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価値観や世界観というものは、伝統を残しながら世代交代を通じて徐々に変化していくものである。ところが、教育に携わる人は、旧来のものを大事にする。例えば、我々が使っている日本語というものも、若者世代において徐々に変化している。文部科学省や日本語学者は「日本語が失われている」と嘆くが、そういう人たちも、百年前の人から言わせれば「日本語が失われている」のである。千年前の日本人が聞けば、滅茶苦茶な日本語であると耳を疑うだろう。彼ら守旧派は、今までの教えが変わることで、彼らが努力して学んできたことが無駄になるのを恐れるのである。それは自己保存でしかない。しかし、諸行無常はいつの時代にも進行していく。
古い世界観がさまざまなひずみを生み出している時代に、常識に支配されていない若者は新しい世界観を生み出す。それは間違った方向になることもある。独善的な我に走れば、インチキ宗教や詐欺的な商売に、はまったりもするであろう。触れ合った思想が、独善的でない利他精神に基づく思想であれば、新しい価値観で新たな未来が築かれることもある。
では、今の教育で間違った方向に向かわせているものは何なのか。それは、知育偏重教育がよく挙げられるが、その実態は数字至上主義である。すなわち、大人たちは経済という、客観的に数字で得られる基準で生活しているのと同様に、子どもにもそう強いているのである。算数・数学教育が数値主義であるのは当然だが、人間性を創出する教育分野にまで数値化がなされている。
例えば、国語教育においては、必ず一つの解答を導き出させようとする。テストの点数を計測するためにはそれが一番効率のよいことなのだろうが、これは創造性をなくす。以前、なんという作家であったが忘れたが、この作家の書いた文章が国語の試験問題に出題され、その作家が問題を解いてみるとほとんど不正解であったという。これと同じような事例として、私の母校は帰国子女受け入れ学校であったが、生まれたときから英語文化圏に住んでいた彼らが英語の点数が悪い。これは、英語を定式化して受験用、学校教育用に方程式化しているからであるに思う。
勉強のできる人に国語学習のことについて言わせると「古文、漢文、文法を国語教育で教えるのはわかるが、現代文を読解するのは、日本人であれば当たり前のことを出題するのであるから自分はほとんど勉強をしなかった」というのを数人から聴いたことがある。彼らに共通することは高学歴で、定式化が早く、官僚的思考を持つ優秀な存在である。ただし、常識に囚われすぎていて、保身的であり、創造力がない人であると感じたことがあった。学校教育の方程式化に適応している人たちとって現代国語は、簡単に解答がえられるが、それ以上のことは望めない人々でもある。
数学教育においても創造性を満たすような教育はなされていない。おのおのの数学の諸現象や法則は、さまざまな数学者や科学者たちが艱難苦労のすえ、発見した出来事であるが、それをいとも簡単に暗記させてしまう。それを、営業マンの売り上げ主義と同じく、数値化した点数によって競争させる。これによって鍛えられる脳もあるのだろうが、そのため、子どものときだからこそ必要な脳の能力が活かせないようにも思う。
理科や社会科でも、自然環境教育に対しての重要性が年々増してきた。しかし、それならば本来自然とは生物や地学、すなわち動物・植物・鉱物・宇宙・地球・大気・海洋などによって、なりたっていて、それを局部的かつ人為的に理解したのが物理や化学である。理科教育において物理・化学の比重はもっと軽くてもよいのではなかろうか。
物理と化学は自然征服型学問である。これらを全面的に否定するわけではないが、何のために勉強しているのか目的をはっきりとさせるべきである。
そして、外国語は英語ばかりではなく、来たるべきアジア時代に向けて、中国語や韓国語を履修させてもよいのではなかろうか。英語は、私はこうだとか、白黒はっきりさせるという言語性質をもっており、日本語との比較を学ぶのに役立つし、世界的に通用する言語であるので、重要なことには変わりはないが、外国語選択の幅を広げたほうがよいと思う。
よく、英語は「中学・高校と六年にもわたり習っているが全然わからない」と言われるが、そもそも日本人にあわない言語なのである。日本語と文法形式や語順が極めて似ている韓国語を話す韓国人も、日本人と同じくらい英語の習得率が低いそうだ。そして、英語を理解するのには英和辞典や和英辞典を使うのではなく、英英辞典を使えとよく言われる。英単語は英語で説明されたものが、理解するのには良いとされるのも、国の文化が違うからである。
