※ビスカイノ(セバスティアン・ビスカイノ)
※金銀島探検記
支倉常長やサンファンバウティスタ号の話は以前記事にしていますが、後ほど追記したいと思います。
その前に、三陸沿岸の調査をしていたビスカイノ一行は慶長大津波を目撃していたのです。
●ビスカイノの三陸沿岸の探索は1611年(慶長十六年)七月七日、徳川家康に対して日本の東沿岸の測量や造船などに関する朱印状交付の為の請願書を提出したことに始まった。・・・・・
伊達政宗との出会い
旧暦五月十四日、ビスカイノ達の暦では六月二十四日だった。(この日は聖ファン(ヨハネ)の日)
彼は隋員と一緒にミサに参加するため聖フランシスコ会の修道院に赴いた。
その時、政宗が多数の士卒と騎乗の士を率いて江戸市街の木戸に着いた時、ビスカイノ一行を見た。
政宗はすぐさま伝言を送り、火縄銃を発射する様子を家臣たちに見せたいと伝えた。
要望受け射撃が実行され、出し抜けに二回発射されたので、政宗は驚き両耳をふさいだという。
他の者達の馬は大音響に混乱し、主人達を地面に投げ落として逃げ出し、食料などを積んだ馬は転倒し大騒ぎになった。
この出来事をきっかけに両者の交流が始まった。
この日がサンファンの日であることから、サン・ファンバウティスタ号の船名になったという説があるが、定かではありません。
●について、幕府から「日本国内の港湾測深、造船の許可・・・・省略・・・ことを認める朱印状の交付を求めるのであれば、当国の習慣に従って書面をもって肯定徳川家康に請願すべし」との命令がだされた。
そこでビスカイノはスペイン国王フェリーペ三世の総司令官という立場で、朱印状の交付を請願した。
その内容は・・・
①長崎から秋田に至るまでの海岸にある港湾を調査。水深と緯度などの位置を測定。
②ルソン諸島からメキシコに向かう船が暴風雨に遭遇して日本の海岸に入港を余儀なくされることがしばしばあり、遭難を防ぐためにも、どこが最良の港であるのかを知るのが目的である。
約束:船と糧食、その他必要とする物が適切な値段で入手できるように当国の経験豊かな人物一人を付けて貰いたいと願い、最後に、国内の測定が済んだ時には、その謄本の一通を家康に呈上し、他の一通は彼の国王に報告するために携行していく旨を約束した。
彼らにとって特に重要な探索は、伊達政宗の仙台領だった。
政宗は、ビスカイノが自分の王国に入った最初のスペイン人大使であるため、大いに喜びフィリピンやメキシコのナオ船が来航するのにふさわしい良港があれば喜ばしいと表明している。
ビスカイノに対しては「もちろん良い待遇と応接を保障するし、彼の君主である国王陛下と親交を結び、メキシコの副王たちとも通信を交わすことを願望している。」と表明していたとされる。
伊達政宗のスペイン国王との交渉を意図した意思が明らかにされている。
慶長使節派遣のきっかけがここにあったことは間違いないでしょう。
沿岸測量を終えて仙台に戻ったビスカイノに対して政宗は一段と踏み込んだ考えを明らかにしている。
「金銀島探検記」には
国王(政宗)は自分の顧問官を喜ばせるために、司令官が到着した時に彼と会議を開くように、そして船を一隻建造し、その船でスペインの国王陛下とメキシコの副王の贈物を送り、彼(政宗)の領内で聖福音を宣べ伝える修道士たちを求めていることを喜んでいる旨を理解させるようにとの命令を彼らに残すことにした。
ビスカイノ一行の三陸沿岸の探索
塩竈:十一月十五日 城下を離れたビスカイノ一行はまず塩竈へ赴いた
塩竈では、伊達政宗が命じていた通り必要品の一切が準備されていた。
松島:十七日 松島に渡り、瑞巌寺を訪れ日本寺院の実情をつぶさに体験し、同行したソテロ神父と共に住職ら
