壮大なスケールを持っているのです。

 逆に神は1000年と言わず、なぜすぐに約束を果たしてくださらないのか?神はのんびりされているのか?それは人間にはわからないことです。ひとつはっきり言えることは、神は大いなる忍耐をもってすべての人間を救おうとなさっているということです。救いの計画を持っておられるということです。

 アブラハムの約束は成就されましたと申し上げました。たしかに、私たちは今、キリストによる救いの内に神の遺産を相続する者として生かされています。しかし、神の約束はまだ続きます。神の土地を与えられる、それが最終的な約束の成就です。今はその約束が果たされつつある時間だといえます。その約束の完成までの途上を私たちは歩んでいます。キリストが再び来られ、御国へと、神が与えてくださる土地へと私たちが入れられる、その時までの時間をわたしたちは生きています。神の約束、神のご計画は人間にはわからないスケールなのだと先ほど申しましたが、私たちは神の約束をいつになったら成就されるのかとやきもきしながら、不安に思いながら生きていくのではありません。キリストの到来によって、私たちにはすでに神のご計画の確かさを信じることができる者とされているからです。聖霊によって、確信を強められて生きていきます。かならず私たちが受け継ぐ約束の未来に向かって歩む時、その日々の一歩一歩も真の希望に満ちたものとなります。


ローマの信徒への手紙 3章21~31節

2017-07-14 13:38:32 | ローマの信徒への手紙

2017年6月18日 主日礼拝説教 「信じることの喜び」 吉浦玲子牧師

<ところが今や>

「ところが今や」とパウロは切り出しています。

 ところが今や、すべてが変わったというのです。キリストの十字架と復活の出来事は世界史的に見れば、イスラエルという辺境の地で、ごく小さな宗教グループのリーダーが30歳そこそこで、権力者の陰謀によって死刑にされたという取るに足らない出来事でした。当時、世界を支配していた大ローマ帝国にとっては痛くもかゆくもない出来事でしたし、イスラエルにとっても、権力者の妬みをかった人間が葬られただけの出来事にすぎませんでした。当時の歴史書に小さく書かれているだけでの出来事です。しかし、十字架と復活は一方で天地創造のときからの人間の歴史の中で最大の決定的なことが起こったということでもありました。ですから、「ところが今や」なのです。すべてが変わったのです。

 西暦では、キリストの誕生を境に紀元前紀元後、と呼び分けます。紀元前がBCビフォークライスト、キリストの前、紀元後がADアンノドミノ、主イエスキリストの時という呼び方をします。このADのカウントは実際はキリストの生誕と数年ずれていると言われますが、ビフォークライスト、アンノドミノ、これは象徴的なことです。もちろん世界共通に使う暦としては、キリスト教国である西欧の考え方を押し付けるのは良くないということで、最近は数字はいっしょなのですが言葉としてBCやADを使わないという考えもあります。しかし、ビフォークライスト、アンノドミノ、キリストの前後によって歴史が違うものとされるというのは、象徴的なことです。神の出来事が人間の歴史に切り込んでいるということです。まさに「ところが今や」ということとつながることです。

 「ところが今や」神と人間の関係が変わったのです。「神の義が示された」とあります。神の正義が、神の正しさが示されたとパウロは言うのです。しかし、これはおかしなことではないでしょうか?そもそも正しくない神などいるのでしょうか?ノンクリスチャンの方であっても神といえば、少なくともただお一人の神と言えば正しいに決まっていると普通、思われるでしょう。

 多神教の世界、また神話の世界では、神々と言われる複数の神たちがいて、その中には良い神様悪い神様がいることも確かにあります。しかし、そのような人間が人間の世界を神々に反映させて作り上げられた人間臭い神々ではなく、聖書にしるされているような天地創造の神、全能の神と言えば正しいに決まっている、そう人間は普通は考えるのではないでしょうか?

