おおさか佳巨 街頭演説のブログ

減価する地域通貨ですべての改革

参院選東京選挙区の予測

2007年05月29日 20時32分29秒 | Weblog

東京選挙区は定数是正で改選数が4から5に1増となる。改選対象の6年前は自民、民主、公明、共産が1議席ずつ当選。今回は主要政党でみると、5つの席を自民2、民主2、公明と共産1ずつの計6人で争う形だ。川田氏や黒川氏ら主要政党以外の新人にとっては、この6人の争いにどこまで食い込めるかがカギ。

過去の参院選や今年4月の東京都知事選などを参考にすると、組織票が固い公明と共産では、公明約80万票、共産約60万票が「基礎票」。共産の約60万票を上回れるかが“目安”となる。

6年前の13年選挙で自民の保坂三蔵氏(68)は約140万票を獲得。今回単純に分け合えば、丸川氏と2人とも当選圏内に入る計算だが、6年前は小泉政権誕生直後で“純ちゃん効果”が絶大だった。16年の自民候補の得票数は約101万票。丸川氏が無党派層にどこまでアピールできるかがポイントか。

民主は16年選挙で2候補が90万票台を得てともに当選。ただ16年は民主に風が吹いていたが、現時点では支持率で自民にやや押されている。
黒川氏は4月の都知事選で15万票と共産候補にも遠く及ばなかった。これにどこまで上乗せできるか、黒川流の“秘策”が見ものだ。


おそらく東京選挙区の五人当選者は、
公明党がトップ当選、ついで自民党の保坂さんぞう。
3位から混戦状態になると思います。
民主党の共倒れがあったり、共産党が食い込んだりすることがあると思います。

これと同じ状況だったのが12年前の参院選のときです。中道左派勢力は、田英夫(平和・市民)、中村敦夫(新党さきがけ)、見城みえ子(無所属=東京市民21)、鈴木喜久子(無所属=社会党)で、田さんだけ四位で当選。敦夫さんが次点で以下この順番で落選しています。そして、今回と同じく統一地方選挙後の参院選なので史上最低の投票率を記録しています。

らくらく当選したのは、公明(当時新進党)・自民・共産が上位三議席です。組織型選挙でした。

今回にあてはめてみると、
自民党が二人いますが、丸川珠代さんのほうは浮動票狙いでしょう。組織型をやるのは保坂議員です。しかも民主党も二人出すので、とくに鈴木かん議員のほうが保守票を持っていくでしょう。

だから、
山口なつお(公明)当選
保坂三蔵(自民)当選
田村智子(共産)当選
川田龍平(無所属)当選
黒川紀章(共生新)当選
丸川珠代(自民)
大河原雅子(民主)
すずきかん(民主)
杉浦ひとみ(社民)
東條由布子(無所属)

・・となることもありうるかな、と思ったのです。


http://heiwatou.com


自然経済で生まれた余剰金の取扱い

2007年05月28日 02時31分47秒 | 財務金融

自然主義では、その地域通貨は減価していくので、すぐに投資(先払い)できるものにお金が流れるんですよね。。。そうすると、そのモノやサービスを受ける権利が、二次的なマーケットで取り引きされるようになりませんか? お金は減価するけれど、モノやサービスを受ける権利は減価しない。次第にそこに余りが出てしまいませんか?

二次的なマーケットというのは、自然通貨でモノを買った人がそれをどこかに売るという意味ですか。

ええ。モノというか、前に、お金持っていると価値が下がるから、プリペイドカード買うみたいなものかしら?という話をしていましたでしょ? ではこのプリペイドカードが取り引きされたらどうなるのかなあ、と思ったのです。

そうであったとしても、それはゼロ利子になりますね。このカードが売買される過程において、その価値が上昇したりすることはないでしょう。それが資本市場にまぎれて、投資の対象となった場合は、上がるかもしれませんが、結局それを使う場所というのは、自然通貨市場であるので問題はないと思いますが。

私が思ったのは、ゼロ利子のプリペイドカードが実際に提供されるモノ、サービス
以上に余ってしまって、架空のモノ、サービス権利が世界中で膨らんじゃうじゃ
ないかと。。。

現在の制度であると、貯えた富が増殖します。自然経済であると、プリベイトカードがいくら膨らんで、余ったとしても、実物経済には全く影響はないと思います。

なぜならば、自然経済でストックしている余剰金は、現行制度と違って、貸し出しに回らないからです。

あくまでもその人個人のストックですね。だからこれは架空の富とはいえないでしょう。架空の富というのは、資本主義経済の中で、利子が利子を生むところから発生するものです。そして、その利子が資本となってストックパワーとして、大きく見えるから、架空の富によってごまかされてしまうわけです。

 

平和党公式サイト

 

 

 


ユーロとキームガウアーの関係

2007年05月28日 01時52分29秒 | 財務金融

ここにキームガウアーについての説明があります。

http://www.geocities.jp/tanminoguchi/20060808.htm

美濃口坦さんという人がドイツの時事問題を扱っているサイトです。


キームガウアーのもう一つの重要な特徴は「賞味期限」をもつ通貨である。というのは、この貨幣は発行後3ヶ月経過するたびに価値の2パーセント分に相当する延長スタンプを購入して貼り付けないと無効になるからだ。この措置のお陰で、昔から日本でも「金は天下のまわりもの」といわれるが、この会員制通貨はユーロの二倍のスピードでまわる。これも、もちろん地域経済活性化に寄与することになる。

これは我々にとってはすでにわかっていることです。

ただ、次の一文は非常に重要な事ですのでここに引用します。


キームガウアーがひろまった大きな要因は、人々が自分と関係のある事業団体を援助したいと思い、そのような団体のほうも寄付が欲しいために関係者にキームガウアーの会員になることを勧めるからである。会員登録申請用紙には支援する非営利事業団体名を記入できる。このような団体から寄付を求められて困る人は少なくないので、どうせ必要なパンやお肉や野菜を買うことで寄付できるのなら、これはけっこうな方式ともいえる。

ところが、会員業者がキームガウアーをユーロにもどさなくなったら上納も止まり、この通貨の運営も非営利団体事業支援も不可能になる。そうならないのは、本屋を例にとれば、卸や出版社には仕入れた書籍の代金をユーロで払わなければいけないからである。ということは、この会員制地域通貨はユーロが機能していることから得していることになり、これは寄生関係である。

でもゲレーリさんたちのこの現実主義によって、地域外に出て行くお金がへり、その分だけ経済の活性化に役立っている以上、地域通貨はその目的を達していることになる。ユーロ導入で各国通貨の障壁がなくなり、グローバル化で資本は一番殖える場所に流れるようになった。この結果今度は国家でなく、以前より小さな単位の地域でとばりをつくり、その流れをわずかでも阻止しようとしているのは、健気な振る舞いである。



ようするにキームガウアーとユーロに寄生関係が生まれるというのは、それまでのマルクではなくてヨーロッパ単位にグローバル化となったからこそ、地域通貨・減価通貨が機能するということです。


しばしば、私が提唱しているのが、ケインズ案のバンコールです。これは世界共通の通貨です。これによって、各国の格差はなくなります。世界大戦の反省から産み出されたアイデアでしたが、アメリカがドル優位を維持したかったので、アメリカのみがこの案に反対して、現在の国際通貨基金制度がとられています。

ユーロはこのバンコールに一歩近づいているといえます。

EUの27カ国の中で、現在ユーロに参加しているのは13ヶ国。

オーストリア、ベルギー、フィンランド、フランス、ドイツ、ギリシア、アイルランド、イタリア、ルクセンブルグ、オランダ、ポルトガル、スロベニア、スペインです。

地図の青い部分がユーロ圏諸国です。


この中で資本主義の強い国というのは、フランス・ドイツ・イタリアでしょう。だからユーロはこの3カ国を中心に固まりやすい。また、フランスの中でもパリに集中するはずです。パリ以外は農村ですから、その部分だけ見ると、資本主義の弱い国であっても首都がフランス国内の町村を上回る場合もあるでしょう。

ヨーロッパの場合、アジアに比べるとそれほどの資源はないからあまりいい例えにはならないが、ヨーロッパ圏内で自給することは可能です。

キームガウアーを使用しているキームゼーという湖の町は、
http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ie=UTF-8&oe=UTF-8&tab=wl&q=
ユーロなどというグローバル化された通貨が誕生した事によって、かなり影響を受けるでしょう。マルクはドイツ国内でまわりますが、ユーロはポルトガルからギリシアまで回るので、自分のところに回ってくる確率は低くなる。薄くなるからです。

これを補完する意味において、減価通貨は、とても強く発揮されます。

過去三年間で購買者会員が1000人に、業者会員が500人に増え、現在7万キームガウアー(邦貨で約1030万円)が流通し、2006年は財とサービスの売上げの総額が140万キームガウアー(約2億6百万円)に達すると予想されているとのことです。

3ヶ月で2パーセントの減価、これでユーロの倍速で回るということです。つねにキームガウアーは自治体の中で回ります。町で生産されないものや、町外で消費されるものにはユーロを使います。この場合、国内でしか使えないマルクよりも欧州単位のユーロのほうが便利になります。もっとも現在ではマルクは使用できません。

通貨というものは「なるべく外へ外へ」とする力と、「なるべく内へ内へ」とする力によって釣り合います。遠心力と求心力を釣り合わせるということです。

その究極はケインズ案のバンコールと減価式地域通貨による調和です。

一部の人が誤解しているようですが、平和党が西洋の真似をするなと言っているのは、デカルト以来の物質主義や、自然征服思想、善悪二言論による排除、多様性を認めない姿勢、西洋医学中心主義などであって、思想の根幹とする部分です。べつに欧州連合は西洋思想に基づいてできたものではありません。

だから平和党がアジアに帰るべしとしているのは、仏教・儒教・道教という思想的な部分もそうですが、アジアの通貨圏です。

しかしながらこれは次の課題でしょう。まず中国・韓国などの問題があり、そしてこのアジア通貨圏を先にやってしまうと、日本は食料・エネルギー自給がおろそかになると考えられるからです。


海外論文レポート
http://jicr.roukyou.gr.jp/hakken/2004/148/148-hirota.pdf#search='%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%AC%E3%82%A6%E3%82%A2%E3%83%BC';

ドイツ語
http://www.chiemgauer.info/

マルグリッド・ケネディ
http://www.margritkennedy.de/

ドイツの地域通貨キームガウアーを紹介した番組
http://www.freeml.com/message/lm-run@freeml.com/0000359;jsessionid=fgs2uvd0i1

ヨーロッパの社会的経済等動向が我が国協同組合組織に示唆するもの
――地域通貨等ヨーロッパのあらたな取組事例を踏まえて――
3 取組事例(ヒアリング内容)
(1) 地域(補完)通貨
(キームガウアー(ドイツ))
http://www.nochuri.co.jp/report/pdf/n0501re4.pdf#search='%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%AC%E3%82%A6%E3%82%A2%E3%83%BC';

ドイツのキームガウアー: 地域経済の自律性を取り戻す新通貨
http://mig76jp.wordpress.com/2006/05/16/%e3%83%89%e3%82%a4%e3%83%84%e3%81%ae%e3%82%ad%e3%83%bc%e3%83%a0%e3%82%ac%e3%82%a6%e3%82%a2%e3%83%bc-%e5%9c%b0%e5%9f%9f%e7%b5%8c%e6%b8%88%e3%81%ae%e8%87%aa%e5%be%8b%e6%80%a7%e3%82%92%e5%8f%96%e3%82%8a/

WIR銀行: 中小企業を助けるスイスの実践例
http://mig76jp.wordpress.com/2006/06/03/wir%e9%8a%80%e8%a1%8c-%e4%b8%ad%e5%b0%8f%e4%bc%81%e6%a5%ad%e3%82%92%e5%8a%a9%e3%81%91%e3%82%8b%e3%82%b9%e3%82%a4%e3%82%b9%e3%81%ae%e5%ae%9f%e8%b7%b5%e4%be%8b/

ヴェルグル(オーストリア)訪問記
http://mig76jp.wordpress.com/2006/11/07/%e3%83%b4%e3%82%a7%e3%83%ab%e3%82%b0%e3%83%ab%ef%bc%88%e3%82%aa%e3%83%bc%e3%82%b9%e3%83%88%e3%83%aa%e3%82%a2%ef%bc%89%e8%a8%aa%e5%95%8f%e8%a8%98/


減価通貨実現と食料・エネルギー完全自給を同時に行う理由

2007年05月28日 01時47分42秒 | 財務金融
減価通貨だけでやっていこうと思ったら、生活必需品を安定供給出来る体制が必要だ。

ポリネシア人は食料を蓄えておくことはない。

なぜなら必要な十分な食料が常に満たされているからだ。

減価通貨には保存する機能がない。

食糧不足状態ならば減価通貨は機能しえない。

そのときはただ現物たる食料だけが価値を持つ。

減価通貨が真価を発揮するのは余った食料をどのように配分するかというときだ。

生活必需品とは食料・エネルギー・住宅だ。

では生活必需品を確保するためにはどうすればよいか?

平和党は減価通貨の導入によって解決されるだろうと主張している。

ちょっと待って!

減価通貨を実現させるための担保を確保するために減価通貨が必要だという論理は変ではないか?

では減価通貨を実現させるための担保を確保するための減価通貨を実現させるための担保はどのようにして確保するのか?

