おおさか佳巨 街頭演説のブログ

減価する地域通貨ですべての改革

平和党は何のためにあるのか9 今までにない時代をつくる

2005年06月19日 17時59分19秒 | Weblog

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これまで、板垣自由党から現在の自公政権まで延々と述べてきたのは、一つのつながりが戦前で終了し、戦後の第二期が現在まで繋がっているということである。したがって細川政権の誕生によって一時的に自民党が下野したが、細川・羽田内閣も自民党竹下派の中枢部であった新生党が中心となってとりしきっていたわけであるし、その後の連立政権も自民党とその他の小政党による補完で成立してきた資本主義政権である。戦前は「国家」が主要なテーマであり、戦後は「市場」が主要なテーマとして議論され、そのための政治闘争や離合集散が繰り返されてきたのである。

ここまでまとめると戦前の政治は

薩長藩閥民党派(板垣自由党・大隈改進党)

長州・伊藤博文+板垣自由党大隈改進党

薩摩・松方正義+大隈進歩党板垣自由党

薩長藩閥憲政党(板垣・大隈連合)

藩閥官僚・山県有朋憲政党(板垣)・憲政本党(大隈)

伊藤博文+板垣自由党=立憲政友会憲政本党

長州閥(山県有朋・桂太郎)vs立憲政友会(伊藤博文・西園寺公望)憲政本党

長州閥(山県有朋・桂太郎)vs立憲政友会(伊藤博文・西園寺公望)立憲国民党

元老山県有朋vs長州陸軍閥・桂太郎+国民党改革派(加藤高明)=立憲同志会薩摩海軍閥・山本権兵衛+立憲政友会vs立憲国民党(犬養毅)

立憲同志会・大隈重信立憲政友会

立憲政友会・寺内正毅憲政会(加藤高明)

立憲政友会(原敬、高橋是清)憲政会(加藤高明)

海軍(加藤友三郎・山本権兵衛)立憲政友会vs憲政会vs革新倶楽部

元老山県有朋(清浦奎吾)+政友本党憲政会(加藤高明)+立憲政友会(高橋是清)+革新倶楽部(犬養毅)

憲政会(加藤高明、若槻礼次郎)立憲政友会(高橋是清、田中義一)

立憲民政党(浜口雄幸、若槻礼次郎)立憲政友会(田中義一、犬養毅)

斎藤実+立憲政友会+立憲民政党 

岡田啓介+立憲民政党立憲政友会

官僚・広田弘毅+立憲政友会+立憲民政党vs昭和会

軍部・林銑十郎+昭和会立憲政友会、立憲民政党

軍部(平沼騏一郎、近衛文麿、阿部信行、米内光政)民党派

軍部・官僚(近衛文麿、東条英機、小磯国昭、鈴木貫太郎)+大政翼賛会・大日本政治会翼賛非推薦

というのが、大まかな政治対立の図式であり、これは最終的には太平洋戦争での敗戦と貧困を生み出した。軍事力を奪われた我が国は、以後、市場経済に主眼をおき戦後では、

日本自由党(鳩山一郎)+日本進歩党(町田忠治)

日本自由党(吉田茂)日本社会党(片山哲)・民主党(芦田均)・国民協同党(三木武夫)

吉田茂鳩山一郎

自由民主党日本社会党

田中角栄・大平正芳・中曽根康弘福田赳夫・三木武夫

竹下登・金丸信・小沢一郎

新生党+公明党・日本新党・さきがけ・社会党vs自民党

新生党+公明党+日本新党(社会党+さきがけ)+自民党

自民党+社会党+さきがけ新進党

自民党+社民党+さきがけ新進党vs民主党

自民党民主党・自由党・公明党・社民党

自民党+自由党民主党・公明党・社民党

自民党+自由党+公明党民主党・社民党

自民党+公明党+保守党民主党・自由党・社民党

自民党+公明党民主党・社民党

となっていき、現代の政治は大きな政府と小さな政府の対立軸のほかに、軍事力を伴う国際貢献にどれだけ加担するかということに主題がおかれている。

われわれが第三期にはいる場合、国家でもなく、市場でもない、新たなメインテーマを掲げなければならない。国家は競争によって戦争を引き起こした。市場もまた競争によって環境破壊を引き起こした。だから「競争から脱却」することが重要である。そのメインテーマとは「生命」である。つまり「物質」に主眼を置く西洋思想政党と、「精神」や「生命」に主眼を置く東洋思想政党が必要となってくるのである。戦前・戦後を通じて言えるのは、一貫して西洋思想の政党であるということである。戦前は、右翼的な傾向から、精神性が高く論じられたのではないかという気もするが、国粋主義自体が西洋思想による舶来ものなのである。

