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平和党は何のためにあるのか6 自民党一党支配から崩壊まで

2005年06月19日 12時21分06秒 | Weblog


平和党http://www.heiwatou.jp

日本民主党の第二次鳩山内閣から自民党の第三次鳩山内閣にかけて、日ソ共同宣言を成し遂げ、国連加盟を果たしたことから引退する。後継に自民党二代総裁の石橋湛山内閣ができるが、石橋首相は病気療養のため総辞職し、代わって岸信介内閣ができる。岸内閣は日米安保改定をなしとげると引退し、続く池田勇人内閣が所得倍増計画を発表して効果を上げ、引退。池田は後継に佐藤栄作を選び佐藤内閣は沖縄返還を成し遂げる。

佐藤は自派の田中角栄よりも福田赳夫に信頼を置いていたが、田中は佐藤派内に田中派を結成し、総理総裁の座に就く。以後、田中派は最大派閥として政府自民党を動かす主力となる。

田中内閣以前までは、生活最低限の経済復興ということが目標であったが、池田・佐藤内閣でそれがある程度成し遂げられると、田中内閣以降、日本の政治は経済優先主義となる。そして、政治は金まみれになり、国民に批判されていくようになる。

田中は金脈問題で失脚したため、クリーンイメージの三木武夫が後継となることによって、自民党は信頼回復を図ったが、追い討ちをかけるようにロッキード事件が発覚して、三木は法務大臣をつかって、田中を追い込もうとしたため、党内で三木おろしが始まり、衆議院を解散することなく任期満了の総選挙後、三木内閣は総辞職した。三木と同じく田中の金権体質を批判してきた福田赳夫があとを継ぐと、田中派は盛り返して、大平正芳を自民党総裁選挙で支持、現職総理・総裁である福田が落選し、大平内閣ができる。

角・福戦争は続き、大平内閣の不信任案がアクシデントにより可決され、衆議院は解散、総選挙中に大平首相は急死し、弔い合戦から自民党は勝利を収める。

大平派の後継である鈴木善幸が、田中派支配の下で内閣を作る。鈴木は総裁を一期で辞任し、田中派は中曽根康弘をかつぎ、中曽根内閣は五年間続く。

田中派は自派から総裁候補を出さず、他派閥の領袖をかつぎあげ支配をしていたことから、田中派内の若手から反発が生まれ始め、竹下登らが竹下派を結成、田中は田中派の後継会長に二階堂進を選ぶが、二階堂派に人は集まらず、竹下派が田中派に変わってその後、政府自民党を掌握する。

中曽根内閣の後、竹下内閣ができるが、消費税導入の犠牲とリクルート事件発覚のため、総辞職。自民党は党の歴史上最悪の国民世論の反発を受け、後継総裁選びに悩んだ挙句、中曽根派事務総長の宇野宗佑を選んだ。しかし、宇野首相の女性スキャンダル、尾を引く消費税問題で参議院選挙に大敗する。

委員長・土井たか子の社会党は参議院選挙で議席を伸ばし、野党が与党・自民党の議席数を上回って、宇野首相は辞任した。

竹下派は後継にクリーンイメージの海部俊樹を選んだ。海部は三木派の跡を継ぐ河本派のナンバー2であった。自民党幹事長には竹下派会長代行となる小沢一郎が就任して、海部内閣は竹下派支配の下に置かれた。田中内閣で金権を批判され三木内閣が誕生したのと同様に、竹下内閣で金権政治が批判され海部内閣が誕生するということが再び繰り返された。

おりからの政治不信で政治改革の声が高まり、そのためには衆議院の選挙制度を小選挙区制にすることであるとの風潮が生まれたが、国会議員の多くは反対したため、海部内閣は総辞職に至る。

海部内閣の後継は誰がいいかと、竹下派をとりしきる小沢一郎は宮沢喜一、渡辺美智雄を面接し、宮沢を選ぶ。宮沢内閣でも政治改革法案は通らず、自民党は苦境に立たされた。

さらに自民党の中枢である竹下派は会長・金丸信が佐川急便事件によって逮捕され、分裂することになる。




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