染殿神社(そめどのじんじゃ)
赤沼大明神
鎮座地:宮城郡利府町赤沼字宮下21
祭神
大戸辺命(おおとのべ) 大戸道命と対になる女神
太苫辺命(おおとまべ)
(別記)大斗及弁神(おおとのべの神):古事記神代七代5番目の神(女神)
垂水神(たるみ):海神
染殿姫(そめどのひめ)
藤原良房公(延暦23年<804>~貞観14年<872>)の姫君。(地域伝承に伝えられる姫)
平安時代初期の公卿で染殿(白河殿)と称された。
844年陸奥出羽按察使右近衛大将を兼ねる。
染殿神社の由来と伝承
昔、人皇第五十五代文徳帝の仁寿二年春三月時の摂政藤原良房公姫、故ありて世隠れの身となり身重の身もかえりみず京から、はるばる東へ旅まくらを重ねて下り此の地までたどりつき、里人に一夜の宿をと申しでられた処、里人達は身に着けている衣装はあまりにも煌びやかで頭髪には宝冠で光っていて、あまりにも身分高き様として不調法になってはと思い返事も出来なかったが、ある老夫婦の情で近くの経塚のお堂にて一夜の宿をかり、その晩、急に産気づき玉のような女の子を無事出産しました。
(この赤ん坊こそ後の清和天皇の妹君なる儀子内親王の御降誕であった)
その後里人達の情けで、ささやかながらも雨露を凌ぐよう日当りの良い処に草葺の仮屋を作ってもらい、そして朝な夕な食物をみつぎ、お陰で赤ん坊はすくすくと育った。
姫君は里人の深き愛情に心から感謝し、京で習い覚えし手芸(お針手はぎ)手習いの文字等を教えそればかりでなく着物にする布の染め方等を里の若い娘達に授けるようになった。
それは此の山近くに野生する「刈安草」を材料として色々な色彩まで出すと言う全く女神の様な姫君で里の娘達は、喜んで教えを受けた。
やがて月日は二年も過ぎ赤ん坊もよろよろ一人歩きするまでに育つと共に、隣保の情けは厚い人であった。
やがて姫君は都へ帰る時ととなりさらばと南へはるかに京へ旅立たれるその後ろ姿を見送っては一同離別の情けもだしがたく涙を流したと伝えられる。
のち此れらのことどもを振り返りみてあの姫君の教えは神様の教えであったと感激し其の御霊を此の地に祀ったのが染殿神社であると伝えられる。
尚、此の姫こそは文徳天皇の后と言う御身分で帝にかわって陸奥地方の政情視察されし旅の途中であったと伝えられる。
わが郷土の赤沼の人々こそは往昔において名誉であり赤沼の女性は殊にぐんと高い教養の第一歩を進んで普及されたわけでほこりとすべきところなり。
境内内説明板より
ここは通称、利府街道(県道8号線)の松島に向って右側に見えます。
秋に訪れたのですが、やっとUPできました。
社殿は小高い丘の上にあり、その入口付近には石碑が並んでいます。
境内から赤沼を望む
三陸自動車が沼を横切る
赤沼ですが、地名の由来は付近の土が赤味を帯びており、その影響で中央部にある大沼が赤味を帯び赤沼と呼ばれるようになったとされていますが、異説もあります。
地名は、南北朝~室町時代にはあったようです。
残念ながら狛犬はいたってノーマルでした。
横に回ると拝殿の後ろに本殿が見えますね。
元々あった本殿を覆っているようです。
千木が見えました。内千木ですから女神であることがわかります。
境内には鐘楼がありましたが近年建てたようです。
赤沼大明神
鎮座地:宮城郡利府町赤沼字宮下21
祭神
大戸辺命(おおとのべ) 大戸道命と対になる女神
太苫辺命(おおとまべ)
(別記)大斗及弁神(おおとのべの神):古事記神代七代5番目の神(女神)
垂水神(たるみ):海神
染殿姫(そめどのひめ)
藤原良房公(延暦23年<804>~貞観14年<872>)の姫君。(地域伝承に伝えられる姫)
平安時代初期の公卿で染殿(白河殿)と称された。
844年陸奥出羽按察使右近衛大将を兼ねる。
染殿神社の由来と伝承
昔、人皇第五十五代文徳帝の仁寿二年春三月時の摂政藤原良房公姫、故ありて世隠れの身となり身重の身もかえりみず京から、はるばる東へ旅まくらを重ねて下り此の地までたどりつき、里人に一夜の宿をと申しでられた処、里人達は身に着けている衣装はあまりにも煌びやかで頭髪には宝冠で光っていて、あまりにも身分高き様として不調法になってはと思い返事も出来なかったが、ある老夫婦の情で近くの経塚のお堂にて一夜の宿をかり、その晩、急に産気づき玉のような女の子を無事出産しました。
(この赤ん坊こそ後の清和天皇の妹君なる儀子内親王の御降誕であった)
その後里人達の情けで、ささやかながらも雨露を凌ぐよう日当りの良い処に草葺の仮屋を作ってもらい、そして朝な夕な食物をみつぎ、お陰で赤ん坊はすくすくと育った。
姫君は里人の深き愛情に心から感謝し、京で習い覚えし手芸(お針手はぎ)手習いの文字等を教えそればかりでなく着物にする布の染め方等を里の若い娘達に授けるようになった。