 しかし、また一方で、正しいはずの神様がなぜこんなことをなさるのか?と疑問に思うような不条理なことがこの世界に満ちているのも事実です。神は本当に正しいのか?正しい神はおられるのか?神の義はどこにあるのか?疑問に考える人がいても不思議ではありません。

 伝道者として教会におりますと、様々な方が来られ、さまざまな相談をされることがあります。聞いていて、本当につらくなる、多くの苦しみを抱えておられる方も時々おられます。その苦しみはけっしてもともと本人に非があるわけではない、育った環境が劣悪であった、さらに悪い人にだまされ、かつ自分自身も今は病に侵されている、そのような深刻な複合的な不幸を背負った方がときどきおられます。神様はなぜこの人をこんな境遇に置かれるのか、その方の背負っておられる重荷の一つでも軽くしてくださらないのか、そういうことを思うことも多々あります。

 一つ結論めいたことを申し上げますと、神の正しさというのは人間にはほんとうのところは人間には決してわからないのだということです。神の正しさは、人間がみて、それは正しいとか間違っていると判断をする範疇を越えたものだということです。幼稚なたとえになりますが、幼い子供は、自分を病院に連れていって痛い注射をさせる大人は嫌だと思うでしょう。親は子供の健康のために病気を治すために、いってみれば愛のゆえにやっていることを、幼い子供は手足をばたばたさせて全力を振り絞って拒否しようとします。人間と神との関係もしょせん幼い子供と親の関係を越えることはできないのです。いや、神と人間の隔たりはもっともっと大きいと言えるでしょう。神の正しさを人間は理解できないのです。

 本来、神の義を、神の正しさを到底わかることはできない人間に、「ところが今や」神の義が示されたのです。キリストの十字架と復活という事柄を通して神ご自身がご自身の正しさを人間に示されました。愛という形で示されました。人間の首根っこをつかまえて正しさを伝えられたのではありません。手足をバタバタさせて嫌がっている子供を押さえつけるように伝えられたのではありません。救いと新しい命を与える、そのことをもって、御自身の義を示されたのです。私たちは神の義を、神の愛によって、知ることができるようになりました。神の義はキリストの十字架による贖いという神の愛によって私たちに知らされました。

<ルターと「信仰のみ」>

 ところで、今年は宗教改革500周年と言われます。厳密に何をもって宗教改革の始まりとするかは実のところ諸説あります。しかし、一般的には1517年のルターによって95箇条の提題がウェッティンベルグの門に提示されたことをもって宗教改革の始まりとされます。

 ルターは法律家になることを両親に求められながら、あることがきっかけで修道院にはいったと言われます。雷の激しい夜、雷に打たれる命の危機を感じ、青年ルターは思わず祈りました。「命を助けてくださったら、一生神に仕えます」と。そして無事、助かりました。そしてその後、その祈りの通り、修道院にはいって修道士になりました。ルターはまじめな修道者として生活をしました。祈りと聖書研究の日々を送りました。しかし、その心には平安がありませんでした。彼は神の義、神の正しさということに悩み苦しみました。ローマの信徒の手紙に記されている神の義という問題が彼にとって深い問いとなったのです。司祭となり、自分がミサを行うようになっても、正しい神の前に、自分のような正しくない間違った者が立つことができるのか深い恐れを持っていたのです。

 ルターは決して不道徳なことをしたり修道院の戒律を破ったりしたわけではありません。むしろまじめすぎるくらいにまじめな生活をしたのです。しかし、彼には、自分の中で本当の信仰の喜びがないことを知っていました。ルターにとって神は怖い存在でした。彼は悩み苦しみました。その霊的な悩み苦しみののち、たどり着いたのが28節の「人が義とされるのは律法の行いによるものではなく、信仰によると考えるからです。」ということです。行いによって義とされるのではない、ただただ信仰によって義とされる、正確に言えば、義とみなしていただけるということです。正しくはない者が、キリストを信じる信仰によって、ただそのことのみよって義とされる、その言葉を霊的に受け止めた時、ルターは初めて心から神の恩寵を感じ、心の平安を得たのです。

 自分が正しいとされることに自分自身の努力や行為は何ら関係がない、「人の誇りはどこにあるのか。それは取り去られました。」ただただ主イエスを救い主と信じ、そのキリストを与えてくださった一方的な神の恵みによって人間は義とされる、そこに思い至ったとき、ルターは本当の神の恵みを感じたのです。いわゆる「信仰義認」と言われる事柄です。現代、プロテスタントの教会に長くおられる方であれば、「信仰義認」とか「ただ信仰のみによって義とされる」ということはお聞きになったことがあると思います。そしてそれはまあそうなんだとお考えになるでしょう。自分の行為や努力によって義とされるのであればそれはとてもしんどい信仰です。ルターの時代、ローマ・カトリック教会は人間の行為を重んじていたところがあります。そしてまた、歴史の教科書にも載っていたいわゆる免罪符、贖宥状(しょくゆうじょう)というものを発行して、お金で救いが買えるようなこともありました。人間の行いによって救いが与えられると考えられるような当時の状況がありました。その当時のローマ・カトリックの環境の中でルターは苦しみ、ようやく、「信仰のみ」で救われるという確信に至ったとき、平安を得たのです。ですからルターはその後、当時のローマ・カトリック教会を批判したのです。ただ信仰のみに立つべきだと。神の恵みに立て、と。