戦前・戦中は鬼畜米英といって罵ってはいるものの、日本人の行動は所詮、いかにして西洋の科学技術を身につけるかということでしかなかった。大東亜共栄圏の実現といいながらも、武装した方法は西洋伝来のものであり、日露戦争は日本刀だけでロシアに勝ったわけでもない。

戦後は、明らかにアメリカに追随することが、幸福の手段であるという考えが、日米安全保障条約を堅持することは当然であるとか、アメリカ型の弱肉強食・自然淘汰の市場経済が正しいという考えに結びついている。

福沢諭吉は「脱亜入欧」と言ったが、現代においては「脱米入亜」をしなければならないときにきている。






平和党は何のためにあるのか8 繰り返される「政党の失敗」

2005年06月19日 17時51分36秒 | Weblog


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理念の一環は大事だが、政策達成のためには、政党の移動、あるいは連立参加、連立離脱ということも重要である。しかしながら、自民党単独政権が崩れて以降、筋の通らない連立政権もあった。

まず、細川内閣であるが、七党連立与党は、自民党政権を倒すという点で一致している。このころ、自民党は金丸逮捕によって大きく揺れており、とにもかくにも自民党政権を崩すということが国民の総意になっていた。

続く羽田内閣では、細川政権でともに与党であった社会党とさきがけが出て行き、野党自民党の一部である柿沢弘治の自由党や鹿野道彦の新党みらいが加わっている。とくに柿沢らの自由党の行動は、彼らの親分である渡辺美智雄を自民党から引っ張り出し、渡辺内閣を作ろうという大義があるにはあるが、実際問題、自民党の野党暮らしに耐えられなくなり、羽田内閣に参加したと言えよう。それが証拠に、彼らは自社さ政権が続くと、野党新進党には耐え切れずに、自民党へ復党している。

村山内閣での三党連立は、宿敵同士である自民・社会が手を組んだことで批判が多かったが、もともと社会・さきがけの勢力に自民党が手をすえたものであり、筋が通ってないとは言いがたい。自民党にも政権復帰したいとの気持ちはあったろうが、自由民主党・日本社会党・新党さきがけ三党連立政権は、それまで自民党政治に社会党とさきがけがブレーキをかけ、チェックをする機能を十分果たしたと言える。民主党結党後の第2次橋本内閣での社民・さきがけは閣外協力で、自民党の言いなりになってしまっていくが、第1次橋本内閣までは社会・さきがけ両党はうまく機能していたといってもよい。

これに比較して、小渕内閣から小泉内閣に至るまでの公明党は、自・社・さ政権での「社・さ」の役割を果たしていない。公明党は、通信傍受法(いわゆる盗聴法)に反対していたが、小渕政権に入ることで賛成に転じた。

社会党も政権に入ることで、それまでの消費税反対の主張を棄て、村山内閣の手によって増税がされた。しかし、社会党は安全保障政策の面で政権内でも、平和主義志向を強くし、水俣病の解決、戦後五十年の決議など彼らのアイデンティティたる部分をある程度実現していった。これは自・社・さ政権が反小沢政権であったからである。小沢一郎を嫌い、民主的政治運営方法、リベラル平和志向を望んだ社会・さきがけ両党は、同じく小沢一郎に酷い目に遭わされた自民党との利害関係の一致から、ハト派リベラル政権、人にやさしい政治ということがスローガンに掲げられた理由でもあろう。

公明党の場合は、平和人権政党という面でのプライド(もともとあまりない)を棄ててしまい、盗聴法反対を言って選挙に勝ちながら、与党入りしてからは賛成し、有事関連法も賛成し、イラクへの自衛隊派遣も賛成するが、その代わりに何を得たかと言うと、政権を得たという以外何もない。それは、公明党のそもそもの結党理由が、政治目的、政策目的の政党ではなく、創価学会による政権獲得が目的であるからで、強固な選挙基盤を持つ学会票は、あるときは自民党に重宝がられ、あるときは非自民の側に重宝がられる。