と面会や宗教上の問答を行った。 瑞巌寺には多くの参詣者が往来しており、その様子はスペイン・モン
セラートの修道院に似ているという感想を残してもいる。
なお、後にソテロが伝えた出来事として、政宗が瑞巌寺を焼き払い、常長が僧侶たちを殺傷したという
「使節記」の記述があるが、仙台藩や瑞巌寺の記録ではその形跡は全くない。
大塚:十八日 大塚では大きな入り江を認めた。
入口には幾つかの島を持ち、200トンの船が利用できそうな安全できれいな湊があることを確認した。
十九日には水量の多い川が海に注ぎ込んでいる湊
月浦:二十日 牡鹿半島に近づいて小竹、月浦、清水田、大原を巡った。
小竹はあらゆる風を避けて停泊のできる良港で、1000トンの船でも停泊することができるとみなされた。
北緯三十八度を過ぎた緯度にある小竹からおよそ1レグア(約5.5キロ)先には、この湊と同様な良港があり海岸部には月浦という一村落があった。
二年後にサン・ファンバウティスタ号が出帆する場所に当たるが、ここの微妙な記述(赤文字)の表現に、現在に及んでも出航地に対する疑問が
呈されている。
この辺り一帯の桃浦の湊の周辺を月の浦として表しているのではないかと思います。
村の名を出帆の地名にしたのではないかと私は思います。
さらに清水田、大原に進んで一夜を明かした一行は、二十一日に小渕を訪れ、水路誌の記載に必要な陸地と 島の方位測定に当たり、周辺の海域にある島々が船舶の出入りに適していることを確認している。
女川:二十二日 女川の入り江に入って石浜、裏宿という敵地を見出した。
雄勝:二十三日 水浜、分浜を経て、「世界の中でも最良でしかもあらゆる風から守られており、このような湊は
発見されてもいない」と絶賛する雄勝に入った。
港の出入り口は非常に深い上に、海岸部であっても海底まで十ブラザ(約16.7m)を越える深さを確保
でき、また、ここには多くの村落と金鉱があり、大勢の人がいて、食料が豊富で値段が安い。
「まさにこの湊は、水で囲まれた宝庫であり、薪その他の必需品は自然に求めることができ、私達の望んで
いる目的に極めて適した湊である」と高い評価が続いている。
この湊は北緯38度と3分の1のところに位置していて、このような良好な緯度と海域も他には見当たらな
かった。 ビスカイノは、政宗がおよそ2レグアの地に、猪と鹿の狩りに出かけていることを知り、これま
で発見した雄勝をはじめとするそれぞれの湊の絵と方位を報告する飛脚を送り、政宗からはその成果に対し、
深く感謝する旨の返事を得ている。 まだ残っている他地域測定のための許可と全領域内での保護の継続も
併せてつたえられた。
気仙沼:一行は折立、歌津での調査を続けて、二十七日に気仙沼に着いた。
大きな入り江には、五つの湊が確かめられ、そこは考え得る限りの最良の港であると判断された。
その中でも、五番目の湊はこれまで見た中で最良で、高い丘が控え北側に位置する頂きには目印になる三本
の木があり、海上20レグアの場所から望むことができる。
その入り江や湊の中には、四十か所以上の村があり、これ以上不可能と思えるくらい良く整備されている。
湊の水深を測り作図や高度の測定をしたところ、緯度三十九度にあることが分かった。
今泉・盛:二日後の二十九日に今泉、三十日に盛を調べたが、ここでは航海中で最も悪天候見舞われ、海路は
にわか雨と逆風で海岸線も荒れ、陸路も峻厳であったため、十二月一日まで留まることになった。
十二月二日 ビスカイノは続いて、越喜来、根白、今泉を目指していた。
慶長の三陸大津波
十二月二日(旧暦十月二十八日)
