おおさか佳巨 街頭演説のブログ

減価する地域通貨ですべての改革

誰も既存の政治から脱却できていない

2007年03月29日 23時47分41秒 | Weblog
平和党の政策は、頭がガチガチに既存の学問で染まっている人には、大きな誤解を招くことが多々あります。

したがって、部分的にみると「平和党は右翼思想である」「平和党は左翼思想である」との評価がなされます。あるいは右と左の部分をごちゃごちゃに入れた矛盾思想であると。

部分をみると、「それは社会主義じゃないか」とか「それは民族主義じゃないか」となるわけです。
それは今まで植え付けられたマインドコントロール下で人々が判断しているからです。

平和党の政治理念・基本政策は、既存の政治学のどこにもあてはまらず、全く新たな方法を提唱しているからです。

平和党公式ブログにこのようなコメントがありました。

「エネルギーと食料を100%自給するって、徹底管理経済を追及することでしよう、相反することを同時に主張するとは・・・・、ハハハ大笑い。」

このような言われ方は幾度もなされております。
これなどは典型的な発言例です。
ちなみに質問に答えるのならば、食料は資本の力よりも弱いので、民間の経済では効率が悪く、政府の管理によっても効率は悪くなるのです。この資本の力をなくすのが自然主義経済です。

つまり人々の頭の中には、大きな政府と小さな政府、国際軍事貢献に積極的と消極的・・・・という、よく政治学の教科書に座標軸が出てきますが、ほとんどがあのような図の頭の中身になっているわけです。
ここに今の政治の発想力の限界があり、今日政治・経済が行き詰まっているのもこうした貧困なる座標の次元が原因です。

X軸、Y軸から抜け出し、Z軸を提唱しているのが自然主義経済です。

Z軸は、並みの人間では認識できません。次元が一段高いところから物事をみることができる人というのは限られています。限られた人だけが時代の変革期に先進的な役割を果たし、今までのものにしがみつきたい人は、変革のあとにあとからついてきます。歴史をみるといつもそうです。

次元の高さについてわかりやすく説明しますと。

数学でいうと、まず0次元というのは点です。
1次元というのは、点と点を結んだ直線です。メートルで表されます。
2次元というのは、線と線を囲んだ平面です。平方メートルで表される2乗の世界です。
3次元というのは、面と面を包んだ立体です。立法メートルで表される3乗の世界です。

0次元から1次元は認識できません。1次元から2次元を認識することもできません。
しかし、3次元からは0次元も1次元も2次元も認識できます。

たとえば蟻は2次元に動きます。だから蟻が歩いているところにボールペンでピューッと線を書いてやって、その進行方向を阻止してやります。そうすると蟻は、そこがその平面の限界であると思って、引き返すわけです。

ただし何回もやっていると蟻は、臭いに敏感であり、そこが鉛筆の線であることに気付くので、何度もだませません。私は小学生のときにこれをよくやっていました。

次になめくじのナメ夫とナメ子の二匹を板の上におきます。
我々三次元の人間はナメ夫をひょいと持ち上げて、ナメ子のうしろにもっていくことができます。
そうするとナメ子からすると、ナメ夫は見えなくなり、一瞬して移動したと勘違いします。テレポーテーションしたかのように認識します。
平面の世界には高さの認識がないために、このようなことが起きます。

同じように3次元に住む人間は4次元への認識ができません。ただし想像することはできます。

このように現代の政治・経済はまさに次元が同じところでグルグルと、民間による経済・政府による経済をどっちがいいのかと迷走しているわけです。ところがここに限界がきています。資本主義の限界です。

「資本主義の限界ということは、社会主義になるのか」と考えがちです。こう考えてしまうところに資本主義の限界、次元の限界があり、冒頭のような発想を持つ人が出てくるのです。

だから多くの人々が、ここのコメント欄でいろいろな議論をしましたけれども、「それならばこうなのか」となって、だいたいが既存の学問の方程式どおりになっているのです。だから、何を討論してきても、その人の発想はお釈迦様の手のひらの中よりも簡単です。すでに今までよく言われてきたお手本どおりの疑問と、お手本どおりの質問しかしてこないからです。

ただしこれらをマニュアル化して党員に配る事は、この自然主義経済の改革の認識が甘くなるからしておりません。自分で考える事をしなくなったものは改革者としての資格がなくなるからです。

なぜ平和党などとわざわざ独立した政党として作ったかがおわかりいただけると思います。
よくあるミニ政党は、既成政党のごく一部の政策を拡大させただけの二番煎じばかりです。

今までにない方法、自然主義経済と善悪中毒からの脱却を提案するには、これら既成政党などで実行することは不可能であり、彼らもまた真似できないからです。それは失うものが多いだろうと彼らの場合は認識するからです。

しかしながら、彼らが今持っている発想こそ失うものがかなり大きいということに気付くべきでしょう。


議員報酬はタダにせよ

2007年03月29日 23時46分33秒 | Weblog

上記は練馬区議会における議員報酬を規定した条例。

第二条に議員報酬額が決められています。

中野区議会の場合は、


千代田区議会の場合は、


このように各区の条例で定められています。

国の法律である地方自治法には、「議員に議員報酬を払え」とはなっておらず、自治体レベルでの議員報酬の無料化は可能なわけです。

ちなみにほとんどの人が、議員報酬のことを「給与」と呼んでいる人が多いですが、これは違います。

区長・市長あるいは助役、収入役、教育長というのは行政機関の人ですので常勤です。したがって給与になりますが、議会の議員は常勤ではなくて、単に区民の代表として議会での活動を求められているわけで、本業を持っている人もいるので、その本業の時間で得られるだろうと思われる費用を弁償するとの意味で使いますので議員報酬なわけです。

だから無報酬化にあたっては、ここの呼び名が非常に重要なのです。議員に与えられるのは給料ではなくて一時的な議員報酬であるので、議員は責任を感じないのです。本会議や委員会に出ても出なくてもいいという考えになり、毎月議員報酬をもらっていながら、本会議出席料として一回に尽き6000円もらうなどわけのわからないことになるのです。

今はどうなっているか知りませんが、中野区議会では、議員が区内のどこに視察にでかけようとも5000円の交通費が支給されます。この根拠はなにかというと、中野区は南北に長いのですが、北端から南端まで深夜にタクシーに乗った場合にかかる料金が元となっています。どんなに近いところへ移動しようとも5000円程支給されるわけです。

それだけの金額を都民が、費用を弁償する必要があるのだろうかと私は思うのです。

したがって、当平和党ブログでも再三にわたり申し上げているのか、この「自治体議会の議員報酬無償化」です。

http://blogs.yahoo.co.jp/seitouheiwatou/15994250.html
では、生活のために議員になりたい人が文句を言って来ました。
こういう候補者はいてもいいと思いますが、平和党はこういう候補者を出さないということを説明させていただきました。

議員報酬をなしにすれば、自分の就職のために地域活動する人はいなくなるでしょう。議員は、議員報酬という4年間の安定した収入を得ているために、都民の気持ちがわからない人が多いです。

それに議員報酬がないほうが、本当に自分の地域のためにやろうと思う人だけが立候補するようになります。町内会だって、青年会だって、みなボランティアじゃないですか。なぜ議会だけが、多額の報酬を得る必要がありましょうか。

いま、政務調査費がどうのとか、税金の無駄遣いがどうのとか、そのような細かいところを叩いている人がいますが、これはもっと大本の問題です。

各議会において、「議員報酬をタダにする」と公約に掲げる候補者を支持していただきたいと思います。
これらの議員で過半数を占める議会になれば条例の改正は可能です。

ただし過半数に達しなければ、その条例は作れません。その場合は、その自治体で条例案の直接請求運動をおこしましょう。

議員報酬をタダにせよと言った候補者が一人当選しても、その議員は議員報酬を拒めません。議員報酬をもらわないということは、寄付行為にあたるからです。公職選挙法では、その自治体やその選挙区の自治体に対して政治家は寄付できないことになっています。

したがってこうしたことを公約に掲げるまともな候補者が大量に必要なわけです。しかしながら、こうした公約を掲げる候補者というのは、なかなかいません。やはりみな、自分の生活のために立候補しようという人が多いのでしょうね。

平和党公式ホームページ
 
 