創価学会=公明党は平和主義を掲げるが、彼らが新進党にいたときは、小沢一郎のタカ派路線に従っていた人々であることを忘れてはならない。とくに地方自治体議会の公明党を見ればよくわかることだが、彼らの政治行動の第一義は与党であることといってよかろう。自民・公明政権は地方レベルではとっくのとうに実現されている。

それ以前、革新自治体が生まれた七〇年代、革新首長である場合は、公明党は革新の側につき、自民党の首長である場合は保守の側についた。公明党は政権の補完勢力であり、これが彼らの政治行動である。いずれにせよ、創価学会以外の国民は、公明党に投票しないし、公明党が将来単独で政権をとることもないわけだから、さほど問題にすべきことではないことにも思う。




平和党は何のためにあるのか7 連立政権時代にみる各党の低迷

2005年06月19日 12時27分52秒 | Weblog






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92年に竹下派は、小渕派と羽田派に分裂。小渕派にはパペットの小渕恵三が会長で、橋本龍太郎、梶山静六がおり、羽田派はパペットが羽田孜で実権は小沢一郎、その補佐に渡部恒三、長老役に奥田敬和がいて、竹下派七奉行は三名と四名に分かれた。

田中派以来、竹下派は最大派閥を占めてきたがそれが分裂によって崩れた。羽田派は政治改革ができなかった自民党を見限り、派閥まるごと離党し、新生党を結成した。党首には羽田孜、幹事長たる代表幹事に小沢一郎がついた。

彼らが離党して、新生党を結成したのは、この一年前に細川護熙前熊本県知事率いる日本新党が参議院比例区で四議席も得たことから、その流れを感じ取っていたのである。新生党は自民党の中でも一番黒い部分であった竹下派の人たちであるが、自分たちが政治改革をするのだという論調をもって、国民の支持を受けることになる。

新生党結成に、文字通り数日さきがけて、自民党の当選1回生、2回生で構成する政治改革グループが日本新党との連携を約束し、新党さきがけを結成する。メンバーには代表の武村正義はじめ、田中秀征、井出正一、園田博之、鳩山由紀夫らであった。

野党・社会党は宮沢内閣に不信任案をつきつけ、自民党羽田派が反逆したことによって不信任案が可決され、衆議院は解散する。総選挙の結果、新生党とさきがけ日本新党という新保守が躍進し、自民党は過半数を大きく割り、社会党は半減した。

連立政権時代

自社両党の大幅減により、ここに五十五年体制は終わりを告げ、在野の社会・公明・民社・社民連と新保守三党は連立政権を組み、自民党は結党史上初めて野党となった。自民党の総裁イコール総理大臣という方程式が初めて崩れたのである。

社会党は五十五年の結党以来、初めて政権についたが、社会党史上最低の議席での政権獲得となり、与党第一党といえども、首相の座を得ようとは考えられなかった。

新生党代表幹事・小沢一郎の采配によって、与党第四党たる日本新党代表・細川護熙が内閣を作り、政治改革法案が苦労の末、なんとか可決する。

政治改革法がなしとげられると新生党の小沢一郎がとりしきる非民主的な路線に反発した社会党とさきがけは距離を置き始め、細川首相は佐川急便からの献金疑惑が発端となって辞職する。細川首相はさきがけとの連携公約を棄て、小沢一郎に近づいていき、徐々に支持を失ってゆく。

後継には副総理であった新生党党首・羽田孜が就任するが、社会党は羽田を首相指名後に下野し、さきがけは閣外協力にとどまり、羽田内閣は少数与党政権となる。

やがて、野党自民党によって、羽田内閣に対して不信任案が上程されると、採決の前に内閣は総辞職をした。社会党とさきがけは、再び、新生党・公明党ら連立与党と連立を組み直そうと試みるが政策の不一致により破談する。

社・さ両党は、首相候補に村山富市社会党委員長を推すことで一致。小沢一郎はその強引な手法によって、自民党から海部俊樹を引っ張り出し、首相候補にする。初めて野党を経験し、絶望を味わっていた自民党は、社会党とさきがけの政策案を丸呑みし、村山委員長を首相として投票することを決定する。

ここに日本史上初めて、誰もが予想しなかった自民党と社会党の連立政権が生まれた。社会党はそれまで反対していた自衛隊の存在を認め、日米安保条約も堅持するという百八十度違った方向を示し、社会党内は混乱する。