この日ビスカイノ一行は、越喜来に着く前に、男も女も村を捨てて、丘に向かって逃げていく様子を目撃したがこれは今までみたことの無い光景だった。
これまで他の地では南蛮人を見物に海岸まで出てくるのが通例だったので、「なぜ我々から逃げているのだろう」と思って、待つように声を掛けて問い質したところすぐに原因がわかった。
それは、この地で一時間以上続いた大きな地震が原因であって、海水が4m以上の高さに達して陸地にあふれ返り、それが次に物凄い力で引いた。
村は水没して家々、穀物の藁の山などが海上に浮き、大混乱に陥っていたのだった。
海は三回にわたって降起(津波)の差し引きを繰り返し、現地の人たちは家族も家財も多くは救い出せなかった。
この海岸で起きた災害のために多くの人が溺れ死に財産が失われた。
この大地震は巳刻すぎ(午後十時~十一時)に起き津波は昼八ツ時(午後二時頃)にに襲来したとされる。
この時、一行は海上にいたのだが、波と波が合わさって飲み込まれるかと思うような大きな動揺を感じた。
一行後を付いて来ていた供舟の二隻は波に捉えられ、遥か彼方へ押しやられ水没してしまった。
しかし、「主なる神」はこの苦難から一行を救い出し、海上の異変が収まると、一行は湊に無事に着くことができた。 ここでは困難な状況にありながら災難を免れた家が一行を迎え入れてくれたのであった。
一行は今泉まで探索に赴くが、そこでも前日怒った津波がその地のほとんど全ての家を流失させ、五十人以上が溺れ、どこにも宿泊すべき場所がないのがわかった。
被災地の日本人は妻や子、財産を失い悲嘆にくれてていた。
だが、それにもかかわれず、最後には一行をもてなすのだった。
厳しい災難に直面しても来訪者を厚遇する人情と風習に一行は大いに感謝して一連の行程を終える。
慶長三陸大津波に関する仙台藩側の情報は極めて少なく、次の記事が主な資料になっている。
「貞山公治家記録」巻之二十二
(慶長十六年)十月己亥小二十八日甲午。巳刻過ギ、御領内大地震、津波入ル。御領内ニ於テ千七百八十三人溺死シ、牛馬八十五匹溺死ス。
『駿府記』十一月晦日
政宗領所、海岸の人屋、波涛大いに漲(みなぎ)り、悉(ことごと)く流失、溺死者五千人、世にこれを津波と曰ふと云々。
従来の大地震究明への取り組みについては、この時の大津波についてのビスカイノの報告への注目はあったものの、被害が今一つ小さいと想定されたためか、真剣に究明する作業は少なかったと言わざる終えない。
「貞山公治家記録」に別掲する
「岩沼近辺の海に悪天を衝いて漁舟を出したところ大津波に襲われ、陸部に押し流されて数キロ離れた千貫山に達した」という記事の信憑性が当記録編纂時から誇大ではないかと疑われていたことも、省みる機会を失することになった。
現在の地図で千貫山は見つけられなかったのですが、千貫神社を発見しました。
直線距離にして海岸から約7.8キロありました。
2年前の東日本大震災に照らし合わせると、信憑性はかなり高いと思います。
その後も明治・昭和と三陸沿岸には大きな津波が押し寄せていますが、時が経つと人々は忘れてしまうものなのですね。
慶長の時代は領内の総人口は五十万に達していなかったのです。
400年前の1783人または、5000人の溺死者の数字は甚大な被害であったことがわかります。
仙台市博物館に展示してある「仙台領国絵図」ですが、非常に大きく、壁に貼り付けているのですが、手前に双眼鏡が設置されており、それで地名を確認できます。
政宗の夢 常長の現 濱田嗣著 河北新報出版センター 参照
支倉常長
コリア・デル・リオ
※金銀島探検記
支倉常長やサンファンバウティスタ号の話は以前記事にしていますが、後ほど追記したいと思います。