つまらない千葉県議選挙

2007年03月29日 23時42分37秒 | 経済産業
いよいよ明日に告示される千葉県議会議員選挙。



千葉、船橋と並ぶ大きな定数7の選挙区である松戸。



ここはどうやら無投票になりそう。



四年前の千葉市花見川区選挙区で無投票になったことがあるが、今回はそれ以来。



日本全国では、県議会無用論も聞かれる。



国会は国の仕事、市町村は身近な仕事であるが、都道府県・・・しかも知事ではなくて、議会というのは非常にいらないものになってきている。



去年11月の松戸市議会議員選挙では、無所属・新人の半分は歯が立たず、落選。



松戸は都市部でありながら、かなり地元に食い込まないと難しい選挙を迫られるようで、誰もが尻込みするようになったのでは。



とにかく県議会議員ほど、県民に実質的にありがたがられるものがないからだろう。これは都議会も同じ。明日から都議補選が行われるが、都知事選挙と投票日が同じであるためにかろうじて、投票率は通常の都議選よりも上がるだろう。



都議も県議も、ただ単に偉そうというだけで、実際に具体的な地方自治のことを何かやってもらおうとたのむときは、市議が多い。





マツモトキヨシの創業者は、小学校のころ、世の中で校長先生が偉いと思っていたが、その校長先生が県議にふかぶかと頭を下げているのを見て、自分も千葉県議会議員になろうとしたという。



そして、東葛飾郡の小金町議会議員(現在の松戸市議会議員に相当)、そして現在の松戸選挙区に相当するところから千葉県議会議員に当選した。



千葉県議会議長になった後は、松戸市長となって「すぐやる課」を作って、自らの市長給与は無給で働いた。



このように松戸は偉大な県議・市長を出しながら、誰も育っていない。



あげくのはてに、その松本家の世襲代議士は不祥事をおこすなど、夢がなくなった現状である。



このままでいくと、松戸選挙区は無投票になる。



自然主義経済という夢を持った人よ、千葉県民であるのならば、銚子に住んでいようと、南房総に住んでいようと、松戸の選挙区から立候補する権利はある。



誰かいでよ!!!!


http://heiwatou.com
平和党公式ホームページ

東京都知事になるには一定の法則がある

2007年03月25日 21時54分24秒 | 安全保障
安井誠一郎氏は、戦後復興に尽力した都知事。茨城県・神奈川県で警視、富山県・兵庫県・福島県の警察部長、朝鮮総督の秘書官・総督府専売局長など、警察・軍事に関わってきた経験を生かした都政をなしている。
東龍太郎氏は、スポーツ医学の権威として知られ、東京オリンピックの誘致に尽力した。日本体育協会会長・JOC委員長を務めるなど国際スポーツ界に通じていた。スポーツ選手志向の政治家であった。

このあたりまでは、体育派の都政。

美濃部亮吉氏は、典型的な学者であり、マルクス主義者であった。都知事になるまでは、経済評論家としてテレビで活躍。東都政までは、政策面でスポーツ施設などが図られたが、福祉などの面ではおざなりであり、社会主義者の美濃部氏によって、老人医療費無料化、高齢住民の都営交通無料化、公害対策で企業に厳しい条件を課した。歩行者天国を設置して、大衆文化の振興がなされ、都立高校の改革を実施。

つまり、文化・教育・知識部分における都政がなされた。

鈴木俊一氏は、これら福祉の加担による財政悪化を立て直すために現れた。まず財政赤字の解消として、老人医療費無料の廃止など福祉の削減や職員給与引き下げなどの人件費削減などを行い、東京都の経理に徹した。2期目は都政を黒字に転化させる。
3期目以降、都庁の移転、東京国際フォーラム、江戸東京博物館、東京臨海副都心の開発に代表される大型プロジェクトでバブル経済におどる。ところが、支持母体の利権政党である自民党が、リクルート事件・佐川急便事件などで信頼を失う。

ここまではお金に徹した守銭奴都政がなされるが、頂点に達すると都民の反乱を招く。そこで誕生したのが青島幸男氏。

青島幸男氏は、都市博覧会中止を公約に掲げて当選。企業・都庁の多くの抵抗を受けながら中止を実施。その後、破綻寸前の2つの信用組合に税金を投入しないと公約したが、結局反乱によって生まれた「コンセプトのない都政」は、以後官僚政治に飲み込まれて、青島的な都政運営ではなくなる。本人もそれを察知してか一期で引退。

このような一時的な感情によって誕生した、市民運動的な怒りは一瞬にして消える。無秩序的なる彼らによっての利権政治への抵抗は、次に秩序的なる改革を求める。それはリーダーシップと冒険精神・スポーツ精神である。そこで誕生したのが石原慎太郎氏である。

石原慎太郎氏は、ベトナム戦争のときに現地でジャーナリストとしての取材活動から政治の世界に入ったとされる。職業は作家であるが、性格は軍人志向。戸塚ヨットスクールの教育方針を支持し、銀行への外形標準課税・ディーゼル車の規制など、守銭奴都政への対応は厳しく、歌舞伎町での規制強化にも乗り出し、性秩序に対しても厳しい姿勢をとる倫理秩序重視型をとるところなどにその軍人志向が現れている。ジェンダーフリー・いきすぎた性教育などに対しても非難の姿勢。

このように、武力・スポーツ・冒険志向→知識人・文化人志向→経済・富への志向→権力・金の腐敗に対しての反乱→武力・スポーツ・冒険志向
というように繰り返していくのが政治の法則である。
これは都政に限らず、国政にも、他の自治体にもあてはまる。

浅野史郎氏は、青島タイプの候補者であり、前の時代に必要であったが、今必要とされるものではない。浅野氏が当選するためには、今やっている青島型のような政策公約の提案をやめて、知識人タイプの公約に切り替えることである。

しかしながら軍人志向の都政というのは、まだしばらく続くと思う。なぜなら石原都政の軍人志向というのは、旧軍人志向であるからだ。これから必要なのは新しい軍人志向である。

それは、平和に向けた冒険精神や宇宙への開拓、経済優先社会の中で壊された、家族・地域・地球への愛を肉体で表していく事だからである。


既成政党に投票する必要はないという理由

2007年03月25日 21時53分32秒 | Weblog
渡部恒三民主党最高顧問は、「必ずしも全ての自治体で首長を擁立する必要はない」と言っていた。
その理由として、それぞれの自治体のことであり、政党が首をつっこんでなにがなんでも民主党が候補者を出さなくてはいけないことはないという。つまり各地のふるさとなのだからということ。

もっともらしい言葉だが、それならば衆議院にも参議院にも全ての選挙区で候補者を擁立する必要もない。なぜなら日本というふるさとだから、その論法で行けば国にも、国民生活のための政党対立を作ってはならない。

どうして国政には全ての選挙区を埋めなければならないか。それは民主党が政権をほしいからである。それ以上の理由はない。ただしそんなことはいえないので、大義名分上、自民党とは違うなんらかの政策を無理にでも作らなければならない。なにしろ、実質上は政策でどこが違うというわけでもないからだ。資本主義の中でちょこまかと改革していくという方針にはなんら変わりない。こんにちでは日本共産党ですら、資本主義の中で改革すると言っている。

地方の場合はもっとその色彩が濃くなるため、民主党の必要性が存在しない。中央が二大政党だからなんとか無理して、小沢一郎代表の意向により対立候補を立てようとしてみたが、無理だったのでいいわけさがしに大変だ。

こうしてみるに、だんだんと民主党というものがいらない理由が見えてきた。自民党と同じような政党がもう一つあるだけで、個人的な感情のみによって選択肢があるだけだからだ。

夏の参議院選挙でこの「自民もいらない、民主もいらない」となった場合、第三党である公明党が選ばれるのだろうか。公明党は自民党の補完政党であるからそれはないはずだが、国民は自民・民主を目くそ鼻くそとみており、これによって投票にいかない場合は公明党の躍進が予想される。12年前の参議院選挙のときも、統一地方選挙が終了して三ヶ月がたち、選挙疲れを起こした全国の自治体議員は参議院選挙で動いてくれないために、組織型政党である「公明」の新進党と共産党が議席を増やしている。毎回、亥年の選挙はこうなるのが慣例。

とくに都議会の選挙では思うのだが、都議選では、われわれ都民は共産党以外のどの政党の議員に投票しようにも、いずれの議員も、都議会にいけば知事提出議案には全て賛成している。わざわざ政党をわけている必要性がどこにあろうか。単なる政党自身のための利益のために政党が分かれているだけであり、都民生活にとってその投票行動は全く無価値だということを示している。