一方、小沢ら旧連立与党は、合併し、新進党を結成し、史上最大規模の野党が生まれた。これにより、来る小選挙区制による二大政党時代を予感させた。

自社さ政権は、村山首相が引退し、副総理・橋本龍太郎自民党総裁に禅譲する。小選挙区制度のもとで埋没する社会党とさきがけは自民党・新進党とは違う第三の勢力として民主リベラル新党を模索しはじめる。その第一弾として、日本社会党は社会民主党に党名変更するが看板の架け替えだけに終わり、新たな入党者はなかった。

さきがけ代表幹事の鳩山由紀夫は、新進党にいる彼の弟である邦夫とともに、鳩山新党を結成しようと新進党にも呼びかけるが、社民党とさきがけを中心とした勢力にとどまり、民主党を結成する。

自民・新進・民主という三党の体制が生まれた。民主党結成の際に排除された社民党並びにさきがけの執行部側は、自民党との連立政権に残り、以降は自民党が過半数ないための補完的役割に社さは甘んじるのである。

九六年十月の総選挙後、どの政党もとくに伸びず、民主党結成により大量離脱となった社・さだけが激減した。自社さ連立政権は続いたが、議席の少ない社民・さきがけ両党は閣外協力となり、新進党は二大政党の一方の雄にはなりきれず、新進党から自民党に復党するものが増えていった。

新進党から小沢一郎の盟友であった羽田孜が、強引な小沢政治に愛想を尽かし、「太陽党」を結成する。新進党の崩壊は進み、細川護熙も離党し「フロム・ファイブ」を結成し、新進党は解党に追い込まれた。

新進党は六党に分裂する。小沢支持者は「自由党」として、旧公明党の衆議院は「新党平和」、同じく参議院は「黎明クラブ」、旧民社党は「新党友愛」、反小沢の保守派は「国民の声」、どこについていいかわからないがとにかく創価学会票が欲しい保守政治家は「改革クラブ」を、それぞれ結成した。これにより第三党であった民主党は第二党に格上げされたが、自民党との議席差は大きく離れていた。

羽田の「太陽党」、細川の「フロム・ファイブ」と鹿野道彦率いる「国民の声」は合併し「民政党」を結成する。やがて、民主党、民政党、新党友愛と民主改革連合は合併し、現在の民主党となる。

黎明クラブは公明と合流し、さらに衆議院の新党平和とも合併し、元の公明党に戻る。改革クラブは新党平和(のちの公明党)と統一会派を組み寄生する。

そうしたなか、二〇世紀最後の参議院選挙で、小沢一郎の自由党は自民党との連立政権を模索し始めた。

そして、自由党と同じく自民党を批判して議席を増やした公明党も自民党・自由党の連立政権に加わり、橋本内閣に続く小渕内閣は自自公連立政権となった。小沢は、衆議院比例代表の削減などの政策が守られないことから連立を離脱しようとするが、自由党内の連立維持派が反発し、保守党を結成する。本体自由党はやせ細り、下野する。このようなドタバタ劇の中、小渕首相は倒れ、幹事長・森喜朗が跡を継ぎ、まもなく小渕前首相は死去することになるが、自公保連立政権となる。

そして二〇〇三年、自由党は野党として民主党との共倒れを防ぐためにもと、民主党に合流する。保守党は民主党の数名と保守新党を結成するが、総選挙でさらに激減し、自民党へ復党する。

政党の変遷をコロコロ変えると有権者に筋が通っていないと言われるが、政党は政党のために存在するのではなく、政治家が利用するために存在する。政党の離合集散は、以前から多く行われてきたものであって、五五年以降、ほとんど政党の離合集散が少なかったのが異例であろう。有権者は支持政党を変えていくのに、政治家は所属政党を硬直していなければならないというのはおかしい。






平和党は何のためにあるのか6 自民党一党支配から崩壊まで

2005年06月19日 12時21分06秒 | Weblog


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日本民主党の第二次鳩山内閣から自民党の第三次鳩山内閣にかけて、日ソ共同宣言を成し遂げ、国連加盟を果たしたことから引退する。後継に自民党二代総裁の石橋湛山内閣ができるが、石橋首相は病気療養のため総辞職し、代わって岸信介内閣ができる。岸内閣は日米安保改定をなしとげると引退し、続く池田勇人内閣が所得倍増計画を発表して効果を上げ、引退。池田は後継に佐藤栄作を選び佐藤内閣は沖縄返還を成し遂げる。

