おおさか佳巨 街頭演説のブログ

減価する地域通貨ですべての改革

学びについて

2009年02月17日 19時10分30秒 | 法務
現代はあまりにも機械が発達しすぎて、途中の苦労というものについて省略しすぎである。

あとから学ぶ者は、先に発見した者よりも楽な道を通るので、道を簡単に渡ってしまう。だから堕落しやすく、発想が貧困になる。

二次方程式に解の公式というものがある。あるいは三平方の定理というのがある。我々はそれをあとから学ぶ者として教わるので、容易に解いてしまうが、最初に発見した人は並々ならぬ苦労があったに違いない。苦労しているから身に付きやすい。

しかしあとから来て、結果だけ聞いた人は、それだけを常識と思ってしまうから視野が狭まる。


教育というものは、必ずしもストレートに教えることが良いとは言い切れない。

紙切れに支配される学術者たち

2008年04月24日 22時56分31秒 | 法務
自衛隊イラク派遣:「米兵の輸送活動は違憲」判決 岡山訴訟の原告「画期的」 /岡山
 イラクへの自衛隊派遣について「米兵の輸送活動は違憲」とした17日の名古屋高裁判決を受けて、全国の地裁で唯一係争中の岡山訴訟の原告からも「画期的な判決。岡山でも期待できる」と判決を歓迎する声が上がった。

 岡山原告団は05年、1~3次にわたって計256人が提訴。1・2次を合わせた訴訟と3次訴訟に分かれて争っている。1・2次訴訟は5月に今後の日程が決まり、3次訴訟は8月に最終弁論が予定されている。河原昭文弁護団長は「(判決は)憲法9条の価値を認めており、素晴らしい判決だ。岡山では差し止めが認められるように頑張りたい」と話している。

 一方、05年にイラク・サマワでの人道支援活動に隊員3人を派遣した陸上自衛隊日本原駐屯地(奈義町)。同町議の森藤政憲さん(56)は「住民の立場に立った判決。イラク戦争の泥沼化で、日本からさらに自衛隊を派遣することになるのではと心配していた。今回の判決がストップにつながればいいと思います」と話した。【石戸諭、椋田佳代】

毎日新聞 2008年4月18日 地方版

イラク支援に航空自衛隊を派遣したことは違憲だと。

このニュース、左派は喜び、右派は悔しがっているようですが、、、、

しかし、実際問題としてすでに派遣されているわけですから、悔しいも喜ぶもないと思います。

また、ある人は、日本国憲法は無効であるが講和条約によって有効だとか、、、、

また、ある人は、憲法98条の規定によれば、県民によって国の法律改変が可能だとか、、、、、


彼らは知識とか法律に左右されています。

しかし、実際問題に動いているものがあるのであって、憲法などというものは全く無力でしかない。ただ、紙に書いてあるだけです。その解釈をめぐって喧々諤々やっても、実際に動いている力はそれらの論争を笑い物にします。

実際に運営しているのは、統治機構であって、憲法ではない。

このへんが理解できていないのは、「頭脳にばかり偏向した政治家」による悪政と言えましょう。

彼らはなぜ能書きが好きなのか。なぜ「法治国家」であると信じていたり、それを目指すのか。理論としての「正義の追求」と実践としての「正義の実現」は全く別ものであり、全然違うところにあるのです。

そもそも正義などというものは実現する必要はないですが・・・。

国は、人間によって成り立っているのだから、その人々の気持ちや痛みを知らなければいけません。

彼らの論理はいずれも学問的であり、冷徹であり、形式であり、ほとんど意味の成さない、言葉遊びです。

憲法があろうとなかろうと、平和が成り立つのが自然主義経済です。

塩田剛三十段取得の経緯について

2008年04月11日 22時57分08秒 | 法務
タイトルからして、塩田剛さんが三十段なわけではないです。念のため。でもそれに近いような話です。

http://www.geocities.jp/aikidokayama/kawaridane/kawaridane4.htm
によれば、

合気道の植芝盛平開祖と、養神館の塩田剛三宗家との逸話が書かれてある。

植芝翁やその他の人々が「岩間の奥ノ院」というのは、茨城県岩間町にある盛平翁の住居である。

 翁がここに千坪あまりの原野を買って、その松林の中に、はじめ仮小屋のような家を建てたのは昭和十五、六年であったが、そこへこもって修行のやり直しに専心したのは日本敗戦の年であった。

 その時から「力にほこる者はほろぶ」「合気道は戈(ほこ)を止める道だ」「その道を完成しよう」との大悲願を立てて、一心不乱の幾年となった。

 したがって、岩間時代の初期には、翁は至って悲観的で、自分のそれまでの合気をほとんど否定し、新しい道を模索していた。

 だから門弟の塩田剛三などがたまたま岩間を訪れて、

「先生は高齢で衰弱し、隠居してしまった。合気道の二代目はオレだ」とばかり、都民銀行の工藤昭四郎や国策パルプの南喜市の後援で、新宿区築土町に養神館道場を建て、合気の元祖のような態度で多くの門弟をあつめたのは、いささか短慮であった。