それは此の山近くに野生する「刈安草」を材料として色々な色彩まで出すと言う全く女神の様な姫君で里の娘達は、喜んで教えを受けた。
やがて月日は二年も過ぎ赤ん坊もよろよろ一人歩きするまでに育つと共に、隣保の情けは厚い人であった。
やがて姫君は都へ帰る時ととなりさらばと南へはるかに京へ旅立たれるその後ろ姿を見送っては一同離別の情けもだしがたく涙を流したと伝えられる。
のち此れらのことどもを振り返りみてあの姫君の教えは神様の教えであったと感激し其の御霊を此の地に祀ったのが染殿神社であると伝えられる。
尚、此の姫こそは文徳天皇の后と言う御身分で帝にかわって陸奥地方の政情視察されし旅の途中であったと伝えられる。
わが郷土の赤沼の人々こそは往昔において名誉であり赤沼の女性は殊にぐんと高い教養の第一歩を進んで普及されたわけでほこりとすべきところなり。
境内内説明板より
ここは通称、利府街道(県道8号線)の松島に向って右側に見えます。
秋に訪れたのですが、やっとUPできました。
社殿は小高い丘の上にあり、その入口付近には石碑が並んでいます。
境内から赤沼を望む
三陸自動車が沼を横切る
赤沼ですが、地名の由来は付近の土が赤味を帯びており、その影響で中央部にある大沼が赤味を帯び赤沼と呼ばれるようになったとされていますが、異説もあります。
地名は、南北朝~室町時代にはあったようです。
残念ながら狛犬はいたってノーマルでした。
横に回ると拝殿の後ろに本殿が見えますね。
元々あった本殿を覆っているようです。
千木が見えました。内千木ですから女神であることがわかります。
境内には鐘楼がありましたが近年建てたようです。
はじめてみました
神社と鐘楼も珍しいのでは?
このような言い伝えなど知りませんでしたが、
何となくほっとしていたことも覚えてます。
宮城の今に伝わる染物の技術等ここからが起源だったのですね。
近代化する前は、覆い堂と言う屋根の下にありました。
何せ金箔の建物ですからね。
古く本来のものを大事にしようと言うことでしょう。
今までにも何度かUPしています。
大きな社は遷宮で新しくしますが、小さなものは無理ですからね。
マイナーな神社ですが地元の人と行ったのですかね。
こうして見ると、理由が無く建っている神社はありませんね。
何かしらの理由があって建てられたのが神社ですね。
赤沼大明神が建築の神としているのは、多賀城の瓦を作る土を採取した跡が赤沼でないかと思われます。
そして大戸辺命が男とありますが、戸辺は女性の名称でもありますし、戸辺は戸の周りと言う意味でありますから境界線、門番を表しています。
そして垂水神。垂水は瀧の意味ですし、利府町の資料では垂水姫が祭られていると書かれています。女性の神です。
染殿姫は旦那の天皇が側室の子供を後継者として指名し、怒った染殿姫の父親の良房が天皇を殺して、ノイローゼになったりしたみたいです。
さて垂水神は海神ということですが、利府周辺の神社を見て回れば、蘇った釣り好きの神様が浮かんできます。勿論、その妻神も海神になるでしょう。
全ては繋がっていますね。
利府町誌をみてからと思いましたが、ドンドン記事ネタが溜まってきており進みませんので、あまり調べないでUPしました。
秋のが今ですからね。
瓦職人は朝鮮半島から連れて来たと記憶しています。
焼物に適した赤土と言うことですかね。
周辺の雑木林では「くわがた虫」がよく取れました。「みやまくわがた」でした。鬱蒼とした中に、何故か「赤沼」が神秘的で。「ここさぁ、でっけい魚が主みてぇにいんだとや」と信じておりました。
周りの風景が変わってますね。
戦後すぐ親父が土建屋だった頃がありまして、「染殿神社」の話しは聞かされました。
一度、行ったことがありましたが、当時はやはり薄暗いなんとも言えない怪しい雰囲気が漂っておりました。(鼻節神社に匹敵するかも)
多賀城の瓦は、実は我が家にありまして、藤沢の中学校に寄贈いたしました。
東北の歴史を少しでも知って頂きたかったわけです。
焼けた瓦ですが、相当の数が出土します。
ここで生産されていたとは、この記事で初めて知りました。
神社の様子を久しぶりに見ましたが、きれいになっているようですね。
ひーさんのおっしゃる通り、この周辺の小さな神社の意味は奥が深いです。
実は遺跡の中にあり事前に教育委員会埋没センターに報告が義務付けられています。
まぁ、何も出てこないのでOKが出ました。
多賀城の瓦、多く出土しても貴重なものですね。
多賀城のシンボル的な存在ですから。
内千木も珍しい!
どこまで本当なのか謎ですが?近いことが合ったのでしょう。調べたら意外と事実だったりして。