都議会民主党にいたっては、これまで石原知事の提出している議案に全て賛同しておきながら、自分たちの居場所発掘のためにわざわざ民主党支援の都知事候補を必要とするなど、都民とは全く関係のない、政党のための都政をやっているのである。

これと同じことが国政にも言える。
国政では政府提案の議案には、野党・民主党は反対しているのがほとんどで、都議会とは明らかに違うようであるが、これは自分たちが政権を将来とりたいがゆえに反対しているだけだ。

このまえの国民投票法案でもそうだが、賛成してしまっては野党として、あるいは政権交代のために自分たちの存在価値がなくなるために、「全ての政策についての国民投票にしろ」と、今まで内心でも思っていなかったようなことを無理にでも出して、反対してくる。

逆に公明党は反対したいにも関わらず、与党なので賛成せざるを得ない。

だから、平和党は、これら既成政党を一つの考えに基づいているとみなしている。
それが資本主義経済である。

どのような改革も、資本主義経済であるという。つまりお金がモノよりも強いというこの事実が全ての足を引張っている。プラス利子であることが全ての政策課題を作りつづけている。ここを覆さない限りは、何の改革を提案しても実行不可能なのだ。

ここでは既成政党全てと言っているが、無所属である無党派を名乗る人も政策内容は、既成政党の政治家とさほど変わらないことを言っている。それもまた資本主義の範囲内での改革であるからだ。宮崎県も今のところ順調だが、あれでは一時のブームがすぎれば持たないと思う。


統一地方選挙について

2007年03月25日 21時52分28秒 | Weblog
開始された統一地方選挙。
おおまかに分けて、候補者の政策なり人なりはこのようなタイプに分けられる。

1.これまでどおりの政治を続ける。
利権・談合などの体質はいまだに残る自治体で、その維持を考えているが、そんなことは表向きいえないので、そこそこに「●●町を変える!」とのキャッチフレーズを使用。

2.これまでどおりの政治を打破すると訴えるが内心はそうでもない。
利権・談合などの体質を改善しようとする。その改革方法は、だいたいパターンとして決まっている。それを提案するが、実は本当は1.のタイプであり、選挙対策用に改革派を名乗る。

3.これまでどおりの政治を打破すると訴えるが内心もそのとおり。
提案している内容は2.と同じ。だが、本当にそれが改革だと信じ込んでいる。これは実は利権・談合政治の別の形である事に気付いていない。

以上の3つのタイプによってこの選挙戦は争われていることが多く、ここからの脱却を平和党は提案します。

4.これまでどおりの政治を打破し、内心もそうであるが、方法が違う。
自治体が行き詰まるのは、そのお金の仕組みにある。自治体独自の通貨を発行し、食料とエネルギーの自給自足経済を目指す。議員報酬は無報酬とし、自然通貨によりまかなう。


地球環境問題・・・各知事候補の公約を読んで

2007年03月25日 21時51分40秒 | 財務金融
環境問題の政策を議論し、たとえば衆議院環境委員会の委員会室を一歩その議論を終えたとします。
となりの委員会室では、安全保障委員会が開かれ、どのようにして環境を破壊してでも国民の命を守るかが議論され、またあるものは経済産業委員会で、どのようにして市場を拡大させるべく法案を作るかと議論されます。

文教委員会では教育が議論され、それではとついでの感覚で環境教育をしなければいけないと思い出されたように提案されるくらいのものです。ここに一貫性はありません。

環境、環境と言いながら、別の政策分野であい矛盾する行動をしています。

これは環境問題を言っている市民運動家もほとんどの人が同様です。使い捨てペットボトルでお茶を飲みながら議論されます。電気もガンガン使います。どこかで人間は、経済の仕組みがそうだから仕方がないと考えます。そしてこれらに最大限、配慮したとしても経済の仕組み自体がそうしたことを望んでいないため、こうしたところから一つ一つやむを得ない事情がでてきます。

環境重視を掲げた議員候補者が今日もまた、ビラを大量にゴミに出していました。カラーで刷られているのでリサイクルもしづらい紙です。

彼らはいずれも資本主義経済を肯定し、その前提のもとで環境問題をなんとかしようとしています。
社会民主主義経済も、マルクス経済も、いずれも資本主義であり、大資本というものを動かしたときによって初めて、物事が動く仕組みを利用しているだけです。

ところが、現在の経済の仕組み・法則は、きわめて自然界の法則とは矛盾したことになっています。
ここにメスを入れない限りは、大陸は海に沈むし、人間の体は化学物質や放射能によって、なおいっそう汚染されていくでしょう。

これらを危険なものとしながら、他の政策分野について話すときには、いったんこの考えを頭から離れて物事を言っています。

つまり、平和党のように全てに一貫した理念をもって政策を貫徹しているような政党がどこにもありません。

例えば、安倍内閣は小さな政府によって、天下りなどを規制し、政府の力をなるべく弱くして市場経済を競争の力によって活性化させようとしていますが、年金はまた別の話で政府として行おうとしています。また、環境問題も重視すると言いながら、環境問題を犯すような方法であっても、経済が活性化されれば、その儲けたお金で環境問題の政策を行えばよいと考えています。

人間は自然によって生きているのであり、お金によって生きているのではないのですが、ほとんどの人がこう考えます。
つまり、環境問題をやるにはお金が必要であると。他の政策の問題でも福祉でも教育でもいいのですが、とにかくお金があればなんとかなると。

ところが、ここに大きな根本問題があるのです。このお金自体が、環境を汚すように設定されています。緑の党のようなイデオロギーを抱く政治勢力は、つねに政府に環境問題に対しての施策を求めます。これが大きな間違いである事がわかるでしょうか。つまり、企業がお金を動かして大きな力を持つことと同じことを彼らは言っているのです。そのやり方が、民間であれ、政府であれ、彼らがお金の信者、お金によって何かが変わると思っていることに代わりありません。

したがって、結論から申しますと、現状考えられている政策では地球環境問題の解決も、食料・エネルギーの問題も不可能です。もちろん財政再建も景気のサイクルからの脱却も不可能。

土台たる前提を変えない限りは、何をやってもダメなのです。だから、既成政党も無党派をなのるよくありがちな政策を出している人々も、ある程度の微調整程度の改革で終わってしまうのです。したがって現在、行われている知事選挙での立候補者の中でこれを理解している人は誰一人おらず、どの候補者もおすすめできません。

レジ袋を有料化にして問題が解決するでしょうか。環境税を作ってお金を集めれば地球温暖化対策のための施策ができるかもしれません。これはお金を集めれば、何かができると人類が大きく勘違いを始めている証拠です。当初はなんとか何かに寄与するかもしれませんが、そのときの満足だけで、大元をただしていないので、単なる焼け石に水です。

プラス利子という、自然界の法則に反したお金を集めて行われる結果は、地球に対してのさらなる環境負荷の増加です。しかしながら環境問題に関心のある人も、経済の拡大に関心のある人もいずれも、経済の奴隷となった物事の考え方を知らず知らずにしているのが現状です。

お金のルールを変更しない限り、永久にこうした知識遊び、財政いじりによる政治家の自己満足で終わるでしょう。なにしろ、今の日本の財政赤字を解決する明確な手立てをどの人も出してないのと同様に、地球温暖化に対しての明確な問題解決方法も出されておりません。

これは木を見て森を見ないところから生まれています。

環境、教育、戦争、財政、福祉など木を見ていろいろと政策解決方法を模索してみても、これらの根本的な問題である貨幣や蓄積できる富という森を見ることに気付くことが重要なのです。

平和党の提唱する自然主義経済が対処できないのは、地震を起きないようにすること、宇宙からの物体衝突には対処できない事など自然が直接人類に与える問題だけです。

しかし現代の地球環境問題は、人類がおこなってきたことを要因としているために政治による人為的な経済構造の変革でそれは可能となるのです。


既存の次元からの脱却

2007年03月25日 21時50分50秒 | Weblog
平和党の政策は、頭がガチガチに既存の学問で染まっている人には、大きな誤解を招くことが多々あります。

したがって、部分的にみると「平和党は右翼思想である」「平和党は左翼思想である」との評価がなされます。あるいは右と左の部分をごちゃごちゃに入れた矛盾思想であると。

部分をみると、「それは社会主義じゃないか」とか「それは民族主義じゃないか」となるわけです。
それは今まで植え付けられたマインドコントロール下で人々が判断しているからです。