その前に、三陸沿岸の調査をしていたビスカイノ一行は慶長大津波を目撃していたのです。
●ビスカイノの三陸沿岸の探索は1611年(慶長十六年)七月七日、徳川家康に対して日本の東沿岸の測量や造船などに関する朱印状交付の為の請願書を提出したことに始まった。・・・・・
伊達政宗との出会い
旧暦五月十四日、ビスカイノ達の暦では六月二十四日だった。(この日は聖ファン(ヨハネ)の日)
彼は隋員と一緒にミサに参加するため聖フランシスコ会の修道院に赴いた。
その時、政宗が多数の士卒と騎乗の士を率いて江戸市街の木戸に着いた時、ビスカイノ一行を見た。
政宗はすぐさま伝言を送り、火縄銃を発射する様子を家臣たちに見せたいと伝えた。
要望受け射撃が実行され、出し抜けに二回発射されたので、政宗は驚き両耳をふさいだという。
他の者達の馬は大音響に混乱し、主人達を地面に投げ落として逃げ出し、食料などを積んだ馬は転倒し大騒ぎになった。
この出来事をきっかけに両者の交流が始まった。
この日がサンファンの日であることから、サン・ファンバウティスタ号の船名になったという説があるが、定かではありません。
●について、幕府から「日本国内の港湾測深、造船の許可・・・・省略・・・ことを認める朱印状の交付を求めるのであれば、当国の習慣に従って書面をもって肯定徳川家康に請願すべし」との命令がだされた。
そこでビスカイノはスペイン国王フェリーペ三世の総司令官という立場で、朱印状の交付を請願した。
その内容は・・・
①長崎から秋田に至るまでの海岸にある港湾を調査。水深と緯度などの位置を測定。
②ルソン諸島からメキシコに向かう船が暴風雨に遭遇して日本の海岸に入港を余儀なくされることがしばしばあり、遭難を防ぐためにも、どこが最良の港であるのかを知るのが目的である。
約束:船と糧食、その他必要とする物が適切な値段で入手できるように当国の経験豊かな人物一人を付けて貰いたいと願い、最後に、国内の測定が済んだ時には、その謄本の一通を家康に呈上し、他の一通は彼の国王に報告するために携行していく旨を約束した。
彼らにとって特に重要な探索は、伊達政宗の仙台領だった。
政宗は、ビスカイノが自分の王国に入った最初のスペイン人大使であるため、大いに喜びフィリピンやメキシコのナオ船が来航するのにふさわしい良港があれば喜ばしいと表明している。
ビスカイノに対しては「もちろん良い待遇と応接を保障するし、彼の君主である国王陛下と親交を結び、メキシコの副王たちとも通信を交わすことを願望している。」と表明していたとされる。
伊達政宗のスペイン国王との交渉を意図した意思が明らかにされている。
慶長使節派遣のきっかけがここにあったことは間違いないでしょう。
沿岸測量を終えて仙台に戻ったビスカイノに対して政宗は一段と踏み込んだ考えを明らかにしている。
「金銀島探検記」には
国王(政宗)は自分の顧問官を喜ばせるために、司令官が到着した時に彼と会議を開くように、そして船を一隻建造し、その船でスペインの国王陛下とメキシコの副王の贈物を送り、彼(政宗)の領内で聖福音を宣べ伝える修道士たちを求めていることを喜んでいる旨を理解させるようにとの命令を彼らに残すことにした。
ビスカイノ一行の三陸沿岸の探索
塩竈:十一月十五日 城下を離れたビスカイノ一行はまず塩竈へ赴いた
塩竈では、伊達政宗が命じていた通り必要品の一切が準備されていた。
松島:十七日 松島に渡り、瑞巌寺を訪れ日本寺院の実情をつぶさに体験し、同行したソテロ神父と共に住職ら
と面会や宗教上の問答を行った。 瑞巌寺には多くの参詣者が往来しており、その様子はスペイン・モン
セラートの修道院に似ているという感想を残してもいる。