素直に極小規模の減価通貨経済圏においては善意本位制を採用すると言えばよいのだ。

ただしそれは法定通貨あってこそなのだ。

平和党結成のころの政策案についてまず説明します。

現在の法定通貨(プラス利子貨幣)を用いて食料・エネルギーの完全自給を達成したのち、政権下において、4800兆円の日銀券を市中に流し込み、そのお金でもって住宅を建設してもらう。やがてハイパーインフレがおきて紙くずとなるため、そこで減価通貨制度ができあがるというものでした。

ところで、現状でなぜ食料・エネルギーが自給できないのだと思いますか。我々はこれを考えるに当たり、プラス利子貨幣がその弊害となっているということに気づきました。

農林水産物という腐敗するものはプラス利子の世界においては、利益効率性が低いです。だから資本主義が成熟した国家では、第一次産業が衰退します。お金の力で、他国の資源を奪うから自国で泥作業をしなくなります。

次にエネルギーはなぜ石油や原子力がよいかといえば、これも大資本がなせる技です。減価通貨を使用すると、お金よりも実物そのものに価値を見出します。お金が腐るからです。だから「電力料金を支払うお金」よりも「電力そのもの」を欲しがります。

ということは、市場は必然的に原子力よりも自然エネルギーを選択するでしょう。つまり各自各自の家庭でエネルギーを求めるようになるのです。資本主義経済であると、一つの場所に多くのエネルギーを詰めてばらまくことが経済利益性からして最適ですが、減価通貨の場合には、各自・直のエネルギーこそ経済コストが低くなるからです。


だから自然経済を作るというのは、あるときにバーンと革命をおこして一挙に変えていくという旧来のものではなくて、すでに日本国内で行われている地域通貨と同じように、徐々に地方分権を進めて、減価通貨を進めていくことが必要だということです。

減価通貨は前述のとおり、モノそのものに価値を置くから食糧自給も高まりやすいのです。紙幣を食べるのはヤギだけです。したがって国内の食糧完全自給のために、減価通貨が必要なのです。

たとえばキューバはなぜゆえに食料の完全自給を達する事ができたか。彼らの国は、わずか十年ほど前は、日本とおなじ自給率でありましたが、海外へのお金が機能しないゆえに食糧生産に力を注ぎ込んだわけです。

ようするに国全体の富をゼロか100かで測るのではなくて、減価通貨をやりながら、減価通貨のための担保を作っていくということです。

今までの資本主義の考えかただと、梶山さんの言う公式があてはまりますが、減価通貨にする場合は、一つ一つものを作るとき、売るときに担保ができていますよね。だから同時進行ができます。

だからその過程において、当然に食糧自給率はアップしているけれども完全ではありませんね。こんなときに、海外輸入が封鎖でもされたら困ります。だから現状の日本円はグローバルとして使用するのです。もちろん国内として使ったっていい。むしろ使われなければならない。いずれにしても既存の資本主義に当初の段階ではほとんどの人がしがみついているだろうから、これを心配する必要はないし、プラス利子通貨は排除すべきものではないのです。

とくにエネルギーの問題においては、水素エネルギーを効率よく生産するにしても、人工衛星を飛ばしてレーザーを吸収させたりせねばならないから、外国の希少金属も必要になってくるでしょう。携帯電話の端末機に使われているものも、明日からはありませんなんて言ったら、国内は混乱します。

そこでこちらのブログにもアップしていますが、
http://blogs.yahoo.co.jp/seitouheiwatou/19921436.html
国内の自給は地域単位の減価通貨によって、海外の取引は、グローバル化されたアジア共同体をいずれ作ることが必要になります。やがて、地球全体がケインズ案のバンコールになれば、資本の偏り・資源争奪の偏り・各国が人為的に起こしてきた自然災害がなくなっていきます。これで世界平和になるかどうかは、その後の人々の心のありようによって変わってきますが、条件だけは我々が整えることができます。


代表のBLOGを読んだ。
よくわからないけれどなんとくなく納得した。
本気なのだけは確かに伝わってきた。
成功するか確信はないけれど試してみる価値はあると思う。
ありがとう。


成功する確信はあります。
ぜひとも、内容について深く理解していただけたらと思っています。
質問はこちらでお願いします。
ありがとうございました。

http://heiwatou.seesaa.net


http://heiwatou.com

プラス利子社会とマイナス利子社会との相互交換について

2007年05月28日 01時46分43秒 | 財務金融

この地域通貨の話で気になるのは、、、他地域から購入する産物をその地域の地域通貨では買えないっていうことですが、、、もしかしたら、それが課題として残るのでしょうか?もし国として自然経済に移行したとして、外国から物を買う手段ってどうなるんでしょう?そういうことが記された記事ありますか?あれば是非教えて欲しいんですが・・・


自然主義経済ではなくて、現在行われている地域通貨の話をしますと、地域内で完結しているために限界がありますね。とくに東京では基盤を換えない限りは無理です。この方の使っている渋谷のアースディマネーというのは、渋谷では米一粒作っていませんから、仕入のところで他の農村に依存しなければなりません。だから都市部でも食糧生産を市場が思考するようになります。

また逆に長野に住んでいる人は山のものしか食べる事ができないなんて不自由なことはありません。だから当然に地域Aと地域Bにおいても、交換はなされることは必要不可欠でしょう。

山の幸と海の幸を交換するようなものです。ただし、それは生産物同士のことであって、架空の富たる資本との実態のある物質と交換はなされないということです。交換してはいけないなんてことは、規制する必要はありません。何を規制しようと、人間は欲しいモノはどうしても欲しいからです。

だから減価率が違う自然通貨同士であっても、必ず交換されるようになるでしょう。

自然主義経済がなされた場合に、日本円も残る。つまり資本主義制度も残るというのは外国との貿易において残されるわけです。だから外国から輸入する方法は今と変わりなく行われるでしょう。しかし、自然主義経済が進んでいくと、外国から輸入するよりも自国で生産したほうが効率がよいということがわかってきます。外国産でないとダメな素材はありますね。これは経済コストから考えると自国産物のものをいかに代用するかという科学技術に目が向けられます。いずれにしろ、希少金属は将来的に中国やロシアが牛耳ります。この対策のためにも自国生産でまかなうことは必要な事です。つまり、経済体制をもってして、科学技術を国産に向けさせるということです。

輸入のメリットのもう一つは、通貨の価値が外国と違うからです。例えば僕らが小学生くらいのときはぬいぐるみとか結構高かったけれども、今は安いですよね。中国やベトナムなどで作るようにしたからでしょう。あらゆる工業製品もそうなってきました。その反面、廃棄物が増えていきます。処理費用が発生しています。このようにマクロでみると、マイナスの部分も多くあります。

日本だと土地が高い、人件費が高いなどいろいろ理由があります。これが国産よりも海外依存になっていく理由です。

自然主義経済であると自国産になっていきますが、そんなんで経済が成り立つのかという疑問があります。つまり、高くなるじゃないかと。

しかし、なぜ工業製品は自国で作ったら高くなるのか。これは雇用が大きく影響しています。資本主義は、プラス利子によって、前年よりも売上を上げていかねばならないと拘束されています。これは、どんどん膨張させないと生きていけない仕組みだからです。あるいは返済のために利子がつけられているために、次々に作っていかねばならない。

つまりこの経済システムは、不必要なものをどんどん作り出さねばならないのです。いらないものを押し付けて人に売らないと自分が食べていけません。それが連鎖してしまうのは、プラス利子に原因があります。

マイナス利子で通貨が流通されると、無理に人に売るためのものを作る必要がなくなります。自然通貨を持ち続けていると不利であるので、積極的にモノを買うからです。だからベクトルが今と逆になるとお考え下さい。

それから日本にないもので外国にあるもの。例えば鉄やコンクリート。外国産で安く済ませられるから、リサイクル用品というものはコスト高になります。国内自給を大前提とするならば、こうしたところに科学技術の目が向けられるようになります。

それとは関係なく、外国にしかないものを欲しい場合には、例えば、アマゾンにしか生きていないような生き物、こういう生活にどうしても必要なものでないものくらいしか残らないでしょう。あとはブランド物ですね。

もちろんNOBUさんご存知のように、平和党は石油・原子力に代替できる自然エネルギー社会を前提にしています。

これら化石燃料は自然主義経済であると、効率が悪く、無償エネルギーこそが経済的に効率がよくなるとのもとの話です。

食料においても外国産より国内産こそが経済コストが安くなるマイナス利子制度の自然通貨においてなされる技です。

ん~ッやはりよく判らないのは・・・プラス利子の通貨とマイナス利子の通貨との交換の部分です。。。貨幣を物と考えるということなのでしょうけど、プラス利子の社会との取引において、その『日本円』は何らかの価値を生み出しているのでしょうか?相手国としてはインフレ国家との取引と同じになるのでしょうかね?




プラス利子通貨の取引市場ではお金そのものを欲しがります。マイナス利子通貨の取引市場ではモノそのものを欲しがります。ここにややこしさを発生させる源があるのだと思います。

一商店で、100万円の日本円と100万ptの自然通貨での売上があったとします。そうすると、その商店は先に100万ptのほうを手放します。即ち支払いをします。自然通貨で購入させてくれない相手に対しては、仕方ないので日本円で支払います。

日本円はどこかで必ず滞ります。滞らせる事が力になるからです。大資本によるビッグパワーを作る。これとは逆に、自然通貨はいつも流れていきます。流すことによって、みなが潤うからです。

この意味において、日本円は何らの価値をも生み出していません。ただし、現行の資本主義が正しいと考えている人たちからすれば価値を生み出していると思えるわけです。

でもこれには実態がないじゃないかというのが平和党の主張です。つまり現状は無本位経済をやっているということです。自然主義経済は実態本位経済ということです。

だからどのようなものを「価値」と呼ぶかで変わってきます。

日本円と減価通貨が同時に存在したときに、どの人も減価通貨使用に流れていっています。今まで行われてきた減価通貨社会での人々の社会行動、前例はそのようになっています。

それで双方の交換のときですね。

減価通貨で、プラス利子しか認めていないお店で商品を買うということは、売るほうが嫌がりますから成り立ちません。売る方は、それを受け取ったとしても「減っていくから使えない」あるいはその貨幣に信用がないとして拒否します。

であるから減価通貨主体者はできるだけ彼らの中で自給しようと考えるわけです。

逆に今度は、日本円でマイナス利子社会の商品を買うということは、売るほうは嫌がりませんね。減価通貨主体者の販売者にとっては、日本円は減価通貨よりはよくはないけれども、プラス利子社会でモノが買えます。

二者は、寛容度の違いによって、2つのものが生まれます。
減価通貨主体者は、減価通貨及び日本円を持ちます。
しかし、日本円主体者は、日本円しか持ちません。減価通貨を否定します。

減価通貨で買う人の場合(一方のみ使用)
●減価通貨主体者は、資本市場で利用不可・自然市場で利用可
●日本円限定者は、減価通貨で買わない。

減価通貨で売る人の場合(一方のみ使用)
●減価通貨主体者は、資本市場で拒否される・自然市場で受容される
●日本円限定者は、減価通貨で売らない。

日本円で買う人の場合(双方同じ)
●減価通貨主体者は、資本市場で利用可・自然市場で利用可
●日本円限定者は、資本市場で利用可・自然市場で利用可

日本円で売る人の場合(双方同じ)
●減価通貨主体者は、資本市場で受容される・自然市場で受容されるが選考されない
●日本円限定者は、資本市場で受容される・自然市場で受容されるが選考されない

このような現象が起きるでしょう。

それで外国との貿易の場合、海外のものを輸入するに当たっては、日本円をドルなどに換えて買うでしょう。あるいは輸出では売るでしょう。だから、日本国内の資本市場を好む人々によって、これらの取引はなされます。

国内の減価通貨主体者と取引したいという海外の会社があったとします。でも相手国が減価通貨主体者でない限り、損をします。だから相手国の会社も自然通貨を取り入れるでしょう。

そうなれば貿易は、自然主義経済で成り立つかもしれませんが、この通貨は時間とともに減価しますから、貿易自体はあまり利口な方法ではないとなるでしょう。

日本国内の木材を使用するほうが、途上国の森林を伐採する事よりも経済的効率性が高まるのが自然主義経済です。しかし、どうしても海外のものでなければならないような前述のブランド物であるとか、どこかの国にしか存在しない資材を使いたいとかいう場合においてだけ貿易はなされるかと思います。

まず前提として、これら自然主義経済の仕組みとは、日本国内で自給するための方法であるということから作られています。


肯定力が産み出す発展性

2007年05月24日 16時37分45秒 | 財務金融

人愛塾の杉山塾長
http://blogs.yahoo.co.jp/jinaijyuku
にトラックバックされたのでもう一度よく前例を考えてみます。
私はこちらの塾の一期生です。これだけが自慢です。

「どんなに理屈が立たなくても自分だけは肯定し、気に入らないものがあれば否定するというのは己の破滅を導き、自分も他人も肯定することは発展を作り出す。」と私は言いました。

Aという人は、「平和党は共産党よりもたちが悪い左翼」と言いました。

私は、そのことについて、A氏には謝罪も撤回も求めていません。彼は終始勘違いしていたようですが、私は「決して撤回しないように」ぐらいのことまで言いました。

私は、どのようにして「平和党は左翼として定義づけられるのか」について聞きました。答えはありませんでした。彼は、答えにならないようなことを言い続けていました。
ここでは私は彼の政治思想について一切否定することなく、話を進めています。つまり保守・右派、右翼であっても極右であっても否定していません。

こうした人であるのならば、日本文化伝統としての礼節を守り、多様性を認めるべきでしょう。

結局のところ、彼は敗北したと自分で言って討論は終わりました。けれども私にとっては、理屈もなく否定するということを問題視しているのです。しかし、彼にとっては、自然主義経済に対して、あるいは平和党が左翼として定義づけられるだけの「論破する技術的な力がなかった」としか思っていないでしょう。

どうしてこうなるかというと、本当は、世のために作られた自然主義経済について、理論もなく「まずは否定したい」という我欲から始まっているから起こる問題です。

もしも彼が勉強に勉強を重ね、自然主義経済を論破するだけの知識を身につけたとします。しかし、それが何になるのですかとなります。だから知よりも、愛が優先するということを言いたいのです。

勉強に勉強を重ねた結果が、自然主義経済を上回る解決方法、即ち愛国の達成が可能であれば問題はないでしょう。しかし、論破そのものに注力していれば、そもそもの救国ということの目的がどこかへ行ってしまうのです。だから、「勉強する場合には気をつけろよ」ということです。

次にBという人もいました。彼は自然主義経済について、「一つ一つのパーツは正しいことを言っているが、論理展開はおかしい」と言って来ました。

では、「どのようにしておかしいのですか」と聞いたらば、「自分は無知なので説明できない。しかし、それが間違っていることだけは正しいと自負している」というわけです。

なんとも傲慢なものです。王様の場合は、こういうことを言ってもいいでしょうね。でも回りはなんと思うか。単なるお坊ちゃまとか、うちの姫様の言うことだからとか、そういう感覚になります。