<私たちも恵みのうちに>

 しかし、どうでしょうか?現代のプロテスタント教会に所属する私たちは本当に「信仰のみ」というところに立っているでしょうか?時々申し上げることですが、日本においては多くの人が生真面目ですから、信仰のみと言っても、どうしてもがんばって立派なクリスチャンになろうとします。がんばって「信仰のみ」をやろうとしてしまいます。ただ信じて恵みによって生かされているというより、努力して良いクリスチャンになろうとしがちです。結果的に律法的になってしまいます。信仰のみではなくなるのです。

 よく敬虔なクリスチャンという言い方をします。これは世間の方がクリスチャンに対して好意的に「あの方は敬虔なクリスチャンだ」という言い方をされる場合が多いでしょう。皮肉の場合もありますけれど。クリスチャンの前置詞のように使われます。クリスチャンは敬虔である、その言葉の中にはクリスチャンは汚れなくてまじめで控えめで寛容で愛にあふれている、そんなイメージがあります。そしてクリスチャン自身もそうあらねばならないと無意識的に思っている面もあります。

 大学時代、同級生で学生結婚をした人がいました。子供ができて、その学生結婚をした友人は夫婦で赤ちゃんを置いて良く遊びに行っていました。赤ちゃんはだれがその間面倒見ていたかというと、人の良い同じクラスの男性の同級生でした。当時わたしがそれを聞いて「えー?なんで親が遊びに行ってる間、彼が赤ちゃんの面倒見るの?それもしょっちゅう。彼、たいへんじゃない?」と友達に言ったら「だいじょうぶだよ、彼、クリスチャンだから」とその友達は答えました。当時、私はクリスチャンではありませんでしたが、クリスチャンだからって、友達の子供をしょっちゅう面倒を見て、それが当然なんてことは変じゃないかと思いました。当時、そのクリスチャンの男子学生とは特に話をすることもなくてどういうつもりでお人よしにそういうことをしていたのかはわかりません。でも友人が、「大丈夫、彼はクリスチャンだから」というところに、なんとなくこの国におけるクリスチャンのイメージが現れている面があると思います。クリスチャンだから親切でまじめだと感じているのです。おそらく「敬虔なクリスチャン」のイメージは、日本人の気質と日本独特のキリスト教の伝道の歴史のなかで、なんとなく「クリスチャンと言えば敬虔」「敬虔といえばクリスチャン」そういう雰囲気が醸成されてきたところがあるのでしょう。そしてまたそれがクリスチャン自身にとって足枷となり、また、精神的なプレッシャーとなってきたところもあるでしょう。

 せっかく主イエスが来てくださり、私たちは律法から解放されたのに、今度は自分でクリスチャンの枠を作って自分を狭めてしまっている、紙に書かれた律法から解放されたはずなのに、別の枠に再び捉えられている、そういうところが、多くのキリスト者に意識的にも無意識的にもあります。パウロが「ところが今や」という「今」の時間軸を、むしろ逆行するようなことを人間はするのです。キリスト以前の状態に戻ってしまうのです。

 それは神の恵みは目に見えにくいからです。ヘブライ人への手紙の11章の「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、見えない事実を確認することです」とあるように、信仰というのはそもそも見えないものを信じることです。聖霊によって心に与えられた愛の戒めは見えません。それに対して律法という紙に書かれた掟は見えます。また、神の恵みは肉眼では見えません。聖霊により頼まなければ神の恵みはほんとうのところは見えません。神の恵みは単純に、収入が増えたとか、悩みごとが解決したということだけであらわされるものではないからです。他人から見たら不幸としか言えないような状況の中にも神の恵みが注がれ、その恵みゆえに力強く生きるのが信仰者のあり方です。その恵みは信仰によってとらえるものです。神の恵みは肉眼にはなかなか見えないのに対して、自分の行動は見えます。だからつい自分の行動を問題にします。人間は見えることにどうしても捉えられるのです。だからといって努力して良いクリスチャンになること自体は悪いことではないのではないか?善い行いをすることは良いことではないか、そう思わるかもしれません。しかしそれは言ってみれば「まじめな不信仰」なのです。神の恵みを受けることよりも自分の行動を上においているということです。