 塩田は植芝子飼の男で、道場長吉祥丸などといっしょに育った男だが、翁の真の精神を体得したとはいいがたい。

 若松町の本部道場が吉祥丸や藤平光一のこん身の努力で、隆隆と発展してくると、塩田のパトロンの南喜市が「本部道場と養神館を対等にしてくれ」「塩田に十段の段位をくれ」と申し入れてきたのに、

 「おう、おう、好きなようにさしたる。十段でも百段でもやる」と笑って答える翁であった。

 あとで翁は著者に語った。

「合気は段位でも道場の格でもない。そんなもんとはおよそ無関係や。南はんはシロウトやさかいしようがないが、塩田が、そないな世間のミエにこだわっているかと思うと、かわいそうでならん。ハダカ一貫になってわしのところへかえり、もう一ぺん修行をやり直したらええのやけど、あきまへんかなあ」

武道に段位というものが設けられているが、私自身は全く意味のないものだと思ってきた。政治家のプロフィール欄によく何道何段とか書いてあるのをみて、かつては「あ、こいつ馬鹿だ」ぐらいの認識があった。まあ、はっきり言って給与を払わなかった山本譲司元衆議院議員のことなのだが、ここまで思う必要はないけれども、ある程度の目安としては必要であると同時に、これにこだわるのはどうかと今は思う。

合気道の初段は、柔道三段・剣道三段ぐらいに取得が厳しい。通常の武道よりも二、三段上のようだ。・・・・と言っていること自体、気にしているのかもしれない。

逆に森田健作氏などは自分で剣道何段だとは言わないので、それが気になったりする私自身を買垣間見るに、やはり段位にこだわっているのかもしれないなとも思い反省する。

ちなみに私が山本さんと立川で飲んだ時、山本さんは「森田健作は史上最大のバカ候補者」であると言っていたことをここで暴露しておきます。

柔道・剣道で知る段位の認識としては、通常は八段までがその極めるところであり、よほど特別な場合に九段があり、さらに特殊な場合とか、新たに分家できるほどの場合は十段なのだろうなという認識がありましたが、植芝翁においては、百段でもくれてやるという。

現実に百段なんてもらったら、それこそ、よくあるふざけたクイズ番組で、
「それでは最後の問題は、得点が十倍です」
「おいおい、じゃあ今までのは何だったんだよ」的な突っ込みも出なくもないですが、

植芝翁にしてみれば、それと同じような感覚だったのではないかと考えられます。

このリンク先では、どうも塩田氏について下に見ている様子があるようですが、やはり晩年の塩田氏は植芝的宇宙レベルまでにはいたらなかったけれども、やはり武道というものは戦闘ではなく、平和のためにあるということを悟りながら、現実武道の方法を多くの人たちに教授したのではないかと私は思います。

戦後レジームとはなにか

2007年10月13日 04時04分00秒 | 法務
安倍前首相の言う戦後レジーム体制からの脱却というのは、おおまかにいって戦前レジームにすべしということでしょう。

私からすると、そのこと自体が戦後レジームだと思います。
すなわち、右翼と左翼が口汚くののしりあう、つねに決まったパターン。同じ内容で戦後60年以上、同じ議論をしていることがまさしく戦後レジームだと思います。

彼らの討論はまさにどうどうめぐりであり、何の進歩発展も生み出さない。これら旧式の議論に対して、圧倒的多数の国民は関心を示していないでしょう。関心を示すのは、これらに興味を持って学んでいる人のみです。

この対立に対して中道をとれ・・・というのが私の意見ではありません。

もっと根本的なところに目を向けるべきというのが私の意見です。

たとえば、国民の中では数少ない・・少数派ですが、安倍内閣を支持している人がたがある。

彼らは「安倍内閣は憲法改正、教育基本法改正などで一定の道筋をつけた」として評価しています。

憲法は改正されずにこのままずるずるとひきずると思います。もしも改憲されるとしたならば、それは民主党政権の時でしょう。自民党が野党になったとき、自民党は議案に対しての賛成体質が身についているために憲法改正が発議される可能性があります。これは細川政権のときもそうですし、全国の自治体で自民党が野党になっているところの事例をみれば、自民党は野党であっても責任を持とうとするために、このようなことが予想されます。

次に教育基本法の改正ですが、これがいったい何になったのでしょうか。各法が改正されても、いまだ問題教師は増加傾向にあります。法律という制度ばかりを安倍政権では議論し、実態に即していないために、絵にかいた餅になることでしょう。

なぜ問題教師は、このような法改正後も多発するのかといえば、人間の質が変わってきているからです。戦前のように尊敬される教師を法制度で作ろうと思っても、安倍政権を支えてきた典型的な旧来右派の枠組みでは、それまで支配してきた旧来左派・日教組に対してのアンチテーゼがメインパワーとなっているために、たんなる恨み返しでしかない。だから堂々巡りが法改正で実践されているだけで左右両派の応酬合戦でしかなく、国民生活からは大きくかけ離れています。こうして日の丸・君が代をめぐっても、歌わないだの、掲揚しろだのともめ事がおきます。