体育においてもスポーツや競争という観点からだけでなく、いろいろな運動があってもよいのではないだろうか。人間の体というものは、お互いが競争して力を使うよりも、お互いに協力しあう運動の方が、大きく力を発揮し、健康にも良いことが科学的にわかってきたという。「体育」という言葉は、日本が西洋文明を取り入れるまで、なかった言葉であり、日本の運動教育は武道しかなかった。武道は和の精神を大切にする。武道は戦前の帝国主義につながるなどという偏見は捨てるべきである。日本の武道は、精神を養う。「気」が身に付く。スポーツ選手が長生きしないのは活性酸素を多く取り込むからだという。これに比して、武道はスポーツと違って人に見せるものではない。敵にやられないためなら、どんなに格好が悪くてもよいという考えであるので、自然と合一しようとする。武道あるいは気の考え方は、腹式呼吸によって活性酸素が吸収されない。スポーツは主に力学で物事を考えるが、武道は「気」すなわち精神で考えるところに違いがある。自然と合一する東洋医学のものの見方も、調和という考え方を身につけることができるので保健体育の課程に入れることが望ましい。
そして、芸術面や技術面では、創造性を育むためにも音楽、美術、図画工作や技術家庭といった体をつかう実習をもっと多くしたほうが良い。ただし、子どもがこれらの実習的学習も嫌うのであれば、自由を尊重し、さらに別のことをしてもよい。
ものごとを理論的に机の上で考えることというのは、五官を使った経験の中から生まれるのであって、初等教育や中等教育においては、実技科目の比重を高めるべきである。そもそも子どもは遊ぶのが仕事であって、「勉強する」とは遊んだ中に生まれてこよう。「よく遊び、さらに遊んで、よく遊べ」という教育方針が望ましい。
そして、これら各科目の全般に言えることだが、いったい何のために勉強しているのかということを教えていないことが最大の問題である。理科を学んだことに始まれば、生物化学兵器や核ミサイルの製造もできる。国語を学んだからこそ、人を誹謗中傷することもできる。体育で鍛えた体は人を倒すこともできる。ようは、知育教育であろうと体育教育であろうと、徳育教育を前提にしていなければならない。
道徳教育と口を開けば、胡散臭いものとして嫌われる。戦前の道徳教育が軍事国家の道具に使われたからであろう。そのため、人の心に対する教育は忌み嫌われ、そこにメスをいれようとすると左翼連中はすぐ騒ぐ。戦前の道徳教育は、天皇主権の政治、日本民族こそが世界で一番尊いという教えをしたことなどが間違いなのであって、道徳教育そのものは間違いではない。戦後教育になってからは、戦前教育を、毒と薬を一緒にしてゴミ箱に捨ててしまったのである。
そのため、心よりも物質に目がいくようになり、左脳思考型の客観的な事象だけを扱うものだけを教え、機械的人間をつくりだしている。
経済闘争に明け暮れる両親は、共働きで、いつも家を留守にしているので、子どもたちは電子レンジで温めて一人でごはんを食べる。物質さえ得ることができればよいのだから、援交しようと、気にいらない人間がいれば、殺しても構わないという発想は当然生まれてくる。他人の生命よりも自分の金が大事で、金になれば善であるという考え、あるいは自分が死んでも誰も悲しまないから自殺しようなどなど、これらは大人たちが日々、作り出し、営んできた経済優先社会が産んだのである。
ここまで、教育制度のことについて述べているが、教育が間違っているから、子どもたちが間違ったのではなく、大人が間違っているから、子どもたちが間違うのである。教育制度云々の問題ではない。
競争を正しいことだとする考えが、他人の生命を傷つけ、物質経済に目がいく。平等を正しいことだとする考えが、活力をそぐ。競争も人為的平等も自然の摂理にあらず。全ての生き物は全ての生き物を生かすために存在する。
生命を最優先にする価値観こそ教育課程の中に必要である。そのためには、本で学ぶことではなく、自然の山川草木に触れ、虫や鳥とたわむれ、農林水産業を通じて食と命を知り、友達同士が協力しあったり、喧嘩したりすることで生まれる。そのためには、日本は農業立国になるべきである。
徹底した放任教育で、一切勉強させないで自由にさせていると、ろくでもない子どもになるという実験結果があるらしい。これが現代教育の風潮である。遊ぶことは重要であるが、遊んでいる中でも道徳教育だけは教えていくことが重要であろう。そのためには、大人社会が堂々と教えることができる立場にならなければならない。
経済優先社会は自然を征服することで成り立ってきた。そのため都市化が進み、ストレスが多くなってきた。子どもたちも同様であり、問題教師の増加もそこに要因がある。ストレスは自然からかけ離れた都市化現象の著しいところから生まれる。ストレスは病気を生み出し、闘争を生み出し、破壊、破滅を生む。
さらに経済優先主義が作り出した食品は、人間の肉体を蝕む。化学物質に汚染された人体は精神状態すら悪くする。子育てノイローゼに追い込まれる母親の増加も、児童幼児虐待も、時間に追われる都市社会がそうさせているのである。親が子どもに「早くしなさい!」と言うのも利子が時間を支配し、時間が経済を支配し、経済が人間を支配し、多くのストレスを生み出すのである。そして、その都市社会は自然の摂理を無視した経済優先の仕組みが原因となっている。
教育は大切なことだが、それよりも前にやらなければならないことは山ほどある。今の世の中で、子どもたちに胸を張って教えてあげることなどほとんどないのではないか。むしろ、今の世の中に毒されていない子どもたちに教えられることのほうが多いと感じる。
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