 そんなまじめさはひととき、わきに置きましょう。「主にまかせよ、汝が身を 主は喜び助けまさん」という讃美歌291の歌詞があります。この讃美歌のように、主にお任せしましょう。そのときほんとうの神の恵みが見えてきます。そして私たちは自分のまじめにすがる必要がなくなります。神の光が見えてきます。信仰の喜びに満ちあふれます。ルターは信仰のみということに思い至ったとき、聖書のすべてが新しい光に照らされたように理解できるようになったと言います。ルターはそれまでも学校で聖書を教える立場にあった人です。しかし本当に喜びをもって聖書を読むことができるようになったそうです。神の光に照らされるとはそういうことです。自分自身が神に照らされ、新しくされるのです。


ローマの信徒への手紙 3章9~20節

2017-07-14 13:18:24 | ローマの信徒への手紙

2017年6月11日 主日礼拝説教 「あなたは正しいですか?」 吉浦玲子牧師

<正しい者は一人もいない>

 今日の聖書箇所の見出しは「正しい者は一人もいない」です。<正しい者は一人もいない>これはずいぶんと厳しい言葉ととられるかもしれません。パウロはこのローマの信徒への手紙のなかで、これまでお読みしたところでは、神から自分たちは特別に選ばれていると考えているユダヤ人であれ、そのユダヤ人から異邦人とさげずまれている人々であれ、皆、平等に神の裁きの前に立つのだということを、語ってきました。そしてその流れの中で「わたしたちには優れた点があるのでしょうか」と、今日の聖書箇所では畳み掛けるように問うています。先日お話した3章の冒頭では、神の御言葉をゆだねられたという点においてユダヤ人は優れていると語っています。しかし、それから一転して、「優れた点は全くありません」と今日の聖書箇所では語っています。ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の下(もと)にあるのです、と語っています。優れているところはあるといったり、優れた点は全くないと言ったり、矛盾しているようにも感じます。まるで今日の聖書箇所は前言を撤回するような言葉です。厳密に言いますと、1節の<優れている>というギリシャ語の単語と9節の<優れている>という単語は異なるものです。しかし、単語は違っていても、いずれにせよ、他に比べて優越する、まさっているというニュアンスのある言葉です。パウロは当然、その矛盾を分ったうえで、ここで語っています。

 たしかにユダヤ人は神の言葉をゆだねられてきた、その点のユダヤ人の価値をパウロは3章の最初のところで認めていました。しかしその特別の価値を含めても、結局のところ、すべての人間は皆、罪の下にあるとパウロは語っています。そのことにおいて、すべての人間に優れた点はないのだと強く語ります。ローマの信徒への手紙の講解説教をはじめて、繰り返し、「罪」ということを語ってきました。しかし、実は、パウロが明確に「罪」という言葉を使っているのはここが初めてになります。これまでも人間の「罪」ということをパウロは語ってきましたが、ここで初めて明確に「罪」という単語を出して、今日の次の聖書箇所である「信仰による義」へと話をつなげていく流れになっています。

 実際のところ、手紙の流れに沿って考えた場合、今日の聖書箇所だけで独立して話をするのは難しい面もあります。「罪」だけが語られて、ここだけでは救いがないようにも取れる箇所だからです。そして、繰り返し申し上げてきたことですが、それなりに善良にまじめに生きてきたのに、教会に来ると罪人と言われる、頭では罪のことを理解できても、何となく心ではそれはどうも解せない腑に落ちない、そのような感覚は多くの人が持つのではないでしょうか。自分がことさら完ぺきだとも立派だとももちろん思ってはいない、いやむしろそれなりに欠点や足りないところは多々あると自覚しつつ、ああ自分はダメだなあと時に落ち込みながら、でもまあがんばって社会生活を行っている、できるだけ人さまには迷惑をかけないように心掛けて生きている、それなのに教会では罪人と言われるのか、そう感じる人が多いのではないでしょうか。

 ですから、パウロの言葉はある意味、過激に聞こえますし、厳しく感じますし、場合によっては聞いて落ち込んでしまうところがあります。「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。」<優れた点が全くない>そこまで言われないといけないのか、そんな思いを抱く方もおられるのではないでしょうか。

