平和党http://heiwatou.jp
私は自分の偏見であるとは思って入るが、秘書上がりの政治家は信用しない。
国会議員や地方議員は国民や住民の代表であるべきだ。けっして政治家の代表者ではない。
秘書出身者は、政治経験がある。したがって政策の勉強にもなろう。一般の民間企業に
つとめていれば数分野でしか政策分野に関わることはできないから、秘書にとって学ぶことは
多くあろう。また、何も知らないで選挙に出馬するよりも経験しておいた方が楽である。
しかし、そのメリットを踏まえても、私は秘書出身者について疑義の念を抱く。
とにかくずるがしこいことを覚えてしまう。一般社会では、約束事は守られるのが当然だが、
政治家のソバにいた秘書らは、約束事は破って当たり前だといわんばかりである。
また、強いものには弱く、弱いものには強い。
秘書として一生終えようという人は別に問題ないが、秘書から政治家になる人間には
ろくなやつがいないと思う。
そして、政治のための政治をしてしまうのである。このため、平和党が提唱する「常識からの逸脱」は全くといっていいほど不可能である。
既存の議会の常識、政治家の慣行を踏襲するため改革者は出てこない。
これは自民党ばかりの話ではない。民主党でもしかりである。
民主党の場合はいかにも改革者であるふりをするのが上手であるが、その実態はまったくもって
自民党の旧態依然とほとんど変わらない場合が多い。
私は、永田町にどっぷり浸かった秘書に政治家の資格はないと思う。そして、国民から本当に選出された人間が政治家になるべきであると考える。
かつて社会学者のマックスウェーバーは『職業としての政治』の中で、政治家になれるための
職業は、資産家、経営者、労働組合、公務員などをあげ、これ以外の場合は
政党職員、政治家秘書、ジャーナリストくらいしかないと述べていた。
松下幸之助氏は、このため松下政経塾なるものを作ったが、この塾出身者は勉強はできるかもしれないが形ばかりで、魂の入ったものは皆無であると私は思っている。松下政経塾では学費を塾生が払うのではなく、生活費を政経塾から与えられているのである。それは松下財力によってである。
あるとき、某衆議院議員が松下政経塾に
講師にきたことがあった。その人は、さんざん経済的な労苦を経て、国会議員となった人である。ちょっと記憶が間違っているかもしれないが、某議員から聞いた話ではこうだ。
某議員は「君たちはこうして机の上で勉強
しているが、実体験を何も知らずに学んでいる」と述べたところ、ある塾生は「私たちは塾から給料をもらっているが、実習として販売の営業を経験したり、風呂無アパートで生活したり、社会経験も学んでいます。机上の勉強だけをしているわけではありません」と答えた。すると某議員は「実際に死に物狂いで政治家になろうというものは、自らの生活をなげうって、明日死に行くかもしれない状況で戦っている。君たちがいくら同じ環境におかれようとも、生活を保障されているようでは根性の入り方も違う。こちらは生きるか死ぬかの中、国を考え仕事をしているのだ」と言ったそうだ。
まさしく、その通りである。経済が安定していれば、生死を賭けて世のため人のためには働こうとはしないだろう。
松下幸之助氏は、マックスウェーバーが言ったような職業以外でも、なんとか政治家を生み出せるようにと考えた思いやりからの発想であったかもしれないが、輩出された松下塾出身者を見ているとこれは間違っていたのだということがよくわかる。
政治家になるには、より以上の努力が必要なのであるが、それをお金
に求めると結局は、経済優先を助長することとなってくるのである。
これをわが党は、お金なしでも政治活動ができるようにする。
これは政権獲得以前の状態でできなければならない。合法的に政権を奪うには、当然選挙での議席獲得が求められる。ここで経済的に束縛されるのは、公職選挙法で規定されている供託金のみである。それ以外の膨大な選挙資金、政治活動資金について「お金」以外の方法で調達するのである。自然通貨を民間の中で作り出していくこととなり、その方法自体が政治活動でもあるのだ。