遠藤周作著『侍』の巻末に解説があります、その一部を紹介したいと思います。
1613年10月28日、支倉六右衛門常長が月の浦港から日本を後にした
その日から、彼は外国での経験を記録した日記をつけはじめる。
彼の死後しばらくは、この日記は東北地方の彼の領地内に保管されていたが、
この旅にかかわるほとんどすべての資料と同様、これもまた藩当局の手によって
紛失せしめられたか、あるいは抹殺されてしまった。
このことは我々にとって大きな損失といえる。
支倉のこの日記こそ、あの旅をめぐる数多くの謎に光を投げかけうる唯一の信頼
できる資料であったのかもしれないからだ。
通訳として同行したイタリアの記録係、シビオーネ・アマチが、のちに
『Historia del Regno di Voxu』という題でこの旅の記録をあらわしているものの
彼が自分の目で見た事実以外の報告については、信用するわけにはいかないのである。
本書はまず、きわめて巧みに作りあげられたフィクションであるとともに、
歴史的仮説としてみた場合も価値ある仕事といえる。
本書中、支倉についての記述は、そのほとんどすべてが事実である。
何故支倉常長が選ばれたのでしょう
以前に海外へ行った経験があった。
伊達藩鉄砲隊の一員であったこと。
(足軽鉄砲組まとめていた)
比較的小さな土地の領主であったこと。
政宗は、位の高い武士を配属しなかった。それは、失敗に終わった時に藩への
影響が無いようにだろう? それに重臣が何年も席を空けられても困る。
かといって、忠誠の無いものを出すわけにもいかない。
きっと支倉常長が妥当な人物だったのだろうと私は想像する。
船は、1614年1月28日にアカプルコに着く。
皮肉にも、家康がキリシタン追放令を発布したのとほぼ同じ時期であった。
1615年1月 スペイン国王フェリーペ3世に謁見
2月 王位跣足派女子修道院付属教会で洗礼を受ける。
フェリーペ3世ら臨席
洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコハセクラ
キリシタン弾圧、鎖国へと走る時代の中で、交渉を成功させることはついに
出来ませんでした。
イギリスやオランダ商人達が自らを有利にしようと江戸幕府に取り入り
「スペインはキリスト教による日本征服を企んでいる」と訴え、これを信じた
幕府がキリスト教禁教令を発布、こうした日本の国内情勢がイスパニアや
イタリアに伝わったことからでした。
オッ! ガラス越しに撮ったら、下の方に私が・・・・・(*^-^)b
船尾には伊達家の家紋の一つ九曜門が付いている。
一般的には竹に雀が有名だが、よく使われるもう一つは、三引両です
これは、仙台市のマークに使われています。
帰国後の常長は、非運にも反逆者・キリシタンとして、幕府の厳しい追及を受けます。
幕府の手前、政宗も幽閉せざるを得ず、晩年は、どこに住んでいたのかも定かでは
ありません。
帰国して2年後に無くなったとされています。
そこで、問題なのは、お墓が3箇所あるのです。
柴田郡川崎町支倉 円福寺
仙台市青葉区 光明寺 今でも子孫の方がお線香を上げに来てます。by住職
黒川郡大郷町 西光寺 メモリアルパーク
私は3箇所訪れましたが、どれが本当なのかわかりません。
1622年元和8年7月1日 数えで52歳で亡くなったことになってるのだが、
メモリアルパークの銅像の台座には、1654年承応3年
この地で余生を過ごしたと刻まれてます。
私が思うには、亡くなったことにして、この大郷の地でひっそりと暮らしたのだと思います。
つまり、52歳ではなく、84歳で亡くなったのでしょう。
また機会がありましたら月の浦やメモリアルパークを紹介したいと思います。
最後に、支倉一行の中にスペインにあるセビリア近郊に、ハポン(日本)という
姓を名乗る人々がいます。
実は、支倉一行の内8名程が現地に留まり、名乗ったのが始まりのようです。
今でも、その子孫は絶えていないようですね。
長い記事読んで下さりありがとうございました。
もう少し書きたいのですがこの辺にしておきます。
三つのお墓を含め、支倉常長とサンファンバウティスタ号の記事はこちらにまとめています。
1613年10月28日、支倉六右衛門常長が月の浦港から日本を後にした
その日から、彼は外国での経験を記録した日記をつけはじめる。
彼の死後しばらくは、この日記は東北地方の彼の領地内に保管されていたが、
この旅にかかわるほとんどすべての資料と同様、これもまた藩当局の手によって
紛失せしめられたか、あるいは抹殺されてしまった。
このことは我々にとって大きな損失といえる。
支倉のこの日記こそ、あの旅をめぐる数多くの謎に光を投げかけうる唯一の信頼
できる資料であったのかもしれないからだ。
通訳として同行したイタリアの記録係、シビオーネ・アマチが、のちに
『Historia del Regno di Voxu』という題でこの旅の記録をあらわしているものの
彼が自分の目で見た事実以外の報告については、信用するわけにはいかないのである。
本書はまず、きわめて巧みに作りあげられたフィクションであるとともに、