佐藤は自派の田中角栄よりも福田赳夫に信頼を置いていたが、田中は佐藤派内に田中派を結成し、総理総裁の座に就く。以後、田中派は最大派閥として政府自民党を動かす主力となる。

田中内閣以前までは、生活最低限の経済復興ということが目標であったが、池田・佐藤内閣でそれがある程度成し遂げられると、田中内閣以降、日本の政治は経済優先主義となる。そして、政治は金まみれになり、国民に批判されていくようになる。

田中は金脈問題で失脚したため、クリーンイメージの三木武夫が後継となることによって、自民党は信頼回復を図ったが、追い討ちをかけるようにロッキード事件が発覚して、三木は法務大臣をつかって、田中を追い込もうとしたため、党内で三木おろしが始まり、衆議院を解散することなく任期満了の総選挙後、三木内閣は総辞職した。三木と同じく田中の金権体質を批判してきた福田赳夫があとを継ぐと、田中派は盛り返して、大平正芳を自民党総裁選挙で支持、現職総理・総裁である福田が落選し、大平内閣ができる。

角・福戦争は続き、大平内閣の不信任案がアクシデントにより可決され、衆議院は解散、総選挙中に大平首相は急死し、弔い合戦から自民党は勝利を収める。

大平派の後継である鈴木善幸が、田中派支配の下で内閣を作る。鈴木は総裁を一期で辞任し、田中派は中曽根康弘をかつぎ、中曽根内閣は五年間続く。

田中派は自派から総裁候補を出さず、他派閥の領袖をかつぎあげ支配をしていたことから、田中派内の若手から反発が生まれ始め、竹下登らが竹下派を結成、田中は田中派の後継会長に二階堂進を選ぶが、二階堂派に人は集まらず、竹下派が田中派に変わってその後、政府自民党を掌握する。

中曽根内閣の後、竹下内閣ができるが、消費税導入の犠牲とリクルート事件発覚のため、総辞職。自民党は党の歴史上最悪の国民世論の反発を受け、後継総裁選びに悩んだ挙句、中曽根派事務総長の宇野宗佑を選んだ。しかし、宇野首相の女性スキャンダル、尾を引く消費税問題で参議院選挙に大敗する。

委員長・土井たか子の社会党は参議院選挙で議席を伸ばし、野党が与党・自民党の議席数を上回って、宇野首相は辞任した。

竹下派は後継にクリーンイメージの海部俊樹を選んだ。海部は三木派の跡を継ぐ河本派のナンバー2であった。自民党幹事長には竹下派会長代行となる小沢一郎が就任して、海部内閣は竹下派支配の下に置かれた。田中内閣で金権を批判され三木内閣が誕生したのと同様に、竹下内閣で金権政治が批判され海部内閣が誕生するということが再び繰り返された。

おりからの政治不信で政治改革の声が高まり、そのためには衆議院の選挙制度を小選挙区制にすることであるとの風潮が生まれたが、国会議員の多くは反対したため、海部内閣は総辞職に至る。

海部内閣の後継は誰がいいかと、竹下派をとりしきる小沢一郎は宮沢喜一、渡辺美智雄を面接し、宮沢を選ぶ。宮沢内閣でも政治改革法案は通らず、自民党は苦境に立たされた。

さらに自民党の中枢である竹下派は会長・金丸信が佐川急便事件によって逮捕され、分裂することになる。




平和党は何のためにあるのか5 保守政党乱立時代

2005年06月19日 10時07分06秒 | Weblog




傑作(0)
2005/6/4(土) 午前 10:21 | 平和党ブログ | 歴史




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吉田内閣では憲法改正が行われ、現在の議院内閣制、男女二十歳以上の選挙権の仕組みが確立する。憲法改正後、ただちに総選挙が行われると、単独で過半数に達する政党はなく、日本社会党が第一党となったことから、社会党・民主党(旧日本進歩党)・国民協同党(日本協同党と国民党が合併)による三党連立政権が誕生する。吉田茂の自由党は、社会党左派とは連立政権を組めないとして下野した。