教師の質、人間の質が変わってきている。これは、社会が精神的な向上よりも、物質的な部分に目がいくようになったからだと思います。形だけ変えても誰もついていかないでしょう。

経済優先社会となって、精神よりも物質に目がいくようになった。わいせつ教師などが増えるのは、生徒を精神的な人間として見ないで、肉体的な物質としてみるようになったからです。それには児童生徒の生育が早くなったというものもあるかもしれないが、それは二次的なものであると思います。どのような状況だろうと、物質に目が向いていく社会をこれまでに作ってきたからです。

それは拝金社会が作り出した世の中です。だから、当然に援交をして何が悪いと思う子供が出てくるでしょう。

教員免許の更新制度を作ることや、もろもろの諸制度改革では何も変わりません。社会が新たなる価値観をもって、方向性を示さない限り無理です。その方向性とは、経済成長であると、今まで通りの価値観を示してきたのが自民党政権であり、それにとってかわろうとする民主党政権でしょう。ここにはなんの解決策もないのです。というよりも不可能です。

それから地域のコミュニティが希薄となっているのも挙げられます。これは都市ばかりでなく郊外や農村地域でも表れている。全国一色の店舗、全国一色の風景、全国一色の情報、こうしたものに起因しています。

お金というものは北海道から沖縄まで全国共通で、この力というものが日本全体を支配しています。これは今に始まったことではないが、この資本主義が最大に猛威をふるっているのが現代です。ありもしない架空の富によって社会構造が変わってきている。これが原因であり、これが社会から心をなくさせた結果なのです。そしてこれが戦後レジームです。

自然主義経済によって、地域のコミュニティが復活します。今まではすべてが職業化されていたが、これが地域化に変わります。教育は教師がするものというのは、専門職化が原因です。そのため地域での監視がなくなります。みなが地元ではなく都市部へ行って企業で働きます。会社と自宅の往復となる。このため、地域のことがわからなくなり、関心がなくなります。ここから、すべてがお金で解決できるということが始まります。

「ボランティア」などとわざわざ言うようになったのは昨今です。これはあきらかに、そうしたものがなくなったから使われるようになった言葉です。

消防団員というものも減少傾向にある。そもそもは職業としての消防署よりも、消防団のほうが主流だったはずであり、もっと昔をいえば、警察も民間でやっていた。これをすべて税金で解決しようとするようになった。こうしたところに教育問題の源が隠されているのです。

ただ資本主義のまま、地域コミュニティを活性化させたり、地方を潤わせようと思っても、利権政治や、談合、汚職、官官接待などが生まれるだけであり、逆効果です。なぜならば、お金はいつでもモノよりも強いからです。そこで必要なのが自然主義経済といえるでしょう。これこそが真の戦後レジームからの脱却だと思います。

教育基本法・関連3法についてどう考えるか

2007年07月16日 10時58分50秒 | 法務

質問4【教育改革】
教育基本法や関連三法が改正されました。改正の是非と理由をお聞かせください。
教育基本法改正に賛成・反対

教育問題の大本は、教育基本法にあらず。どのように法律を変えようとも、現場がそれに従わなければ何の意味も持たない。単なる文言だけで終わります。公務員として法律を守るのは当然であるが、教育のような問題では、地方自治体は国家に規制されるべきでないと考えます。そして全国一律にするべきものではないと考えます。


 

教育とは、その地域、その学校区による父母と地域住民によってなされるべきと考えます。したがって与党の法案が可決されようとされまいと何の影響もなく、民主党案による教育委員会の廃止なども論外です。


 

したがって教育基本法の賛否についてはどちらでも良いでしょう。時間の無駄です。


 

では地域がなぜ教育に参加できないのか。あるいは弱くなったのか。それは資本主義が影響しています。現代では、地域よりも企業に目が向っており、生活の基盤は地域的なつながりよりも、営利的企業体に主軸が置かれています。それによって、教育に対しての無関心を生んでいます。


 

自然主義経済を導入する事によって、その地域単位はその地域内に主眼が注がれます。これまでの社会主義的な政策は、お金によって、つまり国家の予算を用いて教育政策をなしてきましたが、減価通貨制度を取り入れることによって、時間の余裕が生まれ、また生産も消費も、需要も供給も、労働雇用も地域内で完結されようとするために、その地域においての倫理性・規範性が高まります。


 

現在のように倫理性がない政治家は、お金に支配されている事によって産み出されています。したがってお金の力による束縛を解放することによって、教育は大いに変わり、大人が自発的に物事を考える事によって、次世代への責任をもち、改革がなされると考えます。


 

要約
どちらでもよい。教育とは、その地域、その学校区による父母と地域住民によってなされるべき。自然主義経済の導入によって、営利企業体から地域共同体に視点が注がれことで、時間の余剰が生まれ、地域による教育がなされる。