平和党の政治理念・基本政策は、既存の政治学のどこにもあてはまらず、全く新たな方法を提唱しているからです。

平和党公式ブログにこのようなコメントがありました。

「エネルギーと食料を100%自給するって、徹底管理経済を追及することでしよう、相反することを同時に主張するとは・・・・、ハハハ大笑い。」

このような言われ方は幾度もなされております。
これなどは典型的な発言例です。
ちなみに質問に答えるのならば、食料は資本の力よりも弱いので、民間の経済では効率が悪く、政府の管理によっても効率は悪くなるのです。この資本の力をなくすのが自然主義経済です。

つまり人々の頭の中には、大きな政府と小さな政府、国際軍事貢献に積極的と消極的・・・・という、よく政治学の教科書に座標軸が出てきますが、ほとんどがあのような図の頭の中身になっているわけです。
ここに今の政治の発想力の限界があり、今日政治・経済が行き詰まっているのもこうした貧困なる座標の次元が原因です。

X軸、Y軸から抜け出し、Z軸を提唱しているのが自然主義経済です。

Z軸は、並みの人間では認識できません。次元が一段高いところから物事をみることができる人というのは限られています。限られた人だけが時代の変革期に先進的な役割を果たし、今までのものにしがみつきたい人は、変革のあとにあとからついてきます。歴史をみるといつもそうです。

次元の高さについてわかりやすく説明しますと。

数学でいうと、まず0次元というのは点です。
1次元というのは、点と点を結んだ直線です。メートルで表されます。
2次元というのは、線と線を囲んだ平面です。平方メートルで表される2乗の世界です。
3次元というのは、面と面を包んだ立体です。立法メートルで表される3乗の世界です。

0次元から1次元は認識できません。1次元から2次元を認識することもできません。
しかし、3次元からは0次元も1次元も2次元も認識できます。

たとえば蟻は2次元に動きます。だから蟻が歩いているところにボールペンでピューッと線を書いてやって、その進行方向を阻止してやります。そうすると蟻は、そこがその平面の限界であると思って、引き返すわけです。

ただし何回もやっていると蟻は、臭いに敏感であり、そこが鉛筆の線であることに気付くので、何度もだませません。私は小学生のときにこれをよくやっていました。

次になめくじのナメ夫とナメ子の二匹を板の上におきます。
我々三次元の人間はナメ夫をひょいと持ち上げて、ナメ子のうしろにもっていくことができます。
そうするとナメ子からすると、ナメ夫は見えなくなり、一瞬して移動したと勘違いします。テレポーテーションしたかのように認識します。
平面の世界には高さの認識がないために、このようなことが起きます。

同じように3次元に住む人間は4次元への認識ができません。ただし想像することはできます。

このように現代の政治・経済はまさに次元が同じところでグルグルと、民間による経済・政府による経済をどっちがいいのかと迷走しているわけです。ところがここに限界がきています。資本主義の限界です。

「資本主義の限界ということは、社会主義になるのか」と考えがちです。こう考えてしまうところに資本主義の限界、次元の限界があり、冒頭のような発想を持つ人が出てくるのです。

だから多くの人々が、ここのコメント欄でいろいろな議論をしましたけれども、「それならばこうなのか」となって、だいたいが既存の学問の方程式どおりになっているのです。だから、何を討論してきても、その人の発想はお釈迦様の手のひらの中よりも簡単です。すでに今までよく言われてきたお手本どおりの疑問と、お手本どおりの質問しかしてこないからです。

ただしこれらをマニュアル化して党員に配る事は、この自然主義経済の改革の認識が甘くなるからしておりません。自分で考える事をしなくなったものは改革者としての資格がなくなるからです。

なぜ平和党などとわざわざ独立した政党として作ったかがおわかりいただけると思います。
よくあるミニ政党は、既成政党のごく一部の政策を拡大させただけの二番煎じばかりです。

今までにない方法、自然主義経済と善悪中毒からの脱却を提案するには、これら既成政党などで実行することは不可能であり、彼らもまた真似できないからです。それは失うものが多いだろうと彼らの場合は認識するからです。

しかしながら、彼らが今持っている発想こそ失うものがかなり大きいということに気付くべきでしょう。

平和党公式ホームページ

タミフルについて安倍首相はその無能ぶりを発揮

2007年03月24日 06時12分54秒 | 厚生労働
安倍晋三首相は、厚生労働省がインフルエンザ治療薬「タミフル」の使用を制限したことについて

「(異常行動との)因果関係などの検証、究明を徹底して行わなければいけない。薬は効用と副作用を合わせて科学的な知見から適切に使用することが求められている」と述べた。

そんなことを議論している間に被害がひろがるかもしれません。

厚生労働省はさきほど、タミフルと異常行動との因果関係を認めたようです。
やがて安倍首相もタミフル服用による異常行動を認めることになるでしょうが、あまりにも遅すぎるでしょう。

小泉内閣時代に、安倍官房長官は、タミフルについて全く因果関係がないと断言していました。彼が官邸でこの発表をしたときに私は国会にいたのですが、このとき、私は「その言葉を絶対に撤回させるなよ」とすぐにブログに書きました。

判断が遅すぎると思います。この場合は、疑わしきものを罰するのが鉄則であり、至急に判断するのが政治家のリーダーシップでしょう。薬品メーカーとなんらかあるのではないかと疑われてもしようがないことをしています。

安倍氏が自民党総裁に選ばれた一つの要因としては、北朝鮮に対する拉致問題や、国家の安全保障や危機管理、憲法の改正、教育を律するなどに期待するところが大きかったものと思われますが、私は当初よりこの人にはそのような能力がないといってきました。単なる虚構によって作られた安倍像であるからです。

しかし、このまま突っ張ってタミフルは安全であると押し切ることをしないだけマシですが、安倍内閣にまつわる人々の不祥事を守りきれない弱さも持っていますから、そこまで突っ張る根性もないと思います。

安倍首相は男らしい政治家でもないし、タカ派に称えられるほどの器でもないでしょう。右側に立つ人にとっても左側に立つ人にとっても有益な首相ではないと言えます。

かといって、自民党で他に誰がいいという人もいない、民主党の小沢内閣ならばもっとダメでしょう。まさに現代政治の混迷を表しています。ぜひとも平和党政権にしてくださいまし。
 
 

利権政治が悪で市民オンブズマンが正義であるという常識

2007年03月24日 06時11分42秒 | 内閣
最近とくに市民オンブズマンであるとか、役所や政治家に対しての税金の無駄遣いについてたたくことで、マスコミは盛り上がっています。

とくに政務調査費の問題。だが、こんなことはかなり前からやっていて、やっと今世の中に出てきたという感じがあります。

おそらく、次に暴かれる問題は、選挙でのポスター・選挙カーのガソリン代が公営で支払われている事に、騒がれるようになるでしょう。どの人もめいっぱい申告していますが、実際にはそんなにかかっていません。

ところでこういう問題を指摘する市民運動というのは、実は利権政治家とベクトルが違うだけで同じ立場なのであります。ようするにお金の使い道をめぐって、こうではなくてこうしろというただそれだけのことであり、拝金主義の別の形なのです。

仮に、税金を払わなくてもいい国家や自治体であるのならば、こんな文句は言わないでしょう。トヨタやソニーの役員が無駄遣いしても、それは自分たちで儲けたから文句はいわないが、政府や自治体の場合は、違うわけです。だが、しかしお金の流れの仕組みというのは実は同じなわけです。ここにみな気付かないのです。

しかしながら税金を払わなくてもいい国なんてありえないだろうと、誰もが考えるわけです。ここに利権政治と市民オンブズマンの利権の戦いから抜け出せないポイントがあるわけです。本当は目くそ鼻クソの戦いなのですが、どうしても自分は正義だといいたいからこうなります。

ただ、もう少し、この愚かなる戦いをのさばらしておかなければ、次のステップには進めないのかなという気もします。


国民一人あたり4000万円を支給する政策について

2007年03月24日 06時10分02秒 | 財務金融
平和党の政策である「国民一人あたり4000万円を支給し、それを住宅費にあててもらう」というものについて書きます。

これを聴いて、多くの人間は頭おかしいのではないかと思うでしょう。まさにそれが狙いです。

今までの普通の常識でしか、物事を考えられなくなったために政治・経済は行き詰まっています。その度合いを測るためにもこの政策は存在します。

人類は、今の経済学に、なにかどこかでマインドコントロールされています。だからこの平和党の住宅政策を聞いて頭がおかしいと思った人は、すでに毒されています。むしろ、平和党の人々の頭はおかしいだろうと思った人は、自分の頭の中身も点検してみることです。