新憲法下で初めて内閣総理大臣となった社会党委員長・片山哲は民主党総裁・芦田均を副総理にすえ、国民協同党最高委員長・三木武夫とともに新政府をつくるが、社会党の左派と右派の対立が続き、内閣は崩壊、変わって、与党第二党である民主党総裁の芦田副総理が内閣を組閣する。

芦田内閣は、彼自身無実であった帝人疑獄事件によって失脚する。ふたたび自由党総裁・吉田茂が登場する。吉田は、民主党を離党した民主クラブと合併し、民主自由党を結成し、第2次吉田内閣をつくる。

民主党は国民協同党と合併し、国民民主党を結成、その後、重光葵総裁率いる改進党となる。

吉田茂の民主自由党はさらに、民主党の連立派を切り崩し、自由党と改称して、第3次、第4次吉田内閣として続く。鳩山一郎の公職追放が解除されると、吉田は鳩山との約束を履行せず、総理・総裁の座にいすわったため、自由党は吉田自由党と鳩山自由党に分裂した。鳩山自由党は、結局吉田総裁の下の自由党に納まり、第5次吉田内閣となるが、自由党鳩山派は再び飛び出して、重光葵の改進党と合同し、日本民主党を結成する。

日本民主党は単独過半数には及ばないものの、第一党として第1次鳩山内閣を作る。総選挙後の第2次鳩山内閣でも過半数には及ばなかった。それゆえ鳩山民主党と、吉田自由党の保守政党同士の合併が必要となってきた。

保守合同が模索されはじめたころ、社会党も分裂していた右派と左派が合併し、日本社会党が一本でまとまったころ、保守側も日本民主党は自由党との合併をし、自由民主党を結成する。これが今日の自由民主党であり、この自民党と社会党の二大政党時代が一九五五年になされ、以後、五五年体制が始まる。

いずれの政権も経済優先政策をとった。それは、敗戦によって、身も心も朽ちていたこの時代にとっては切実な問題であり、それが不可欠な政策であった。



超つづく



平和党は何のためにあるのか4 終戦直後の政党

2005年06月19日 10時04分04秒 | Weblog


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戦前、民政党内閣で対英米協調外交路線をとった幣原喜重郎元外相は戦時中、疎外されていたが、アメリカとの戦争に負けると、幣原内閣の誕生によって政党が復活し、軍部中心政権が終わって以後、外交官・大蔵官僚・弁護士・言論人などの知識人が首相の地位に就く。

鳩山一郎ら旧政友会は日本自由党を、町田忠治ら旧民政党は日本進歩党を、三木武夫らが日本協同党を、旧社会主義政党らは日本社会党を結成した。

戦後初の衆議院総選挙は明治憲法下で行われ、日本自由党が第一党となり、十四年ぶりに政党の党首が首相になる。

ところが自由党の鳩山総裁はGHQにより公職追放の対象者となってしまい、国会での議席を失う。鳩山は幣原内閣で外務大臣であった吉田茂に総理・総裁を依頼し、公職追放が解除されるまでの間、その座を渡すという約束を吉田茂と交わし、第1次吉田内閣が組閣される。

鳩山は戦時中、政府の軍拡に反対の立場を取っていたにもかかわらず、鳩山の政治力を押さえ込もうと、GHQが公職追放を断行した。追放理由は、鳩山がドイツの高速道路であるアウトバーンを政府の公共事業として褒め称えたことが、ナチス・ドイツの賛同者であるとされるのだが、GHQが鳩山を追放した根拠は、かなり強引なものであった。

つづく




平和党は何のためにあるのか3 二大政党の時代から太平洋戦争敗戦まで

2005年06月19日 09時45分19秒 | Weblog



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三代続いて超然内閣が続いたことから、憲政会、立憲政友会、革新倶楽部の三つの政党が大同結束して、加藤高明内閣を発足させる。その後、政友会と革新倶楽部は連立政権を降り、加藤内閣は憲政会が単独与党となる。犬養らの革新倶楽部は立憲政友会に合流し、政友会の五代総裁には田中義一が就任する。ここから政権交代可能な二大政党が実現されるのである。

加藤首相は病死のため、憲政会二代総裁・若槻礼次郎が内閣を引き継ぐが、立憲政友会が政権を取り戻し、田中義一内閣ができる。田中政友会内閣では、衆議院選挙で初の普通選挙制度が実施され、納税要件がなくなり、富裕層ばかりでなく、労働者層にも選挙権が与えられ、社会主義などの無産政党が議会に登場してくる。