これも「どんなに理屈が立たなくても自分だけは肯定し、気に入らないものがあれば否定するというのは己の破滅を導き、自分も他人も肯定することは発展を作り出す。」に相当します。

Aの場合は最終的に敗北を自認したので今後の余地はありますが、Bの場合は逃亡しました。

私は実は、自然主義経済なるものを論破する方法を知っています。人間が考え出す方法なんて完璧なものはないからです。論破する方法を私が知っているから、どんな人と討論しても、「あ、おしいんだけどちょっと違うんだな」と思ったりしてイライラするわけです。

自然主義経済は最強の矛であり、最強の盾です。だから矛盾といいますね。だからどんな人がきても盾を使っているんですけれども、実は矛も持っています。

でもその矛をもってして、相手を突付いたところで、つまり自然主義経済というものの無益性を説いたところで、誰が得をしますかということです。

つまり論破するということは、相手を否定する事ですね。でも私が今までに全く否定していないかというとそうでもないことは多々あります。安倍政権はダメだと言ったり、民主党も他の野党も全てダメだと言ったりもします。しかしながら、彼らが本来目指しているものについては尊重しています。そして、ダメだと言った以上、それで終わらせずに自然主義経済に導くべきだとしています。このために必要最低限のことをしていると思っています。政治の場合にはいたしかたないところがあるでしょう。

彼らが本来目指しているもの、つまり既成政党が目指しているものとは、どういうことかというと、彼らの私利私欲の権力獲得以外の部分です。つまり政策実現です。

平和党は、全ての既成政党が政治目的としている内容について、全て達成してしまいます。だから肯定力が働いているのです。他の政党は、自分以外の政党を否定するところから始まっています。ここが根本的に平和党とは違うところです。

例えば、自民党は利権政治をやりたい人と、市場の競争原理で経済を発展させたいとしている人がいます。民主党にも同様にいます。それに加えて民主党は労働者の権利も得たいとしているでしょう。軍事的には、他国から攻められてもしっかりとした国防をしたいと願っているでしょう。共産党・社民党は、労働者の権利、軍事力のない平和な社会、人権を尊重する社会を目指しています。

あるいは日の丸・君が代について強制したいという人と反対したいという両方の意見も満足させます。南京大虐殺はあったという人とないと言っている人の両方を満足させます。

彼らの政策目標を全て自然主義経済は達成します。唯一、達成されない部分というのは、自分やその仲間だけが政権についておいしい思いをしたい・・・というところだけです。

この部分については平和党政権になったとしても、平和党自身もそのおいしい思いすら享受されません。

なぜならマイナス利子で分散される富が有効に働くからです。今までの政治は富を、社会主義政権の政府やら資本主義経済での勝ち組たる大企業、あるいは政府と繋がる特定の企業など、どこかに集中させる事によって機能してきました。しかし、その富がどこにも集中しないで、みなが経済生活・文化生活ができる仕組みが、平和党によって発見されたからです。それがマイナス金利に基づく自然主義経済です。

だから自分だけが偉くなりたいとか、自分だけが金が欲しいとか、ようするにクモの糸の一番上にたって、下の奴らを切ってやろうとかそういう考えで政治家になりたいと思っている人は平和党にきても得になりませんからご注意を。

それで具体的にどのようにして達成してしまうのかについて、おおざっぱですがご説明させていただきます。

1.利権政治をやりたい
2.市場競争で経済を発展させたい
3.労働者の権利を得たい
4.しっかりとした国防体制を作りたい
5.軍事力のない平和な社会
6.人権を尊重する社会
7.国旗・国歌の強制と解放
8.歴史的事実の有無

1.は、なぜ生まれるかというと、資本主義経済が弱肉強食となっているからです。国民新党などは1.の考えですが、まさかマニフェストに「利権政治をやります」なんて書かないでしょう。良く言えば、彼らは地域共同体としてみんなが助け合って生きていくのが当たり前だというのが彼らの政治主張です。だからどうしても資本主義経済に対して、修正するための政府や自治体による弱者の援助ということを考えるわけです。このたびチベット研究家のベマ・キャルポ氏が国民新党公認で立候補しようというのもこのような考え方があるからです。でも、ちょっと待ったと私は言いたいですが、まあしょうがないですね。

どうして政府や自治体の財政支出を必要とさせるかについて考えれば、それが資本の力、お金の力だからです。これが自然主義経済であると、政府や自治体の援助はいりませんね。どんどん流通されていきます。そして地域単位で物事が動いていくので、皆が助け合って、人間的なつながりをもって生きていけます。農村に道路を作るのだって、道路そのもののために工事しているんじゃなくて、地方にお金を回すためにやっています。どこから持ってくるかというと東京の資本力を地方に回しているわけです。

しかし、地方には豊富な農産物がありますね。なのにどうして東京よりも弱いのかというとお金本位の制度にしているからです。本来、農産物のためにお金が生まれたのに逆のことをやっているからこうしたことが生まれているのです。自然通貨によって取引がなされたら、地方のほうこそ強くなります。東京・横浜・大阪などは急いで食糧自給を上げねばならなくなるでしょう。

先ごろ、山口県の萩市に行って来たのですが、竹が生え放題です。なぜ放置されるのか。これだけの資源がありながら、東京都よりも財政が豊かでない理由はなぜか。プラス利子だからです。竹を使うなら安い中国産のものを使うでしょう。日本だと人件費が高いからです。そして木材もそうですが切らないことによって芽が生えてこなくなり、それによって山口県は衰退していきます。実に細かな話からプラス利子が弊害であり、マイナス利子が夢と希望をもたらすことが内在されています。

資本主義のルールのもとで1.を達成させると2.には絶対になりません。橋本派支配時代まではこれでしたね。逆に2.をやると1.になりません。小泉政権以降の現状はこれですね。

しかし自然主義経済だと1.も2.も両方一辺に実現されます。どんなものでもよく売れますが、やはり買うほうは良いものを買いたいでしょう。そこで商売人や職人・作る人、サービス業の人は己の技術などに磨きをかけます。もちろん努力した人が報われます。失敗が許されますから、それこそ何度でもチャレンジができます。失敗しても政府の援助などいりません。現在の安倍政権の再チャレンジ制度というのは、プラス利子で資本を伴うから結局のところ限界があるでしょう。自然主義経済には限界はありません。

3.は労働者というよりも、全てが自営業者化されます。大資本の企業に従事する必要性がなくなるからです。大資本が多くの雇用を必要とするのは、大量生産・大量消費・大量廃棄に基づきますが、自然主義経済であると少量生産・少量消費・大量還元になります。

プラス利子制度は、大資本を作り出します。だからいらないものをどうしても作り出していきます。雇用のための経済ができるからです。自然主義経済はテレビならテレビを、自動車なら自動車を、注文を受けてから作ります。あるいは事前に作っておいてもいいでしょう。いずれにせよ、大工場ではなくて、小さい工場がそれを引き受けます。だから技術のないところはできません。これにより今までしなびていた東京の大田区、大阪の東大阪市などは復興できます。大手に搾取されることもありません。そこで師弟制度ができあがり、教育は改善されます。

次に軍事について、4.をやれば5.でなくなり、5.をやれば4.がなくなるというのが今日までの発想でしょう。

改憲の人は、自国の平和のために武力が必要であり、集団的自衛権を認めるべきだとしています。ではなぜ他国が攻めて来るのか、他国の一般人が個人で包丁もっては来ません。これも国家政府の仕組みによってできています。

富を政府が掌握しようとするからです。しかし自然主義経済であると、政府に富が集中せずに成り立ちます。国民経済も成り立つし、政府も成り立ちます。政府の成り立ち方は今とかなり違いますが、政府は外交・軍事・治安・司法・国家財政など究極の小さな政府として必要とされるでしょう。自然通貨によって、税金を無駄遣いする必要性がなくなります。

お金は貯めておいても力が働かないので、他国に侵略しようと考えても全くムダです。そんなことをするくらいなら自国の食料・エネルギーを充実させたほうが良いとなります。

だから憲法9条を改正するよりも自然主義経済が近道である事がわかるはずです。また、これまでの怨念を中国や朝鮮半島が抱くのはなぜですかと、富が蓄積できて政府が潤うからでしょうと、なります。彼らは怨念を原動力として経済の活性化を図っているのです。だからそんなものに応じてはいけません。反日思想に敏感に反応するのは、日本が彼らの言うことに一理あるなと思ってしまうから反応してしまうわけです。そんなものはないから無視すれば大丈夫です。

逆に、護憲の人は世界平和を願っています。武器のない世の中を作ろうとしています。では武器のない世の中が平和になるとその人が信じているのであれば、どのようにして各国の武力をなくしていくのがいいのかと考えていきましょう。これも先に述べたことと同じです。政府は富を集中させようとするからです。そうなると自然主義経済というものが、憲法9条を守るよりも近道であるということがわかるでしょう。

6.は先ほどの反日感情に反応するのと同じです。人権というものが尊重されていないと感じるから、差別問題について関心を持つのです。人間にはそもそも偉大なものがあるのです。こうしたものがないと思ってしまっているから法律でわざわざ定義しようとしたがります。

江戸時代以前と違って、我々は法治国家を経験してきたゆえに、今度自然主義経済の世の中にして、ほとんどの法律規制をはずしたときには、人権は自動的に尊重されます。というよりも人権という言葉はなくなります。「人権というものはない」と思ってしまうからわざわざそういう言葉を作り出してしまったのです。

自然主義経済であると全ての人々が、その役割・能力に応じて社会で活動できるようになります。それが全て経済活動としてなりたちます。だから全ての人々が尊重されます。現代は、ある一定の決まりにあてはめて同じ方向性で動かそうとするから、差別が生まれるのです。

7.と8.は一括して説明します。
自然主義経済になれば、教育は国家支配から解放されます。すなわち自治体ごとに行われます。その自治体において決められますが、さらに細かく地域によって決められます。そうなってくると、自由が認められるようになるでしょう。「お上がこういっているから」というのは通用しなくなります。各地域において、今まで金にもならなかったようなことまで、自然通貨が流通されているので、その密度は濃くなります。

であるから、7.についてほとんどの人が国旗・国歌を掲揚すると思いますが、中にはそうではない人もいるでしょう。そういう人はそっぽを向かせても良いという自由な社会ができます。

私は「国旗・国歌を尊重せよ」という人に言いたいのですが、ようするに勝手に平和党を反国旗・反国歌だろうと思い込んで、君が代のビデオを当ブログのゲストブックに六つも七つも貼り付けて、嫌がらせをしているつもりなんでしょうけど、そんな人がいました。

日本国家を尊重するというのであれば、それは現代においては自由を尊重する社会です。つまり今日まで、日本が存続してこれたのは、社会主義政権ではなかったからです。自民党政権は共産党の存在を許します。しかし各国の共産党政権国家を見ればわかるとおり、自由主義の政党の存在すら認めないわけです。

だから日の丸・君が代について無視している輩に過敏に反応する必要はないと私は思うわけです。大きな懐があるのがこれまでの保守だったのに、今はだんだんとそれが崩れてきていますね。

それで8.にもつながることですが、これは両方の意見があって、どちらが事実なのかということについて人によって割れているという事実そのものを教えるべきでしょう。あるいはそれすら、その地域の自治権において決めてもいい。

結局、こういう問題というのはいくら論じても、子どもたちが大きくなったときに、「ああ、こういうことで大人たちはもめていたのだな」と考えるのです。大人は、「こう教えなきゃ大人になったら悪くなる」と思っていますが、これは押し付けの発想であって、結局のところ、子どもたちはやがてであっても自分で物事を考えます。だから双方に分かれて戦っているという事実そのものを伝えるべきです。

「子どものうちは判断能力がないから」とかいうのは、親の勝手です。つまり親が無理に子どもをコントロールしようとするからそういうことを言うのです。でも、子どもが成人したら自分で物事を考え、やがて親子は年齢とともに、知識の面では対等に近くなっていきます。親が無理に押し付けることで、のちのちになってかえって親は子どもに馬鹿にされてしまうのです。子どもが小さいうちに、自己主張を教え込もうというのは親に自信がない現われです。

例えば教科書問題一つとってみても、その歴史的立場のどちらか一方に立とうとする考えでいく人もあれば、「ああ、くだらん論争をやっているのだな」と思うのも自由でしょう。どちらかに強制しようとしても、教えたこととは逆にいってしまい、裏目に出ることというのはあるものです。だから、どうにもならないことです。したがって、その地域において決めればいいのです。

ただ根本として、他人の意見を尊重する。自由な言論を認めるということが重要なのです。

だから肯定力というのは今後重要なキーワードになってきます。これは政治思想にも教育にも生かされます。

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日本人的なる介護

2007年05月24日 16時36分03秒 | 厚生労働


http://blog.goo.ne.jp/heiwatou/e/bec1eeec88aeb224975dd9bb5af2da12
で自分の書いた記事を見て、

「しかしながら先に愛がなくては、ものを知る吸収力も育たないし、肉体も鍛えらないし技術も身につきません。そういう元となる原動力というのがあるのだと私は思います。つまり相手に対する肯定力です。」


というのがありました。

愛によって肉体を鍛えるとはいったいどういうものであるかと。それは決して、夜の生活の話ばかりではありません。

ここでは一例をあげたいと思います。

今、NHK教育で介護の番組をやっているのですが、「はぁ、なるほどなぁ」と勉強になると思わされるものがあります。

ようするに高齢者を起き上がらせたりする方法というのは、今まで西洋の物理学の法則ばかりでやってきているので、介護福祉士の腰に相当な負担をかけているのです。あるいは家族の中で介護しているお母さんがたもそうでしょう。

それであまりにも介護福祉に関する職員も含めて、なり手が少ないと。どの介護関係の人も雇用確保に困っているわけです。

私は、介護福祉施設で、介護保険の九割が国・自治体負担の保険料金計算の仕事(ほとんどコンピュータまかせ)もやったり、病院から高齢者を乗せて運転もしたりしてきたので、現場をけっこう見てきましたが、かなりの肉体労働です。