なお、後にソテロが伝えた出来事として、政宗が瑞巌寺を焼き払い、常長が僧侶たちを殺傷したという
「使節記」の記述があるが、仙台藩や瑞巌寺の記録ではその形跡は全くない。
大塚:十八日 大塚では大きな入り江を認めた。
入口には幾つかの島を持ち、200トンの船が利用できそうな安全できれいな湊があることを確認した。
十九日には水量の多い川が海に注ぎ込んでいる湊
月浦:二十日 牡鹿半島に近づいて小竹、月浦、清水田、大原を巡った。
小竹はあらゆる風を避けて停泊のできる良港で、1000トンの船でも停泊することができるとみなされた。
北緯三十八度を過ぎた緯度にある小竹からおよそ1レグア(約5.5キロ)先には、この湊と同様な良港があり海岸部には月浦という一村落があった。
二年後にサン・ファンバウティスタ号が出帆する場所に当たるが、ここの微妙な記述(赤文字)の表現に、現在に及んでも出航地に対する疑問が
呈されている。
この辺り一帯の桃浦の湊の周辺を月の浦として表しているのではないかと思います。
村の名を出帆の地名にしたのではないかと私は思います。
さらに清水田、大原に進んで一夜を明かした一行は、二十一日に小渕を訪れ、水路誌の記載に必要な陸地と 島の方位測定に当たり、周辺の海域にある島々が船舶の出入りに適していることを確認している。
女川:二十二日 女川の入り江に入って石浜、裏宿という敵地を見出した。
雄勝:二十三日 水浜、分浜を経て、「世界の中でも最良でしかもあらゆる風から守られており、このような湊は
発見されてもいない」と絶賛する雄勝に入った。
港の出入り口は非常に深い上に、海岸部であっても海底まで十ブラザ(約16.7m)を越える深さを確保
でき、また、ここには多くの村落と金鉱があり、大勢の人がいて、食料が豊富で値段が安い。
「まさにこの湊は、水で囲まれた宝庫であり、薪その他の必需品は自然に求めることができ、私達の望んで
いる目的に極めて適した湊である」と高い評価が続いている。
この湊は北緯38度と3分の1のところに位置していて、このような良好な緯度と海域も他には見当たらな
かった。 ビスカイノは、政宗がおよそ2レグアの地に、猪と鹿の狩りに出かけていることを知り、これま
で発見した雄勝をはじめとするそれぞれの湊の絵と方位を報告する飛脚を送り、政宗からはその成果に対し、
深く感謝する旨の返事を得ている。 まだ残っている他地域測定のための許可と全領域内での保護の継続も
併せてつたえられた。
気仙沼:一行は折立、歌津での調査を続けて、二十七日に気仙沼に着いた。
大きな入り江には、五つの湊が確かめられ、そこは考え得る限りの最良の港であると判断された。
その中でも、五番目の湊はこれまで見た中で最良で、高い丘が控え北側に位置する頂きには目印になる三本
の木があり、海上20レグアの場所から望むことができる。
その入り江や湊の中には、四十か所以上の村があり、これ以上不可能と思えるくらい良く整備されている。
湊の水深を測り作図や高度の測定をしたところ、緯度三十九度にあることが分かった。
今泉・盛:二日後の二十九日に今泉、三十日に盛を調べたが、ここでは航海中で最も悪天候見舞われ、海路は
にわか雨と逆風で海岸線も荒れ、陸路も峻厳であったため、十二月一日まで留まることになった。
十二月二日 ビスカイノは続いて、越喜来、根白、今泉を目指していた。
慶長の三陸大津波
十二月二日(旧暦十月二十八日)
この日ビスカイノ一行は、越喜来に着く前に、男も女も村を捨てて、丘に向かって逃げていく様子を目撃したがこれは今までみたことの無い光景だった。