政友会を脱党していた政友本党議員の中には復党する者もいたが、本体は憲政会と合併し、立憲民政党を結成する。ここに、政党は政友会と民政党に集約されたのである。

そして、政友会から民政党への政権交代で浜口雄幸内閣ができ、浜口首相は暴漢に襲われ傷を負ったため、第二次若槻内閣ができ、さらにまた政友会が政権奪回し六代総裁・犬養毅による内閣ができる。

このように、政友会と民政党による二大政党で政権交代が幾度か繰り返されるが、犬養首相が五・一五事件によって陸軍青年将校らに殺害されると状況は一転した。政友会としては後継総裁である鈴木喜三郎が当然のごとく、次期首相であろうと考えていたが、以後、軍人か文官による内閣が太平洋戦争終結まで続くのである。犬養首相暗殺後、富裕者を代表する政党政治は終焉を迎え、軍部による軍人政権となる。

海軍出身の斎藤実内閣もその次の岡田啓介内閣も、政友会と民政党の二大政党が閣内協力をする。二大政党が国をあげて与党となっていくのである。岡田首相は二・二六事件により襲撃され、蔵相の高橋是清元首相などが暗殺され、暗い時代に突入する。

暗殺された歴代首相を見ると、伊藤博文が首相を退き、朝鮮総督府をつとめているときに殺されたのを除けば、すべて国内によって日本人の手で起きている。原敬、高橋是清、浜口雄幸、犬養毅が殺されたのは、言論の自由がなかったからであろう。彼らはいずれも政党の党首で首相になった人たちであった。

街頭演説で首相を批判することも許されないのならば、殺すしか方法はない。結果的に死を逃れたのは海軍出身の岡田啓介であったが、殺害された首相を並べてみると、いずれも政党の党首を務めた代議士であり、政党政治家である。誰にも選挙権が与えられ、言論の自由がありさえすれば、彼らの政党の議席を減らすことも可能であった。

二・二六事件によって岡田内閣が退陣し、官僚の広田弘毅内閣、陸軍の林銑十郎内閣と続き、政党人は冷めた目でみるようになってしまった。

そこで、政党政治家にも軍部・官僚にも信頼のあった近衛文麿内閣が誕生する。近衛は政党政治を実現するためいったん内閣総辞職をし、その後は右翼団体を率いる元検察官の平沼騏一郎内閣、陸軍の阿部信行内閣、海軍の米内光政内閣が終わると、再び近衛内閣ができ、太平洋戦争の火種を作る。

このころになると政党は完全に無力化し、「大政翼賛会」という名で国を挙げ一同団結し、政党は次々と解党していった。近衛内閣で陸軍大臣であった東条英機が内閣を継ぎ、任期を一年延長し、衆議院選挙が行われた。東条は、翼賛選挙を行い、翼賛会推薦の候補者でないものは徹底的に弾圧された。大政翼賛会に抵抗した「翼賛非推薦議員」は、日本の軍事大国化、アジア侵略に反対していたからである。

衆議院の九割以上が大政翼賛会所属議員となり、帝国議会は軍部に賛同するだけで、議会としての役割をなくす。議会がオール与党で、チェック機能を果たさない、現代の地方自治議会などはこれに近い。

大政翼賛会は、戦後の社会党の前身である社会大衆党ですら解党し、戦争協力体制を深めていった。戦局が危うくなると、近衛前首相と岡田元首相が倒閣を企て、東条内閣は総辞職する。その後は、同じく陸軍の小磯国昭内閣、海軍の鈴木貫太郎内閣が生まれ、内閣が次々と変わっていったため、一番の戦争責任がどの内閣になるのかあやふやとなった。

ドイツはヒトラーが、イタリアはムッソリーニがその首謀者であると断定できるが、日本においては、昭和天皇に責任があるのか、近衛文麿にあるのか、東条英機にあるのか、はたまたその前まで遡って五・一五事件や二・二六事件の首謀者に責任があるのか、全くもって不明確なのは、日本の官僚社会の特徴である。