ようするに今までは、プラスAというベクトル方向に対して、マイナスAのベクトル方向を力として加えて、高齢者をベッドに寝かすなり起こすなり、椅子から立たせるなりしてきたわけです。

でもその番組でやっていたことは、頭を足よりも前に置いて、起き上がらせたり、手を下に引張って立たせたりするわけです。なかなか言葉で説明するのは難しいのですが、ようするに古武道なんかで教えているようなものに近いわけです。柔道とかは、相手の力を利用して自分の力にする効率的で安心確実なる方法です。

今までの「物理的力に真っ向から反対する」という、ようするに逆ベクトルに力を加えて無理やりなす方法というのは、疲れるわけです。

ところが東洋式の場合は、どちらかというと、すでにある力を自分の力にしてしまう素晴らしいものが多いんですね。

明治時代以前は「スポーツ」という言葉はありませんでした。だから「体育」という言葉もこの明治時代に作られたそうです。何が西洋と違うかというと、スポーツというのは運動力学で考えます。

明治以前のスポーツに相当するというものは、ほとんど武道しかありません。蹴鞠なんかは遊びでしょう。

柔道・剣道・弓道・乗馬・やりなどなどです。

実用価値のあるものばかりです。それでいずれも腹式呼吸を大事にしたり、礼を大事にしたりします。こういうところに武士道精神がありました。つまりこうしたところに関心があったからこそ江戸時代は平和で安定していたわけです。

今の武士道精神はまるで戦争のためみたいなところがありますね。そしてスポーツ力学が重視されています。

ニュートンが作用・反作用の法則を発見して、西洋のスポーツはAが押して、Bが押して、強い方を勝利とします。

日本では相撲の場合をみてもわかるように、相手の力を利用する場合があります。

介護の場合、介護する人もされる人もどのように楽になれるかという意味で、あの番組での動き方というのが発明されたのだと考えられます。だから美しい愛から生まれた技術でしょう。

必ずしも西洋のものが愛から生まれていないとはいえませんが、運動力学での考え方、武道での考え方は日本にはこうしたものがあるでしょう。

それで日本人というのは、アメリカの真似をすることが進歩する、発展するのだと思い込むようになってから、最近では経済の政策や政治の思想まで真似しようとしています。

しかし、もはやアメリカでは、日本の古きよき文化・伝統を学ぶといった動きがあります。今まではどちらかというと日本の表面的なものばかりをアメリカの人たちは学ぼうとしていましたが、最近は、日本のそういう和の精神、寛容なる精神、多様性を認める文化、相手の力を自分の力に変えていくことなどに対して目が向けられつつあるということです。

でもアメリカ人は、わざわざ日本をみなくても、アジア人と呼べる素晴らしい伝統をもつインディアンがそこにいるのだから、先住民族の文化に習ったほうがよいと私は思います。

日本人はかつての日本の方法や、あるいはアイヌや琉球の生き方に注目してみたらいいと思います。現在政治の世界では似非保守が横行しています。本当の保守とは、新しいものを認める寛容力です。しかしながら、古きよきものも同時に守っていきます。この2つのことを忘れています。温故知新を忘れています。

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イラク特措法改正で

2007年05月24日 16時34分48秒 | 外務

政権交代がしたいのかもしれないけれども、やってしまったことに対して、徹底的に責め上げたところで、政府がイラクから撤退することにはつながらないでしょう。

本日の参議院本会議における白眞勲議員(民主党・新緑風会)の質疑を聞いてそのように感じました。

すでにイラク戦争は間違いであったと、大量破壊兵器なんてなかったと、ブッシュ大統領も認識している。さらに久間防衛大臣も核兵器をイラクが保有しているという予測は違っているんじゃないかと認める発言をした。

それで、そこをせめてどうになるものでもない。単に民主党の自己満足だ。

本当にイラクから自衛隊を撤退させたいというのであれば、政府をイラク撤退に誘導させるべきである。だが、野党はまず真っ向から対立し、「政府は悪である。民主党政権になったら世の中こんなによくなるんだ」と、つまりイラクを撤退させるそのものよりは、民主党政権になることを彼らは望んでいる。だから、国のことよりも党のことが優先されている。

また安倍首相も、間違ったこととは知りながら、民主党にそこまで言われてしまうので意地になるしかない。なんとか正当性を一生懸命探さなければならなくなる。そして、ますます頑なに米国ととともにイラクに専念する事になる。

こうした悪循環があるのだと思う。

安倍首相はイラクに自衛隊を送り込む事は、何ら間違っていないと信じているだろう。そこへさらに民主党が、自分の政権ほしさに政府を非難すれば、ますます安倍首相は自分の信念が正しいのだと再認識していく。

内閣法制局とて、今の安倍内閣が憲法解釈として間違っていることは知っていても、そんなことを民主党議員が質問して、まともに答えを引き出すことなどできないだろう。うやむやな解答が帰ってくるだけだ。そして、そのうやむやな解答を期待して、「みてください。安倍内閣ってダメな政権でしょう」と証明するためにやっているわけだ。

安倍政権がダメであることは、民主党になんか言われなくてもわかっている。国民だって不支持のほうが高い。だからといって、民主党に政権を任せたいなどと思っている人は極めて少ないのも現状である事をよく認識したほうがよい。

アメリカと一蓮托生が嫌だというのであれば、日米安保条約を守るといっている民主党には大きな矛盾を抱えている。

社民党は、守るといったり守らないといったり一定していない。国民新党は、郵政の問題で自民党を出ていってしまってから、今まで自分たちが仲間としてやってきた内容全てにケチをつけている。

これからすると共産党は筋が通っているが、国連信仰という面では、他の政党と何ら変わらない。国連主義、国際社会の協調を言いながら、戦争組織たる国連を賛美するわけで、彼らはこの辺が間違っている。

公明党が論外なのは言うまでもない。

日本には日米安保条約があるゆえに、イラクに自衛隊を派遣せざるを得ない。また憲法9条があるゆえに、日本はこうしたところに後方支援という形で、自衛隊を送り込まざるを得なくなる。日本は肩身が狭いのである。

平和党は、国連平和維持活動などもそうだが、海外の武力紛争地域に自衛隊を派遣することは一切禁じるべきとしている。その国にはその国の自治権があり、彼らに例え内紛が発生したとしても、介入すべきではない。国内で紛争が起きたのも、その国の国民の責任である。

そのような中で、貧困や病気によって飢え等にいたる人もあるだろう。それらは救済すべきものであるが、国家権力に対して介入すべきではなく、彼ら国民自体に向けて、救い出すべきだ。北朝鮮への食料援助なども政府向けにして行っているから、金正日などが独り占めして北朝鮮国民には行き渡らなくなるだけである。

イラク特措法には反対するが、反対討論のやり方をもう少し変えたほうが良い。最初に制定されたときと同じような反対討論を述べるので何の進歩もない。

イラク撤退には、政治的にもっと別のやり方があると思う。

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携帯電話ナシに通話する方法

2007年05月24日 16時33分44秒 | 総務

子どもの頃から、21歳のときもそうだったけれども、私は電気なしでラジオや無線が聞けました。

機械ももちろん、必要なく耳だけで直接聞きます。

これを回りに言ったら「んなわけね~だろ~」といわれまくりました。

自分が眠りに入りそうなときに、聞こえます。

それで耳から直接ラジオを聞いたあとに、実際にラジオの電源をつけて、いくつかのチャンネルを回して探してみると、その番組をやっています。

あるいは、トラックの運転手同士が無線で会話しているのとか、警察官の会話、東京無線のタクシーでの会話とかもたまに入ってきます。

最近、そういうことがめっきりなくなっていたのですが、昨年だったかテレビ番組で、電機大学の教授が「人間は直接、ラジオを聞ける」と言っていたのをみたのです。

ようするに人間の耳の中に、そういう電磁波をとらえるようなものがあって、周波数をとらえることができるのだと。

ああ、「俺はそれで昔できていたんだな」と、思ったし、いつもラジオが聞けているときというのは、いわば眠りそうなときばかりだから、夢みたいなもんだろうと思っていましたが、おそらく眠りそうなときには、脳からアルファ波が出るからそれで可能ならしめているんじゃないかと、自分では思ったわけです。

それでおととい、子どもを連れて、森林深い公園にいって、ああアリがおにぎりの食いカス食べて、蝿がよってきて、土があってそれを分解して、その脇に樹木があって、それで循環しているなぁ・・と、自然を深く認識しながら、眠ってしまったわけです。

そしたら聞こえてきたのは、

「ママ、北斗(たぶん名前)がボールどっかやっちゃったから捜してから帰るからまだ時間がかかる」
「じゃあ、ママももう少し公園にいるから待ってて」

それでその後も会話が続いていたようですが、眠かったのであまり覚えていません。
それでうるさいので起きてみたら、かなり遠くのほうで、あるお母さんが携帯で会話しているわけです。

それで聞いてみたら、息子の名前は北斗だという。で、眠りながら聞いていたときに、お母さんの声は二重に聞こえるわけです。

選挙のときとか、テレビ局から中継が入って、その選挙事務所でそのテレビ局をつけていると、いつも報道の人は番組を消してくれと言いますが、あれはハウリングがおこるからでしょう。最近は違うのかもしれないけれども、昔は、ラジオ局に電話して歌のリクエストなんかすると、電話の人が、「ラジオを消してください」という。こっちはなんともないけれども、向こう側はなんか障害が起きるんでしょう。

だから、そのお母さんが話すときは、二重になるからちょっとうるさいんです。それで目がさめました。

それで私がいつもいいたいことは、そりゃあオカルトだろうとか言われて、いつも見過ごされているようなことがしばしばあって、そんなところに、答えの糸口があるのだろうなと思うわけです。

で、先の電機大学の先生によれば、そういう周波数をとらえる能力というのは、人間に誰しもあるのだという。だけれども、なぜできないのかはよくわかっていないというのです。

たぶんこういうことをすでに知っている科学者というのは、いるんだろうけれども、こんなことがバレたらかなりの経済利権構造がぶちこわしになるから黙っているのかもしれませんね。

この話は音声だけだけれども、画像までできるようになったら、NTTもヤフーもいらなくなりますね。パソコンもいらないでしょうね。

そんなわきゃないだろうと言っている人というのは、ラジオが発明される前に、みんなが思っていた感覚とたぶん同じでしょう。

最近は、そういう感覚の人ばかりなので、だから科学技術が停滞しているのではないかと考えるわけです。これが発明されたら、携帯電話の会社の人たちも困るでしょうなぁ。

でも、携帯電話に使われている希少金属。これはロシア、中国、南アフリカなどからしか採れない。それでこういう国が今後どんどん高値をつけていくようになるでしょう。今後は、彼らの自国でも使うようになるのだから。

自然主義経済は一国自足を前提にしているから、自国で産出されるものから考えて携帯電話もできるようにしないとダメですね。だから確かにリサイクルは強化しなければいけない。

でも一方では、科学技術が飛躍的に、今まで気づかなかったことにどんどん突っ込んでいく必要があると思います。

「あの金属を使わなければ絶対に無理」と考えればその通りになります。しかし、全く別の観点から発見する人というのがいつの時代においても現れてくるものです。


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パワーパフガールズにみる力

2007年05月22日 13時32分23秒 | 法務
知識に溺れた人というのは、何かを切り開くためにエネルギーを使うよりかは、何かの物事を否定するために、誰かを否定し、自分を認めてほしいがゆえに、言葉を吐き出しています。だからどうしても、世のためよりは自分のことのみを考えての知識遊びの方々がおられるでしょう。

だから最近では、とにもかくにも、勉強が優先。勉強してからでないと、何もできない。とにかく知ることをちゃんとしないといかんという雰囲気が社会に感じられます。知識があったらそれをひけらかしたいという人増えているように見えます。そして、自分はAさんよりもものを知っているから偉くて、Bさんよりものを知らないから偉くないと勝手に決めています。

しかしながら先に愛がなくては、ものを知る吸収力も育たないし、肉体も鍛えらないし技術も身につきません。そういう元となる原動力というのがあるのだと私は思います。つまり相手に対する肯定力です。

先日、「あのキャラなんという名前だっけ」といった話ですが、「パワーパフガールズ」というのをなおちゃんに思い出させてくれました。主人公は、博士の作ったロボットである三人娘のパワーパフガールズで、力がめちゃくちゃ強い。強すぎて、町で鬼ごっこをして建物やら道路やらをどんどん破壊してしまい、町で嫌われ者になるわけです。

町の嫌われ者となった三人組は、自分たちのパワーを隠すようにして暮らしていきます。パワーを使わないので、それをいいことに、ある日、町の荒くれ者たちに襲われました。

一方、猿みたいな妖怪がいます。とても頭がかしこい奴がです。この猿が、襲われている三人組を助けます。しかし、その猿は自分の姿を彼女らに見せようとはしません。自分は醜いモンスターであると、脳が上まで突き出ていて、化け物として扱われ町で嫌われ者であったからずっとひっそりと暮らしてきたということでした。

自分はこんなに頭がよくて、ものを知っていて、この町をよくする方法を誰よりも知っているのになんで嫌われるんだといって嘆いています。

やがて両者は、片や力が強くて嫌われて、片や頭がよくて嫌われて、お互いに嫌われ者同士として結束していくことになります。


猿の化け物が言います。「俺の頭脳とおまえたちのパワーがあれば、この町を変えることができる。もっと良い町ができるのだ」といって、彼女たちに了承させ、化け物が設計した通りに何かを作り出していくわけです。パワーパフガールズたちはどんどん物資を運んで、何ができるのかは、彼女らも詳しくは知らないけれども基地みたいなものを完成させるわけです。これで彼女たち三人は、町のために物事を成し遂げた。今度からは嫌われないだろうと希望を抱きます。

ところが猿の化け物がやったことは、町中の動物園の猿たちを猿人化させ、人間たちをその支配下におさめることでした。集まった猿たちはどんどん町を破壊し、人々を殺戮していきます。


