ひーさんの散歩道

道には、様々な歴史や文化が息づいている。
歴史に触れ風景に感動し忘れていた何かを探したい。

八幡神社/桃生郡河北町横川

2010年08月11日 07時06分45秒 | 宮城の散歩道(仙台を除く)
感心した中学生の記事を書いたところの八幡神社です。

横川の守り神である八幡神社で以前はこの場所から山頂方向に200m上った所に鎮座していましたが

明治41年8月内務省訓令により八幡神社と賀茂小鋭神社と合祀されたものです。

標柱によると、この地は室町末期、山内(福地)左馬之介居城、江戸初期、仙台藩決戦の”詰め城”と想定されたと伝わる所。
釣ノ尾城跡
「東奥老士夜話」によると、伊達政宗が徳川天下軍との決戦の最後の拠点「詰めの城」と想定されていました。かつて、ここには欅の大木があり、それを御神木として八幡神社が建立されました。その後、欅の大
木は枯れてしまい、地域の人々の手によって新しい欅の苗木が植えられました。

ちょっと意味がわからない?あくまでも想定ですからね?

賀茂小鋭神社(かもおとのじんじゃ)
桃生六座の一つで平安時代に設置され、古くは小田神ととなえ、小鋭神社と称していました。その後、京都の賀茂別雷神社の分霊を得て合祀され、それ以来賀茂小鋭神社と呼ぶようになったと市の教育委員会掲示板には記されています。奥の院に安置されている木造男神像は桂材一木造りで、鎌倉時代初期の作と伝えられ
ています。作者は不明で、7体のうち5体は、宮城県指定有形文化財となっています。





立派な狛犬に巡り逢えました

右玉取り   左は子取りですが、阿吽の区別がつきません???






左子取り







三角の扁額
この社で五社目でしたかね?





やはり湯殿山の石碑ですね。宮城県の神社にはどこにもあります。出羽三山信仰の深さを感じます。



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12 コメント

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ふと気づいたこと・・・ (酔漢です)
2010-08-11 08:24:01
そうなんです。自転車で県内を走り回っていた高校生時代。途中、鳥居を見つけますと、自然に足がそこへ向くのでした。カメラは重くなるので持っていかなかったのですが、(今あれば撮ってたんだろうけれども)ここも一度訪ねたことがございました。「云われ」など興味ももたないまま、お参りをしておりました。
神社はその存在の意味が深いことは、ひー様のブログを拝読して知るところとなりました。
父はそういったことに詳しくて、「話をまじめに聞いとけばよかった」と思いました。
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読んだことがあります (丹治)
2010-08-11 10:33:38
徳川軍と戦いを想定していた・・・
読んだことがあります。
紫桃正隆さんの書いた本に出ていました。
「御内試」というやつではありませんか?

まず福島から白石に抜ける山の隘路で奇襲。
次に阿武隈川をあふれさせて仙台平野を水びたしにする・・・
それで最後は牡鹿半島の山岳地帯に敵を誘い込んで遊撃戦。
かなり具体的だったと思います。

確か横川には伊達家が水軍を置いていたような気がします。

徳川の天下になってからは際どいことをやらず
家の存続に心がけていた伊達政宗ですが、
万一のことを考えての計画ぐらいは立てていてもおかしくないですね。
そう思わせる所が政宗の政宗たる所以だと思います。

通りがかりの中学生に挨拶された話も読んでおりました。
殺伐とした事件があちこちで起きるご時世だけに、
こういう話を聞くとほっとします。
知らない同士でも挨拶を交すことが不思議でもなんでもない・・・
そんな世の中になればと祈らずにはいられません。

石の鳥居に三角形の扁額。
鼻節神社の表坂を下りた所にある鳥居も
三角形の扁額ではありませんか。
何か曰く因縁がありそうですね。
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酔漢さんへ (ひー)
2010-08-11 21:53:48
隈無く自転車で歩いていたのですね。
神社は庶民の拠り所の一つですね。
庶民だけじゃないですね、人間全般かも?
人とは弱いものですからね。
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丹治さんへ (ひー)
2010-08-11 22:09:56
実は丹治さんなら知ってるのではと思ってました。
やはり計画は事実なのですね。
書物もあれだと思います。やはり備えあれば・・・
ですね。
水軍と聞いて繋がりました。
この日の目的地はサンファンバウティスタ号の造船の地です。
この辺りに水軍がいたとすれば密かに黒船を造る場所としては悪くはないですね。
次回はその記事を書きたいと思います。
ちょっと時間下さい。
三角の偏額はなんとか根拠を見つけたいものです。
そうです。現在七ヶ浜に二社と石巻の五十鈴神社、これは黒船出航の地です。それと竹駒神社にありました。
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お晩です (あーさん)
2010-08-14 00:14:03
例えば下駄履きで気楽にお詣りできそうな、神社ですね ♪

毛並みや鼻上の皺など、細かい細工が良いですねぇ


三角の扁額  関東、京阪では見たことがありません。  東北へ行かないとダメかな?
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昭和29年奉納・・・ (ぐずら)
2010-08-14 00:50:39
奉納者の名前がこんだけガッチリ書かってる扁額も珍しいっちゃね♪
大方は遠慮して裏の方さ書かってるものねぇ~
ところで、桃生・牡鹿方面には伊達家支配以前から水軍の伝統があったようですよ。
オライの本家も昔は葛西家に従属してたらしい牡鹿郡浜方の素封家だったげんと、
昭和初期の頃まで家の蔵や村の神社の中に槍だの刀だのが大量に仕舞ってあって
昔海賊働きするのに使ったんだって云い伝わってたんだど・・・
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あーさんへ (ひー)
2010-08-14 20:01:50
すみませんあっちこっちコメントいただきまして。

時代を感じさせる狛犬で気に入ってます。

三角の意味がどうしても知りたくなって来ております。
以外と理由が無いかも知れませんがね。
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ぐずらさんへ (ひー)
2010-08-14 20:21:56
雄勝出身の同僚がいまして、偉く半島の先端出身です。
昔は、道路では無く船が移動の手段だったそうです。
勿論学校も船で通ったそうですよ。そこの一族は京都から逃げてきたそうですが・・・
あれだけの入江が多い地域ですから、船が発達するのもわかりますね。
ぐずら君、今でもすぐに海賊になれそうですね。
いや、失礼!見た目でいいました。
あっこれまた失礼!
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境内舗装しすぎ・・・と相変わらず妙なことに目が行きます (クロンシュタット)
2010-08-15 05:35:57
昨晩家族旅行から帰宅しました。
本当は神社仏閣名所旧跡めぐりが願望なのですが、息子たちの鉄道趣味にとことんつき合わされました。
カミさんは最近のパターンのまったくの別行動。のんびり出来ていいよなー。
体はクタクタで財布は空っぽのまま私の夏休みは今日でお終いです。
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クロさんへ (ひー)
2010-08-15 07:31:00
なるほど、確かに・・・

きっと粘土質の悪い地面だったか、砂利を敷くのが大変だったのか?

いや、アスファルトの方が大変か・・・

夏休み終りですか・・・
子供が一緒に出かけてくれるだけでも感謝しないと・・・
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