 


パワーパフガールズにみる力

2007年05月22日 13時32分23秒 | 法務
知識に溺れた人というのは、何かを切り開くためにエネルギーを使うよりかは、何かの物事を否定するために、誰かを否定し、自分を認めてほしいがゆえに、言葉を吐き出しています。だからどうしても、世のためよりは自分のことのみを考えての知識遊びの方々がおられるでしょう。

だから最近では、とにもかくにも、勉強が優先。勉強してからでないと、何もできない。とにかく知ることをちゃんとしないといかんという雰囲気が社会に感じられます。知識があったらそれをひけらかしたいという人増えているように見えます。そして、自分はAさんよりもものを知っているから偉くて、Bさんよりものを知らないから偉くないと勝手に決めています。

しかしながら先に愛がなくては、ものを知る吸収力も育たないし、肉体も鍛えらないし技術も身につきません。そういう元となる原動力というのがあるのだと私は思います。つまり相手に対する肯定力です。

先日、「あのキャラなんという名前だっけ」といった話ですが、「パワーパフガールズ」というのをなおちゃんに思い出させてくれました。主人公は、博士の作ったロボットである三人娘のパワーパフガールズで、力がめちゃくちゃ強い。強すぎて、町で鬼ごっこをして建物やら道路やらをどんどん破壊してしまい、町で嫌われ者になるわけです。

町の嫌われ者となった三人組は、自分たちのパワーを隠すようにして暮らしていきます。パワーを使わないので、それをいいことに、ある日、町の荒くれ者たちに襲われました。

一方、猿みたいな妖怪がいます。とても頭がかしこい奴がです。この猿が、襲われている三人組を助けます。しかし、その猿は自分の姿を彼女らに見せようとはしません。自分は醜いモンスターであると、脳が上まで突き出ていて、化け物として扱われ町で嫌われ者であったからずっとひっそりと暮らしてきたということでした。

自分はこんなに頭がよくて、ものを知っていて、この町をよくする方法を誰よりも知っているのになんで嫌われるんだといって嘆いています。

やがて両者は、片や力が強くて嫌われて、片や頭がよくて嫌われて、お互いに嫌われ者同士として結束していくことになります。


猿の化け物が言います。「俺の頭脳とおまえたちのパワーがあれば、この町を変えることができる。もっと良い町ができるのだ」といって、彼女たちに了承させ、化け物が設計した通りに何かを作り出していくわけです。パワーパフガールズたちはどんどん物資を運んで、何ができるのかは、彼女らも詳しくは知らないけれども基地みたいなものを完成させるわけです。これで彼女たち三人は、町のために物事を成し遂げた。今度からは嫌われないだろうと希望を抱きます。

ところが猿の化け物がやったことは、町中の動物園の猿たちを猿人化させ、人間たちをその支配下におさめることでした。集まった猿たちはどんどん町を破壊し、人々を殺戮していきます。


猿の化け物が言っていた良い町とは、猿による人間支配のことでした。

それで「どうしよう、とんでもないことをしてしまった」とパワーパフガールズは嘆くわけです。今度は町の人気者になるだろうと化け物に言われて、多くの協力をしてきましたが、結果は、以前よりもさらに町の人たちに罵倒されるようになりました。

それで当初はその猿の化け物が王となって治めるつもりでしたが、呼び寄せたいずれの猿たちも自分が王になるといって猿同士での戦争が始まります。

ここに大きなポイントがあります。つまり、「自分だけが正しい、他のものは認めない」という考えは、必ず、その自分と同じ考えを持つ者同士で戦いを始めるわけです。今の政治闘争は、どこをみてもそうなっています。そして政治に関係のない一般の人たちでもそういう傾向が出てきています。市場経済も米国化がすすみ、「己のみ勝つ」「あいつは間違っている」となってきています。

「平和を作る」と言って、自らの敵を作り、その敵を指差して「あいつらは戦争をさせようとしている」とけしかけています。ようするに、「平和を作る」と言っている人たちが争いごとを作り出していきます。イラク戦争、湾岸戦争もそうですね。今の護憲派市民運動も改憲派保守も同じことをやっています。

このアニメでは、猿同士がまさにそれをやっています。

そして、町の人たちにさらに嫌われたパワーパフガールズは「もうあんなところには戻りたくない」といっていなくなります。

でも自分の父親たる博士の叫び声を聞き、町に戻って助けにいきます。そして、町で猿たちに襲われている市民を救済していきます。死にそうになっている赤ちゃんや犬をみて、かわいそうだ、助けなければとなっていきます。そして町中の人たちを救い出し、博士の作った薬品も手伝って、猿たちを一掃するのです。


ここで我々が考えなければならないことは、力が強いこと自体に善悪はないということです。良いことにも使えるし悪い事にも使えます。武力においても知力において、経済力においてもそうです。それをどう使うかというのは、力をコントロールする部分である心に左右されているということです。