まず、毒されている理由はこのようなものが挙げられるでしょう。
「お金があればなんでもできる」ということ。
「借金があったらなにもできない」ということ。

平和党の公式ホームページに日本の借金時計をつけています。
http://www.heiwatou.com/syakkin.html

本日みたところすでに1120兆円を越えています。選挙のたびにこのことについてビラに書くのですが、毎回毎回金額が膨れ上がっているので、その部分をコピペすることすら、できなくなっています。我々は、この借金時計で危機感を煽っているわけです。

別にこの増え方というのは、今に始まったものではなく、ずっと前から増えつづけてきたのですが、国民が政治にあまりにも関心を持ってこなかったために、知らない人が多かっただけです。
おしりに火がついてから騒ぎ出すのです。地球温暖化もそうです。きのう今日始まった問題ではないのに、今ごろになって、どの人も評論家ぶってやたらと言い出すようになりました。しかしながら、いずれの人々も見事といえる解決策は誰も提示していません。

これだけ国や自治体等の借金が増えているのに、この上またマネーサプライ増量なり、赤字国債の発行をするのかと・・・これが常識で考える頭の中身です。だからいつまでたっても、解決策が見出せないでいるのです。

よく「子々孫々に国の借金を残すな」といいます。誰かが言ったキャッチフレーズをそのまま、盗用することで、誰もがいっぱしに政治批評が出来ます。

だが、その先に答える事といったら、「税金の無駄遣いを減らして歳出を抑制し、経済を活性化させ景気拡大で税収を増やす」・・・・という、今まで正しいとされてきた、ごく普通の経済学を引き続き言うのみです。

全ての政党がこれをいい、ほとんどの国民はそれを望みながら、政治家や役人の実行力がないとか、なんらかの利権があるからできないのだろうと疑います。もちろん、利権が絡んでいるかもしれません。

だが、この方法には限界があるという根本的理由について気付くべきでしょう。
というよりも無理です。

ここには我々人類が、直面している重大な問題が隠されているのです。
「あなたはお金によって生きているのですか」と。

ほとんどの人が答えるでしょう。「そうではありません。人間は心です。ただし、お金も必要です。」

もっと正確に言うならば、現代経済学の常識は、「お金によって全てのモノ・サービスとの交換が可能である」ということです。のちになって重要になってきますが、ここでは精神的なものは一時はずしておきます。

自然主義経済を理解せずして、平和党の4000万円支給政策を鵜呑みにすると、とんでもない誤解がおきます。政治通・経済通のほとんどの人がこの罠にはまります。毒されていればいるほど、馬鹿にするのです。しかし、この馬鹿にされることが非常に重要なのです。ここから先に、頭の進み方が人によって違います。

まず1120兆円の赤字ですが、これは誰から借りているのかというと国民から借りています。
http://www.heiwatou.com/syakkin.html
のところに「国民一人あたり」のボタンがあります。そこを押してみてください。
 
今、これを書いている現在では、国民一人あたり517万円の借金になっています。赤ちゃんからお年よりまで全てです。

しかし、国民の債務でありながら、国民が貸し付けている債権ですから、国民一人あたり517万円を貸しているということにもなります。

人間は、お金という便利なものを発明しましたが、こういうわけのわからぬことが起きているのです。江戸時代のころまでは、まだ小規模であったからさほど矛盾は起きませんでしたが、もはや資本主義はグローバルになって、この非常に不自然なルールから、あっちこっちから吹き出物が出ています。

日本にはこれだけ残飯を排出しながら、ネットカフェ難民の増加や自宅で人知れず餓死したりする人が出てきました。

これはなぜでしょう。勝手に自分を苦しめるルールを作り出し、勝手に悩んでいるわけです。

昔、こういう事件があったと聴きました。

小学生が三人集まって、ジャンケンをして、負けた人間は勝った人間に一万円払うとしたそうです。
ジャンケンをどんどん続けてやっていったので、一人の子どもは百万円以上にもなりました。(一千万円だったかもしれませんが忘れました)
その百万円が支払えないからといって、その子どもは自殺をしました。

これと同じことを我々はしているのです。
それを証明するのは簡単です。今、世の中に出回っているお金を全てモノ・サービスと交換する事は不可能です。なぜなら、利子がプラスに働いているからです。

もっと言えば、世の中に出回っている通帳に記載されている金額は、そこに数字として勝手に人間が認識しているだけで、実際には全体的にするとその分の紙幣すら、世の中には存在しません。

今、Suikaとか電子マネーとかで、「リアル通貨からバーチャル通貨への変革」などと騒がれていますが、そのリアル通貨としているものですら、実はリアルではないのです。

平和党が、「全ての政策課題で生じる問題はプラス利子にある」と言っている意味が理解できますでしょうか。これは財政問題に限った事ではありません。

人間の作ったルールであるプラス利子があるからこそ、戦争を起こすのです。富を貯蓄することができるからです。党名を平和党にしたのはそこにあります。決して、よく言われる平和運動家の抗議みたいなことをやっているわけではなく、右派のようにその逆の思想を持ってしても、何ら平和に寄与する事はない。と考えたからです。戦争にはもう一つの理由もありますが、ここでは省きます。

お金というものは、交換に便利です。しかしお金の仕組みには、貯蓄と増殖という二つの機能もあります。これを殺ぎ落とす事です。

むしろ自然界の万物は、時間とともに腐敗・老朽していくのが当たり前であり、現代のお金はその逆に増えていくということをするから、わけのわからんことになるのです。

したがって、自然主義経済とは、通貨に減価機能を持たせる事です。別に、原始時代の狩猟・採集経済を造ることではありません。

物々交換は大変ですから、これまでどおり、交換機能というのは続けなければなりません。プラス利子の害をなくすために、増殖機能をなくすことにより、貯蓄機能もなくなります。

人間は、お金によって生きているのではなくて、物質的には、自然界からエネルギーを摂取して生きているのです。

そのためには食料とエネルギーの自給が不可欠なわけで、最低限、食べ物と住む所が必要なのです。

このプラス利子の経済制度と決別するにあたっては、日本国内での食料の完全自給、そして石油・原子力など輸入資源によることからの脱却が必要です。それが太陽・風力・地熱エネルギーであり、それを貯蔵できるシステムです。したがってエネルギーも地産地消型になります。

ところが住むところについては、手立てがないので、日本銀行券のまま通貨を発行して不動産取得費にあてるわけです。

これは四千万円としていますが、土地面積でも建物面積でも基準はいいと思いますが、なるべく広めがよいです。住宅供給のあと、生活必需品の需要を喚起するためです。これにより、日本はモノづくり国家に戻ります。そして、自然通貨が流通することによってどんどん格差はなくなっていきます。

国民一人四千万円支給するため紙幣の増刷を行います。すると、総額で4800兆円になるわけですから、当然ハイパーインフレがおきます。

しかし、もしかすると起きないかもしれない一つの考え方が最近私の頭の中でよぎっているものがあるのですが、それは今のところ証明できないので、とにかく意図的にハイパーインフレを起こします。意図的に起こす事が重要ですので、今私の頭によぎっているものをもし組み立てたとしても役に立たないかもしれませんから無視しています。

ハイパーインフレについて多くの人々は不安を持つものです。しかし、もう一度、最初に戻って、「人間は何で生きているのか」という命題にいきつくのです。

家があって、光熱費もタダで、食べ物もある。自然通貨によって、モノが買えて、旅行にも行ける。そして、借金があるなどと苦しむ気分を味わいたい人が多いのであれば、勝手に借金時計をそのままにしておけばよいのです。

やがて人類は、「かつての時代の人はこうしたことをして、勝手に苦しんだりしていた」ということになるでしょう。歴史とはその繰り返しです。

ただ、歴史の転換期には、これまでの常識にしがみついてしまい、新たな発想のものを阻止しようとしたがります。頭の中身がそのようにインプットされてしまっているからです。
明治維新もそうでした。戦後もそうでした。だから今のところ平和党はいつでもマユツバ扱いです。

そして今度は、細部の問題になりますが、ではどのようにして食料とエネルギーを自給させるかということになります。次に自然通貨をどのような仕組みで、どのタイミングで出すかということもあります。