 ただ、ここで少し注意をしたいのは、「ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の下にあるのです。」という言葉です。ユダヤ人もギリシャ人も罪をたくさん犯しましたとはパウロは言っていません。「罪の下にある」そう言っています。これはなにかといいますと、「罪に支配されている」ということです。私たちはけっして「罪の上に」あるのではないということです。「罪の下」にあるのです。パウロ自身が別のところで語っている「罪の奴隷だ」ということです。パウロはあなたがたはこんなに悪いことをしたと、ここで語っているのではなく、罪と人間の関係性を語っています。

 私たちは頑張って生きています。時々だめだと落ち込みながら、反省しながら、やり直しながら生きています。しかし、罪の本質というのは、人間が自分でどうにかできるというものではないということです。人間が反省して心をいれかえてやり直したらいい、そういう生易しいものではないということです。人間が罪の上に立って罪をコントロールできるのではないということです。罪の下(もと)にある私たちは、自分で自分の罪をどうにもできません。

<罪に捕えられている人間の姿>

 10節からパウロは旧約聖書を引用して語っています。今日詩編14編を最初にお読みいただきました。このパウロの引用は詩編14編からの言葉を含みますが、全体としては詩編14編からだけの引用ではなく、イザヤ書や他の箇所からの言葉も組み合わせたものになっています。当時、このような旧約聖書からの言葉を合成したような詩が一般に語られていたのではないかと推測する聖書学者もいます。おそらく当時の人々が良く耳にしていた言葉を引用して、パウロは罪の下にある人間の姿を説明したと考えられます。

 「正しい者はいない。ひとりもいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。」ユダヤ人は神の言葉をゆだねられていました。主イエスやパウロの時代、聖書学者はたくさんいました。しかし、聖書の言葉の研究はしても、聖書の内容はよくよく知っていても、本当の意味で神を求めている人はいないのだという痛烈な言葉です。嘆きの言葉です。

 旧約聖書の時代のイザヤやエレミヤをはじめとした預言者の嘆きと同じ嘆きが、この言葉の響きの中にあります。この嘆きは、当時のイスラエルだけではなく、今日でも、罪の下にある人間の嘆きでもあります。日本に住んでいるクリスチャンでない方々は<神も仏もない>という言い方をします。あまりにひどい現実に嘆くことにおいて、パウロの引用した言葉と通じるところはあります。悲惨の中にある人の嘆きとして共通するところがあります。もちろん、聖書の考え方としては、神や仏がないのではありません。神はおられるのに、人間自身が神から離れている、神を見失っているということです。そもそも、神に造られながら、神を求めていないのが罪の姿です。良く罪のことを的外れといいます。神という的から外れている、そこにこの世界の悲惨の源があります。その世界の悲惨を嘆く言葉をパウロは語っています。

 「皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」これも厳しい言葉です。先週も名前を出しましたが、植村正久という改革長老教会のすぐれた説教者の言葉に、「腐っても鯛、というが腐った鯛ほど扱いにくいものはない」という言葉があるそうです。植村正久はこの言葉を人間の罪の状態の比喩として語ったそうです。罪人だと言っても、人間は、「役に立たない」とまでは言われる覚えはないと思います。しかし、イエス・キリストへの信仰を抜きにした神との関係においては、やはり、人間は「役に立たないもの」だったのです。「無益な者」だったのです。そうではないと反発する人間の心が、自分自身のことを「鯛」だと感じている心なのだというのです。たしかに自分にはダメなところはあるかもしれない、「でも腐っても鯛だ」と居直っているのが人間の現実だと植村正久は語っていたそうです。でも、タイであれアワビであれ、罪の下にある限り、人間は虚しい存在なのです。罪の下にある限り扱いにくく、役に立たないのです。