いかに頭が良くても、体が強くても、自分のためだけに使っていれば何にもならないし、利他のために使われて発揮されるものも多くあるでしょう。

こういうことが忘れがちな世の中になっていると感じます。現在、教育関連法案が審議されていますが、それを痛切に感じます。制度を議論する政治家・官僚・学者のお遊びになっています。彼らの支配力を満足させるためにやっているようなことを感じます。

そして、当ブログで討論にやってくる人も、みな知のためにやっている人が多いようです。目的は社会発展のために討論されるのが筋ですが、あまりにも学問馬鹿が多すぎて、目的に愛も心もともなっていない場合が多いようです。

どこにそれが現れるかというと、自分の考えについては、とにかく理屈抜きにして、とにかく肯定されなければならないというワガママなことから始まっているからです。つまり自分が正しいという結論が先にありきで、物事を話している場合がとても多いようです。この原因が、自己中心主義であるということでしょう。

知識に溺れている人との討論は、結局のところ、相手を否定する事が目的だから何も生まれないのです。だけれども、何かのために、やっているということになれば発展的に進みます。

例えば、護憲の人は世界平和を願っています。武器のない世の中を作ろうとしています。では武器のない世の中が平和になるとその人が信じているのであれば、どのようにして各国の武力をなくしていくのがいいのか、そのためには国家政府がなぜゆえに存在するのかということを考えてもらうのです。そうなると自然主義経済というものが、憲法9条を守るよりも近道であるということがわかるでしょう。

改憲の人は、自国の平和のために武力が必要であり、集団的自衛権を認めるべきだとしています。ではなぜ他国が攻めて来るのか、他国の一般人が個人で包丁もっては来ません。これも国家政府の仕組みによってできています。だから憲法9条を改正するよりも自然主義経済が近道である事がわかるはずです。また、これまでの怨念を中国や朝鮮半島が抱くのはなぜですかと、富が蓄積できて政府が潤うからでしょうと、なります。

だから、何のためにその人は何をしたいのかについてが、明確であると、ただ自分の知識遊びでこの人は言っているのか、あるいは自分を磨こうとして言っているのかは、その内容を聞けばだいたいわかりますよね。

政治というものは、どの人も当初は志高くやっているんだけれども、ほとんどの人は主張のための主張になってしまうものです。これまで護憲を守ってきたから、これはもう崩せないんだと、究極は平和を侵してまでも護憲を譲らないくらいのところにまで行き着きます。なぜかといえば、自分の思想のためにだけやっているからです。思想の危険性というのはこういうところにあります。

やがて他人を否定するために、脳みそをほじくりまわすようになっていくのです。心から考えてなせば、そのようにはなりません。プラス思考同士で討論した場合には、新たなものが生まれます。

だから平和党は、何かに反対するための政治活動をしてはならないようにすべきと思います。平和党を勝手に反戦政党だと思い込んでいる人がいますけれども、ちゃんと見ていればわかることです。

平和党は現行の資本主義経済もあってよし、社会主義もあってよしとしています。保守もリベラルも社民もマルキシズムもあってよいし、そのために違う新たな軸である次元を出しています。それが自然主義経済なり、善悪中毒なり、憲法からの脱却なりです。

このアニメでは結局、猿の化け物は自分のみを肯定し、人間を支配下に置こうとしました。それと同時に猿仲間同士の中でも、自分のみを肯定し、他の猿について否定していきます。

でもパワーパフガールズは自分たちを迫害した市民に対しても肯定的にとらえて救済していっています。また、ストーリーの途中では父親たる博士にも愛想をつかされるのですが、愛ゆえに助けにいくのです。

だから、自分だけはどんなに理屈が立たなくても自分だけは肯定し、気に入らないものがあれば否定するというのは己の破滅を導き、自分も他人も肯定することは発展を作り出すという教訓だと思います。ディズニーはじめ、商業主義たる米国アニメを馬鹿にしていましたが、そうでもないことがよくわかりました。でも内容については、日本のアニメは世界一でしょう。


神社にみる還元土地の作り方

2007年05月18日 23時19分32秒 | 法務
以前にイヤシロチについての記事をアップしました。
http://blogs.yahoo.co.jp/seitouheiwatou/18033734.html

これによれば、
●神社の位置と建物の調査(18箇所)
全ての神社がいずれも優勢生育地帯に位置し、建物の損傷はなかった。

となっています。
つまり、土地には電位が酸化反応するところと還元反応するところがあり、またその中間もあるということです。そのうち、還元反応をしている土地では食料の生産性も高いし、健康も得られ、生産される商品の性能も高いことがわかってきています。だから、ここに日本が歴史的転換をなすキーポイントが隠されています。

これらの土地に対して、還元作用が働くようにするためには、物質的には、木炭・竹炭などの粉末をまぶすということです。

それで川崎に住んでいる人で、この電位測定器を持っている人がいて、その人が調べた神社各地の調査データを見させてもらったのですが、物質的な電位だけでなく、やはり人間の精神作用も大きく影響するのだと言います。