食料については、資本主義経済である以上、とても効率の悪い産業ですから、自然主義経済はまず農林水産業に向けられるべきでしょう。そして、誰もが簡単に農業をできるようにすることです。農家にはプライドがありますから反発をくらうでしょうが、人間誰もが食べる事をするわけで、ここにはプロも素人も本来はないはずです。

これは極論ですが、そもそも人間は、そのへんに生えていたものを食べていたわけです。全てがプロフェッショナル化されていくのも問題です。戦前までは、日本人は衣食住に対してジェネラリストだったはずです。農業が農家でないというようにできなくさせたのは、畑を耕したからです。どのようなものでも、人間が手を入れると、次はさらにまた手を入れなければならなくなります。

したがってここでは不耕起栽培など、農業の革命的な技術が必要となるでしょう。それからキューバのように、都市部までも緑化させていくと、どのような都市国家であっても食料自給が可能だということが証明されています。

エネルギーについては、太陽・風力などいずれも海外から輸入された素材によって作られています。このためリサイクルによる経済制度を作らなければなりません。また、これらを設置するのにも石油エネルギーは必要なわけで、石油輸入を止める前にこれらエネルギー産業を活性化させる必要があると思います。

オール電化と、薪・菜種などによるエネルギーの開発が重要になってきます。すでにオール電化や光熱費ゼロ住宅などは、進んできています。先日は、薪エネルギーによって発動する自動車を発明した方から平和党に連絡がありました。今後、どんどんこうしたものを広めていきたいと思います。

薪で動く自動車も、光熱費ゼロ住宅ですら、かつては「そんなことできるわけないだろ」扱いでしたが、できるようになっています。当然のことだと思います。「できない」「ありえない」と思っている人には何の力も生まれないものだからです。人のあげ足とりにやっきになっても、世のためにはなりません。

平和党の住宅政策について批判なさる方は多くいますが、人間は世の中に対して現状を打破するための愛から智慧が生まれます。批判する人は「できない」と思っているかもしれませんが、「できる」と情熱をこめて実施した人しかできないことです。

だから、批判だけするのであればどんどんしてもらってもかまわないと私は考えます。「できない」と言っている人は、基本的に「できる」方法を考えようとはしません。そういう人はあってもいい。もちろん、今、選挙に立候補している候補者にもいます。これはこれで配役として必要なものであると思います。ただこうした考えは主流にはなりません。

なぜなら単に知識を楽しんでいるだけだからです。心から発したものは必ずできます。頭脳から先に考えたものは、既存の範囲内、前例踏襲でしか出来ません。現代は、既存のものをぶち壊さないと人類が生きていけない時代になっていると思います。すでに経済政策をみると前例踏襲、既存の経済学の尺度がどんどんあてはまらなくなってきているからです。


犬救出劇でのお金の問題

2007年03月18日 02時28分29秒 | 財務金融
がけっぷちワンちゃんの話で、この反応はブログを一巡してみたところ、意見が二つに分かれていると思うのです。

一つは、税金の無駄遣いばかりしている行政だが、こうした救出であるならお金をどんどん使えばいいと、それに比べてたくさん悪い事をしている政治家や役人がいて、嘆かわしい・・・・

もう一つは、役所はもっとすることがあるだろうにと。犬は個人がもっと管理すればいいし、飼い主の管理不行き届きなのであって、犬を愛すべき責務を怠っている。個人が捜索するなり救出するための費用を、みなの税金でやるとは何事だと。

支持されている数としては、あちらこちらのブログを見る限りにおいては、前者が圧倒的に多いわけですが、この二者択一論をはじめると、犬の命と人間の命のどっちが大事なんだとか、はたまた犬の命と人間の命とどっちが大事なんだという話になっていくかと思うのです。

平和党の善悪中毒に基づく理念から、考えますと、これはどちらが正義で、どちらが悪いということはないかと思います。

それよりも、むしろこの二つの考えの対立は、一つの土台にマインドコントロールされていることからおきているのではないかと思います。

つまり、お金の使い方をめぐって争われているのです。(まあ、この件に関しては、そんなに争ってはいませんが)お金の使い方として、どちらが正義なのかと。

命というものは大事だと皆わかっているけれども、お金の使い方をめぐって、どう使うかが分かれるわけです。


このように、ほとんどの問題は犬をどうするかという本質的問題を離れて、お金の問題について討論するようになってしまうのです。だからお金のあり方にメスを入れなければなりません。

なんでもかんでも、いつのまにかお金の話になっていて、命が忘れられてしまう時代というのは、このようなことを言うのではないかと考えます。

私は平和党ができるまでは、どちらかというと税金の無駄遣い・政治家役人の不正を追及する政治勢力にいましたから今でもこのような発想の議員仲間を多く知っているのですが、彼らの共通性は、追及されている政治家・官僚と全く同じ土俵に立っており、お金という点で一緒なのです。だからどちらが善でどちちらが悪かというよりも、その土俵を変えない限り、この問題は解決しないなと思うわけです。

例えば、どうして保健所は犬猫を殺していくのでしょうか。エサを食べさせて生かしつづけるのはコストがかかるからであり、放置すれば衛生上よろしくない。引き取り手がなければ殺すしか方法がない。

つまり、財源に限りがあるためにお金が命に優先されています。
なぜ引き取らないかといえば、そんなに大量の犬猫を国民全員が飼える訳もないし、動物の嫌いな人だっているでしょう。

動物の嫌いな人は、「保健所や犬の救出に税金を使うんじゃない!」と立場が異なります。動物が嫌いで、かつ社会的弱者・身寄りのない高齢者・障害者・貧困な家庭の児童など、その人たちもそんなことにお金を使って欲しくないと言うでしょう。外国には貧しい人たちもたくさんいます。これもまたお金を優先した考えがあります。

もちろん、お金そのものが目的ではないとどの人も考えるのですが、道具としてお金が必要になります。ようはお金の使い方をめぐって、ありとあらゆる問題が議論されているのです。

この場合は政府のお金を使っていいのではないか、この場合はだめだというふうに、わけて考える仕事が政治・行政の仕事だ・・・というのが今までの常識でした。
つまりお金を大前提とした正義が我々の中に植え付けられているのです。

現代政治の二つの無益な戦いというのもここにあてはまっています。これもお金が強いのだという前提に植え付けられています。

一つは、政府が税金を使って国民の弱い人などを助けるんだと。お金がなかなか回ってこない東京から離れた地方なんかにお金を回してあげるようにする。金持ちから多めにお金をとって政府が貧しい人、弱い人のところにまけば、これでなんとかなると。

もう一つが、最近の主流で、今までのこうしたやり方というのは、弱い国民を政府が甘やかすと経済に活力が生まれないから、みんなが徹底的に競争して良いものは勝ちあがって、いいものを作っていけばよい。劣るものは負け組みとしてなくなってしまう。だけど負け組みの場合でもなんとか再チャレンジできることを政府が施してやればいいと。

お金というのは、あればあるほど力を持ちます。この二つの戦いは政府にお金を集中させてなんとかするか、競争して強くなった企業にお金が集中する事によってうまくいかせるか、というのがあるわけです。

結果として、政府に集中させた場合、役人がカラ出張・カラ残業・カラ接待、天下りなどで使うわけです。民間で競争させた場合、コスト削減によって消費者に危険な製品が出回ったりすることにもなります。


いつもいつも、政府にするか、民間にするか、あるいは分野別にその複合型かとなります。どちらの両極端であれ、その間をとったにしろ、お金にとらわれているわけです。

平和党は、「お金が集まってこそ力を持つ」という法則を崩す政策があります。しかも、今までのように「それじゃあ誰も働かなくなるじゃないか」とか「無政府状態になるじゃないか」とかの心配がよくでてくるわけですが、これらを全て払拭できます。

これを自然主義経済と呼んでいるものですが、詳しい内容については、つねにここに書いていますので省きます。なにしろ、どの政党も提唱していません。しかし、今世紀に必ずや現代の全ての政策問題を解決する「魔法の政策」と言えるようになるでしょう。

このやり方をすると、今回のワンちゃん救出劇を例えるのなら、税金をつかわずにレスキュー隊活動をまかなえるようになります。「お金が集まってこそ力を持つ」というのを崩す必要がなぜあるのかと言えば、人間がお金にとらわれなくなれば、このように犬の命も人間の命も大切だと考えるようになるからです。