昭和二〇年八月に入って、広島・長崎に原爆が落とされ、ポツダム宣言を受諾すると、皇族から首相が出され、東久邇宮稔彦王内閣ができ、終戦処理に追われる。






平和党は何のためにあるのか2 戦前の政党・官僚融合時代

2005年06月19日 09時41分21秒 | Weblog




傑作(0)
2005/6/4(土) 午前 10:16 | 平和党ブログ | 歴史




これにより山県は内閣を下り、二度目の政党内閣は政友会による第四次伊藤内閣となった。以後、山県の配下である陸軍の桂太郎と伊藤の後継である政友会二代総裁・西園寺公望による内閣が交互に続き、桂園時代と呼ばれる。

西園寺内閣では、政友会によって政党人と官僚がある程度融和し、開発型の利権政治がなされる。官僚の手にあった政治が、ある一定の直接税を納める富裕者に支えられる議会政治家によって委ねられることとなる。彼らは、鉄道や工場などの経済利権を誘導し、政官財のトライアングル政治が為される。政治家と官僚と経済人が手を組む自民党政治の遺伝子はここにあろう。ヨーロッパにおいても日本においても議会政治が生まれる環境は、教養という要素を持っていたが、議会政治が育つ過程においてはカネが支配する政治となっていくのが共通点であろう。

桂内閣の最期、第三次桂内閣では、桂自身も山県の手を離れて新党を結成する。憲政本党は大同倶楽部と合併し、立憲国民党を名乗っていたが、桂新党の構想に乗り、立憲同志会を結成する。伊藤が板垣系の政党と合流して政友会を作ったのと同じように、桂も大隈系の政党と合流し半官半民の政党「立憲同志会」をつくり、桂は総裁の地位に就く。

立憲同志会の結成に反発した犬養毅らは、そのまま立憲国民党に残り、その後いったん解党し、「革新倶楽部」として改称する。

山県有朋は首相退任後も、政府を取り仕切る。山県は議会を軽視し、長州閥たる陸軍や内務省、非選挙で天皇勅命の貴族院議員を牛耳り、少数支配の官僚政治を中心に行う。これは、のちの田中角栄、竹下登・金丸信・小沢一郎、野中広務らの角栄型政治方法に似ている。相違点は、山県のイデオロギーは国粋主義であるが、角栄型のイデオロギーは守銭奴主義であるというところであろうか。

ここまでは官僚政治による支配であるが、やがてそれを倒そうと、憲政擁護運動、護憲運動によって議会中心の政治がされようと試みられる。

今日において護憲といえば、憲法九条を守る平和主義だが、戦前の護憲とは、藩閥支配による政治から脱却し、選挙で選ばれた、国民の代表である議会人・政党人が政権を担うことをいう。

現憲法では、首相は衆参両院の指名選挙により選ばれ、天皇が任命するが、旧憲法では議会の議員でなくても官僚であろうと軍人であろうと、天皇の勅命が下れば首相に任命されていた。官僚や軍人から首班が出て組閣すると、これを超然内閣と呼び、民党派たる議会人は反発をした。

陸軍・長州閥出身の桂内閣の後は、海軍・薩摩閥の山本権兵衛内閣ができるが、「薩摩・長州何の違いぞ」と批判され、シーメンス疑獄事件により辞職する。

その後ふたたび大隈重信が、彼のつくった政党の後身である立憲同志会とともに組閣する。しかし、中国に対する侵略的な条約である「対華二十一カ条条約」などの対応で不信を招き、与党・同志会も閣外に出てしまい、内閣総辞職となる。

下野した同志会は他の小会派と合併し、憲政会を結成する。憲政会総裁・加藤高明には三菱がバックに付き、一方の雄である立憲政友会には三井が付いた。このころより、官僚政治から富裕者政治へと移行し、二大政党体制への移行をみせていった。

信任をなくした第二次大隈内閣が総辞職に追い込まれると、陸軍の寺内正毅内閣によって、再び超然内閣が生まれた後、西園寺の後継として立憲政友会三代総裁・原敬によって政党内閣が復活する。原首相は右翼によって暗殺され、同党四代総裁・高橋是清が内閣を引き継ぐ。政友会内閣が終わると、海軍の加藤友三郎内閣、第二次山本内閣、そして清浦奎吾が貴族院議員を中心に内閣を組閣すると、三代続けて超然内閣が生まれたことから、政党人の怒りが爆発する。立憲政友会は意見が分かれ、清浦内閣を支持する者は政友会を脱党し、政友本党を結成する。