猿の化け物が言っていた良い町とは、猿による人間支配のことでした。

それで「どうしよう、とんでもないことをしてしまった」とパワーパフガールズは嘆くわけです。今度は町の人気者になるだろうと化け物に言われて、多くの協力をしてきましたが、結果は、以前よりもさらに町の人たちに罵倒されるようになりました。

それで当初はその猿の化け物が王となって治めるつもりでしたが、呼び寄せたいずれの猿たちも自分が王になるといって猿同士での戦争が始まります。

ここに大きなポイントがあります。つまり、「自分だけが正しい、他のものは認めない」という考えは、必ず、その自分と同じ考えを持つ者同士で戦いを始めるわけです。今の政治闘争は、どこをみてもそうなっています。そして政治に関係のない一般の人たちでもそういう傾向が出てきています。市場経済も米国化がすすみ、「己のみ勝つ」「あいつは間違っている」となってきています。

「平和を作る」と言って、自らの敵を作り、その敵を指差して「あいつらは戦争をさせようとしている」とけしかけています。ようするに、「平和を作る」と言っている人たちが争いごとを作り出していきます。イラク戦争、湾岸戦争もそうですね。今の護憲派市民運動も改憲派保守も同じことをやっています。

このアニメでは、猿同士がまさにそれをやっています。

そして、町の人たちにさらに嫌われたパワーパフガールズは「もうあんなところには戻りたくない」といっていなくなります。

でも自分の父親たる博士の叫び声を聞き、町に戻って助けにいきます。そして、町で猿たちに襲われている市民を救済していきます。死にそうになっている赤ちゃんや犬をみて、かわいそうだ、助けなければとなっていきます。そして町中の人たちを救い出し、博士の作った薬品も手伝って、猿たちを一掃するのです。


ここで我々が考えなければならないことは、力が強いこと自体に善悪はないということです。良いことにも使えるし悪い事にも使えます。武力においても知力において、経済力においてもそうです。それをどう使うかというのは、力をコントロールする部分である心に左右されているということです。

いかに頭が良くても、体が強くても、自分のためだけに使っていれば何にもならないし、利他のために使われて発揮されるものも多くあるでしょう。

こういうことが忘れがちな世の中になっていると感じます。現在、教育関連法案が審議されていますが、それを痛切に感じます。制度を議論する政治家・官僚・学者のお遊びになっています。彼らの支配力を満足させるためにやっているようなことを感じます。

そして、当ブログで討論にやってくる人も、みな知のためにやっている人が多いようです。目的は社会発展のために討論されるのが筋ですが、あまりにも学問馬鹿が多すぎて、目的に愛も心もともなっていない場合が多いようです。

どこにそれが現れるかというと、自分の考えについては、とにかく理屈抜きにして、とにかく肯定されなければならないというワガママなことから始まっているからです。つまり自分が正しいという結論が先にありきで、物事を話している場合がとても多いようです。この原因が、自己中心主義であるということでしょう。

知識に溺れている人との討論は、結局のところ、相手を否定する事が目的だから何も生まれないのです。だけれども、何かのために、やっているということになれば発展的に進みます。

例えば、護憲の人は世界平和を願っています。武器のない世の中を作ろうとしています。では武器のない世の中が平和になるとその人が信じているのであれば、どのようにして各国の武力をなくしていくのがいいのか、そのためには国家政府がなぜゆえに存在するのかということを考えてもらうのです。そうなると自然主義経済というものが、憲法9条を守るよりも近道であるということがわかるでしょう。

改憲の人は、自国の平和のために武力が必要であり、集団的自衛権を認めるべきだとしています。ではなぜ他国が攻めて来るのか、他国の一般人が個人で包丁もっては来ません。これも国家政府の仕組みによってできています。だから憲法9条を改正するよりも自然主義経済が近道である事がわかるはずです。また、これまでの怨念を中国や朝鮮半島が抱くのはなぜですかと、富が蓄積できて政府が潤うからでしょうと、なります。

だから、何のためにその人は何をしたいのかについてが、明確であると、ただ自分の知識遊びでこの人は言っているのか、あるいは自分を磨こうとして言っているのかは、その内容を聞けばだいたいわかりますよね。

政治というものは、どの人も当初は志高くやっているんだけれども、ほとんどの人は主張のための主張になってしまうものです。これまで護憲を守ってきたから、これはもう崩せないんだと、究極は平和を侵してまでも護憲を譲らないくらいのところにまで行き着きます。なぜかといえば、自分の思想のためにだけやっているからです。思想の危険性というのはこういうところにあります。

やがて他人を否定するために、脳みそをほじくりまわすようになっていくのです。心から考えてなせば、そのようにはなりません。プラス思考同士で討論した場合には、新たなものが生まれます。

だから平和党は、何かに反対するための政治活動をしてはならないようにすべきと思います。平和党を勝手に反戦政党だと思い込んでいる人がいますけれども、ちゃんと見ていればわかることです。

平和党は現行の資本主義経済もあってよし、社会主義もあってよしとしています。保守もリベラルも社民もマルキシズムもあってよいし、そのために違う新たな軸である次元を出しています。それが自然主義経済なり、善悪中毒なり、憲法からの脱却なりです。

このアニメでは結局、猿の化け物は自分のみを肯定し、人間を支配下に置こうとしました。それと同時に猿仲間同士の中でも、自分のみを肯定し、他の猿について否定していきます。

でもパワーパフガールズは自分たちを迫害した市民に対しても肯定的にとらえて救済していっています。また、ストーリーの途中では父親たる博士にも愛想をつかされるのですが、愛ゆえに助けにいくのです。

だから、自分だけはどんなに理屈が立たなくても自分だけは肯定し、気に入らないものがあれば否定するというのは己の破滅を導き、自分も他人も肯定することは発展を作り出すという教訓だと思います。ディズニーはじめ、商業主義たる米国アニメを馬鹿にしていましたが、そうでもないことがよくわかりました。でも内容については、日本のアニメは世界一でしょう。


世界最大のカルト教団

2007年05月22日 13時30分39秒 | 財務金融
自然主義経済を否定する場合に、必ず「理由はなしにそれは無理」というのが圧倒的に多いのです。これは世界最大のカルト教団・資本主義教によるマインドコントロールによるものです。

では、こういう人じゃなしに、明らかに経済学の理論を持っている人と私が討論したとしましょう。今まで私のブログにその討論集についてつねに掲載してきています。

彼らの発言者をみてもわかると思いますが、「なんだかわからないけど無理」という拒否感が先に立ちます。こういう思想にハマるのは危険だよと言う人もいるでしょう。

だけれどもそういう思想にハマることで得をする人間というのは、今までで考えるとどういう人がいますかということです。

第一に、お金を儲けたい人。
第二に、教祖として偉くなりたい人。

しかしながら、自然主義経済は富を貯めておく事ができないようにしようと提唱されたことですから、第一は無理です。

それから権力なしに、全員が自由に活動できるために政府極小論・トップがなくても成り立つ社会を提唱しているわけだから第二もないわけです。貯えがたまらない=権力の集中に意味がない。

こういうふうに考えると、明らかなのに、なんで人々はそう思ってしまうかというと、それが固定概念です。やばい団体だとレッテルを貼ります。世の中にはそういう団体だらけである事実もあります。

だが、平和党の政策内容を見れば、明らかに逆のことを提唱していますよね。だから彼らは論理破綻して思い込みから物事を決め付けてかかっているわけです。

で、このような人はほとんどです。つまり自然主義経済がダメな理由について、誰も言えないんです。どんな経済学者でも説明がつきません。だからみんな目からうろこが落ちたといって平和党を支持したいと言ってくるのです。

彼らには拒否感があるからです。理論的には否定しておきながら、彼らは生活の中では、期限付きのビール券などを使っているでしょう。何月何日までしか使えないピザ割引券を使うでしょう。だから自分の矛盾には気づいていないのです。話はひろがるから言いませんけど、「これらの商品券を経済全体に拡大したら成り立たないだろう」と皆言いますが、それについてどのように説明がつくでしょうか。

ですので、こういう人と波長を合わせずにやっていくことが望ましいと私は今まで考えてきました。否定するものに対して一生懸命になると、かえって実現ができなくなるからです。

しかしながら、こういう人たちと討論をして、その討論結果を世の中に見てもらいたいということもあります。まずはその前例を作りたいと今は思っています。

彼らが私に言ってくる事は、ほとんど何パターンかしかありません。実に決まりきった、こちらが用意しているマニュアルどおりのことしか言ってきません。そして、彼らの言い分のは大本をたどると結局のところ、「それは昔からそうなっている」でしかないのです。

だけれどもその昔というのはたいした年月じゃないです。明治くらいからのほんのごくわずかな常識を宇宙の永遠普遍の法則のごときに言っています。


広い宇宙がこの世を作っているのに、わずかごく一部の常識、たった今だけの常識にみな捕らわれています。それが限界を示したときに、カラを破らなくてはいけませんが、彼らにそれはできません。



平和党は、自然主義経済を拒否する人に対して、我々は肯定しています。したがって彼らの常識たるプラス利子制度も残る・・としているのです。その結果は自明だからです。

しかし彼らはマイナス利子を否定しますね。これによって我々はますます有利になります。多様性を認めないものは淘汰されるからです。共産圏が崩壊したのはそういうことです。

今まで私の上げ足をとってきた人はたくさんいましたが、上げ足をとること自体を目的としている場合、彼らは世の中の幸福について論じているのではなくて、人に嫌がらせをすることが主題ですから、あまり意味はありません。



ある人が堂々と異論を唱えてきたので、私は骨のある人間かと思って彼に聞いてみたのですが、自分は無知なので説明できないと言ってきました。でも結論だけは、「間違っている」と言っている訳です。だからここで終了です。うちの三歳の子どもはジュースが欲しいといいます。なんでと聞くとジュースが欲しいからだといいます。これと同じことを彼は言っています。

この議論を見た人が勝敗を決めるから、これは非常に良かったです。だから深く感謝しています。

でも彼が勝ったと考える人もいるかもしれませんね。では、その人に対して、私は討論してもいい。けれどもたぶん同じです。ようするに感情的なる拒否感があるから子どもと同じことを最終的に、どの人も言い出して終わっています。

その拒否感を取り除くためには、その原因をその人に聞いてみることです。どうしてそうなっているのか、どうしてプラス利子でなければならないのか。これを聞いていくと、どの人も必ず行き詰まります。


普通に考えれば、自然界と経済の仕組みがかけ離れている為に、現行の資本主義は無理であるとの結論が導き出されます。

でもそれはそうじゃないと、理屈なんかどうでもいいからそうじゃないと、今までそういう経済学のもとでやってきているわけです。

資本主義の成熟期まではそれですみます。しかし、どんどん拡大していくとおかしなことになりますね。だから最後は破裂するしかないのです。そんな詐欺師はいっぱい世の中にいますよね。それが今度は地球上で起きてしまうわけです。こちらのほうが余程危険な政治思想ではないですかと、わが党は言っているわけです。

こうした世界的破綻は絶対に避けなればなりません。だから、政党として平和党は必要なわけです。今までの政党というのは、政権交代が起きて、その政権を担う政党が利権を治めますね。だけれども、平和党の場合はそれを開放するわけです。

これと同じようなことを言っていたのが世界各地の共産党です。でもそうなっていませんでした。彼らは共産党政府として富を独占しましたね。なぜならば、彼らが資本主義だからです。つまり富を政府に貯めて、権力を行使していたから好き放題やってきたのです。

でも平和党の場合は、富が集中できないようにマイナス利子を言っています。

だから、これのどこに危険な政治思想があるのだと堂々と言えますよね。でも人々の中には、勝手な思い込みがあるから、ああ、あいつらはカルト組織だというわけです。ちょっと考えれば、そうでないことは明白ですよね。いかに彼らが洗脳されしまっているかということです。

平和党が提唱している内容から考えれば簡単です。でもそれを簡単でないようにさせてきた、今までの歴史があります。それがマルクス主義等の社会主義です。

だからみんな自然主義経済をマルクス主義と勘違いしているのです。マルクス主義は資本主義です。資本という、つまり貨幣を貯めて力を発揮する事を肯定しているのだからマルキシズムは政府型資本主義なのです。

自然主義経済というのは、貯蓄・増殖ではなくて、流通・磨耗なのです。これは自然界の熱力学の法則と同じです。これが当然です。だから宇宙自然の仕組みには、権力が集中してるなんてことはありませんね。みなが共生しています。

こういうことを政府でやろうとしたのが社会主義です。でもそれをやっている政府自体が権力の塊です。だから違ってくるのです。お金に力を持たせているからです。人間はお金によって生きているのではなくて、自然によって生かされています。これをどの人も忘れてしまっているから、理屈も持たずに、「自然主義経済はありえない」といって来るのです。

必ず歴史の変革期には、こうした既存のものにしがみついている人がたくさんいるのです。けれども最終的にはみんな、変革後のシステムにしたがっています。明治維新のときも、先の大戦終了後もそうです。それまでに正しいとされてきたことが180度くつがえされてしまっています。

くつがえされる時代というのは、今までやったシステムが限界をきたしたときです。どの人も現状には限界を感じている、だけれども自然主義経済がそれを担うだろうとはほとんどの人は思わないわけです。なぜなら、歴史はそれの繰り返しだからです。最初の頃に気づいた人はいつも少数だからです。

私はこれを三年ほどずーーっと繰り返してきています。

途中で議論ができなくなってしまっている人の場合は五段階ランクでいうと最低レベルです。

次のランクの人は、資本がなければ何もできないことについて説明します。
その上の中間ランクの人は、マイナス利子によって国内の経済が成り立たない事を説明します。
その上は、国際経済について成り立たない事を説明します。このへんでだいたいいつも食料とエネルギーの話が出てきます。
最上級は、自然主義経済をある程度認めるが、それが世界平和にはならないということを説明してきます。

でも九割以上の人は、説明できないで、ただなんとなく違うとだけ言って逃げる人ばかりです。私はそれでいいのだと思っています。

そういうことを人類は繰り返しているからです。気づいた人がみんなのためにやればよい。気づかない人は、たいがい自分のことしか考えていません。気づかない人は、何かを否定します。気づいた人は、気づいたことについてももちろん肯定し、気づかない人に対しても肯定します。
 