これはなぜかというと、日本全国に存在している歴史ある神社というのは、そのほとんどが還元反応を示しているのですが、例外があります。

それでその人は、どういうところに酸化反応している神社があるのかとデータを見せてもらいました。
これによると、品川区にある天粗諏訪神社と浜川神社、府中市にある大国魂神社。神奈川県では川崎市川崎区にある稲毛神社、平塚市にある三嶋神社などの一部分で酸化反応が見られます。

共通点としては、大国魂神社の近隣には、東京競馬場と多摩川競艇場があります。川崎は、川崎競馬場と川崎競輪場、平塚も競輪場の近くです。

これらの神社では、参拝する人が「日ごろの感謝」よりも、「欲望を達成するための念」が強く出てくるために酸化してしまうのではないかということでした。埼玉は大宮の氷川神社も近くに大宮競輪場がありますが、全国規模の神社なのでかなりかき消されるのではないかということです。

まあ、こういう公営ギャンブル場の近くの神社を電位計測している時点でわかると思いますが、この人はこういう博打が好きなわけで、その帰りに測定したらしいです。

物質的な方法としては先にあげたように炭素質のものを地下に埋設すればいいことはわかっていますが、やはり人間の精神的作用が、地面に対して影響を与えるということが言えるかと思います。

これが正しいとするならば、平和党が唱えていることが正しい事になります。
つまり、「憲法を守れ、戦争を許すな」という考え自体が戦争を呼び起こし、諸外国の不調和に対して、多様性を認めず、彼らに敏感に反応している事がさらなる恨みを呼び起こしています。自己中心主義、自分と反対する意見に対しての卑下、自国のみの中心主義的考えが酸化作用を生み、またさらに悪くなるということです。

こういう昔からある既存の政治対立から早く脱却する事が重要だと私は考えます。

ですので、日本が国内産で全ての経済システムを構築する事、国内の食料・エネルギーの完全自給は、欲望の資本主義を離れ、自然主義経済において可能であることは再三説明していますが、それと同時に日本人が失ってしまっているものも取り戻させねばならないと思います。

安倍政権の一貫した自己満足教育制度をやめて、地域に根ざした心の教育を

2007年04月03日 22時19分40秒 | 法務
教育再生会議は、道徳の時間を教科に格上げするという方針を決めた。

ここにも安倍首相の欠落している、非常に重要な部分がみえてくる。

安倍氏の教育政策、教育基本法の改正、憲法改正などの方針は、つねに形式上、形のものばかりであり、とくに知に偏った方針であることが徐々にわかってきた。

「改革」っぽいものならなんでもいいという民主党病が自民党に伝染し、義理と人情で選挙を勝とうという自民党病が民主党に伝染している昨今では当然のことではある。

つねに、システムの変更、制度を機械的に変更する事、法律に手を加える事自体に、自己満足さをもっているのである。その方法が、愛国的保守精神であれ、左翼的日教組寄りであるなどという、古来からの無益な論争以前の問題がある。

つまり、彼はさほどの保守政治家でもなく、ただロボットとして回りに動かされているにすぎない。それでもかまわないと思うが、こうした人間が教育をいじくると、ますますひどくなる。ただ単に安倍カラーを出したいというだけの自己中心的なものである。

教育再生会議のこのたびの方針は、児童・生徒の道徳心を、他の教科と同様に成績の対象とするものとしている。今までは、通信簿の対象ではなかったが、これが法案として通れば、成績となる。

徳をマニュアル化したならば、形だけの心の教育がなされる。まさに安倍首相の教育政策の方針と同じ。

何日か前に、「世にも奇妙な物語」で永作博美演じる教師が、偏差値ではなくてクラスの雰囲気を図る「雰差値」によって、教師の成績、生徒の進学が決まるという実に奇妙なドラマをやっていた。
このため、教師も生徒も、形だけクラスの和をはかる。だが、心の中身はなんでもない。ただ進学に有利であるために、仲良しを演じるだけであることが最終的にはわかる。。。という話。

心もなく、ただ単に道徳というものですら、数値化したがる安倍首相にとっては、道徳を成績の対象にするという安易な考えを思いつくだろう。まさに想定内の政策である。結果、生まれる事は「世にも奇妙な物語」と同じになろう。

この安倍内閣の教育改革、具体的には戦前の教育的なるもの(私はそうも思わないが)について、絶賛する人というのは、形上のものを喜んでおり、またこれに反対する共産・社民的な政治勢力も形上嫌っているのである。

したがってかつての思想にとりつかれている両者の戦いであり、われわれはこうした、「いつまでも冷戦をひきずる」化石のような人たちとは、きっぱりとケジメをつけて、切り替えていかなくてはならないと思う。