歴史的仮説としてみた場合も価値ある仕事といえる。
本書中、支倉についての記述は、そのほとんどすべてが事実である。
何故支倉常長が選ばれたのでしょう
以前に海外へ行った経験があった。
伊達藩鉄砲隊の一員であったこと。
(足軽鉄砲組まとめていた)
比較的小さな土地の領主であったこと。
政宗は、位の高い武士を配属しなかった。それは、失敗に終わった時に藩への
影響が無いようにだろう? それに重臣が何年も席を空けられても困る。
かといって、忠誠の無いものを出すわけにもいかない。
きっと支倉常長が妥当な人物だったのだろうと私は想像する。
船は、1614年1月28日にアカプルコに着く。
皮肉にも、家康がキリシタン追放令を発布したのとほぼ同じ時期であった。
1615年1月 スペイン国王フェリーペ3世に謁見
2月 王位跣足派女子修道院付属教会で洗礼を受ける。
フェリーペ3世ら臨席
洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコハセクラ
キリシタン弾圧、鎖国へと走る時代の中で、交渉を成功させることはついに
出来ませんでした。
イギリスやオランダ商人達が自らを有利にしようと江戸幕府に取り入り
「スペインはキリスト教による日本征服を企んでいる」と訴え、これを信じた
幕府がキリスト教禁教令を発布、こうした日本の国内情勢がイスパニアや
イタリアに伝わったことからでした。
オッ! ガラス越しに撮ったら、下の方に私が・・・・・(*^-^)b
船尾には伊達家の家紋の一つ九曜門が付いている。
一般的には竹に雀が有名だが、よく使われるもう一つは、三引両です
これは、仙台市のマークに使われています。
帰国後の常長は、非運にも反逆者・キリシタンとして、幕府の厳しい追及を受けます。
幕府の手前、政宗も幽閉せざるを得ず、晩年は、どこに住んでいたのかも定かでは
ありません。
帰国して2年後に無くなったとされています。
そこで、問題なのは、お墓が3箇所あるのです。
柴田郡川崎町支倉 円福寺
仙台市青葉区 光明寺 今でも子孫の方がお線香を上げに来てます。by住職
黒川郡大郷町 西光寺 メモリアルパーク
私は3箇所訪れましたが、どれが本当なのかわかりません。
1622年元和8年7月1日 数えで52歳で亡くなったことになってるのだが、
メモリアルパークの銅像の台座には、1654年承応3年
この地で余生を過ごしたと刻まれてます。
私が思うには、亡くなったことにして、この大郷の地でひっそりと暮らしたのだと思います。
つまり、52歳ではなく、84歳で亡くなったのでしょう。
また機会がありましたら月の浦やメモリアルパークを紹介したいと思います。
最後に、支倉一行の中にスペインにあるセビリア近郊に、ハポン(日本)という
姓を名乗る人々がいます。
実は、支倉一行の内8名程が現地に留まり、名乗ったのが始まりのようです。
今でも、その子孫は絶えていないようですね。
長い記事読んで下さりありがとうございました。
もう少し書きたいのですがこの辺にしておきます。
三つのお墓を含め、支倉常長とサンファンバウティスタ号の記事はこちらにまとめています。
駆け引きや~戦~相当でしょう~ね
いまでも~
イスラムの人間爆弾~
やはり~
家康も~それを恐れたんでしょう~ね (>_<)
支倉常長は、フィリピン経由で戻ってますが、
幕府から、マニラに留まるように命ぜられています。日本に着いた時は危険な邪教とみなされていたのですね。
ひーさんの思いに賛成
わたしも84歳まで長生きされたと
思いたいです
キリシタン弾圧の話を読む度に
どうしてそこまで?と思うのですが
宗教の力 凄いものがあるから
なのでしょうね
気になったのは、支倉氏、この旅以前に海外に行ったことがあったのですか?
スペインに残った人々、きっと熱心なキリシタンだったんでしょうね。故郷に帰ったところで、弾圧されるのがわかっているから、あえて異国に残った。
支倉氏も使命がなければ、そうしたかったかもしれませんね。
筆者も死んだことにして、生きていたと思いたいです。
当時のご本人は悔しい思いをしたでしょうねぇ(;_;)
人生って・・・ ほんと 事実は小説より奇なり・・・
洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ
ハセクラ これもあまり良くない
セクハラ なんて!
anyhow 色々勉強させていただきありがとうございます♪
楽しめました。
ありがとうございました。
最初から読んでいますので、流れが分かり
良いお勉強をさせて頂きました
セルビア郊外にハポンと名乗る日本人を先祖に
もつ人たちの話は聞いた事がありますが
その当時の人たちの足跡を辿ると
スケールの大きな話になりそうですね
常長さんは私も84歳まで生きていたような
気がします
実は、1615年にパウロ5世に拝謁して1617年まで2年間ヨーロッパに留まってます。
その間何をしていたのかわからないようです。
常長の旅の記録は十数冊に及んだそうです。
もったいない資料ですね。