L&G「あかり天国」

2007年05月20日 08時03分42秒 | 財務金融
最近はインターネットでビジネスをしている人もどんどん増えてきて、言葉が紛らわしくなってきているとは思いますが、ネットワークビジネスは連鎖販売取引のことです。

「マルチ商法、ネットワークマーケティング、MLM、マルチ・レベル・マーケティング」などの別称で、インターネットの普及で非常に言い方がややこしいと思っています。

今まで私は、こういうもの中の比較的メジャーなもの、アムウェイとか、ニューススキンとか、あとなんだったか名前は忘れましたけど、五つくらい入っていたと思います。多くの政治家もこれに入っています。ほとんど票のためでしょう。人脈を作るにも適しているでしょう。

それでほとんどの人は、こうしたものに対して反対するわけです。私ははっきり言って、熱心でないかわりに別にどうでもいいと思っていたのであまり考えてきませんでした。これでお金が入ってきたことも一度もありません。そのかわり買ったことも全くないです。だから興味がないのにいろいろと入会してきたのですが、こういうシステムというのは資本主義を肯定している以上、当然に存在する事だと思っています。

これらが胡散臭いもの、良くないものということの説明をすると、資本主義を否定する事につながります。だからホリエモンが衆議院に出た頃、平和党としては批判しました。あるいは、彼の経済思想はとても日本には馴染まないものだといいました。しかしながら、彼は資本主義の成熟・末期においては必然的に出てくるものです。そして、彼は裁判の過程で、なぜこれが犯罪になるのかということについて、世の中に広く学ばさせたのではないでしょうか。

何が合法で、何が非合法か、そんなものは政府が勝手に決めているだけです。かつてはフランチャイズ形式というものも搾取の方法として非難されたことがありましたが、今はあまりそんなことを言う人はいないでしょう。

しかし今でもコンビニ経営者などは、大いに搾取されていると思います。しかし、これは資本主義の仕組みなのです。いずれにしても、今の資本主義というものは、破滅の方向にむかって一生懸命走っていることは間違いないです。プラス利子がプラス利子を呼び、どこにも存在しない富を求めてかってにみなが遊んでいます。遊んでいるだけならいいけれども、それによって自殺に追い込まれたり、教育に影響を与えたり、犯罪を作り出したり、果ては戦争を起こしたり、人々にストレスを与えて病気を作り出しています。

だから既成政党に自然主義経済について気づかせるか、それはおそらく不可能であるから平和党政権にするしかないわけです。

「格差社会から共生社会に」とスローガンを掲げている野党の政策などをみてみますと、それらの政策を達成するためには全く無関係なことばかり並べている、若しくは願望だけが書いてあるものばかりです。本質は、資本主義のプラス利子構造にあるのです。このことにどの参議院選挙立候補予定者も気づいてません。この中から何を選んでも解決しないことは明らかです。

それで話を元に戻しますと、資本主義経済というのはいわば仲介の経済であります。貨幣が物事を仲介するがゆえにプラス利子になります。あのロビンソン物語を読んだらそれはよくわかったと思います。ならば当然、大資本たるところが、さらに大資本をかき集めるというのは必然のことでしょう。それで末端の労働者は無駄な労働を、人々が本来必要でないようなものをわざわざ売るわけです。日々、やってくる営業マンをみると本当にそう思います。彼らはモノやサービスを売るためにやっているのではなくて、自分の生活のためにやっています。なぜならば搾取する側があるからそうならざるを得ない。これは自然主義経済のマイナス利子による通貨で全てが換わるわけです。

なぜ私がここでネットワークビジネスの話をしたかというと、つい先ごろ、「あかり天国」というものを主宰している人が話題になったからです。
三年くらい前になると思いますが、私がこれを知ったのは、知人のオフィスにこのパンフレットが置いてあったからです。それをただボーッと読んでいただけですが、その数ヵ月後だったか、またそのパンフレットを別のところでみました。それでこれは縁があるなと思って、もう一度よく読んでみました。

そうするとそこには、お金に支配されない世の中を作ることが書いてあります。それで私はこれをみんなに見てもらおうと思って、その「あかり天国」というものをやっているエルアンドジーというところに電話をして、平和党本部に50冊送ってくれと言いました。

ようするに独自通貨を発行して、全ての経済構造を作ろうという点においては平和党と同じなわけです。でも減価する通貨ではないから、今一般に流れている地域通貨と同じようにいつか沈んでしまうだろうなと思ったわけです。

でも地域通貨とはちょっと違うのは、全国規模で自給自足させようという意味もこめられているような気がしたので関心を持ったのです。

それともう一つの疑問点は、マルチ商法のようなことも同時にやっているからです。独自通貨の運動だけで十分だと思いましたが、なぜこういうことをやっているのかと私は考えました。

地域通貨というのは福祉、ボランティアなどのいわば政府・自治体がやるべきようなことを主にやっていて、人々の欲望をかきたてていません。そして、全ての地域通貨は減価機能がありません。したがって、地域通貨には限界があると感じていました。だから、エルアンドジーのように、人々の欲望をかきたてるような方法を用いれば、人は集まってきやすいでしょう。ただ単に独自通貨を作りましょうと言っても、人々には何のメリットもありません。それにお金から開放された経済ネットワークを作るといっても、やはり当初は資本が必要でしょう。そこでこのようなことをしているのだろうなと、私は推測したわけです。

それで新宿のヒルトンホテルで、ここのトップの波和二さんという人に直接、平和党の考えを伝えようとしたわけです。なぜなら、その前の時点で、通りがかりのときに波さんは私たち夫婦に「あとで来なさい」となぜか言ってきたからです。それで開場になってから、波さんに近づいていったのですが、多くの人々に私が波さんと話そうとすることを止めに入るわけです。

なぜなら、彼らには「ネットワークの掟」などがあるのやら、Aが親でBが子でCが孫で、とかいう序列があるので、それを飛ばして波さんに対して話し掛けるのはNGだということです。

それでまあ、私は面白くなくなって参加しなくなっていくわけです。それで私に帝王学を教えたと自分で言っているある人が言っていたことを思い出すわけです。「ネットワークビジネスには手をだすな。なぜならば、人の傘下に入るということは、己が政治家や経営者としてトップを目指す以上、傘下に入ることは、自分の舎弟・子分たちもひいては舐められるようになる」ということです。つまりこれには経済的利益も資本主義の道徳も全く度外視しています。それよりも優先することがあるという教えです。

それで私は、自分の会社の社員に、「社長、こういうネットワークがあるから入ってください。私の下になっても、入る利益は私と同じですから心配しないで下さい」といわれたことがありましたが、断りました。私は、「もしもやるのであれば、うちの会社であなた自身がやりなさい。うちは不動産業だが、他に何をやってもいい、自分の好きなことをしたほうが自分のためにも人のためにもなるから」と言いました。

つまり、人の傘下にトップ自身が入るということは、平和党であれば党員、会社であれば社員がその下ということが付いて回ります。社長というのは資本金がいくらであれ社長です。政党も国会議員数が何人であってもトップは党首です。問題は見た目の大きさではなくて、本質の大きさです。だからそのときに、ネットワークビジネスの孫の孫なんてやっていたら、従業員や党員にとって、あとあと不都合な事が必ず起きます。だからそういう意味において私は入らないことを決めました。


で、エルアンドジーはほったらかしにしていたわけです。

そしたらニュースでこのエルアンドジーの話が出たらしい。伝え聞きだからよくわからないが、会員からお金を集めて、その返済が滞っているとのこと。ここのシステムはどんどんみんなが投資して、無限にお金が増えていくという、よくあるやり方。

それで私が思うに、これが違法行為であるというのであれば、国がやるのはなぜ違法ではないのかということ。つまり年金はこれと同じではないか。だが破綻は目に見えているのに、あたかも払わなければ悪人のごとく、社会保険庁は取り立てている。つまりプラス利子を前提にした経済システムというのは、これと同じことをやっているのです。ホリエモンがどうして非合法になるのかについて、考えなければならないのは、資本主義という経済システムが大いに関係しているからです。

だがいずれにせよ、私はエルアンドジーがネットワークビジネスの類であるならば、人のつながりで面倒くさいことがあるのならばやりたくないし、その無限にお金が増えていくという方法も、資本主義に則ったやり方であるから、こういうものはなくしたほうがいいと考えているので、やらなかったわけです。

それでそのニュースで波さんがインタビューで言ったことというのは、「俺が法律だ」と述べたらしいです。なんとも横暴と思えるようなものですが、しかし実際問題、この経済社会を考えてみてください。いったい政府のやっていることと何が違うのでしょうか。

政府ならばいい、民間はダメというのは、北朝鮮にも近いようなことも感じ取られます。では、みんなが勝手になるから政府が取り締まるべきだという意見もわかります。しかし、みんなが勝手にやるとはどういうことでしょうか。たとえばお金を預けたら無限に増えていく。こういうことを民間でしてはいけないのであれば銀行がやるのはいいのか。なぜ良いとするのかといえば・・・・と根源をたどってみると、そんな理由はないことがわかります。

だから私が疑問なのは、エルアンドジーは商取引だけをすればいい。彼らは日銀券に変わる「円天」という通貨を使っています。それで三年前に比べれば多くの物・サービスができつつあります。ここにだけ専念すればよいのであって、余計な投資などを考える必要はないと思います。

それで会員の中には、投資したお金が返ってこないといって騒いでいる人もいるでしょう。資本主義とは自転車操業なのです。どこにお金を注ごうとも、そのお金はもうそこにはないのです。銀行だってそうだし、証券だってそうです。ただ規模がでかいと回せる。規模が小さいと回せない。それだけです。

ある不動産業者でとても悪い奴がいます。彼は、賃貸契約者からの前家賃・敷金・礼金など、貸主に支払うべきものを全て自分の懐に入れてしまうわけです。しかし、次の契約者から得た分で回していきます。だから、これが順繰り順繰り回っている場合は、悪い奴にはなりません。しかし、ひとたび契約件数が滞ったりすると、貸主から「契約金はどうなったの」と催促されるので逃げ出すわけです。でも、また回り始めたら、支払うということを永遠とやるのです。しかし、使い込みすぎたりするとそこでエンドとなります。彼はこういうことをやって三回会社を潰しています。今、彼は渋谷の業者にいます。

だから小さい規模の会社ではこういうことがうまくいきません。大きい規模ならできるけれども、それにもその枠の大きさというものがあって、資本主義は永遠の成長とプラス利子を正義としてしますから、必ずこういう破綻が起きます。どこにも存在しない富をみんなが崇めているのだから当然の事でしょう。だから、自然主義経済にしなければならないと平和党は再三にわたり言っているのです。

エルアンドジーは商取引がもしも活性化しなかったときのことを考えて、投資させてそれで埋めることを考えていたのかもしれません。しかしながら、通貨を減価させることで、そのような詐欺まがいのことをする必要はなくなるわけです。

しかし、わずかな年数で、ここまで作り上げるということは地域通貨ではできることではありません。やはり人々の欲望を動かさない限りは無理なのでしょう。

だから自然主義経済は人々の欲望を抑えるために存在するのではなくて、減価することによって、より多くの自分が得たいものを買えるように、そして自分がつきたい職業に誰でもがなれるようにしているわけです。

ロビンソン物語の解説

2007年05月20日 08時02分12秒 | 財務金融
「自然主義経済は実現できたらいいね」とかそのような甘いものではないことを認識していただきたいです。

つまり、これをしないとどんなことになるのか。賢明な人間が、今後の世界人類の展開を予測していれば、当然に自然主義経済に帰結するだろうと考えられるからです。そして、これは単に一経済政策の問題ではなく、戦争と平和、福祉、教育、地方自治、財政、治安ありとあらゆる分野に及びます。

だから今は泡沫政党扱いで、かなり舐められてはいますが、これは時間の問題です。徐々に人類は、現代の行ってきた矛盾に目覚めるでしょう。

そして、今までの常識から超大規模なる大転換がなされます。世界観・価値観がだいぶ変わります。今日までみなさんが地球の周りに太陽や星が回っていると考えているのと同じように、お金に利子がつくのが当たり前だと信じています。そして、お金で全てのことが可能であるとまで言う人までいますが、こうした考えは打ち砕かれます。すでに、社会にきしみが出てきているからです。

なぜ平和党がどこの政党とも近くないか。どこかの既成政党やミニ政党の二番煎じではないかということがよくわかると思います。

板垣退助結党の自由党ができて明治以来多くの政党を輩出しましたが、ここに気づき、新たな政治イデオロギーを提唱したのは平和党が近代史上初となります。そして、これは実現されます。


ここではロビンソン物語の解説をしてみます。
(原注1)事は自明でありながら、自明であればこそ、今日まであらゆる利子理論家は、かかる利益を認めることがなかった。プルードンでさえ見過ごしたのである。
 
プルードンとは、19世紀フランスの社会主義者です。彼はアナーキズム(無政府主義)を唱えました。しかしながら、そんな人でも利子が当然にあるだろうと考えたものの見方をしています。

つまり政府がない状態を理想としながらも、現実的には利子がないとうまくいかないだろうと考えた人です。ようするに誰もが、利子というものは当然に存在するのだという大前提のもとに、近代以降、ありとあらゆる政治思想・経済思想は成り立ってきたわけです。でも、それが自然界との対話を考えたならば、全くもって無理が生じるということを誰もが見過ごしてきたのです。
(原注2) クヌート・ヴィクゼル『価値、資本および利子』83ペイジ。「しかるにベーム・バベルクは現在財は必要とあれば将来のために『保存しうる』のであるから、少なくとも将来財と同等であると主張している。これはおそらく大きな誇張というものである。ベーム・バベルクはこの法則の例外、すなわち、氷や果物などの、損なわれる財に言及している。しかし、どのような食料品にも、そのことは例外なく高かったり低かったりする程度で妥当しているのである。確かに、こうした財は、将来のための保管に特別な労苦や配慮を必要とせず、しかも危険にも会わないような貴金属や宝石類という財とは違っている。しかし、それらにしても火災やこれに類する災難によって失われることもあるのである」(今日、銀行は金や宝石、有価証券保管用に、個人向けの特別な個室を用意している。しかし、それには賃貸料を支払わねばならないのだ。その金額分だけ、「現在財が将来財に」及ぶということはないのである。)
(現在持っている財産)=(将来持っている財産)
この方程式が成り立つものには、何があるでしょうか。
腐らないもの、なるべく保存のきくものです。ワインなどは熟成させたほうがいいでしょう。