こうしたかつての政治思想が形骸化してしまっているので、イメージだけの賛否が先行する。

私が中学時代の国語の先生は、国語の授業でも道徳の授業でも、まさに道徳を教えていた。文法やら漢字やらの学習はおきざりにされて、読解・要約などの機械的なものも後回しにされて、この文章に書いてある作家の気持ち、登場人物の心の中や、このときに人間はどのように対処すべきかなどが重視されていて、受験勉強に全く役に立たないような授業ばかりだった。その授業たるや、すざまじいもので、はじめのうちはみなシラーっとしているのだが、そのうちに生徒は、その文章に感動したりする人間も出てくる。

実社会で、あるいはそのときの学級生活での人間のありかた、自然への接し方、が重要であり、なんでも法律や制度を変えていくことで、教育荒廃を救うなどと勘違いし、これらをいじくることで教育改革をやったのだと自己満足したがる権威主義者が非常に多く感じる。

どのように形状を変えても、現場の人間がよくないかぎり、どうにもならない。そして、この現場の人間を変えていくのは、法律でも制度でもなく、人々の相互間の思いやりからでしょう。

そうした心もなく、形だけを議論していくことで、自分は頭がいいのだと思い上がる知識馬鹿が多すぎる。教育再生会議はまさにそのようなメンバーによって構成されているといってもよい。これは教育再生会議を、知的側面から非難する左派勢力においても同様だ。

したがって平和党は、文部科学省の解体を訴え、地域によるコミュニティからの教育再生をはかるために市町村単位での教育委員会の独自性、自立性、地域での自発性を重要視し、これらの連携をなすための自然通貨・地域通貨が重要であるとしている。


善悪の基準やその出所

2006年11月20日 20時04分23秒 | 法務
 
 
 
教育で他人に、一つの考えを植え付けたい根底には「もしかしたら自分は生き残れないのではないか?」という恐怖から、自分に反対する人間、自分の考えを認めて欲しいという欲望が生まれるのだと私も思います。

まさしく間違いに対する恐れから、素直になれない人がいるのも同感です。全く異論はありませんが、ただし、教育基本法改正や共謀罪の恐怖を言うと、必ず偏見がなされます。そして、こうした反対者の意見を言っている人というのは、なぜ支持が全国的に支持が広がらないかというと、その否定ぶりに皆がひくからではないでしょうか。そして、ムキになって賛美している人間も、その騒ぎ方に対して、一般的な日本人は熱狂的にはなりません。こうしたことに懸命になっている人というのは、一般的な市民ではなくて、特殊な方々ばかりです。

ほとんどの人が「う~ん、まあ賛成かなぁ」「う~ん、まあ反対かなぁ」というのが多いかと思います。日本人の性質は、こうした対立を好まない傾向にあるからかと思います。甘党さんが左派思考だと言っているのではなくて、そのような目が世の中にはあるからということです。

間違った判断をすることも悪いことではありません。だから、彼らの二極対立というのは悪いことではありません。ただし、一方の極にいる人というのは、中には相手の極を絶対に認めないために、儀礼に欠けたり、人間性の欠如がみられると思っています。自分の存在を常に確認したいがゆえに、他人の考えをつぶしたいというのがあるかもしれません。これが善悪中毒なのだと思います。

教育基本法改正や共謀罪が、日本を戦争に導くのだという恐怖を扇動する政党は、すでにありますし、そうしたところが、その指摘を続けていけばいいのだと考えています。そして、教育基本法改正や共謀罪が国をよくするのだという考えの政党もあり、彼らも頑張ればいいのです。彼らが存在していないと、平和党はなりたたないわけです。

この二極対立のものを越えた政治思想というのもあっていいのだと思います。その政治思想が平和党の理念です。

彼らの二極対立は、同次元の数直線で争われるわけです。だから政党・政治家・評論家・運動家をみつけては、この二つのどちらかの立場なのか、必ず聞きたがります。彼らの考えは、この数直線の中でしかないからです。しかし、私が言いたいのは、甘党さんの本質と同じで、「人々を分断する善悪の基準やその出所に人々が目を向けて貰える」ことなのです。

これを新しい基準と言ったつもりなのですし、甘党さんがそういう考えであろうと思っていますから、たぶん誤解はないと思うのですが、いかがでしょう。


政府はアニメに手をだすな

2006年11月12日 17時10分10秒 | 法務

麻生外相の諮問機関である海外交流審議会は、漫画やアニメなどの「ポップカルチャー」を外交に活用することを提言した報告書をまとめた。

 報告書は「ポップカルチャーは海外の若者に圧倒的な浸透力を有している」と高く評価し、関連産業の海外進出を支援するために、〈1〉各国に海賊版対策を講じるように働きかける〈2〉イベント開催など海外での広報活動を強化する――などを挙げた。

 日本の作品を海外に紹介する「アニメ文化大使」、外国の漫画家を対象にした「日本マンガ大賞」を創設することを盛り込み、こうした取り組みを官民で連携して進めるため、関係省庁や関連産業などでつくる「ポップカルチャー勉強会」の設立も提唱している。