 13節からのちはその虚しい人間の有様が描かれています。13、14節では人間が言葉において罪を犯すことを語っています。15節ではその行いの有様です。その結果、人間はみずからは望んでいない悲惨の道を歩くのだと語られています。彼らの目には神への畏れがないと18節にあります。いま、聖書研究祈祷会では箴言を学んでいます。その箴言のもっとも有名な言葉と言っていいかと思いますが、「主を畏れることは知恵の初め」という言葉が箴言1章7節にあります。神を畏れる、神を神として敬う、そこから神と人間の関係が回復されていきます。神の前で人間が豊かに生きる道があたえられます。そこから人間の本当の幸せが始まると言っていいでしょう。しかし、人間は神を畏れることができません。もちろん、古今東西で、人間のコントロールできない自然現象や運命の前で神を怖がるという意味でのおそれはあったでしょう。それが原始的な宗教の始まりであるとも言われます。しかし、人間は賢くなるのです。そして自分は賢くなったと考え、神を畏れなくなります。神を畏れるのは、知恵のない、科学技術のレベルの低い人間だと考えるようになります。先週、ペンテコステの礼拝においてバベルの塔のお話をしました。人間はたえず自分が神になり変わろうとします。そして自分で何でもコントロールできると考えます。人間がどんどん賢くなって、強くなって、神などいらず、すべてをコントロールできると考えていくとき、人間自身も、世界もいっそう悲惨になります。科学技術の発達そのものを聖書は否定していません。でも神を畏れない人間にはその技術を正しく使うこと、コントロールすることはできません。それは20世紀の悲惨な戦争とホロコーストの出来事を考えればすぐにわかることです。人間が賢くなって世界は素晴らしいものになったのか、まったくそうではありませんでした。罪の下にある人間は、自分の都合の良い勝手な欲望のために、まわりのものを利用しようとします。そこから世界の悲惨が生み出されます。神を畏れない、罪の下にある、罪の奴隷である限り、人間は悲惨な道を歩みます。

<神の憐れみのなかを歩む>

 だから神は、神を畏れない人間を一網打尽にやっつけよう、、そうは考えられませんでした。マタイによる福音書の9章36節に「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」と主イエスのご様子が描かれています。神を神とも思わない、罪の下にある人間の悲惨を見て、なお主イエスは憐れまれました。同情されました。それは単に、ああかわいそうにという同情ではありません。はらわたよじるほどの思いをもたれたのです。飼い主のない羊は、迷います。群れから離れた羊は、その習性から、やがて野垂れ死にするのです。今日の聖書箇所の12節に「皆迷い」とありますが、罪の下にある人間は皆道に迷うのです。行きあぐねるのです。

 しかしその人間に、限りない神の憐みが注がれました。自分で自分の罪をどうすることもできない人間のために主イエスがその罪を贖ってくださいました。主イエスの十字架によって私たちは罪の奴隷から解放されました。罪の下にあった者が罪から解放されました。

 罪の奴隷から解放されたということは、もう一つの面から言えば、もう自分自身の力で正しくある必要はないということです。これは次の聖書箇所につながるところでもあります。私たちは精一杯、自分自身でどうにか自分をしていこうと頑張ってきました。自分自身で自分を正しくしようと頑張ってきました。

 それはとてもしんどいことでした。急な坂道を一生懸命自転車で漕いで昇るようなことでした。なぜいきなり坂道というかというとご存じのように私は長崎の出身ですから、長崎は坂道が多く、坂道に苦労したからです。もちろん大阪にも坂道はあります。しかし、長崎は本当に坂が多いのです。ですから、長崎で自転車に乗るのはたいへんです。私の実家の近くにやはりとても自転車では上がれないような長くて急な坂道がありました。当時は電動アシスト自転車などもありませんでしたから、そんなところを誰も自転車では上りません。しかし、その坂道を競輪の選手は訓練に使っていました。もちろんプロの競輪の選手ですから、その坂道を自転車で昇っていくのです。その姿を見てすごいもんだなあと感心した記憶があります。

 その坂を思い出しながら思うのです。私たちも主イエスなしで、自分で自分を正しくして生きて行こうとするのは、とんでもない級で長い坂道を自転車でこいで昇っていくようなものです。労多く、むなしいことです。普段生きていくとき、そんなことは意識しないかもしれません。でも自分のちっぽけな正しさのエネルギーで一生懸命ペダルをこいで生きていく、そのたいへんな生き方から解放されなさいと聖書は語っているのです。一生懸命漕いで坂を上がっても、結局、皆道に迷うのです。そんな弱り果てるようなところから神様は自由になりなさいとおっしゃっています。自分で自分の罪をどうしようもできないことを知り、言ってみれば神様に白旗を上げなさい、キリストと共に歩みなさい。そこから本当の自由の道が与えられるのだと聖書は語っています。キリストと共に歩む道にもまったく困難がないわけではありません。坂道もあります。でもキリストと歩む時、坂は低くされ、その歩む足は軽くされます。罪の下から放たれた心も体も軽く喜びにあふれます。