平和党の政策は、頭がガチガチに既存の学問で染まっている人には、大きな誤解を招くことが多々あります。
したがって、部分的にみると「平和党は右翼思想である」「平和党は左翼思想である」との評価がなされます。あるいは右と左の部分をごちゃごちゃに入れた矛盾思想であると。
部分をみると、「それは社会主義じゃないか」とか「それは民族主義じゃないか」となるわけです。
それは今まで植え付けられたマインドコントロール下で人々が判断しているからです。
それは今まで植え付けられたマインドコントロール下で人々が判断しているからです。
平和党の政治理念・基本政策は、既存の政治学のどこにもあてはまらず、全く新たな方法を提唱しているからです。
平和党公式ブログにこのようなコメントがありました。
「エネルギーと食料を100%自給するって、徹底管理経済を追及することでしよう、相反することを同時に主張するとは・・・・、ハハハ大笑い。」
このような言われ方は幾度もなされております。
これなどは典型的な発言例です。
ちなみに質問に答えるのならば、食料は資本の力よりも弱いので、民間の経済では効率が悪く、政府の管理によっても効率は悪くなるのです。この資本の力をなくすのが自然主義経済です。
これなどは典型的な発言例です。
ちなみに質問に答えるのならば、食料は資本の力よりも弱いので、民間の経済では効率が悪く、政府の管理によっても効率は悪くなるのです。この資本の力をなくすのが自然主義経済です。
つまり人々の頭の中には、大きな政府と小さな政府、国際軍事貢献に積極的と消極的・・・・という、よく政治学の教科書に座標軸が出てきますが、ほとんどがあのような図の頭の中身になっているわけです。
ここに今の政治の発想力の限界があり、今日政治・経済が行き詰まっているのもこうした貧困なる座標の次元が原因です。
ここに今の政治の発想力の限界があり、今日政治・経済が行き詰まっているのもこうした貧困なる座標の次元が原因です。
X軸、Y軸から抜け出し、Z軸を提唱しているのが自然主義経済です。
Z軸は、並みの人間では認識できません。次元が一段高いところから物事をみることができる人というのは限られています。限られた人だけが時代の変革期に先進的な役割を果たし、今までのものにしがみつきたい人は、変革のあとにあとからついてきます。歴史をみるといつもそうです。
次元の高さについてわかりやすく説明しますと。
数学でいうと、まず0次元というのは点です。
1次元というのは、点と点を結んだ直線です。メートルで表されます。
2次元というのは、線と線を囲んだ平面です。平方メートルで表される2乗の世界です。
3次元というのは、面と面を包んだ立体です。立法メートルで表される3乗の世界です。
1次元というのは、点と点を結んだ直線です。メートルで表されます。
2次元というのは、線と線を囲んだ平面です。平方メートルで表される2乗の世界です。
3次元というのは、面と面を包んだ立体です。立法メートルで表される3乗の世界です。
0次元から1次元は認識できません。1次元から2次元を認識することもできません。
しかし、3次元からは0次元も1次元も2次元も認識できます。
しかし、3次元からは0次元も1次元も2次元も認識できます。
たとえば蟻は2次元に動きます。だから蟻が歩いているところにボールペンでピューッと線を書いてやって、その進行方向を阻止してやります。そうすると蟻は、そこがその平面の限界であると思って、引き返すわけです。
ただし何回もやっていると蟻は、臭いに敏感であり、そこが鉛筆の線であることに気付くので、何度もだませません。私は小学生のときにこれをよくやっていました。
次になめくじのナメ夫とナメ子の二匹を板の上におきます。
我々三次元の人間はナメ夫をひょいと持ち上げて、ナメ子のうしろにもっていくことができます。
そうするとナメ子からすると、ナメ夫は見えなくなり、一瞬して移動したと勘違いします。テレポーテーションしたかのように認識します。
平面の世界には高さの認識がないために、このようなことが起きます。
我々三次元の人間はナメ夫をひょいと持ち上げて、ナメ子のうしろにもっていくことができます。
そうするとナメ子からすると、ナメ夫は見えなくなり、一瞬して移動したと勘違いします。テレポーテーションしたかのように認識します。
平面の世界には高さの認識がないために、このようなことが起きます。
同じように3次元に住む人間は4次元への認識ができません。ただし想像することはできます。
このように現代の政治・経済はまさに次元が同じところでグルグルと、民間による経済・政府による経済をどっちがいいのかと迷走しているわけです。ところがここに限界がきています。資本主義の限界です。
「資本主義の限界ということは、社会主義になるのか」と考えがちです。こう考えてしまうところに資本主義の限界、次元の限界があり、冒頭のような発想を持つ人が出てくるのです。
だから多くの人々が、ここのコメント欄でいろいろな議論をしましたけれども、「それならばこうなのか」となって、だいたいが既存の学問の方程式どおりになっているのです。だから、何を討論してきても、その人の発想はお釈迦様の手のひらの中よりも簡単です。すでに今までよく言われてきたお手本どおりの疑問と、お手本どおりの質問しかしてこないからです。
ただしこれらをマニュアル化して党員に配る事は、この自然主義経済の改革の認識が甘くなるからしておりません。自分で考える事をしなくなったものは改革者としての資格がなくなるからです。
なぜ平和党などとわざわざ独立した政党として作ったかがおわかりいただけると思います。
よくあるミニ政党は、既成政党のごく一部の政策を拡大させただけの二番煎じばかりです。
よくあるミニ政党は、既成政党のごく一部の政策を拡大させただけの二番煎じばかりです。
今までにない方法、自然主義経済と善悪中毒からの脱却を提案するには、これら既成政党などで実行することは不可能であり、彼らもまた真似できないからです。それは失うものが多いだろうと彼らの場合は認識するからです。
しかしながら、彼らが今持っている発想こそ失うものがかなり大きいということに気付くべきでしょう。