政府のセンスってのは、全くないから、なんらかの文化政策を行うと必ず失敗する。文化というものは民間の中から湧き出てくるものだから、その湧き出たものを政府でなんとか国際社会で認められようなんてするととんでもないめにあうと思います。

日本のせっかくの文化なんだから、政府の介入なく自由にやらせておけばよいのに。

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0~2歳児童手当増額は先送り

2006年11月12日 17時02分07秒 | 法務

政府・与党は11日、新しい少子化対策の柱の一つとしていた乳幼児(0~2歳)がいる世帯への児童手当の増額について、予定していた来年度からの実施を見送る方向で調整に入った。

うーむ、うちには0歳と2歳がいるのだが、来年になると2歳は3歳になってしまう。またもう一人作らないと。。。

これらの少子化対策の財源としては、数千億円の財源が必要。安倍首相が経済成長を重視する中で、増税などによる財源確保が困難となったためだ。

経済成長なんて、今後永遠に続くと思っていること自体、破滅への道を進んでいると思う。財源確保も永遠にありえないだろう。こうした、経済の土台をマイナス利子に変えない限りは、絶対に不可能であることがいずれ証明されると思う。

今のところ、来年末の税制の抜本改革で財源を確保した上で、08年度以降に児童手当の実施を目指す方針だというが、できるとは思えない。やるとしたら、何か別の大きなリスクを負うような気がする。

現行の児童手当は、0歳から小学6年生までの子供がいる世帯を対象に、原則として1人当たり月5000円(第3子以降は1万円)を支給している。子どもが三人いると2万円、四人いると3万円とのこと。しかし、そんなに子どもを産めないから困っているのである。元を正せば、子どもを生んでも経済負担のない社会制度を作ればよいのに、以前、政策とはバラマキであるとの考えが根付いている。

平和党の提案は、地域・家族が強くなれる経済制度である。今の社会は資本が強い、企業が強い、あるいは逆に政府主導の育児制度だ。

これを民間の力で改革していく。それが自然主義経済なのです。

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いじめ自殺を予告する手紙を読んだ安倍首相

2006年11月11日 09時21分07秒 | 法務

安倍晋三首相は10日夜、いじめ自殺を予告する手紙が相次いで文部科学省に届いた問題で、いじめに悩む子どもたちに「君たちは決して独りじゃない」と、自殺を思いとどまるよう呼び掛けた。一方、いじめを行っている子どもたちには「いじめはいかに恥ずかしいか、よく考えてもらいたい」と戒めた。首相官邸で記者団に答えた。

安倍首相は真面目ではあるが、このようないじめ自殺問題に取り組むには、その能力は評価できるものではない。「子どもたちを独り」に追い込んだのは、政府をはじめとした社会である。現代社会は、「いじめがいかに恥ずかしい事であるか」ということが示される社会を作らずに、口で言っていても問題は解決しない。今は、まさに「いじめがあっても恥ではない。むしろ面白い」というものを作り出している。文化もそうだ。

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いかにも自分たちが教育問題に取り組んでいるのだという自己満足のためだけの教育基本法改正問題。これは憲法においても同じである。憲法を改正しようとしまいと、教育基本法を改正しようとしまいと、これは為政者の自己満足でしかなく、実態社会に影響しないのである。すべきことは、現場での改革である。しかし、教育を論じる方々は、議論そのものに満足を得ようとしており、子どものことなど考えていない。思想と思想が対立するのも、教育腐敗を招いているのだ。

 

現場の改革、それは地域・家庭のあり方を変革することにある。テレビやインターネットという、直接人間同士が触れ合わないものの発達は長所もあるが、短所も生み出している。こうした通信分野の発展とともに、人間同士のコミュニティ再構築が最大の教育改革である。平和党の提唱する自然主義経済は、資本の力を殺ぎ落とし、政府の力なくして教育改革が可能である。これが現場の改革につながるようになる。

ところで、このブログ

みのもんた、ダウンタウン浜田を“いじめの元凶”と批判 

には、いじめを助長してきた文化社会がある。平和党の楽天ブログ担当者から見聞させていただいたのでぜひ皆さんにご覧頂きたい。

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教育基本法は与党単独採決も

2006年11月11日 09時04分57秒 | 法務

 自民党の二階俊博国対委員長は10日夜、那覇市で講演し、教育基本法改正案について「国会の会期もある。いつまでも慎重審議で(野党に)引きずられていたら、政治の生産性が上がらない」と述べ、与党単独での採決も辞さない考えを示した。また、二階氏は、野党がタウンミーティングでの「やらせ質問」などの真相解明が先決としていることに対し「教育基本法を60年ぶりに改定しようとしている。それに比べたらやらせがあったなんてつまらないことだ」と語った。

民主党は「やらせ質問の問題があるから、教育基本法改正の審議に応じられない。」「防衛庁の不正経理問題があるから、省昇格問題の審議に応じられない」・・・・このような理屈というのが理解できない。じゃあ僕も「最近、悪い世の中ばかりを報道しているから新聞代は払えない」とでも言ってみるか。

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