これまで他の地では南蛮人を見物に海岸まで出てくるのが通例だったので、「なぜ我々から逃げているのだろう」と思って、待つように声を掛けて問い質したところすぐに原因がわかった。
それは、この地で一時間以上続いた大きな地震が原因であって、海水が4m以上の高さに達して陸地にあふれ返り、それが次に物凄い力で引いた。
村は水没して家々、穀物の藁の山などが海上に浮き、大混乱に陥っていたのだった。
海は三回にわたって降起(津波)の差し引きを繰り返し、現地の人たちは家族も家財も多くは救い出せなかった。
この海岸で起きた災害のために多くの人が溺れ死に財産が失われた。
この大地震は巳刻すぎ(午後十時~十一時)に起き津波は昼八ツ時(午後二時頃)にに襲来したとされる。
この時、一行は海上にいたのだが、波と波が合わさって飲み込まれるかと思うような大きな動揺を感じた。
一行後を付いて来ていた供舟の二隻は波に捉えられ、遥か彼方へ押しやられ水没してしまった。
しかし、「主なる神」はこの苦難から一行を救い出し、海上の異変が収まると、一行は湊に無事に着くことができた。 ここでは困難な状況にありながら災難を免れた家が一行を迎え入れてくれたのであった。
一行は今泉まで探索に赴くが、そこでも前日怒った津波がその地のほとんど全ての家を流失させ、五十人以上が溺れ、どこにも宿泊すべき場所がないのがわかった。
被災地の日本人は妻や子、財産を失い悲嘆にくれてていた。
だが、それにもかかわれず、最後には一行をもてなすのだった。
厳しい災難に直面しても来訪者を厚遇する人情と風習に一行は大いに感謝して一連の行程を終える。
慶長三陸大津波に関する仙台藩側の情報は極めて少なく、次の記事が主な資料になっている。
「貞山公治家記録」巻之二十二
(慶長十六年)十月己亥小二十八日甲午。巳刻過ギ、御領内大地震、津波入ル。御領内ニ於テ千七百八十三人溺死シ、牛馬八十五匹溺死ス。
『駿府記』十一月晦日
政宗領所、海岸の人屋、波涛大いに漲(みなぎ)り、悉(ことごと)く流失、溺死者五千人、世にこれを津波と曰ふと云々。
従来の大地震究明への取り組みについては、この時の大津波についてのビスカイノの報告への注目はあったものの、被害が今一つ小さいと想定されたためか、真剣に究明する作業は少なかったと言わざる終えない。
「貞山公治家記録」に別掲する
「岩沼近辺の海に悪天を衝いて漁舟を出したところ大津波に襲われ、陸部に押し流されて数キロ離れた千貫山に達した」という記事の信憑性が当記録編纂時から誇大ではないかと疑われていたことも、省みる機会を失することになった。
現在の地図で千貫山は見つけられなかったのですが、千貫神社を発見しました。
直線距離にして海岸から約7.8キロありました。
2年前の東日本大震災に照らし合わせると、信憑性はかなり高いと思います。
その後も明治・昭和と三陸沿岸には大きな津波が押し寄せていますが、時が経つと人々は忘れてしまうものなのですね。
慶長の時代は領内の総人口は五十万に達していなかったのです。
400年前の1783人または、5000人の溺死者の数字は甚大な被害であったことがわかります。
仙台市博物館に展示してある「仙台領国絵図」ですが、非常に大きく、壁に貼り付けているのですが、手前に双眼鏡が設置されており、それで地名を確認できます。
政宗の夢 常長の現 濱田嗣著 河北新報出版センター 参照
支倉常長
コリア・デル・リオ
感服ぅ
日本侵略の基礎データを集めていたと解釈しますが?
自分もそう思いました。
津波のこともあったし、これは記録ということで残しました。
最近毎日のように政宗や支倉常長のページにアクセスが多くなっているのでサービスでUPしました。
それにしても
何回も津波来てるんですね (+_+)