自然主義経済では物質経済よりも「お互いが助け合ったり、命を大事にしたり、人を思いやったり」できるようになります。今までのように形ばかりの「人格形成」などという机上の正義はなくなります。お金で全ての問題が解決できるのだという人、知識を身につけてそれを道具に他人を罵倒するような人、どんな素晴らしい発明をしても自己主張や富の独占をしてしまえば社会に害悪をもたらします。
自然主義経済を行えば、このような人よりも思いやりが重要視される社会になります。
 

資本主義は自然界にそぐわない。ではどうしたらいいか

2007年03月18日 02時26分55秒 | 財務金融
連合国と同盟国の経済思想の違いは、第二次世界大戦の一つの要因である。
こんにちでは、国際連合をあがめ、英米型・アングロサクソンの経済が国際的に主流になりつつある。
日本の企業もM&Aやら、ホリエモンやら村上ファンド、あるいは王子製紙などなど経済の風潮が変わりつつある。
日本やドイツの企業は銀行から借りるという間接金融であり、米国や英国の企業は株式など証券で調達する直接金融である。

間接金融というのは、銀行に預ける人がいて、それを仲介するのが銀行。銀行が企業に融資する。直接金融というのは、企業に対して株主が直接融資するという意味である。

今後、日本は米国政府の圧力・あるいはそれが改革なのだという自民・民主などの発想により、より英米型に近くなってくると思われる。
しかし、日本人には肌が合わないので、長くない期間に拒否されるだろうと予測する。

自然主義経済における金融はどうなろうか。
まずは、金融というものがなぜゆえに存在しているのか自体を考えなければならない。
結論から言うと、お金がモノ・サービスよりも上回った力を持っているからである。
お金というものは一円持っているよりも一万円持っているほうが力がある。
一万円は一円の一万倍ではない力がある。
一億円は一円の一億倍以上の力がある。指数関数的に力は増大する。
現行の経済制度は、資本が集中しているときにはじめて大きな力を生み出す。
世間では、資本主義経済と呼ぶが、企業の弱肉強食競争をやると資本主義で、
政府に資本を集中させることを社会主義と呼ぶが、どちらも資本の集中力を利用して運営しているため、どちらも資本主義経済である。
自然主義経済は、資本が集中してもなんのメリットもないことを作り出す。

自然界の中には、例えば水はダムなど貯留させて、一気に排水すると大きな力を持つ。
これには役立つ事もあるが、それは資本主義経済がそれを利用しているからである。
自然界に則した水の利用は、ちょろちょろと分散させて、農業を行うことである。
いっぺんに大量に使用すると破壊が生まれる。

電力などは、一箇所で集中的に生産してそれを膨大な送電ロスを計算して送られてくる。
しかし、太陽や風力による発電は、各々の場所において発電され、地産地消型となる。
これと同じことが、自然主義経済でも行われる。

資本主義経済では、地産地消型社会をつくるには限界があるからだ。

資本主義経済のまま維持するのであれば、現行のシステム、すなわち一箇所で作る、「資本の集中」力を利用するしかない。しかし、これが最終的には破壊をもたらすことは目に見えている。

先月であったか、東京・杉並区の地域センターにおいて、青森・六ヶ所村の原発問題に関しての映画会及びパネルディスカッションがあった。

ようは原発反対の人々の集会なのだが、私はここ数年こうした人たちと行動をともにしなくなった。
反対を唱えてはいるが、それではどうやって食べていくのかについて言及されないからである。
危険なのは誰でもわかる。むしろ、危険であるのに安全であるかのように取り繕わなければならない経済構造に問題があるのであって、「原発が危険だ」と百万回念仏のように唱えても打開されるわけではない。

自然エネルギーにすればよいというが、「経済と環境の調和」は、資本主義経済を前提とする限り、プラス利子の構造上、不可能なのである。

だから、原発反対という政治活動には、明るい未来は隠されていない。

各々の政策課題の中に解決方法があるのではなく、政策分野をグローバルに考えて、大本に問題がある。

人間は表面上にとらえられてしまうが、六ヶ所村にも、原子力発電にも、その原因の種があるのではなく、貨幣という制度に種がある。

原発を賛成する、あるいは賛成しなければならない人たちというのは、原発によって産業が成り立つからである。経済というのは波及するものなので、発電所の労働者が増えれば、その地域でごはんも食べるし、ゲームもやるし、服が汚れればクリーニングにだすなどなど、ずーっと波及していくのである。

海が何千万年汚れようと知った事ではないと、このようになるがハッキリ言わず、いろいろ言い方を変えて正当性を打ち出さなければならなくなるのである。

こういう人たちの気持ち、そして反対する人たちの気持ち、みなが幸せになる方法を考えなければならない。つねに政治とはどちらかの立場に立って、相手を非難するものだから、一向に片付かないことだらけである。
だから、それよりも平和党の提唱する自然主義経済が、環境問題以外の政策であっても、すべてはここに帰結するのである。

「資本は集中してこそ力を持つ」という、この命題を根底からひっくり返さなければならない。
これについては、今まで当然と思っていた事に対して、柔軟に頭を切り替えないと難しくなる。

冒頭に話を戻すと、金融に存在価値があるのは、モノは時間とともに腐るが、お金は増えていく(低金利・ゼロ金利であっても間接的に)というものが逆になる。すなわち自然界にあるそのままの姿となる。


今まで、株主が企業に投資するのは、お金を持っていても増え方が少ないので、より多く増えるように企業に融資する。

企業はモノ・サービスを売ってお金に変えて株主に分配する。

銀行であれば、企業に融資して、利子をつけて返済してかせぐのである。

しかし、自然主義経済では、お金よりもモノ・サービスに高い価値を置くので逆転する。

お金を貸すと、返済時には減額されて返されるわけであるから、誰も融資もしないし預貯金もしない。


百年先、千年先に経済的収穫があるものが、その価値をなくす。

したがって、自然通貨の保有者は、このような投資行動はせず、消費に廻す。

こうなるとどういうことが生まれるか。

例えば、今までいやいやながら労働させられていた人たちに朗報となる。

フリーターもニートもいなくなる。政府も野党もニート対策はとてつもなくとんちんかんである。

自然主義経済を実行すれば、自分の就きたい職業に就ける。

作家になりたい人は本を書き、絵を描きたい人は絵を描いて生活できる。

勿論、質が悪ければ売れないのは同じであるが、こういうものは同質ではないから、

資本主義時代と違って、全く売れないということはない。

科学技術の分野では、投資しても採算のとれない可能性があるため、不況時には研究費削減となり、儲からない技術開発はできないものであったが、これも自然主義経済で解決される。

なぜなら、企業は投資よりも消費に廻すからである。また、投資するにしても、お金そのものではなく、技術開発など、より実質的なものに自然通貨は回っていく。

企業が得た利益は、減価される直前までに使わなければ意味はなくなる。

そこで売上は、研究開発にまわされることとなる。株主も銀行もいらない。

だから、お金ではない投資の方法、すなわち技術開発のための諸費用、高齢者・障害者のための寄付などに回る。

したがって最終的には政府はいらなくなる。

自然主義経済というのは、仲介を必要としない。すべてが直接ということになる。

政府の存在は、仲介する事によって権力を得て、これが自分のものなのだとして他国と戦争を始める。

縄文時代に戦争はなく、弥生時代に殺し合いが行われたのは、富を蓄積させる方法を知ったからである。

成功するか失敗するかわからないものに、企業はなるべく冒険したくはない。

しかし、自然主義経済は、ありとあらゆる冒険が可能になってくる。

支払ったお金は、受け取った人にとってみれば、またすぐ使わなければならない。

お金がババ抜きのジョーカー化するわけで、流通速度は速まる。

ここでよく聞かれることは、「そんなに流通速度が速まったら環境破壊が促進されるのではないか」ということ。

しかし、よく考えていただきたいのは、環境破壊というのは、自然界に戻らないものを資本主義経済が作ってきたからである。それが一番いい方法だからだ。

いちはやく、お金に変換しなければならないから、経済的には効率のよいものに走ることとなる。

例えば、プラスチックは低コストでできるが、環境破壊につながる。

プラスチックをリサイクルするのにもコストがかかる上に、さらなる二酸化炭素を排出する。

この悪循環は、企業の体質が悪いのでもなく、政府が悪いのでもなく、市民が悪いのでもない。

彼らを糾弾したりしても何も始まらない。でもそういうのが好きな政治家も民主党や社民党、共産党にはいるから勝手にやらせておけばよい。


このようなことを是とする経済のシステムがおかしいのである。

それを許しているのは、自民党であり、民主党であり、官僚であり、学者である。

あるいは、この制度の利権にあぐらをかいている企業である。


自然主義経済では、資本主義経済上の低コストとは、自然界に負荷を与えない低コストになる。

なぜか、それはお金よりもモノに力を与えたためである。

したがって、西洋医学から生まれた治療方法、ようするに自然界にそぐわない、自然征服型の治療方法は今後見直さざるを得なくなる。

東洋医学では、新薬が開発される事はほとんどない。(資本主義の常識が加わってくれば別)