そうするとワインなどの場合は、
(現在持っている財産)≦(将来持っている財産)
になります。

しかしこれは正確には、
(現在持っている財産)+(保管の手間・貯蔵に使用するエネルギー)=(将来持っている財産)
です。

そして、必ずしも(現在持っている財産)+(保管の手間・貯蔵に使用するエネルギー)が変換して、おいしいワインができるとも限りません。火災・地震などの災難がおきて失われる可能性もあります。だから、そのために(保管の手間・貯蔵に使用するエネルギー)のために保険料がかかってきたりもします。地代も家賃もかかっています。そのときの人件費もかかるでしょう。

時間の問題を入れずに今日の経済学はできています。我々は三次元の人々なので空間しか考えないで、時間の問題を見過ごす事が往々にしてあるわけです。

それでは宝石の場合はどうかとなります。
これは
(現在持っている財産)=(将来持っている財産)
が成り立つじゃないかと。
そして保管するにも、費用をかけずに、しかも、盗まれないように自分の庭の誰もわからないようなところに埋めているとします。

それをなぜ彼が埋めるかと言えば、一つはその宝石をお金に換えれば高値になるということであり、もう一つはそれは将来にわたってもその高値であろうということからです。

ここでの確実性というのは、今売れば高値であるということです。将来、自分は死んでいるかもしれないし、宝石そのものに価値を見出さない世の中になっているかもしれません。あくまでも「かもしれない」です。だからそのとおりかもしれませんが、今はっきりとわかっていることは、今売ったら高く売れるということだけです。つまり現在のほうが保障の価値は高いのです。ということは、その時点では、
(現在持っている財産)≧(将来持っている財産)
ということになります。

そして将来、たしかにその価値が保存できていて、過去に売ったときと同じ価格で売ることができたならば、
(過去に埋めた財産)=(現在掘り出した財産)
です。

だけれども、その保存していた間、彼は「将来無価値になってしまうかもしれない」というリスクを背負っているわけです。

競馬で考えてみましょう。Aは馬券を買おうとしています。

そのレースは一頭だてです。単勝は一通りしかありません。オッズは0.75倍です。なぜ一倍ではないかというと25パーセントは胴元が持っていくからです。そのレースをやるのにも諸費用がかかるからです。宝石を土に埋めた場合には、それなりの労力がかかっているでしょう。
ここに100万円投げ込んで、レース終了後に75万円受け取る。こんな馬鹿なことはしません。

では百歩譲って、胴元が金をとらないとします。
そうすると100万円は100万円として返ってきます。得もしていないし、損もしていない。財産が保存できたからよかったと考えられるでしょうか。

レース前に馬券を買うときに、彼はその100万円を使って飲み食いもできるし、他のギャンブルの楽しみもできます。つまりレース前にはいろいろな可能性があったが、彼は馬券を買うという1点に絞り込んだ事によって、そこに拘束されています。

では彼と同じように100万円持っているBという人間がいて、彼は馬券を買わずにAを眺めていたと。馬券を買おうと買うまいと結果は同じです。

だからこそ、将来にむかって、それはリスクであるから利子をつけましょうということになります。

今100万円を使わないで銀行に預金します。利子がつくとします。今はつきませんね。なぜかというとこれは資本主義の末期だからです。今後、高い預金金利がつくことは永遠にありえません。そろそろおしまいだからです。

だからここではバブル時代、かつて宝くじで3億円当てたら利子だけで一生食べていけると信じられていた時代のことを考えてみます。

金利5%とするならば、3億円預けている人は一年後に1500万円、百万円預けている人は、一年後に5万円受け取れます。元金はどこにありますか。銀行にあるでしょうか。確かに通帳には3億円なり、百万円なり、数字としては書いてあります。しかし、最初に日銀券として預けた紙幣は、銀行の手許を離れているでしょう。また、利子で得た収入の中からも税金で引かれていますから政府や自治体に流れています。
 
で、銀行はどこにやったかというと、企業などに貸し出しをします。返済のときに利子をつけて返してもらいます。それで銀行は成り立っています。

私は子どものときにこれが理解できませんでした。つまりなぜ我々は銀行にお金を預けるだけで、利子をもらえるのか。その利子はどこから調達してくるのかということです。なるほど、銀行は企業にお金を貸してその利子をもらって、それで我々にその一部を利子としてもらえるんだなと、ある年齢にいったときに皆納得するのですが、私には釈然としないものがありました。

なぜなら企業は借りたときよりも、より多くのお金、つまり利子分をつけて返します。ということは、借りたときよりも返すときのほうが大変です。これは企業経営者でも消費者金融で借りた人でもわかるでしょう。でも、その返済すべき利子分はどこから得るのかということです。

どこかにブァーッと分散した不安定なところから収入を得ると、人は理論がうやむやになるのです。

そして平和党を作ってからよくわかりました。そんなものはこの世には存在していないんだと。

でも、こういう言い方ができます。借り入れのときよりも、返済のときのお金が多いということは、経済全体として成長する。伸びていく。つまり前年度よりも国内全体の経済がよくなる・・というのがあります。これが経済成長だと今まで言ってきています。ということは自転車操業です。最初のうちは、いいけれども、そのうち自然界に存在している物質と、お金とが等価にならなくなるでしょう。では将来の富であると仮定して、それはどんどん先送りを作り出します。

よくわかりませんね。みんなこのへんで考えるのをやめて「ああ、そうか」と思ってしまうのです。竹中平蔵氏の書いた漫画の経済学の本なんかを読んでもそう思います。つまり、どこかで思考を停止させてしまう。根源までいかずに、これは昔からこうなっているから・・ということで、どの経済学者も終わらせてしまっているのです。

だから、よく国の財政赤字の問題で、「将来の子どもたちに借金を残すな」とか言っている人がいますよね。一方で、現代のプラス利子制度を認めているというのは大いなる矛盾なんです。

それで現代まですんできたからいいけれども、今の経済社会がおかしくなってきているのは、こうした思考の停止が原因だと思うわけです。つまりずーっと政府は、財政注入、金融介入をやってきて日本経済は成り立ってきたが、それがどうにもうまくいかなくなった。

これは今まで言われてきた経済の法則とは違う事になってきた。あきらかに違うことはわかっているのだけれども、いったいどうしたらいいのだろうと。だから古典経済学に帰って、政府はなるべくタッチしないほうがいいんじゃないかと、小泉・竹中の構造改革というのはそういうことです。とりあえずわからないから昔に返ってみたのです。そうしたら案の定、格差社会ができて弱肉強食の市場経済ができてきました。これは結果的にはみえています。けれども、他にやりようがない。しかも小泉さんの場合は、田中角栄憎し・竹下登憎し・橋本派憎しできていますから、それに輪をかけて徹底的に利権政治をつぶしにかかった。

だけれども、古典派経済学をやろうと、ケインズ経済学・利権政治をやろうとも、あるいは社会民主主義にしてみようと、果ては共産主義にしようとも、全ては同じ土台。即ち資本は強く、お金はモノよりも強い。プラス利子である・・・ということに最大の要因があるのです。それで、これまでにこうしたことを言うことはアホじゃないかと、言われてきたわけです。それにそんなこと言う人間もいなかったのです。でも、こうして平和党として現れてきました。

つまり今まで根源となる部分について、誰もが無視してきました。だから、マイナス利子の自然主義経済なんて絶対にできっこないといっている人、今まで多くいましたね。彼らとブログで議論していると、いつのまにか答えられなくなって、いなくなってしまうんですよ。

よくわからないというのは、悪いことではないし、これから発展的なものにつながることです。ただ、人間は思い込みが先立っています。だから、どうしても平和党の言っていることは否定したいと思っているでしょう。でも理屈が成り立たないのです。どの人もみんな。

抽象的に「そんなんじゃダメ」とか「タコ部屋みたいになる」とか「原始共産主義になる」とか言っている人はいくらでもいます。でも、どうしてどういう過程でそうなるのか、全く説明ができていません。ただなんとなくダメだ。俺はそんなもん見たことないから無理だとか、なるほど見たことがないとわからないというのであれば、資本主義の破滅を待つしかないでしょう。これでは政治の役割を果たせません。政治がなぜゆえに存在しているのか。人々の幸福を作るためであり、危機的状況があればいち早く察知して回避するためにあるのです。

彼らは、今後も経済成長が永遠に続くと思っています。それは続かないものだと私は証明できます。しかし、自然主義経済を否定し、まだまだ永遠に経済成長が続くというのであれぱ、自然主義経済によってどのように経済破綻が起きるのかを説明できなければなりません。でも、いずれの人も説明ができません。これはケインズにおいてもそうです。そして、最終的にはケインズ自身も、資本主義が終わることについては認めています。マルクスも、アダムスミスもシュンペーターもワルラスも、ほとんど多くの偉大な経済学者は、資本主義に限界がやってくることについて書いています。

でも、そのあとに何がくるのかがわからない。マルクスが提唱したのは、単なる別の形の資本主義です。そして、これは自由を認めないがゆえに真っ先に消滅しました。今度は資本主義が終わります。

政治家・官僚は経済政策を考えるときに、政府寄りか民間寄りかを考えます。ところがここに落とし穴があって、どちら寄りであろうとも貨幣の本質を変えない限りは同じなわけです。ここを誰もが見落としています。そして、このような政党が今まで存在してこなかった。みなが資本から物事を考えているからです。
 
労働力は利子(剰余価値)の源泉である。貨幣を資本に転化させる利子は貨幣に起因することはありえない。

貨幣が交換手段であることに間違いなければ、商品価格を支払い、商品を購入する以外のことをしはしない。

貨幣がそのように変わらずにあり続けるならば、価値を付け加えることはない。

それゆえ剰余価値(利子)は購入され、より高価で販売された商品に由来する。

この変化は購入においても、販売においても発生しない。

これらの行為においては、いずれも等価物が交換される。

それゆえ、商品を購入して使用し、再び売却することによって、この変化が起こるということは依然、た
んなる仮定として任意のものである

(マルクス、『資本論』、第6章)
漫画だともっと簡単なセリフで終わらせいました。

「物やサービスを余るほど生産してその余りが利子を作るんだろう?」「NO」
「では、商人が仕入れ値と売値に差をつけるせいか?」「NO」

となっています。

それでロビンソンはこれについて理解できないわけです。マルクスの資本論を引用しています。つまり、マルクスは資本主義者だったということです。資本主義というのは、民間とか政府とか関係ありません。とにかくお金がプラス利子に働くことが資本主義であるということです。


訪問者、漫画ではメンサナ青年が、「利子の発生は貨幣が原因」としています。しかし、誰もがロビンソンと同じように貨幣は単なる交換手段であって、銀行に預けたりしているから、利子というものは発生すると信じています。ほとんどの人は、貨幣と利子は別の問題であると考えています。


だから貨幣がある限り、利子は発生するといえます。つまり物々交換ではないから利子が発生するということです。でも物々交換はとても不便です。だから、貨幣にマイナスの利子を与えるということです。

では、仮に、「マイナス利子の貨幣では私は売りません」といったお店があるとします。それは自由です。逆に、「マイナス利子の貨幣でも私は売ります」という店があったら、どういうことが起きるでしょうか。マイナス利子の貨幣を持っている人は、早く手放したいからそちらへ行くでしょう。売りませんといっているほうは物が売れなくなります。やがてつぶれます。しかしマイナス利子貨幣を利用しているお店は、自ら得た収入もまたすぐに手放さねばならないのですぐに物を仕入れたり、経費の支払いをするでしょう。

なぜ、こんな簡単な事を人々は「ありえないこと」といってレッテルを貼るのでしょうか。今までの考えを全て捨てなくてはならないために、嫌な気がするのでしょう。規制緩和によって利権構造を破壊された人たちと同じ気分を味わうからです。今まで学んだことが覆ってしまうので人々は抵抗を持つのです。しかし、それは時代の転換期にしなければ、次の未来を作れません。

ロビンソン物語

2007年05月20日 07時56分29秒 | 財務金融
 
ここで詳述される利子理論の導入部として、また、とりわけ利子問題に関連して強く残っている古くさ い臆断を容易に取り除くためにも、私はロビンソン・クルーソー物語から始めなければならない。

よく知られているように、ロビンソン・クルーソーは健康上の配慮から、山の南面に家を建て、これに対して、北面の湿潤で肥沃な斜面で農作物を栽培した。

したがって彼は山を越えて収穫物を運ばざるをえなかった。この労働をしなくて済むようにしようとして、彼は山の周囲に運河を建設しようとした。この企ては沈泥が運河を塞いでしまうのを避けるために中断せずに継続されなければならないが、それに必要な時間を彼は3年間と見積もった。

したがって彼は3年間の蓄えを調達しなければならなかった。数頭の豚をし、肉を塩漬けにした。地面の穴に穀物をいっぱいに満たし、入念に覆いをした。鹿皮をなめして衣服に仕立て、木箱の中にしまい込み、衣魚除けにくさいスカンク腺で覆った。

要するに彼は自分が考えた通りに、これから三年間のことを考えたのである。

計画した通りに「資本」が間に合うかどうか、最終的な予測を立てていると、一人の男がやってくるのが見えた。

「やあ」 と、その訪問者は声をかけてきた。 「私の小船が難破してしまったので、この島に上陸してきました。田野を開墾したいのですが、最初の収穫が得られるまでのあいだ、あなたの蓄えで私を救ってくださるわけにはいかないでしょうか」