次々に新薬を作らなければならなくなるのは、資本主義上、フルモデルチェンジを必要としてそのために儲けを出さなければならないということからきている。

もう一つは、人類が次々に新薬を開発するため、自然界はそれに抵抗する菌が生まれてくるということにある。

そこで新薬を飲用した排泄物は、肥料などには全く適さず、大地に害を与えるばかりだ。

医食同源に基づく医療・薬事のシステムにする必要がある。これは東洋本来がもっていた
アイデンティティである。


西洋医学は、病原菌を破壊していくことを考えるが、その破壊した薬の成分はいずれ報復にあう。
東洋医学は、全体的に調和することを目的とするため、時間はかけても調和していく。
このため、あらたな開発を必要としない。

欧米から「発展途上国」などと呼ばれるのも、このような背景がある。東洋の文明とは停滞しているのではなくて、自然界と調和しているのである。

コンクリートで埋めていく事が発展であると勘違いした世界観はもうすぐ終わらざるをえないほど地球は汚染されている。
それから、自然主義経済導入のはじめのころは、すでにある自動車の燃料をバイオにするとか菜種にするとか、あるかもしれないが、エンジンという動力そのもののやり方も、
技術的には大きく変わるかもしれない。


平和党公式ホームページ


©2006 The Heiwa Party of Nippon.

(転載可)

お金は国が作っているのに、なぜ国には金がないと言うのか

2007年03月18日 02時25分22秒 | 財務金融
日本の財政は危機に瀕しており、財政破綻が目前だと言う。

あるいは、老後受け取る年金がもらえなくなるという。

私は、小学生の頃、母や祖父母にこのような質問をしたことがある。大平内閣の頃だ。

「お金は国が作って(印刷して)いるのに、なんでお金がないと騒ぐの?」

それに対する質問は、答えに窮していたような気がする。なにしろ我が家は母の高卒が最高学歴であるからだ。ちなみに私も中卒である。平和党総裁・島津真尚は脳卒中から復帰した人間である。(関係ない)

しばらくして、ある大人の人に聞いた。そしたら「金(きん)の持っている分を交換するのでいろいろとある」との話であった。


これも間違いである事は、今では知っているが、不良やってた仲間なんかは30過ぎてもまだ、これをよく知らない人が多い。今では立派な社長になっている、地元の先輩もこりゃあ知らなかった。

平和党のブログをご覧いただいてる皆様は、政治・経済とはほとんど関係のない人が過半数なので、ここで説明をする。ただし、これは今、常識とされているものである。平和党の話を聞いていると、中学公民・高校現代社会・政治経済、大学の政治学、経済学でとんでもない誤答をしてしまうことにもなりかねないの で、あえてここに書く。常識を知らぬものはトンデモ政策による大胆な日本の改革はできないのである。



日本銀行券の量はうまくコントロールしないと経済が滅茶苦茶になる。

これを調節するのが各国の中央銀行、日本では日本銀行である。

選挙で供託金を返してもらうのには、千代田区の日銀まで行って返してもらう。大金を預けているから早く欲しいのだが、何日もかかり、また窓口に行ってもまたまた待たされる。これをなんとかしてほしい。(愚痴)

日銀の主たる仕事は、町中の銀行の中の銀行の役割をすること。銀行の銀行が日本銀行である。具体的内容は、お金の量や金融を調節することである。

日銀は民間とされているが、資本金1億円のうち5500万円は政府である。

日本に出回っているお金とは福沢諭吉や野口英世だけではない。現金通貨の他、普通預金・当座預金・定期預金・外貨預金・譲渡性預金など、通帳に数字上だけ示されたものも世の中に出回っているお金=通貨供給量である。


いろいろな計算方法があるが、ここでは1500兆円とする。
※根拠
M2+CD(現金通貨、預金通貨、定期性預金、譲渡性預金)が700兆円。これに郵便貯金、金銭信託、金融債、国債、外債など含めた広義流動性で1400兆円。さらに、年金信託と外債ドル換算100兆円を含めた場合。

此処に仮に、100兆円の日本銀行券を印刷し市中にばら撒いたとする。ばら撒くといっても、ヘリコプターで撒くのではなく、民間の銀行に日本銀行が貸し出す。

しかし、それでもモノやサービスが増えるわけではなく、お金だけが増えるわけだから、一万円あたりの価値は下がる。

チョコレートが好きでも、自分のまわりがチョコレートだらけになると一個あたりのものが有り難くなくなって来るのと同じように価値が減る。


これはインフレと言われ、ハイパーインフレの時代になったりすると、背中いっぱいの風呂敷にお札を抱えて、たばこ1個しか買えないという現象が起きる。

うまい棒でも何億円も何兆円もする。天文学的数字になることもある。世界各国で、このようなことは今までに何度か起きている。


逆に通貨供給量を減らせば、一万円あたりの価値は上がる。モノを持っていることや消費することよりも貯えて置くだろう。これはデフレと言われる。日本は今このデフレであり、ここからやっと脱却したと発表すべきかどうか政府は悩んでいるところ。

日銀は、インフレのときは貨幣供給を減らし、デフレのときは、貨幣供給を増やせば、うまくコントロールできる。

以上が常識とされるものである。枠組みにはめる試験にはこのようなことを知っていれば良い。


しかし、この常識と言われる枠組み自体に疑問を持つべきだ。

冒頭述べたような子どもの純粋なる意見は、今の子どもでも思っている。

大人の知恵によって、難解にする事で、ますます首を締めている現代は、子どもの疑問に戻るべきだと思う。

ようするに今までの経済常識に縛られていると、打破できないのである。

デフレのときは、貨幣供給を増やせば、うまくコントロールできると言ったが、バブル崩壊以来、15年くらいにわたって財政出動を政府はしているが、一向に効果は見られなかった。何度か景気のサイクルを経ることで、日本経済はちょっとやそっとのカンフル剤では効かなくなってきているのである。

西洋医学方式は副作用を生むのと同様。根本や全体を見なければ治らない。

それともう一つは、お金のあり方が、人間の幸不幸を決めるという、大きな問題がある。人生はこれにおいて大いに左右されているところがある。

平和党はモノとサービスがいかに供給されるかというところに視点を置く。

したがって、ここに4800兆円の通貨を注入し、食糧・エネルギー・住宅を誰もが無償で供給される社会を作ろうとする。

そこで衣食住が満たされると、地域通貨に減価能力を加えた自然通貨によって、経済社会を築こうというものである。

この具体的方法としては、

食糧 (リンク先を作成中)
エネルギー (リンク先を作成中)
住宅 (リンク先を作成中)

平和党は年金を払わなくても、税金を払わなくても、教育・福祉・医療・国防など国のシステムができることを主張している。

そんなことができるわけがないだろうと言う人はまともな人である。

これまでに幾度もそんなことはネット上でも書かれた。彼らは健全である。

簡単に平和党に飛びつくようでは、その人は容易に変な宗教にひっかかってしまう。

あるいは、感性で理解できる人もいるかもしれない。その人はそれでいい。

だが、圧倒的多くの人はマユツバである。

だから、平和党本部の応接室には、マユツバ用のおてふきが常置されているほどだ。

政治の場で選択肢を提供する以上、いろいろな説明が要る。

したがって、このようなブログなどが必要になってくる。

印刷物の時代からややネット時代になってきて、経費がかからないことは大変ありがたい。

これほどまでに説明が必要なのは、多くの人々が、政治思想というものは、だいたい既に決められた枠で物事を考えてしまうためである。

平和党はここから大きく逸脱しているため、詳細なる説明を必要とする。

とくにこのお金の問題、自然主義経済がなぜ必要なのかということが最も重要である。

これが全ての政策課題の根元になっているからだ。

環境問題という目先の問題、財政・年金などの目先の問題、国際関係などの目先の問題、それも重要である。だが、目先だけの問題に追われていると永遠に目先のことに追われることになる。