 この言葉を聞くや、ロビンソンの頭には、自分の蓄えが利子と金利生活者の栄光をもたらしてくれる、という考えが閃いた。彼は急ぎその申し出を承諾したのである。 「ありがたい」 と、その訪問者は答えた。そして、 「しかし、あたなたに言っておかなくちゃなりませんが、私は利子を支払いませんよ。払わなければならないくらいなら、狩猟や漁でもして生きていきますよ。私の信仰は利子を取ることも、支払うことも禁じているんです」

ロビンソン 「それはまた結構な宗教をお持ちだ。でも、あなたが利子をこれっぽっちも支払わないとするなら、いったいどうして、私が蓄えたとっておきの品をですよ、貸し付けると思うんですか」

訪問者 「それは私利からですよ、ロビンソン。儲かるからですよ、あなたにもわかるでしょう。あなたは利益を得るんです。それもかなりな額ですよ」

ロビンソン 「そういうなら、まず、あなたがその計算をしてみせてくださいよ。正直いって、蓄えをですよ、無利子で貸し付けて、どれくらい利益が得られるのか、見当がつきませんしね」

訪問者 「では、全部計算してみましょう。ご自分で計算しなおしてみれば、無利子で貸し付けたうえに、お礼までいうことになりますよ。そうですね、私にはさし当たり衣服が必要です。見ての通り、裸ですから。衣服の蓄えはありますか」

ロビンソン 「その木箱には、上のほうまで衣服が詰まっています」

訪問者 「それにしても、ロビンソン。あなたがほんとうに賢ければいいんですけどねえ。誰がいったい木箱なんぞに衣服を三年間もしまっておこうとしますか。それもですよ、鹿皮です。なんと衣魚の好むごちそうですよ。鹿皮でなくとも、衣類というものは風通しをよくして、油脂を擦り込んでおかなくては。そうしておかなければ、傷んだり、蒸れたりしていまいますよ」

ロビンソン 「おっしゃることはごもっともですが、じゃあ私は他にどうすべきだったというんです。衣装棚にしまっておいたほうがいいなんてことはありません。そんなことしても、ここでは、ネズミがやってきますし、衣魚だって入り込んでくるんですよ」

訪問者 「ああ、木箱にだってネズミが入ってくるでしょうね。見てください。ほら、もうかじられてしまってますよ」

ロビンソン 「まさか、そんな。こういう被害というのはまったくどうにも防ぎようがないですね」

訪問者 「あなたはネズミから身を守る術をご存じないようだ。算術を学んだとはいえませんね。私たちのなかで、あなたのような境遇にあるひとが、ネズミや衣魚、それに腐朽や塵芥、黴から身を守る方法をお話しましょう。私に衣服を貸してください。必要な場合はすぐにでも新しい衣服を、あなたに揃えてあげることをお約束します。あなたは、引き渡したのと同じ程度の衣服を取り戻し、しかもですよ、その衣服は新しいものになっています。必要になって後で木箱の中から引っ張り出してくるものより、はるかに上等ですよ。ましてスカンク油の悪臭なんて付いていません」

ロビンソン 「わかりました。あなたに木箱ごと、衣服ともどもお渡ししましょう。そうしてみれば、無利子で衣服を貸し渡しても、私の利益になるということが、私にもわかるというものです」(原注1)

(原注1)事は自明でありながら、自明であればこそ、今日まであらゆる利子理論家は、かかる利益を認めることがなかった。プルードンでさえ見過ごしたのである。

訪問者 「ところで、小麦をみせてくれませんか。種まきに使うし、パンを作るのにも必要です」

ロビンソン 「その丘をくだったところに埋めてありますよ」

訪問者 「あなたというひとは、小麦を三年間も地面の穴のなかに埋めておくのですか。黴や虫はどうするというのですか」

ロビンソン 「分かっています。でもどうしたらよいんです。どう考えても、これよりよい貯蔵方法など思いつきませんでした」

訪問者 「かがんで、ご覧になってください。表面に虫がはね回っていますでしょう。塵芥がわかりますか。黴は生えていないですか。すぐにも、小麦を取り出して、風にあてなければなりませんよ」

ロビンソン 「この資本はもうだめです。自然のもつ、こうした幾重もの破壊力から身を守る方法がわかっていればよかったんですが」

訪問者 「ロビンソン、私たちのところではどのように家屋を造るかお話しましょう。風通しのよい、湿気のない小屋を建てるんです。床は頑丈な板張りにしますが、そこに小麦を振りまくんです。それからシャベルで全体を掘り返しながら、三週間ごと、定期的に、入念に風にあてるんです。ネズミを捕まえるために猫を飼います。罠も仕掛けますよ。どんなものにも火災保険をかけ、毎年毎年、品質や量目の損失が10%を超えないようにしています」

ロビンソン 「そうだとしても、その仕事やその費用を考えてみますとね」

訪問者 「その仕事を恐れることなどないですよ。なにも費用など要らないんです。どうしたらよいかお話しましょうか。あなたの蓄えを私に貸してください。私が収穫が得られたら、新鮮な穀物で、ポンドならポンドで、袋なら袋で、渡してくれたものを返済しますから。あなたは小屋を建てずにその仕事を済ますのです。つまり、シャベルで掘り返すこともないし、猫に餌をやることもないのです。量目でみてもなにも失うものはないんです。 古くなった麦の代わりに、いつも潤いのある、新鮮なパンを手に入れることができるんです。どうでしょうか」

ロビンソン 「たいへんありがたい。その申し出を受け入れましょう」

訪問者 「それでは無利子で小麦を貸してくれますね」

ロビンソン 「よろしいです。無利子で、当方の感謝までそえます」

訪問者 「でも、私は一部を使うだけです。全部は引き取りませんよ」

ロビンソン 「それでは、10袋につき9袋を返却してくださればよい、という条件で、あなたに蓄え全部を提供しますが、どうでしょう」

訪問者 「いや、結構です。それではまるで、利子付きで、しかもですよ、値打ちを引き上げる正の利子ではなくて、引き下げる負の利子のもとで働くようなものですよ。売り方の代わりに資本家の買い方がいるようなもんですよ。でもね、私の信仰は高利を禁じていますが、また、転倒された利子も禁じているんですよ。ではこうしましょう。私が監督しますから、小麦のストックを取り出して、小屋を建て、必要な作業を行うというのはどうでしょう。その代わりに、毎年、10袋につき2袋を私に報酬として支払ってください。それで折り合いをつけましょう」

ロビンソン 「その支払い分を高利といおうが、仕事と呼ぼうが、そんなことは私にはどうでもいいことです。とにかく、あなたに10袋を渡しましょう。あなたは私に8袋を返す、これで折り合いがつきましたね」

訪問者 「しかしまだ、私には、別の物も必要です。鋤や荷車や手工具です。これら全部、無利子で貸してくれませんか。返す時はどれも変わらぬ品質で、新しい鋤なら新しい鋤を、新しい鎖なら錆のない鎖を返済することを約束します」

ロビンソン 「もちろん、ご用意しましょう。今は、どの蓄えも私には労力のかかる物ばかりですから。この間などは、小川が氾濫して小屋は水浸しになり、なにもかにも泥を被ってしまったんですよ。その次はといえば、嵐で、屋根はむしり取られ、全部、雨で台無しになってしまいました。いまどきのように、天気が感想すると、風が小屋の中へ砂や塵を吹き込むんです。錆や腐朽、倒壊、日照り、光と暗闇、木喰虫、白蟻といったなんやかやで仕事には絶え間がありません。泥棒や放火魔がいないことがまだましですけれど。これらの物を、手間もいらずに、費用もかけずに、損失を受けることもなく、よい状態を維持しながら、あとで役立つように保管できるとは、喜ばしいかぎりです」

訪問者 「それでは蓄えを貸し渡すことが利益になるとわかったのですね」(原注2)

(原注2) クヌート・ヴィクゼル『価値、資本および利子』83ペイジ。「しかるにベーム・バベルクは現在財は必要とあれば将来のために『保存しうる』のであるから、少なくとも将来財と同等であると主張している。これはおそらく大きな誇張というものである。ベーム・バベルクはこの法則の例外、すなわち、氷や果物などの、損なわれる財に言及している。しかし、どのような食料品にも、そのことは例外なく高かったり低かったりする程度で妥当しているのである。確かに、こうした財は、将来のための保管に特別な労苦や配慮を必要とせず、しかも危険にも会わないような貴金属や宝石類という財とは違っている。しかし、それらにしても火災やこれに類する災難によって失われることもあるのである」(今日、銀行は金や宝石、有価証券保管用に、個人向けの特別な個室を用意している。しかし、それには賃貸料を支払わねばならないのだ。その金額分だけ、「現在財が将来財に」及ぶということはないのである。
ロビンソン 「率直にそのことを認めましょう。でも、疑問に思うのですが、なぜ海の向こうの故国では、そのような蓄えが所有者に利子をもたらすのでしょうか」

訪問者 「あなたは、その説明を、海の向こうではこうした取引の仲介をしている貨幣に求めなければなりません」

ロビンソン 「なんですって!貨幣のうちに利子の成因があるというのでうか。そんな」ことはありえません。マルクスが貨幣と利子について述べているところを聞いてみてください」

「労働力は利子(剰余価値)の源泉である。貨幣を資本に転化させる利子は貨幣に起因することはありえない。貨幣が交換手段であることに間違いなければ、商品価格を支払い、商品を購入する以外のことをしはしない。貨幣がそのように変わらずにあり続けるならば、価値を付け加えることはない。それゆえ剰余価値(利子)は購入され、より高価で販売された商品に由来する。この変化は購入においても、販売においても発生しない。これらの行為においては、いずれも等価物が交換される。それゆえ、商品を購入して使用し、再び売却することによって、この変化が起こるということは依然、たんなる仮定として任意のものである(マルクス、『資本論』、第6章)」

訪問者 「この島で暮らし始めて、もうどれくらいになりますか」

ロビンソン 「30年です」

訪問者 「人間というのは、忘れないものですね。あなたはそんな価値論をいまだに引き合いにだします。ロビンソンさん、これは片づいてしまいました。彼の価値論は死に絶えたのです。それを主張するひとなどもはや誰一人もいませんよ」

ロビンソン 「なんですって。利子に関するマルクスの理論が死に絶えたとおっしゃるんですか。そんなことはありえません。たとえ、もはや誰ひとりとしてそう主張する者がいなくても、私はそれを主張します」

訪問者 「それなら、言葉だけではなく、行為によっても主張するがよいでしょう。そうしたいのなら、私と対立することになりますね。私は、ただいま締結した商取引から身を引きましょう。あなたはここに蓄えを持っています。その蓄えは、その性格と用途からその本当の形態であるとみなされるもの、つまり一般に「資本」と呼ばれるものです。私にはあなたの品物が必要ですが、あなたは資本家のように私に対立しようとします。いま、私はあなたに対峙していますが、労働者が資本家にそんなにもあからさまに立ち向かったことはありません。私たちの対立関係のように、資本の所有者と資本を必要とする者との関係が、こんなにも踏みにじられるとは。私から利子をとることができるかどうか、さあ、試してごらんなさい。それとも、もう一度初めから商取引を始めますか」

ロビンソン 「いや、あきらめます。ネズミや衣魚、錆が私の資本家的精力を殺いでしまいました。でも、あなたはこのことをどう説明するというのですか」

訪問者 「説明するのは簡単です。あなたはたったいま私に無利子で貸してくれましたね。しかし、この島に貨幣経済が成立しているとしましょう。その場合、遭難者である私が貸し付けを必要としているとすると、必要としている物を購入するために資金供給者に頼み込む必要がでてきます。資金提供者はネズミや衣魚、錆、火災や屋根の損傷に苦しめられることはありません。ですからあなたとの場合のようには対立しないでしょう。物品の所有に結びついている損失を考えてください。そこでは犬があなたの、そして私の鹿皮を引きずっていっていってしまいます。犬が運んでいってしまうのは犬が保管しているも同然です。どのような配慮も、そしてわたしがあなたを納得させた十分な証明も、資金提供者にとっては関係のないことです。私が利子の支払いを拒んでも、あなたは皮の衣服が入った木箱を閉じはしませんでした。資本の性格があなたをさらなる交渉へと向かわせたのです。しかしです。貨幣資本家は私が利子を支払わないといえば、すげなく私を追い払ってしまうでしょう。私には貨幣そのものが必要だったのではありません。その皮の衣服が必要だったのです。皮の衣服をあなたは無利子で貸し与えてくれます。なのにです。私はそのために貨幣に利子を支払わねばならないんです!

ロビンソン 「そのように利子の原因が貨幣のうちに求められるなら、マルクスは間違っていたのでしょうか。マルクスはどこかでこう述べていましたね。 『本来の商業資本において、G-W-G(貨幣-商品-増殖した貨幣)形態、より高く売るために購入することが最も純粋に現れる。他方、あらゆる資本の運動は流通の局面の内部で起こる。しかし流通そのものから資本の貨幣への転化を説明することは不可能である。そこで等価物が交換されるや否や、商業資本は不可能であるようにみえる。だからこのことは購入や売却をする商品生産者たちから、それらの間に割って入る商人が二重にだまし取ることからだけ導きだされる。商業資本の換価が商品生産者をたんに詐欺にかけるということから説明されるべきでないとするなら、そこには多くの中間項が必要である』(資本論、第一巻)

訪問者 「ここでもマルクスは完全に間違ってますね。国民経済学の重要な核心である貨幣について思い違いをしているから、彼はいたるところで誤りを犯しているに違いありません。マルクスは、また、あらゆる彼の信奉者も同様ですが、貨幣の本質をその考察の範囲から除外するという誤りを犯しているのです。

ロビンソン 「このことは、貸付についての私たちの交渉が実証してくれましたね。貨幣はマルクスによれば交換手段にすぎませんが、貨幣は単なる「購入した商品の価格を支払う」ということ以上であると思われるような働きをしているんですね。利子を支払おうとしないとき、商品(資本)の所有者を苦しめる憂慮も知らないで、貸付を受ける受取人の鼻先で銀行員が金庫をぴしゃりと閉めることは、商品を超えた貨幣それ自体がもつ権力に負っているのですね。そこに商品の弱点があったのですね」

訪問者 「ネズミや衣魚や錆が、なんという証明力をもっていることでしょう」

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